薔薇のクッキー事件①
覇葉国で暮らすようになってひと月ほど経ち、レイカは扶桑宮の外へ出ることを許可される。
ただし、護衛という名の監視役を同伴させるのが条件であった。
「ねえ。あそこが御花園でしょう?行ってみたい」
レイカが前方に現れた朱色の門を指さすと、半歩後ろを歩く青年は「そちらへは明日参りましょう」とこたえる。
「今日はだめなの?」
「今日は催しがありますので」
黒翠のこぼした「催し」という言葉に、レイカは余計に興味をそそられてしまった。
「ちょっと覗くだけならいいじゃん」
そう言って護衛を置いてひとり駆け出す。
門をくぐった先では、ちょうど春牡丹が満開で、濃淡の紅色が咲きこぼれていた。
睡蓮の浮かぶ池を挟んだ丘の上には、東屋が建っている。東屋といっても朱色の柱に黄色い屋根の、ちょっとした御殿のようだ。
今日の東屋には小さな卓席が整然と並んでおり、そこには華やかな衣装を着た女たちが1人ずつ着席している。
卓の上には食器が置かれ、そばに立つ侍女が都度酒を注いでいた。
「あれって何やってるの?」
自分を追ってきた黒翠の気配を背中に感じたレイカは、東屋を見つめたままたずねる。
悪びれる様子のないレイカに、黒翠は音の立たない舌打ちをした。
そしてレイカの腕を引いて桃の木の陰まで移動してから、小声でこたえる。
「今日催されているのは、韋王妃さまの誕辰の宴です。ああして後宮中の妃嬪が集まり、王妃さまへお祝いの品を献上しています」
誕辰の宴とは、つまり誕生日パーティーであった。
「妃嬪が集まるって、あたし呼ばれてないんだけど……」
「今日レイカさまは病で欠席ということに。祝いの品は適当なものを贈っておきました」
全て過去完了形であった。
自分の知らないところで、自分の行動が完結していたことにレイカは驚く。
「ですから、病欠のはずのレイカさまの姿がここにあってはまずいのです」
「ふうん」
レイカは太い樹木に身を隠しつつ、集まっている女たちに目をやる。
中央の主賓席で、鳳凰が描かれた衝立を背に座っているのが今日の主役、王妃だろう。
晩春だというのに深い青や緑といった寒色系の衣に身を包み、頭に重そうな冠をのせている。
「レイカさま。早く行きましょう」
「わかったよ」
勝手に欠席扱いされたのは気に食わないが、親しくもない人間の誕生パーティーほどつまらないものはない。
あそこに参列している女たちの大半も、同じ気持ちかもしれない。
そう思って帰ろうとしたレイカだが、気になる光景が目に飛び込んできた。
宴席の中央、王妃の席の目の前に、小柄な少女がいたのだ。
レイカが気になったのはその少女が金色の髪をしていたことと、なぜか卓席でなく床に膝をついていること。
美しい装いからして妃のようだが、なぜ下女のような体勢をとっているのだろうか。
「ねえちょっと。あの金髪の子は誰?」
レイカは先を歩きはじめていた黒翠の肩を叩いて、もう一度東屋の方を指さした。
黒翠は首を回して目を凝らす。
「あの髪色はおそらく……我羅国からきた沙羅妃でしょう。位はレイカさまと同じ才人だったかと」
才人とは、当時の妃嬪の中では最も低い位であった。
現国王の正憲は現在41歳。王妃をはじめとする妃のほとんどが、彼の皇太子時代から仕えている。
その一方で異国の妃たちは、みな正憲の即位後に迎えられたため年齢も若く、レイカと同じ新参者だ。
「じゃああの子も招待客なんだよね。何であんなところに座ってるの?」
その場を動こうとしないレイカに、黒翠は眉間にしわを寄せて「私も知りません」と言葉を吐いた。
「ただ、そばに蕭貴妃が立っています。貴妃は日頃から女官や宦官に何かと難癖をつけていびる方なので、今日はあの才人が標的になった、という所でしょうか」
蕭貴妃は、正憲から最も寵愛を受けている妃だった。
正妻である韋王妃に子供がいない一方で、貴妃は一男二女を産んでおり、その王妃とは叔母と姪の関係でもある。
女としての実力も後ろ盾も申し分ない、実質的に後宮のトップに君臨する女性であった。
そんな貴妃が今、大勢の妃嬪たちの前で新人をいじめている。
レイカは腹の底からこみ上げる嫌悪感に耐えきれず、身体が動いた。
「ちょっと行ってくる」
飛び出そうとしたレイカの腕を黒翠がつかんだ。
「おやめください。他の妃はともかく……胡人(異国人)の沙羅妃とは絶対に関わってはいけません」
「……どういうこと?」
「以前お話しましたが、レイカさまには言語能力があります」
「うん。あたしが日本語を喋ってるつもりでも、黒翠には覇葉語に聞こえてるんでしょ」
黒翠は軽くうなずく。
「同じことが、他国の者に対しても起こります。ですから、もしあの場でレイカさまが言葉を発すれば、沙羅妃にはあなたが我羅語を話しているように聞こえます。しかしその我羅語で、我々覇葉人とも会話している。その矛盾に気づかれては困るのです」
黒翠はどうしても、レイカが異世界の人間であることを隠したいようだ。
もしそれが露呈してしまえば、聖人召喚に失敗した正憲の醜聞が、国内外に広まってしまうからだ。
レイカとしても、自分のせいで彼らを窮地に追い込むことはしたくない。
しかし────だからといって視界に入る小さな少女を、放っておけるレイカではない。
「じゃあアンタが話してよ!あたしの代わりに」
レイカは黒翠の手をつかみ返して、そのまま走る。
丘を駆けあがると、花園の美しい景色が一望できる。そんな場所に建てられているのが東屋だ。
色とりどりの花で装飾された柱の間をぬって、2人は韋王妃の座る主賓席の前まで進み出た。
いまだ床に両膝をつく沙羅妃の隣に、レイカは腰を下ろし「どうしたの?」と小声でたずねる。
顔を上げた沙羅妃は北欧風の美少女で、肌は白く眉と目の間が狭い。瞳は薄い青色で、白目は赤く充血していた。
「……?」
とつぜん見知らぬ女に母国語で話しかけられた沙羅妃は驚き、言葉を失う。
淡い水色の上衣に、白い斉胸裙を胸上の青いリボンで締めているが、膝まづいていたせいで裙の膝元は汚れている。
「誰よあなた?」
沙羅妃の代わりに頭上で声がして、顔を上げるレイカ。
そこに立っていたのは、厳しい顔でこちらを見下ろす20代後半くらいの女性だ。
濃い桃色の裙に、同じ桃色に紫や黄色の花が描かれた羽織を合わせている。髪はこの場の誰よりも高く結い上げられており、高位の妃であることは一目瞭然だった。
レイカが立ち上がろうとした時、黒い大きな影が視界に飛び込んできた。
「────蕭貴妃さま。こちらは先月より扶桑宮へ入宮いたしました。蘭才人です」
黒翠は貴妃とレイカの間に立ち、拱手しながら事務的に述べる。
「ああ。この子が……」
黒翠の向こうで貴妃は顔をかたむけ、レイカをもう一度視界におさめた。
周囲の卓席からこちらを傍観していた妃嬪たちが、ざわめきだす。
『あの子が、蘭氏の』
『小さいわね』
『まだ子どもなのかしら』
時おり『陛下のお気に入り』という言葉も漏れ聞こえてくる。
そして彼女らの目には、いきなり現れた黒装束の宦官は“見慣れない女官”として映っているようだった。
「蘭才人はたしか、病で寝ているのでなかったの?」
「今朝まで床に臥しておりましたが、出歩けるくらいには回復いたしました。才人は入宮以来お姉さま方のもとへご挨拶に伺えていないことを、大変気にしております。今日はせめてその謝罪だけでもと、こうして不調を押して参った次第です」
誰も口を挟むことを許さない、迫真の口上(口から出まかせ)であった。
「あ、あの……」
ひとまず挨拶をしようと、レイカは立ち上がって口を開きかける。
「しかしながら、まだ喉が腫れて声が出ません。私が代わりに話すことをお許しください」
折り目正しく揖礼する黒い背中から、静かな怒りをレイカは感じ取った。
『また勝手な真似をしたら、ただではすまさない』
見えない手で口を塞がれる錯覚におちいり、本当に声が出なくなった。