ギャル、召喚①
「しまった……」
召喚されたレイカの目にまず飛び込んできたのは、そう言って立ち尽くす壮年の男の姿だった。
男の青ざめた顔を見上げながら、レイカは今自分の尻の下にあるのが、冷たい木の床だと気づく。
────歌が、聞こえない……。
レイカの手は無意識に耳を触る。
挿していたイヤホンも、それにつながるMDプレイヤーも消えている。
まだ昼過ぎで、自分は外にいたはずだ。それがどうしてこんな薄暗い場所にいるのだろうか。
壁や柱が血のように赤く、線香の古くさい匂いのただようこの場所はいったい────。
そう思いながら背後をふり返ると、ロウソクや供え物の乗った祭壇と、その奥には大きな仏像が鎮座していた。
「何があったのですか?」
前方でうろたえる男の隣に立つ、長い髪の女が言った。
今レイカの視界にいる人間は、この見慣れぬ格好をした2人だけだ。
「聖人のもとへ向かう途中、この者がうずくまっているように見えたのだ。様子を見ようと近づいたら、段差につまずいて────」
床にへたり込む少女を指さしながら、男は額に汗をにじませる。
レイカはさっきまでいたはずの場所を思い出す。
渋谷センター街のファッションビル前。そこは絶え間なく人が行き交う待ち合わせスポットで、レイカは花のない花壇の縁にひとり腰を下ろしていた。
花壇の周囲にはわずかな段差があり、普段から靴底をひっかける者は多かった。
ただレイカはうずくまっていたわけではなく、何となく膝を抱えていただけだったのだが。
「その折に、この者の魂に触れてしまった。というわけですか……」
漆黒の裾が少し広がった着物姿の女は、男の言い分を聞き終えると低いため息をつく。
怪訝な目でレイカを見下ろす彼女は、男よりもずいぶん若く見えるが、たたずまいは威圧的だった。
「す、すまない……」
恰幅のよい男は肩を丸めてうつむく。
彼はくすんだ黄色のロングワンピースのような衣を着ていて、厚みのある腹には赤いベルト。上から丈の長い黒の上着を羽織っていた。衣には赤青金の細かな刺繍がされている。
こちらは荘厳ないでたちに反して、物言いは終始やわらかく、弱腰だった。
「私も初めて知りました。聖人召喚の儀で、一般人が召喚されてしまうとは……」
女はそう言ってレイカの方へ歩み寄る。
背筋の伸びた上体はほとんど動かず、黒い裾が床にこすれて乾いた音をたてた。
レイカの目の前まで来ると、女は腰を下ろし顔をのぞき込む。
女の美貌にレイカは息をのんだ。
すっきりとした二重まぶたに筋の通った鼻。白い肌には毛穴が一つも見えない。まばたきをするたびに揺れる羽のようなまつ毛は、さながらつけまつ毛だ。
そんな美貌をにこりともさせず、女は唇のみ動かす。
「黄金色の髪に目を黒く囲う化粧は、西方の異国人のようですが。あなた、どこの国の者ですか?」
「……あ、」
「……私の言葉、通じませんか?」
答えずにいると、まっさらな眉間に薄いシワが刻まれる。
レイカははっとして「にほん」と返した。
────この人、男だ……。
鼻の付け根や頬の骨格と、話す時に動く小さな喉仏。声の出し方も女のそれではない。
目の前にいるのが落ち着いた声の女性ではなく、細身の青年だったことに驚いていたのだ。
「ニホン?」
青年の背後から、髭の男が立ったまま首をかしげる。
青年は美しい顔をレイカに向けたまま、男と会話する。
「大陸にそのような国はありませんが……。しかし国名というのは場所や時代によって呼称が変わります」
「二本と言うからには、一本という国の属国だろうか」
男がそう言って、腰のあたりでピースサインをつくる。
レイカの目にはその2本指が、ちょうど青年の頭の上から生えているように見えた。
壮年の男はレイカに向かっていたずらっぽく口元をゆるませながら、指をふってみせる。
彼の容貌は青年とは逆で、大柄で口まわりや顎に黒い髭をたくわえた、一見雄々しい男だった。
外観とそぐわない男の行動に、レイカは思わず吹き出す。
「あははっ!何それ」
「……」
レイカの目の前で、青年の黒い瞳が大きく見開かれる。
「……奇妙ななりだが、悪い子ではないようだぞ、黒翠」
髭の男はそう言ってほほえむ。
黒翠と呼ばれた美しい青年は、逆に表情を険しくするばかりだった。
「しかし可哀想に……。召喚のおりに裙が脱げてしまったのだな」
続けて髭の男は自分の上着を脱いで、いまだ床にへたりこんだままの少女の膝にかけてやる。
その時レイカは、通っていた高校の制服姿だった。
ゆったりとしたベージュのカーディガンに赤茶色のタイ。足元は80センチのルーズソックスに焦げ茶のローファーを履いている。
紺色のプリーツスカートはもちろん脱げてなどおらず、太ももが見えるまで上げているだけだ。
脚を覆う温かな衣をレイカは握る。
それは光沢のある黒地に、金糸で大きな龍が刺繍されていた。