王子誕生
夜伽を終えてひと月ほど経った頃、沙羅は改めて侍医の診察を受けた。
季節はすでに11月になっていた。
「お産は来年の夏でしょう」
脈診を終えて告げられた予定日は、房中録をもとに算出されたものだ。
じっさい、順調にいけば春には生まれるはずだ。
幸い、この時代の衣装は腰を締めないタイプが主で、臨月でなければお腹は目立たない。
「しかし、困ったことになりましたね……」
レイカとともに沙羅妃をたずねた黒翠が、椅子の上でまた顔をしかめていた。
その視線の先の卓には、滋養のある食べ物や赤子の衣装が山積みになっている。
「これ、ぜんぶ沙羅へのお祝い?」
レイカがたずねると、沙羅は眉尻を下げてうなずいた。
沙羅の懐妊は、後宮で想像以上に注目を集めてしまった。
寵愛を受ける様子もなかった胡人(外国人)の懐妊に多くの者が驚き、祝いの品や挨拶が後を絶たなかったのだ。
はじめて沙羅の屋敷をおとずれた妃の中には、羊を見つけて「可愛らしい宦官がいるわ」と噂する者もいたという。
「だからわたしたち、離宮へ移ろうと思うわ」
沙羅は羊と顔を見合わせてから、膨らみ始めたという腹をさすりながら告げる。
「でも……大丈夫なの?」
宮城の北端にある離宮は環境が悪く、レイカたちも頻繁にたずねることができない。
難色を示すレイカに対して、黒翠は「その方がよろしいかと」と沙羅に同意した。
それから程なくして、沙羅は『静かな場所で産みたい』という表向きの理由をもって、羊や信頼のおける侍女を連れ離宮へ住まいを移した。
* * *
友人と離れ、扶桑宮で退屈な日々を過ごしていたレイカ。
ある日、庭先で見慣れぬ小動物がうろついているのを見つけた。
近づいてみると猫だった。毛は薄汚れているが胴体は白く顔まわりは黒い。
しかし人には慣れているようで、自然とレイカの足元へ寄ってくる。
しゃがみ込んでよく見ると、オレンジ色の首輪をつけていた。さらにその首輪に白い紙切れが結びつけてある。
レイカは手をのばし、首輪から紙をほどいて開いてみる。
そこには小さな文字が書かれていた。
『レイカ 手紙届いたかしら。離宮に住みついていた猫なのだけど、とても賢いの。これからはこの子を使って話しましょう』
遠い離宮から届いた沙羅の手紙にレイカは驚き、急ぎ返事を書く。
『手紙届いたよ!すごいね★』
同じように首輪へ結んで背を撫でてやると、猫はレイカの手から抜け出すようにゆっくり歩き出し、扶桑宮の門を出て行った。
その翌日の夕刻、猫はまたレイカのもとへやって来た。
『わたしにも届いたわ。いったい誰がしつけたのかしらね』
こうして、猫を介した文通は続いた。
『沙羅 最近寒いけど体調はどう?』
『寒いのは慣れているから、大丈夫よ。むしろ暑い時期でなくてよかったわ』
『あたしは最近、黒翠と囲碁の練習してるよ。けっこう上達したはずなんだけど、アイツのリアクション薄すぎてつまんない』
『最近わたしは、日記を書き直しているの。万が一他人の目に触れてしまっても、この秘密がばれないように』
『そんなに心配なら、捨てちゃったら?』
『黒翠にもそうするよう言われたのだけど、なんだか勿体なくて。羊の手習いの練習がてら、日付だけ変えて書き直させることにしたの。これは内緒にしてね。羊がまた叱られてしまうから』
黒翠は隙を見ては離宮をたずね、沙羅たちの面倒をみているようだ。
叱られてしょぼくれる羊少年の顔を思い浮かべ、レイカは笑みをこぼす。
送付方法の都合から、交わせるのは短文だったが、むしろ以前よりも沙羅の内面を知ることができた。
中でも驚いたのは、レイカが想像するよりもずっと、沙羅が羊を愛していることだ。
長い間互いに思いを秘めていた2人は、どのような形であれこの先も共に生きることを望み、子が生まれるのを楽しみにしていた。
おそらく2人の間にある愛の全てが“情愛”ではないだろう。だからこそ、その純粋な願いを叶えてやりたいとレイカは思った。
『黒翠にはこの手紙のことも話してないから安心して。そういえば赤ちゃんの名前って決めた?』
レイカはオレンジ色の首輪に手紙を結び、猫を撫でた。よく見ると黒い目元に傷がある。
草木生い茂る離宮で生き延びてきたたくましい猫だ。
「……アンタにも今度、名前つけてあげなきゃね」
* * *
年が明け、さびしい冬も終わり春がやって来た。
レイカが召喚されて1年がすぎた4月の初旬、沙羅は離宮で男の子を産んだ。
侍医の告げた予定日から2ヵ月以上早い出産は、外から呼びよせた産婆の手によって極秘で行われた。
母子の経過を見て、王子誕生については改めて公表する予定だ。
その知らせをレイカが受けた翌日、沙羅と念願の対面が許された。
公にはまだ妊娠中の沙羅のもとへ、様子見と称してこっそりとたずねた。
籠で編まれた小さな寝台の上に、赤子が眠っていた。
赤子は目を閉じたまま、乳を求めるように口だけをむにゃむにゃと動かしている。
おもちゃのように小さな手指に、レイカは歓声とため息を漏らした。
「沙羅と同じ金髪だ!」
父親の羊も我羅人ではあるが、難民の血筋ゆえか髪は栗色で顔立ちもアジア寄りである。
「名前……は、陛下がつけるから、まだ無いんだったね」
「そうね」
寝台で上体を起こした沙羅は、白い寝間着にノーメイクのせいか疲れた印象はあれど血色はよく、乳の出も良好だと言った。
「男の子は母親に似るって聞いたことある。将来はイケメンだね」
「ふふ。レイカったら」
沙羅の笑顔はわずかに憂いを含んでいる。
本当は女の子を望んでいたのだろうとレイカは思った。
「男の子だけど、王位争いにはならないでしょ?」
ふり返って黒翠にたずねると、相変わらずの冷めた声が返ってきた。
「継承権は与えられるはずですが、順位は低いと思われます」
正憲には4人の息子がおり、貴妃の産んだ第2王子が太子である。
彼らが全滅でもしない限り、異国の血を引く王子が玉座につく可能性はない。
レイカはほっとして続けた。
「女の子はいずれ他国に嫁いでいくけど、男の子ならずっとこの国にいるから。さびしくないね」
「……そうね」
それでも沙羅の表情はまだ晴れなかった。
「それより、お母さんなんだからもっと優しそうな服着なよ」
沙羅のまとっていたヒョウ柄のショールを指さし、からかうように言うと、ようやく沙羅は声を上げて笑った。
「レイカ、本当にありがとう。これまでのこと、感謝してもしきれないわ」
帰り際、沙羅はそう言って書物を2冊、レイカに差し出した。
淡い水色の表紙のそれは、沙羅の日記だという。
「夏までのは書き直す必要がないからそのまま残したの。こっちの10月以降のものは羊が書き直したのよ」
「へえ、すごいね羊くん」
レイカは書き直したという2冊目の日記を開く。
これを見せられたのは、2つの日記の筆者が異なるとバレないかチェックしてほしいのだろうと察した。
「でもあたしの目だとすぐ日本語に変わっちゃうから、違いはよく分からないんだよね。代わりに黒翠に……」
言いかけて、彼には内緒だったことを思い出し口を手で覆う。
「いいの。ただレイカに読んでほしかっただけだから」
沙羅はほほえんで、日記を受け取るレイカの手に手を重ねた。
「じゃあ読み終わったら返すね」
レイカはそう言って、最後にもう一度寝台の赤子を見る。
遠い国から嫁ぎ、レイカと出会い、愛しい人の子を産んだ沙羅。
彼女がどんな思いで日々を過ごしていたのか、この子が大きくなった時に読ませてやりたい。
遠い未来に想いはせながら、レイカは離宮をあとにした。