平城奇譚
序 遠景
婆やは幼い頭を掻き撫で、よくこう言ったものだった。
「あんたはなア、えらい貴族の血を継いでるさかいになア……」
無垢な子供はこう問い返した。
「その、えらい貴族って、誰なん?」
「それは……。あんた、高校行ったら歴史の授業で習うさかいに、楽しみにしとき」
「うん。わかった。べんきょうするね」
「そうや。よう覚えとき」
婆やは、彼が中学生になった頃、亡くなってしまった。
彼が高校に入る頃には、そんな話はとうの昔に忘れてしまっていた。彼は教室の端を好み、毎日同じ雲を眺めていた。進学を機に、一人で東京へ出た。大学ではなんとなく経済を学んだ。指先でペンを回す毎日だった。当時ある男から言われたことを、今でもよく憶えている。
「お前って、もしかして、けっこう真面目?」
その男はその後、鼻で笑ったような素振りを見せた。自分が真面目だとは一切思ったことはない。むしろ、不真面目の方がよく似合っていると思われる。彼にとっては、全てがつまらないのだ。一時の快楽にも興味がない。過去の栄光の記憶に必死に縋って、取り繕うなどもっともであった。惰性の中で、毎日同じように呼吸をまわすこと、その連続が人生のすべてであると信じていた。
就職活動もそれなりにし、とある不動産会社に落ち着いた。そこで働き出して、五年目になる。たいした出世も望めぬ身だと、はやくも彼は理解しているらしい。職場のコーヒーが不味く思えるのは、決して最近の話ではない。昨日は、コピー紙の角で指を怪我した。
彼が退社するのは月が傾く頃である。足元を見ると、どうやら靴紐が解けてしまったらしい。直すのが面倒なのでそのままにしていると、道ゆく老人にそれを指摘された。彼は、とっさに苛立ちの眼差しを老人にむけた。老人は思わずたじろぎ、そそくさと怯えたように立ち去ろうとする。その後ろ姿を見ながら、ああ、自分の心はなんて惨めなのだろうかと、呆れて靴紐を結び直した。
電車とは、一見温厚そうに見えて、実はたいそう無愛想な乗り物である。様々な人の感情まで載せているのだから、無理もないだろう。本当は吐き出したくてたまらないのを、無理して我慢しているのだ。結局、通り一遍の優しさはあるが、完全な包容はない、そんな乗り物である。……ドアが開いた。
そこから降りて、彼は安弁当を買い、暗い家路をただひたすらに歩く。くたびれたスーツは弁当の重みすら耐えられそうにない様子だった。それはひ弱な彼の指のせいなのか、それとも夜のせいなのか、それは誰にも分からない。
家の間取りは一般的なワンキッチンである。自分で料理はしない性分だ。彼はスーツを脱ぎ、どっと疲れた様子で、だらりと横になった。……ん、部屋の電球が何やら切れかけている。買い直すのは、通販で済ませることにする。口径は、果たしてどれくらいだったか。
呆然とした目で弁当を食べる。別に何も思いはしない。惰性そのものだ。一人での食事もすっかり慣れてしまった。人間は慣れる動物だと、かつて語ったのはドストエフスキイである。慣れとは恐ろしいものだが、当の本人がそれを自覚できない、する気がないところに、慣れの本質があるように思える。気付くと時計は十二時を指していた。明日の仕事に備えるために、彼はシャワーを軽く浴び、眠ることにした。
しかし、この日、彼はどうも眠ることができなかった。体を覆わんとする布団にどうしても違和感を覚えてしまうのだ。よく働かないまなこで、窓の方を見た。いつの間にか夜露に濡れている。表通りのぼやけた青信号の光を見た瞬間、彼の中で、何処かの箍がはずれた音がした。ごそごそと、彼はおもむろに着替えだし、家の鍵を手に取った。その背中を見る限り、行き先に当てなど、あるはずもなかった。
一 逢魔が時
都会は融通の利かない時代の産物である。何者も歓迎しない。ただ、あんぐりと大きな口を開け、待ち構えているだけの集合体、まるで巨大な食虫植物のようだ。虫たちには、その植物の茎がいかに細いか気づく隙さえ与えられない。
いつもと異なる周囲の冷たい空気に彼は気づいた。向こうで、髪をグレーに染めた若者たちが、闇夜にまぎれ何やらケラケラと笑っている。なにか、愉快なことがあったのだろうか。
もちろん彼は、愉快なことなどに興味はない。そんな感情は過去の遺物で、青春時代に置いてきたものである。今から取り返す気概も残っていない。足が動かないのだ。生憎伸ばす手も持ち合わせていない。そう、すなわちそれは「欠如」なのだ。何の哀しみも帯びることのない欠如である。他者にそれを笑う権利などない。誰しも、自身の目をくり抜くことができないように。現代に中国三国時代の英雄など存在しない。
この通りのことは、昔からよく知っている。どこに行けば、どんな店があるかも大体把握している。しかし、今日は全く違う装いであるように感じた。おそらく、自身の感性のせいなのだ。しかし、その原因の特定は、今ひとつできない。普段目につかない看板に意識が向いたり、烏の鳴き声が、いつもよりも明瞭に聞こえたり、普段とはまるで異なる人格を見せつけてくる。彼は、虚空を見つめ、小指から順番に、ぱきぱきと骨を鳴らした。親指は、不発だった。
ネオン街を歩いていると、彼の周囲に、靄が立ち込め始めていることに気がついた。一体これは何だ?たばこの煙の類ではない。もっと白がかったものである。こんな現象は、生まれて初めてであった。不思議なことに、周囲の人間はそれに気づいていないようだ。しゃがんでいる若者たちは、その喉元まですっかり靄に飲み込まれてしまったというのに。皆、恐ろしくないのだろうか。
気がつけば、騒々しかった向こうの声も忽然と消え、とうとう自分の手さえよく見えなくなってしまった。まずい、とにかくここから脱出しなければならない。ついに頭の先まで覆われてしまった。しかし、一向に打開の策が講じえない。焦る気持ちを必死に抑え、慎重に、一歩ずつ、進んでいく。
ずしゃ、ずしゃ、ずしゃり。靴と地面に悪気はないのだろうが、あまりに無頓着な音であった。音は感情から独立しているのだなと、彼は思った。人間は目が見えないと、耳が良くなるのはどうやら本当らしかった。
ふと、紫色のぼんやりとした光が見えた。これは、明らかに誘い(いざない)の光である。彼はそれを自覚していた。しかし、古来より人間は、暗闇の中で、あまりに光に意味を持たせすぎる性質がある。それが、いかなる形であっても、いかなる光度だったとしても、頼りにせざるを得ないのだ。じりじりと近づく。心臓の鼓動が速くなる。舌先に湿った空気が当たるのがわかる。
光はついに目前となった。手でぐっと掴もうとすると、それは地下に続く階段へ案内する矢印であると解った。目下の白い階段はあまり深くないところで終わっており、その雰囲気を察するに、バーのようだった。このような場所に酒場などあっただろうか。まあ、いい。知らないこともあるものだと彼は思い、立ち寄ることを決心した。降りていく途中、彼は一度立ち止まって、財布の中身を確認した。大丈夫、虚無の時間を潰せるだけの額はありそうだ。少しばかり浮ついた肩で彼は段差を下っていく。
ちらほら客はいるようであった。見たところ、カウンターは八つ、テーブルは四つ。店内全体は入口の矢印の光と同じく、怪しい紫色で満たされていた。客は皆、酒が回っているようで、正気の沙汰ではないやつから、眠りこけているやつまで、実に多種多様であった。大仰な恋愛論を嘯く奴もいた。
流れる音楽はマイルス・デイヴィスの『SO WHAT』である。気のせいだろうが、普段よりも、ベースの音量が妙に大きく聞こえた。その音楽だけが、彼に関心を寄せているように思えた。
「あら、いらっしゃい」
茶色い髪をセミロングまで伸ばした四十過ぎくらいの女が、しっとりとした声質で彼に話しかけた。真珠の首飾りは、かなり年季の入ったものにみえた。彼は静かに、カウンターに腰を落ち着けた。そう、この程度で、十分なのだ。
「とりあえず、ジン・トニックを……」
「やっぱり、そっくりね……」
二人の台詞が偶然にも重なった。女は急いで口をつぐむ。彼は瞬時に目を逸らした。
「そっくりって……誰に」
「……いや、何も」
女は明らかに何か隠しているようだったが、彼はあえて問い詰めることはしなかった。かつて、同級生から、自分の訛りのルーツをしつこく聞かれたことがあったのだ。しかし、「そっくり」という言葉を、彼は忘れることはできなかった。
「はは……こんな雰囲気のいいお店があったなんて、恥ずかしながら、僕は知らなかったな……。知っているつもりだったのですがね……」
愛想笑いは今でも彼の苦手科目である。天然物とはかけ離れた、コンクリートで固めたような表情筋から生み出されるものが、美しい光沢を持つはずがない。口角は、彼の想像以上に頑固な代物なのだ。鏡はよく知っているものである。
「最近できた店だから、知らなくっても無理ないわ」
女は静かに酒を撫でながら答えた。カラン、キャラン。実際よりもずっと遠くから、氷の音がする。女が再び口を開いた。
「ふふ……。こんな真夜中に、一体何があったのかしら」
「別に……」
「あなた、毎日退屈なのでしょう」
「どうして」
「経験の差、ってやつかしらね」
「……あなたに、何がわかるんだ」
女の目線は、常に変わることはない。一方、彼は誤魔化しの術をほとんど持ち合わせていない。そんな時、彼はいつも右手の指を顳顬に添えるのだ。しかし、目はその逆、即ち左を向くところに、彼の人間としての大きな不思議がある。
彼は、女の掴みどころのなさに若干の恐怖を覚えた。何か、人ならざるような、そういう趣を感じたのである。時たま見せる乾いた口角も、女に流れる、独特な「時間」を思わせた。
彼は酒を口に含みながら、静かに目を閉じた。その瞬間、女はその声色を急に変えた。
「あなた、まだ“偶然”にここに来たって思っている?」
「……は?」
その時、突如として、彼に猛烈な眠気が襲ってきた。これは疲れのせいでは無いことは、どう考えても明らかである。酒を飲み込んだ途端に、強制的に瞼を閉じさせる強い重力を感じたのだ。その重さは、果たして万人が理解できるものかはわからないが。
がたつき、ぼやけ切った視界で、助けを求めようと周囲をみると、今まで騒いでいたように思っていた酔いどれたちは、すべてつくりものの人形だったではないか!こんな馬鹿みたいなことが……あってたまるか……。彼は急いで店から出ようとした。しかし、残念ながら、彼の四肢は彼の精神に強烈なレジスタンスを起こし、まるで他人の所有物かのように振る舞った。
薄らいでゆく意識の中で、微かに女の声がする。
「……これは必然なの。あなたには、話しておかなくちゃいけないことがある」
「……。………?」
もちろん彼には、女の話を聞き返すほどの力は残っていない。
女は、彼の額をぐっと自身の額に合わせ、ふふっと、ほくそ笑んだ。
二 国分山
彼は随分と長い間、眠っていたようだ。まだ、腰の辺りがじりじりと痛むのを感じていた。辺りを見渡すと、晴れ渡った青空に、木々が生き生きと生い茂っている。ピヨピヨ、ピョヨ。しかし、どうも見慣れない光景だ。どこかの山奥であるのは間違い無いのだが、それにしては、違和感がある。冷静に考えて、いや、冷静など今の彼にあるのかわからないが、酒場からこのような場所にいるのも可笑しい。
「やっと、お目覚めのようね」
あの女の声がする。彼は尋ねた。
「ここは……どこですか……」
女は少し考えて、
「そうねえ……。私の記憶の中、とでも言っておきましょうか」
彼には状況が一向に掴めない。女の言葉の意味もわからない。女のすました顔の形相も彼に疑問符を増やす大きな材料だった。これは、夢の類なのだろうか。いや違う、彼の痛覚が即座に否定した。手にチクチクと、雑草が刺さっている。どうやら頬をつねる必要はないらしい。
「そうね。わからないわよね。無理ないわ」
女は優しく声をかけた。
「そんな感じで悪いけど、まあ、ちょっと連れて行きたい場所があるから、付いてきて」
彼は何にも馴染めないまま、女の繊手に引かれるままに、林の奥へと、進むや進む。
「はは……懐かしいわね。……そんなこと言ったって、どうもしないのだけどね」
藪の中で、女はため息混じりにつぶやいた。彼は、理性を取り戻す一環として、無理矢理にでも会話をしようと試みた。
「結局、ここは具体的には、どこなのでしょう」
女は早口言葉のように答えた。
「天平宝字5年、近江国」
彼は言葉を思わず失いかけた。天平、という言葉を聞くのは高校生の時分ぶりである。しかし、彼の頭はこの極めて特殊な状況に少しずつ慣れてきたようだった。彼はかろうじて言葉を繋いだ。
「どうして……そんな時代に……?」
「もうすぐわかるわ」
女は小高く、少し開けたところに着くと、向こうの方を指差した。
「あれが、私の家族よ」
彼はさすがに唖然とした。「慣れてきた」前言撤回である。
思わず目を疑った。女の指の先に見えるのは、なんと“狐”の親子ではないか!大きい狐が一匹、その子供と思われる小狐が三匹見えた。そんな視覚的事実はどうでもいい。開いた口を塞ぐことに専念するか、へらへらと笑ってその場の時間を過ごすか。あれやこれやと思案するうち、女の方が先に口を開けた。
「何度も驚かせちゃって、ごめんなさいね……。そう、あれが私の幼い頃。かれこれ千年以上前のことかしらね……」
そう語ると、横にいる女の尻あたりから、ふさふさとした尻尾が立ち現れた。ふさふさと、など言っている場合ではない。思考が一向に追いつかない。あらゆる言葉の意味を、すっかり彼は忘れてしまった。
「………なんで……」
彼は固まったまま、精一杯の言葉を紡ごうとした。しかし肝心の舌が動かず、冷酷に時は過ぎていくばかりだった。それを女は察してか、思い出話を淡々と語り始めた。
「私の父は狐の中でも嫌われ者でね。その理由は私も知らない。父は多くを語りたがらなかった。とにかく、私たち家族は、他の狐たちから不当な扱いを長いこと受けていた。冬の雪の降る時なんか、よその狐はぬくぬくと洞穴で暮らしていたのに、私たちだけ、貧相な空。父は何度も私たちに謝っていた。こんなに辛い思いをさせて、ごめんな……ごめんな……ってね」
女の話はまだまだ続く。
「父はなんとかして、幸せになろうと、試みた。それで……思いついたのが……父は化けるのが得意な方だったから、人間に化けて、人間社会で、うーんと幅を利かせてやろう、っていう計画だった。たまたまその時、流行病で死んだ坊さんがいたからね」
彼は落ち着いてきたようだった。今なら、少しばかりまともな言葉が返せる。
「それで、結局どうしたのですか」
「父は、その禅師になりかわり、朝廷に潜り込もうとした、ということよ。見ておいき、もうすぐ父が化けるから」
親狐はくるりと宙返りしたかと思うと、一瞬にして、法衣を身に包んだ坊主の姿へと変った。
「この時の父は、野心に燃えていた。理不尽な状況に、きっと我慢がならなかったのでしょう。きっとお前たちに、人間の貴族が食べるような、美味い飯を食わせてやる。そう言っていたのを、よく覚えているわ」
「ちなみに、お名前を聞いても……」
女はぽつりとつぶやいた。
「……弓削道鏡。父は人間社会で、道鏡と名乗った」
「道鏡?」
彼は思わず聞き返した。高校時代、日本史の授業など上の空であったが、その字面と音韻にかすかな覚えがあった。
「ええ。そうよ。あの悪名高き、ね……」
女はどこか違う方に視線を向けた。
「見ていたらわかったと思うけれど、父はえらく意気込んで、都へ向かったわ。それから幾日か森に帰らなかった。わたしたち子どもは心配で、心配で……。ついに、都の近くまで行くことにしたの。もちろん、命の補償なんてなかったけれど」
「化ければよかったのでは」
「そこまでまだ上手じゃなかったの。さあ、人間の足で歩くのはちょっと辛いから、都まで“飛ぶ”わよ。さあ、目を瞑って」
女はすっと手で彼の瞼を閉じた。
三 北京大患
目を開けると、そこは古の絵に描かれた都大路そのものだった。
「そうそう。言い忘れていたけれど、他人には私たちの姿は見えないから、安心して、ね」
女は尻尾を隠す気もなさそうだ。二人は道の真ん中を歩いた。彼の肩は、どこか上がっているように見える。女と並べばなおさらだ。
「ここは保良宮。ほら、平城京って有名でしょう。この時は確か修繕か何かをしていて……。ここが代わりの場所だったの」
女は丁寧に解説をした。その話を聞きながら、彼は少しずつ、周りの空気がどうも浮ついていることに気がつき始めた。都に生きる民たちの声に耳をそばだてる。
「……上皇様がどうもご病気だそうだ……」
「あまり言うものではないが……もう、お命は長くはないだろう……」
「何かに憑かれたとの噂もあるぞ……。ああ恐ろしや、恐ろしや」
女はどうも聞こえないふりをしている様子だった。何かを気にしているのかもしれない。彼はあえてその話には触れないことにした。
かなりの距離を歩いた。向こうの方に人だかりができている。
「あの人たちは一体……?」
「例の上皇よ。歴史的に表現すると……孝謙上皇。いま、病に臥せっている。さあ、もっと近くに行きましょう」
女は平然と部屋へと入って行こうとする。姿は周囲に見られてはいないと知っていても、彼は思わず躊躇してしまった。透明人間は、こんな気分なのだろうか。もし、そうであるならば、それほど気分は良くないものである。
廊下を抜けて、障子を開けると、そこでは大勢の貴族たちが、神妙な面持ちで熱にうなされている高貴な女性を見つめていた。その中の一人が恐る恐る口を開く。
「もはや、我々にできる手立てはありませぬ……。残念ながら……」
わっと空気が急変した。
「おいたわしや……」
彼はその場の空気に圧され、つい正座してしまっていたことに気づいた。この状況で彼はふと、上皇が現代で言うところの、何の病かが気になった。しかし、彼に医学的な専門知識などはない。インフルエンザかな、などと戯言を心の中で言ってみるのが関の山だった。
悲嘆な涙に皆が暮れる中、部屋の奥の方より突然、一人の男が現れ、大きな声を上げた。
「皆々様、お待ちくだされ。まだ、救い出す手立てはありまする」
その男こそ、道鏡であった。
「皆々様。どうか私におまかせを。必ずや、上皇様をお救い申し上げます」
「なんだと。それは本当か」
「私は嘘を申しません」
「けれども、どうやって……」
「私はかつて梵語を学んでおりました身。その奥義をもって、必ずや」
宮中が騒めいた。
「……ううむ。我々ではどうすることもできぬ。時間は刻一刻と迫っておる……。そなた、名は何と申す」
「弓削道鏡にてございます」
「……道鏡よ。おぬしだけが頼りかも知れぬ……。しかし、二言は許さぬぞ」
「承知いたしております」
おお、と言う声とともに、貴族たちは少し活気を取り戻したように見える。
「それでは皆々様に、私から一つ、お願いがございます。私が施すのは秘術ゆえ、何人もこの部屋に入らぬようお願いいたします」
貴族たちはいそいそと退出していった。それに伴って彼も出ようとしてしまったが、女にぐいと手を引かれ、我に帰った。
彼は初めて間近で道鏡を見たが、その不思議な眼光に少しばかり恐怖を覚えた。この短い間に、全ての人間が道鏡に釘付けになってしまったのだ。もちろん、彼は人ならざるものであると、解ってはいるのであるが。
「お父様。これが全ての始まりだったのよ……」
女はそうつぶやいた。
「……どういう意味です?」
「父はね、本当に秘術を使ったの。私たち、神に仕えるものたちのみに伝わる秘術を。死にゆく運命にあるものに、息を吹き返させる代物よ。死神っていう落語の演目があるわね。あれによく似た類だと思って欲しい。まあ、わかるとは思うけれど、到底神に赦される行為ではないわ。でも、あまりにも父は……焦っていたのよ……。きっと」
ぶつぶつと呪文を唱える道鏡の顔には、薄ら笑いが潜んでいた。
「お父様は病のことを知っていて、都に向かったのよ。病の治癒が、出世の足掛かりになると踏んでいたのね。でも、どうしてその後こうなったのか私は今でも不思議だわ……」
秘術が効いてきたのか、みるみる上皇の顔は血色を取り戻しはじめ、うっすらと目を開けた。
「ここは……。おぬしは誰じゃ……」
「ここは保良宮でございますよ。私の名は、弓削道鏡。禅師でございます」
「朕の命を救ったのは、おぬしか」
「その通りでございます」
「そうか。おぬしは命の恩人というわけか……」
上皇はぼうっと遠くを見つめた。二人の視線は合うことはない。
「何かございましたか」
「いや、何もない。とにかく、おぬしには多大なる礼をつかわそう」
「ありがたき幸せ」
しばらくすると、慌てて貴族たちが押しかけた。
「上皇様。よくぞ、よくぞお目覚めで……」
「すっかり元の通りじゃ。すべて道鏡のおかげじゃ」
「おお。やはりそなたの力であったか。感謝してもしきれぬ……。本当に……よかった」
貴族たちは涙を流した。しかし、その一方で、上皇は至って冷静であった。
「皆のもの。まだ朕の体はどうも優れぬようじゃ。疾くこの建物から退出せよ。しかし、道鏡、おぬしだけは残れ」
貴族たちは退散した。上皇と道鏡だけが、この部屋に残った。
「どういうおつもりでしょう。上皇様」
上皇はぽつりと独り言のように話し始めた。
「朕はここで死ぬはずだったのだ……。確かに黄泉の国へ赴く途中だった……。道鏡、おぬし、一体何をした」
鋭い視線を道鏡に向ける。
「何を……と申せば、私は秘術を使ったまで、でございますが……」
「秘術だと。はっ。そんなものはあり得ぬ。……朕は確かにこの目で亡き父と母のお姿を見た。ああ、やっとあちら側へ逝ける。これが死であるとはっきりわかったはずだった……。なのに……」
「上皇様、一体何を……」
「ええい。よくも……よくも朕を生き返らせたな。秘術やらなんやら分からぬが、余計なことをしよって!」
「上皇様は、今この瞬間に、ご自分にお命があることが、喜ばしくないのですか」
「当たり前じゃ!もうすぐに楽になれると……」
はっきりとした語調の裏で、上皇の目はわずかに潤んでいた。
「……道鏡といったな。おぬしよ、あの貴族たちを見たか……。あいつらは所詮、泣いている演技をしているだけなのじゃ。はっ。実に上手な芝居よのう。いまいましい。本当は朕のことなど、微塵も気にかけておらぬくせに!女である朕など、ただの傀儡としてしか、見ておらぬくせに!」
「そんなことはないように思いましたが……。とにかく、落ち着きなされませ。上皇様」
「おぬし、一体何者じゃ。正体を見せい。人ならざることは、もうわかっているのだぞ。何せ、蘇りの術を心得ているのだからな……。……いや、なに……悪いことはせん……。非力な朕には、所詮何もできんからな……」
その目は狂気を思わせた。他者に振り回され続け、疲れ切ったものの目だった。
道鏡は予想だにしないことに呆気に取られてしまっていた。道鏡本人としては、病に伏せっていた上皇を蘇らせることは、朝廷で頭角を表すための、最も手っ取り早い方法だったのだ。それを足がかりに、順調に地位を固めていく算段だった。しかし、現実目の前には行き場のない怒りに震える上皇本人が立っている。儘ならぬ口の動きで、こう答えた。
「わ、わたくしは……一介の……、き、狐でございます……。なにも……知らずに……」
道鏡は死を覚悟した。しかし、上皇の返答は意外なものであった。
「ほう。おぬしは狐であったか……。なるほど。秘術も使えるわけじゃ。ふふ。面白い。人間なんぞより、よっぽど狐の方が信頼できるやもしれぬなあ。おぬし、朕と取引をする気はないか」
「と、取引というのは……?」
「おぬし、ここに赴いたのは偶然ではなかろう。何を企んだ」
「私はただ……。いや、この際、正直に申し上げましょう。私は、狐の社会から、半ば追放されていました。毎日が、貧しい生活です。私には、子どもがおります。その子どもたちに、なんとか良い飯を食わしてやりたい。少しでも暖かいところで、眠らせてやりたい。そう何度も思いました。そのために、私は狐の集団ではなく、人間社会に取り入ることを思いつきました。その途中、といったところでしょうか……」
「ははは。狐の割には、正直なやつじゃ。気に入ったぞ。そうか、その願い、じきに叶えてしんぜよう。しかし、その代わりに、おぬし、朕の手足となって働くか」
「と、言いますと……?」
「どうも不穏な予感がするのじゃ。近く、乱の類が起こるやも知れぬ。まあ、わしが生きながらえたことが、大きかろうと思うが。生きながらえたからには、これから朕は誰にも振り回されずに生きたいと思うておる。さすれば、朕に歯向かうものどもも多く出るじゃろう。その者たちが動き出した時、おぬしはあらゆる力を使って、朕と与するか」
「できることならなんでもいたしましょう」
「よし。ならこれからは朕に直接仕えよ。朕の命を救ったのだ、皆にも認められるだろう。子どもの方も融通してやろうぞ」
「……ありがたき幸せ」
「今のやりとり、貴族どもには一切他言せぬように」
「承知いたしました」
彼はしばしの間、自分の存在を忘れているような感覚に陥った。
「人間の方が、狐なんかより、よっぽど不思議な生き物よね……」
女が隣でぼそりと言った。
四 邂逅
「それからというもの、父は上皇にぴったりくっつくように仕えて、身を粉にして働いたわ。……あくどいこともそれなりにやっていたみたい。ある時、父は上皇に一人で来るように呼ばれたの。これは父から聞いた話だから、全て私の想像でできている。だから、今までみたいに、はっきりと見えるわけではないけど、我慢して、ね」
どろん。
彼の薄暗い傾いた視界に、ぼんやりと道鏡らしき人物と、上皇らしき人物が対峙しているのが映った。顔すらよく見えない。頬杖をついて、何やら上皇はご立腹のようだ。
「なに。藤原仲……いや、藤原恵美押勝か。そやつが反乱を企てているだと。道鏡、それは本当なのか」
「はい。私の眼は人間の心を見通すことができます。奴の邪な野心は今のうちに砕いておくべきかと」
「我らはどうするべきじゃ」
「奴の狙いは貴方様です。先手を打ちましょう。上皇様という、立場のお力を利用するのです」
「どうすればよい」
「御璽と駅鈴を、主上から取り返しましょう。そうすれば、奴らは帝に仇なす賊軍も同じ。必ずや味方も大きく増えましょうぞ」
「む……しかし……。やはり大炊(おおい、淳仁天皇)を避けることはできぬか」
上皇はたいそう頭を悩ませているようだった。
「これはどういう状況なのですか」
彼は横にいる女に問うた。
「これは俗にいう、恵美押勝の乱ってやつね。あれだけ早く上皇側が動けたのも、父の助言があってこそよ。さて、こんな霞んだ世界ばかり見ても面白くないでしょう。まあ、教科書的にはとりあえず上皇側が乱を平定……ということ。明くる年の正月、乱での功労者を呼んで宴が催された。その現場に“飛ぶ”わよ」
「今回は現場にいたのですね」
「ええ。小姓に化けたわ」
女は少し得意げに答えた。
しゅるん。
なるほど宴の真最中であった。
貴族達が賑やかに酒を振る舞い合う中、道鏡は難しい顔をしている。
「お父様は何やら考え事を……」
「父はね、今人の心を読んでいるの。誰が裏切り者かわからない。疑心暗鬼な上皇のためよ。そういえば、もう呼称を変えなくちゃ、ね。今は天平宝字9年。称徳天皇はすでに即位しているわ。彼女はいま陛下よ」
こうした元号を言われても、ピンとこないのが彼である。とにかく気にしないことにした。
「まあ。見ていなさい。じきに“彼”が来る頃ね」
「えっ」
彼は思わず声を上げた。あまりにも、あまりにも自分によく似た男が、そこにいるのだから。
その男は、どうも自信がなさそうに、周囲にへこへこと頭を下げながら端の席についた。このような場に、もしかすると慣れていないのかもしれない。困った時に右手を顳顬にあてるところも、実にそっくりだ。
「驚いた?」
女は笑いながら言った。
「あの男は和気清麻呂。そう、あなたの……」
その時、彼は婆やのことを思い出した。女が言い終わる前に、
「もしかして……」
と声が漏れてしまった。
「お察しの通り。あなたの直接のご先祖さま。ふふ、初の邂逅ね……。当たり前か……」
女は笑いが止まらない様子だ。そうこうしているうちに、全員が酒宴の場に集結したようだった。
「皆のもの。先の乱では、よく奮戦してくれた。都の方はまだまだ落ち着かぬ状況だが、今日だけは忘れて、大いに酒に興じよ。朕から皆へのせめてものねぎらいじゃ」
帝の号令と共に、酒が振る舞われ、豪華絢爛たる宴がはじまった。その豪勢さは、思わず距離を置きたくなるほどだった。溢れんばかりの魚たちは、一匹も人間と目を合わせてはいない。
道鏡はというと、相変わらず難しい顔をして、ひそひそと帝と話している。
「もっと近くへ行ってもよいですか?」
彼も興味を持ち始めたようだった。足早に近づく。道鏡は帝の耳元で、こう呟いていた。
「私は重祚には反対したはずです……。お考えを変えるおつもりはございませんか……」
「もう決まったことじゃ……。あのまま、大炊を野ざらしにするわけにはいかなかったじゃろうが。それにおぬし、約束を忘れたか。私は自由に生きるのじゃ。誰にも振り回されずにな。まだ、やれていないことが山ほど……」
「陛下。御言葉ですが、これほど急ぐ必要は……」
「ええい。うるさい。ならばいっそのこと、おぬしが帝につくがよかろうに」
「そのようなことは口にせぬことです。陛下」
「はっはっ。狐が帝とは、おもしろき国よのう」
「冗談がすぎますぞ……。私とて……」
「はっ。嘘じゃ嘘じゃ。……戻れ」
帝の最後の語気は、妙に強いものだった。
「はっ……」
道鏡は疲れ切った顔をしていた。
「父は、陛下の心身を心から心配していたのよ。このころから、陛下の言動は前より一層酷いものになった。父も無理していたのね」
道鏡は心を読むという「仕事」に戻ったようだった。しかし、なにやら表情が変わった。疲れに加わって、驚き、焦りが目に見えてわかった。
「一体どうしたのです?」
「この場で、父は初めて出会ったのよ。“心が読めない相手”にね……」
「それはどういう……」
「どういうって……。言葉の通りよ。動揺しているわね。それは無理もないわ。だって、こっちは狐よ。その能力が効かないってことは、まずあり得ない」
「そういうものですか」
「その相手こそ……」
「その相手こそ?」
「和気清麻呂だった、ということよ。あんな頼りなさそうな若造が……。笑っちゃうわね。おっと、これは失礼ね。のちに彼は……」
清麻呂は酒を注ぐのに必死そうだった。下がった目尻は嘘をつかない。
「見てて。もうすぐ父が私に面白いことを言うわ」
彼は耳を澄ました。
「おい、小丸よ……。あの、向こうにいる男の、心は読めるか」
「心を……?お父様、まだわたしは……」
「声が大きい!読めるか、と尋ねておる。頷くか、首を横に振るかして答えよ」
小丸は首を横に振った。
「ふふ……。この時父は、なにを考えたのでしょうね。子どもにしか感じ取ることのできない“何か”だろうかと思ったのかしら。この日から父は、彼を警戒し始めたのは確かよ。まあ、私は子どもだったから、こう必死な父を見るのは、ちょっと面白かったけれど」
宴のあと、道鏡は清麻呂に声をかけた。
「これはこれは、清麻呂殿ではないか。今日の宴はいかがでしたかな」
「いや……その……。こういう場は実は初めてでございまして……」
おどおどとした様子で、とても清麻呂は貴族に見えなかった。
「なるほどなるほど。貴殿にとっては、初めての叙勲でございましたね」
「私の一族は……朝廷内で大変立場が弱いものですから……」
「まあまあそうおっしゃらず。貴殿には、何か特別な大きい力を感じまする……」
「大きい力……?道鏡様にこれほど言っていただけるのは大変名誉なことです……。しかし、私めには何の力もございませぬ。……かたじけない。私は急ぎますので。では、失礼」
道鏡は別れ際、小声で呟いた。
「ちっ。なにも吐かなかったか。我が力が及ばぬのはこれが初めてよ……。軟弱者にも見えたが……もう少し奴を観察せねばなるまい」
その時、彼はふと、歴史の不思議を思った。あの男が自分の先祖という実感は湧きそうもない。女の作り話ということもあり得る。しかし、どうも今までの様子を見るに、事実らしい。
偶々目についた、近くにある木の柱を、さすってみる。いやに冷たい。なぜだろう。そうだ、季節のせいだ。今は正月の時期。どうも繰り返して“飛ぶ”と、感覚が鈍ってくる。無理もないことであろう。古代の四季を実際に知るものはどこにもいない。
長い長い渡り廊下から外を見ると、白い毛布が屋根が降り積もっている。貴族たちはそれに情緒など感じる暇もない。彼だけが、その視線を以てして、静かな対話を実現した。
「なにしているの」
女に声をかけられ、彼ははっとして、我に帰った。
「ごめんなさい。ちょっとぼうっとしていました」
「次にあなたに見せるのは、“あの夜”ね……」
彼は右目を擦りながら、女の背中を追いかけた。
五 山海経
どうやらここは寝所らしい。
バタン!ドタバンバンドン!
「道鏡!道鏡!」
「如何なされましたか!陛下!」
「大蛇が……朕を追いかけて……」
そこには、全長十尺にもなろう大蛇が、舌を突き出し、うねうねと帝を追い立てていた。
「陛下……お下がりください。それは幻術の類です。落ち着きなさりませ」
「死にたくない……」
道鏡は咄嗟に懐から小枝のようなものを取り出し、素早く投げつけた。すると、大蛇はたちまち消え、葛の葉だけがひらひらと舞った。
帝はすっかり血の気がひいた様子で、へなへなとその場に座り込んだ。
「陛下。お部屋までお連れいたしましょう」
道鏡は帝の体を抱え上げた。帝は震える声でこう言った。
「ふふ……。じつに、滑稽なものよのう……。この間まで、朕はいつ死んでも良いと思っていた。がしかし……、いざこうして死を目の前にすると、死にたくなくなったわ……」
「陛下。もうお忘れかもしれませんが、陛下は一度、黄泉の国へ赴かれたのでしょう?死地は経験済みのはずでは?」
「はっ。何百何千年と生きる貴様らにはわからぬだろう。そう言う意味ではない。生きているから死にたいとも思うのじゃ……。それは決して矛盾と言った、単純な言葉ではなく……。おぬしにはわからぬか、わからぬだろうな……」
「難しいことを仰いますね」
「いや、人間にとっては難しいことでも何でもない。当然のことよ」
道鏡は帝を無事に送り届けたあと、子どもたちを自室に呼び出した。
「おぬしらの中で、大蛇の幻で陛下を誑かすという、至極つまらない悪戯をしたものは、おるか」
「神に誓ってございません」
「私もです」
「同じくです」
「そうか。むう……。流石に我が子を疑いたくはない……。しかし、あの幻術は、明らかに狐の為せる業。うむ……何か悪い予感がする……」
道鏡は子どもらを帰し、ひとり床についた。案の定、一向に眠れない様子ではあったが。
翌朝、道鏡は帝に召集された。
「道鏡。どうも近頃参議の吉備真備が体調を崩しておるらしい。朕は公務で手が回らぬから、一度様子を見てきてくれぬか」
「容体のほうは?」
「よくわかっておらぬ」
「は。すぐさま向かいます」
彼の邸宅に赴くと、そこには熱にうなされる真備を、心配そうに家族、その他大勢が看病していた。
「これは……道鏡様」
道鏡に気づき一番に声を上げたのは娘の由利である。
「いかがですか。真備殿のご様子は」
「このところずっと目覚めぬままなのです。ああ……どうかお助けを」
神にも縋るような声だった。道鏡は一眼見て何かに気づいたらしい。
「しばしお待ちくだされ」
道鏡は脈を取るように腕に自身の指を当て、力を込めた。
「父は、この病でさえも狐の仕業であると、見破ったのよ……。ここからなのよね。歯車が狂い出したのは……」
やつれ切っていた真備の頬はみるみる赤みと膨らみを取り戻した。うっすらと目を開け、小さま声で礼を述べた。
「……おお。陛下の命だけでなく、私めの命までも、禅師はお救いくださるか……」
「いえいえ。当然のことをしたまででございます」
「私も実に驚いたのです。つい最近でしたかな、急に頭には激しい痛みが……」
「もしや、そのあと何か幻覚の類でも?」
「その通りです。自室に戻ると、大蛇が目の前に突然現れましてな。思わず気を失って、かれこれ何日うなされただろうか……。いやはや、まだ私の知らぬこともこの世にたくさんあるものですな。学者にとって、いい勉強になったと思って……」
真備は相当な学者肌とみえて、その旺盛な好奇心から微笑をこぼしたが、道鏡はいたって真剣な眼差しである。
「いや、事は想像以上に、危惧するべきものかもしれませぬ……。あまり楽天的にならず、何卒お気をつけくだされ。では、私はこれで」
「感謝申し上げます」
道鏡は足早に屋敷から出ていこうとした。その直後である。
貴様、人外の類だな?
道鏡は顳顬に手を当てた。
「おや。お父様は、一体どうなさったのでしょう」
「この時は私も驚いたわ。相手から直接、接触してきたのだもの。まあ、今の言葉で、テレパシーっていうのかしら」
何?……おぬしは誰だ!
ふ。今は明かせぬ。貴様は実に余計なことをしてくれた……。あの呪術を解けるのは狐しかおらぬ……。わしにとってこれから邪魔になりそうな奴をひとり、黄泉送りにできたというのに。貴様、人間なぞに、媚を売ってなにが楽しい
黙れ。おぬしこそ、こんなあくどい幻術で、なにを企む
貴様には関係ないことよ……。それより、わしと手を組むつもりはないか……。共に狐同士、仲良くなれると思うぞ……。“国柄”は違えど、な……
いや、断る。私には家族がいる。私は家族のために、人間の社会を生きるのだ。貴様のするような、人を騙すことになぞ、さらさら興味はない!
そうかそうか……。それがお前の答えか。ふ、残念じゃ。わしと組めば、日の本など、簡単に手中に収めることができるというのに……。面白くないやつよのう……。邪魔だてするなら、容赦はせぬぞ
声は消えたようだ。
「結局、この日は声の主はわからぬままだった……。それから父も探ってはいたのだけれど……」
「ちょっと待ってください。相手は“国柄”が違うと言っていましたね。それはどう言うことですか」
「ああ。その話ね。奴の正体はとんでもない奴だったのよ……。古代中国に生まれ、幾千年と恐れられた狐……またの名を“九尾狐”」
浅薄な知識しか持たぬ彼でも、知っている名だった。
「でも……。でも、九尾の狐は、確か平安時代の話じゃありませんでしたか」
「それはね、ずっと前からこの地に来ていたのよ。だってよく考えてみて。これからずっと先、平安朝のころに遣唐使が廃止されるけれど、それ以降、“どうやって海を渡る”の?いくら狐でも、日本海を渡り切るのは不可能よ。奴は船に乗ってやってきた、と考えるのが普通でしょう。その船……まさしく遣唐使船よ。今私たちが見ている時代は……」
「時代で言うと、奈良時代?」
「その通り。さっき病に臥せっていた……吉備真備という人物は、遣唐使として、何度も入唐した経験のある有能な官人のひとりよ。つまり奴は、その船に乗り込み、日本上陸を果たした、と」
六 小手の尼
帰京した道鏡はすぐさま遣唐使船に関する全ての記録を調べた。しかし、その中に怪しい人物の名はない。書物をめくる手に汗が滲んでいる。
「残念ながら、今の父は探るばかりで、奴の正体までは、見抜けていない。全く、凄まじい擬態能力よ。父も上手な方だけれど、同族である狐にすら、その気配を感じさせないのだから」
道鏡の調査は、深夜まで続いた。
「私は父の体を心配していた。父はいつの間にか、すっかり人間社会を、気に入ってしまったのよ。どうしてでしょうね……。あ、そういえば、父は昔、こんなことを言っていたわ」
「一体なんと?」
「ある日、父は陛下にあることを頼まれたらしいの。“父君と母君に逢わせてくれないか”とね。すなわち……聖武天皇と光明子。蘇りの術を以てしても……墓に入ってしまえば流石に無理よ。涙ながらにせがむ陛下を見て、父は、よっぽど人間の方が、他者への情に溢れているって思ったって。狐の世界なんか、仲間が死んでもなにもしないし、滅多なことで、思い出したりはしない……」
帝には、父母の面影が色濃く残っていたのである。
時を同じくして、帝の元に、一人の女が現れたそうな。
「その方。誰じゃ」
「私の名は、小手尼でございます……」
「……貴様。何用でここへ」
「私は陛下をお慕い申し上げているものの一人でございます……。私は朝鮮でさまざまに学を積んで参りました…。ぜひとも何かお力になりたく……」
「ふん、つまらぬ。疾く退出せよ。そもそもおぬしのような渡来人が居たかも怪し……」
それを言い終わるか言い終わらないかの僅かな間に、女は一気に間合いを詰め、人差し指と中指を帝の額に当てた。
「何なりと願いを申し付けくださいまし……」
その途端、急に帝の顔つきが変わり、ぼそぼそと何かをつぶやいた。
「朕は、父と母に一目……」
女はにこやかに返答した。
「左様でございましたか。では、今すぐに」
女は指を鳴らした。
「朕が見ているのは……」
「貴方様の望みは、叶いましたね……」
帝は虚な目をしている。
「ああ。父上、母上、ずっとお逢いしとうございました…。はい…。息災でございます……」
帝は虚空に向かって、独り話し続けた。かれこれ一時間は経っただろうか。
「ご満足いただけましたか……」
「……おぬし、これから朕に直接仕えよ。うむ、先の事もあった吉備由利の下につくが良い」
「かしこまりました。ありがたき幸せ」
小手尼は怪しい笑みを浮かべた。明くる日から突然に天皇のそばに仕えた彼女の存在は、日本史上でも稀有な存在として知られている。
この二人のやりとりは、この世の誰も知らないことである。
七 狐猪の縁
「忘れもしないわ」
次に、彼らが“飛んだ”先は、俗に丑三つ時とも言う刻限であった。
「どうも薄気味悪い雰囲気ですね……」
「流石に並の人間でも感づくわね。父もこの凶兆を分かっていたみたい」
バタン!ドタドタドンドン!
向こうで大きな音がした。
「また大蛇が出たのですか」
「いや……それよりもっと性が悪い」
傍からそっと覗くと、そこから衝撃的な光景が見えた。明らかに正気を失った人間達が、
狂ったように剣を振り回しているのだ。
「道鏡を殺せ!道鏡を滅ぼせ!」
その数は二〇〇にも及ぶだろうか。恐怖で彼はものも言えなかった。この世のものとは思えなかったのだ。
「これは……」
「彼らは心を操られているの。そう……九尾狐に」
彼らは道鏡の寝所に一直線に向かった。その勢いは誰にも止められるものではない。まさに押し入らんとしたその時、別の部屋の障子越しに法衣の影が映った。
「おぬしらが来ることは、大方察しがついていたのでな……。汚い手を使いおるやつめ……いざ!」
道鏡は木太刀を手に持ち、必死の応戦を見せた。既の所で一太刀を避け、急所を外した一撃を放つ。道鏡、もとは狐である。体術は出来上がっていた。しかし、多勢に無勢とはこのこと。次第に部屋の端まで追い込まれてしまった。
「道鏡を殺せ!」
容赦のない斬撃が降り掛かろうとした、その時である。
「危ない!」
それを間一髪うけとめたのは、あの清麻呂だった。
「清麻呂殿。なぜ……」
「話は後です!まずは敵を!」
道鏡は体勢を立て直し、構え直した。
「……清麻呂殿、この者たちを殺すことは避けてくだされ」
「解っておりまする!」
清麿が加わったおかげで、戦いの流れが大きく変わった。
「清麻呂はなぜ操られずに……?」
「覚えているかしら。彼は、心を読まれない。だから、他の者たちのように心を奪われずに済んだ。この朝廷で、ただ一人の男よ。ではなぜ、心が読まれないのか……」
二人は死に物狂いで戦った。……どれほどの時間が経っただろうか。突如として、敵が気を失い始めたのだ。道鏡の脳内に、かの声が響き渡る。
この国に、我が術が効かぬ忠臣がおろうとは……。小癪な。……仕方があるまい。くそっ……実に、実に面白くない……
貴様!どこ隠れている!出てこい!
道鏡は周囲をばっと見渡したが、怪しい影は既に消えていた。操られた人間たちは、元に戻ったようである。寝ぼけ眼で、各々の寝所へとよたよたと戻っていった。ふうと大きな溜め息をついた道鏡に、清麻呂が後ろから声をかけた。二人の腕はまだ痺れたままである。
「道鏡様……。はあ、はあ、ご無事で何よりでございます」
「いや。こちらこそ……はあ、本当に危ない所を助けてくださった。心より感謝申し上げる」
「……あの者達はなんだったのでしょう」
「あれは恐らく……」
道鏡は途中で口をつぐんだ。
「近頃、この朝廷の転覆を企む霊狐が潜んでいるとの噂があります。もしやその類かも知れませんね」
「何!霊狐と?清麻呂殿、その話をどこで」
「夜な夜な、以前この都では見かけられなかった狐が目撃されていると聞きます……。狐は人を化かす存在。悪き敵です。私は貴族の一員として、なんとしてもこの国を守りたい。そのような輩は、断じて許さぬ所存です」
「そうですな……。やはり清麻呂殿、貴殿はこの国になくてはならないお方だ。まだお若いが、いつか必ず救国の雄となられましょう」
「いやいや……。道鏡様、私は一介の俗物にすぎませぬ。救国の雄など、烏滸がましい……」
「貴殿と共に戦って、私は確信を得たのです。貴殿には、何と言うべきか……神の加護がついている」
「神の加護とは……?」
「言葉通りでございます。そうですな、分かりやすく人間の言葉で言いますと……邪悪に染まらぬ、屈託のない清く真っ直ぐな心、とでも申しましょうか」
「人間の言葉?」
「いえ、そこは気にしなくてもよろしい」
「しかし、真っ直ぐとは……。私はただの猪のようなもので……」
「そう仰るなら、貴殿は聡い猪じゃ。軟弱な狐なぞに負けてはなりませぬ」
「ははは。その通りですな。では、私はこれにて失礼」
何事もなかったかのように、長い夜が明け、鳥が朝を迎えに来た。
八 件の神託
「おのれ……道鏡。生き延びよったか……」
九尾狐は諦めていなかった。自身にとっての幸いは、道鏡にまだ正体を見破られていないことである。そこで、妙案を思い付いた。本物の道鏡を亡き者にしたのち、自身が第二の道鏡に化け、国家の王の座に居座ろうとしたのである。しかし、そのためには二つの課題があった。一つは、現在の帝である、称徳天皇の存在。もう一つは、皇族以外のものが天皇の地位につくための具体的な筋道である。前者については、そう難しい課題ではない。帝の心を操ることは今にでも可能だ。問題は後者である。天皇は女帝であった。“今まで”のように、傾国の美女に化けるのも得策ではない。そこで、彼が目をつけたのは、“神託”であった。
「この頃の父はどうも忙しそうだった。実は、この頃になると、父の真意も、具体的に何をしていたかも、よく知らないの。なぜそこまで父はできたのかしら……。未だによくわからないわ」
「そこまで、というのは」
「いや、父は家族思いの人だったから、家族のためなら何でもできたはずだったのだけど……。どうもこの頃から、陛下が、陛下が、ってよく言うようになったのよ」
道鏡は子ども達を集め、こう言った。
「今日はお前達に伝えたいことがある。この都は我々にとって穏やかな安息の地ではなくなった。そこで、近々、この都を去ろうと思う。これまでの恵まれた環境ではなくなるだろうが、許してくれ」
「何をおっしゃいますか。お父様。都を去ることに依存など、一切ございません」
子ども達は体も心もかなり大きくなっていた。
「うむ。しかし、どうしても捨て置けぬことがある。あの怪しい狐……恐らく唐土の輩であろうが、奴をなんとかして追い払わねばならん。あと、最近の陛下は体調を崩しがちだ。なんとかせねば」
その頃、帝は熱病を患い、寝込んでいた。その看病を申し出たのは、かの小手尼である。晩年の帝は彼女のみを自身の近くに置いたと伝わる。周囲のものはえらく不思議がったそうな。病床の帝はつぶやいた。
「朕の命も、じきに尽きるか……。ふん、死への恐ろしさなどという感情はない……」
「陛下。しっかりなされませ。我が秘術でいくらでも……」
「……。おぬし、いま秘術と言ったか……。その類にはもう飽きたのじゃ」
「飽きた……?それは、どう言う意味でしょう」
「ふ、おぬしは別に知らなくて良いことよ」
「ところで、陛下。次代の帝は、いかがなさるおつもりですか」
帝は不機嫌そうに答えた。
「ほう……。おぬし、医者のくせに余計なことを言いよるな……。今は考える気分ではない」
「左様でございますか。陛下」
小手尼は静かに部屋を後にした。
その明くる日のことである。道鏡の弟を名乗るものが、とある神託を奏上した。
その神託によれば、道鏡が帝についた暁には、天下泰平の世が約束されるという。神託は宇佐八幡宮によるものであるらしい。都は混乱に陥った。道鏡は、苛立ちと怒りを、隠すことはできなかった。
「くっ。先に動かれたか。弟を名乗るとは、わしも侮られたものよ……。しかし、奴の思惑が見えてきたぞ。奴はわしを亡き者にし、成り代わろうとしておるな。この神託をなんとかせねば。奴は必ずまた動く」
その頃、帝は宇佐八幡宮へと向かわせる者を決めかねていた。神託は国の一大事である。確認を取らねばならない。
「道鏡に限って、そのようなことをするはずはなかろう。では……朕の側近の和気広虫に向かわせるとしよう」
「お待ちくだされ!」
声を上げたのは道鏡である。
「広虫様は、尼僧であるゆえ、宇佐までの長旅に耐えられますまい。私はその弟君である、清麻呂殿を強く推薦いたします」
「ほう、清麻呂とな……」
「はい。彼しかいないかと」
「そこまで言うか」
「そうです……何卒」
「……おぬしのその目、何かを考えておるようじゃな。わかった。清麻呂を派遣することにしよう。しかし、おぬしも今は渦中の男。気をつけねばならぬぞ」
「覚悟はできておりまする。とにかく、清麻呂殿を早く八幡宮へ」
それはあまりにも直前の変更であり、九尾狐も予測できなかった。
「あの忌々しき臣が赴いたか……。さては道鏡め、奴が心を操れぬものであることを、利用しようとしているな……。そうはいかぬぞ」
どろん。
清麻呂はすぐさま宇佐へ派遣された。道中の清麻呂は、複雑な思いであった。
「あの道鏡様が、このような神託を……。いや、そもそもこのような神託が受け入れられて良いものなのだろうか……」
皇族以外が天皇の地位につくなど、前代未聞のことである。のちに語られる国の危機であったが、その命運が、いま、彼の双肩にかかっていたのである。
そこへ旅商人かと思われる男が近づいてきた。
「そこのお方。身なりからして民の類ではございますまい。お偉方がどこへ行かれるおつもりで」
「勅命で、宇佐八幡宮へ」
「そうでございますか……。貴方様、今すぐお帰りになりなされ。悪いことは申しません。大きな凶兆が出ておりまするぞ」
「何をおっしゃる!帝の命ですぞ。そのようなこと、赦されるはずが……」
「帰れば、仕官が待っていたとしても?」
「どう言う意味じゃ」
「ふふふ……どうとでもなるということよ……!」
旅商人は一瞬の隙を突いて人差し指と中指を清麻呂の額に当てた。さすがの清麻呂も、足がすくんで動かない。
その瞬間である。道の木陰から、百数頭にも及ぶ猪がぞろぞろと現れたのである。鼻息を荒げ、敵意も剥き出しの様子。圧巻の景色、とでも言うべきか。
「何なんだこれは!こんなものは知らぬぞ!」
抵抗する暇さえ与えず、驚く旅商人に猪たちは襲い掛かった。これにはたまらず、旅商人も尻尾を巻いて逃げるしかない。気づけば木陰に消えてしまった。その一部始終を見て、清麻呂は呆気に取られていた。
「助かった、のか……」
旅商人を見事に追い払った猪たちは、清麻呂の足元近くに集まり、何やらお辞儀をするような仕草を見せた。仕草から判断して、彼らはその背に清麻呂を乗せて、目的地まで運んでくれるという。清麻呂はそれに応じて乗りかかると、ふっと意識を失った。靄雲のかかった夢を見ているような感覚である。実に気持ちがよかった。母の胸に優しく抱かれる、赤子のような気分だった。
気がつけば、かの八幡宮の門前であり、あれほどにいた猪たちは一匹残らず忽然と消えていた。彼は後年、この不思議な話を身内によく語ったそうだが、曖昧だったが故に信じてもらえなかったという。
九 八幡宮
それは、よく晴れた日であった。
「何ですと。大神が応じない?」
「左様でございます」
そう答えるのは巫女の辛嶋勝与曽女である。
「貴方様の託宣を、大神が御訊きになろうとなさらぬのです」
「そのようなことがあり得るのですか。……ううむ、にわかには信じ難い。これは神託なのですよ」
「私どもも、そのようなことは初めてでありまして……」
「ふむ……」
清麻呂は考え込んでしまった。勅命である限り、手ぶらで帰ることはできない。しかし、肝心の大神は振り向かぬというのだ。悩みに悩みぬいた挙句、彼は本殿へと向かい、瞑想に耽ることを決意した。
「この神託は、日本の将来を大きく変えることになるだろう……。力不足は重々承知しております。しかしどうか、私目に……」
彼は静かに目を閉じた。その途端、雨雲が空に踊り、雷鳴が駆け巡った。いつしかそれは嵐となり、細い木々を吹き飛ばすほどの勢いとなった。しかし、清麻呂は一才の如く動じることはない。雨は夜中降り続き、屋根を叩きつけて轟音を響き渡らせた。
御堂の中で、彼は道鏡のことを思った。どうも私の全てを見通すようなことを常におっしゃる。それは一体なぜなのだろう。私の使命とは何なのか。……救国の雄ということばの意味……。彼は深い精神世界の中で、自問を続けた。
長い、長い夜が明けた。東から昇った朝日が次第に翠を照らし、その葉先からわずかに滴る露が土に落ちようとしたその時、この世界の時は止まった。
訊け 心清き若人よ
貴方様はいったい
貴殿らが大神と呼ぶものだ
ここは 一体
貴殿らの言葉では説明できぬところよ さて おぬしに問う おぬし その心から この国を思うか
はい この身に誓って
その命に代えても この国を 守らんとするか
はい この国を必ずや
そのことばに 嘘偽りはないか
一切 ございませぬ
屈託のないことば 逞しい眼差し おぬしのような人間が まだこの世にいたとはな
そう黙る必要はない 清麻呂よ おぬしの覚悟 しかと見届けた おぬしに 真の神託を授けん おぬしのようなものとの邂逅 実に良きものであったぞ はっはっはっはっ
清麻呂がすうっと目を開けると、その手にはある巻物が握りしめられていた。そこには誰ともわからぬ字で、こう書かれている。
「わが國家は開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君となすことは未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃ひ除くべし」
都に滞在していた二匹の狐はこの神託を即座に感じ取った。一匹は、心より安堵し白湯を一杯飲んだのに対し、もう一匹は悔しさのあまり、自身の爪を血が出るまで噛み続けた。長く歴史で語られる一日である。いつしか空は青を取り戻していた。
これにて、難は去ったかに見えたのだが。
十 道鏡事件
九尾狐は悉く事が運ばず、その原因は全て和気清麻呂その人にあることを確信するに至った。そこで、清麻呂の暗殺を目論む。今、都への帰路にある彼を狙えば、前回の二の舞になるのは容易に想像できた。ならば、帰京の直後を狙うしかあるまいと考えた。
「我を愚弄しよって、許さぬぞ、清麻呂。かくなる上は、最上の呪いで奴を葬ってやろうぞ。その“名”で生を受けたことを、後悔するがよい!」
生者の名を呪う行為は、原初的で、極めて強い力を持つ。
「奴が都についたその夜が、最期の夜となろう」
薄ら笑いが水面に映った。
一方、体を持ち直した帝は、道鏡を召した。
「陛下。いかがなさいましたか」
「道鏡よ。ひとつ聞きたいのじゃが、おぬしら狐の一族たちは、全て“秘術”なるものを使えるのか」
「左様でございます。秘術の類は相伝であり、もちろん多少の流派はございますが、それは国を越えようとも、概ねは同じようなものかと。いくつかの類は唐土の伝説にも描かれておりまする……」
「そうか」
「なぜ、そのようなことを仰るのです?」
「いや、今わしの側近の一人である小手尼がな、おぬしと同じく、秘術を使うと申しておったのじゃ」
「それは……。それは本当ですか」
「うむ。わしの耳に疑いはない」
「それがもし本当なら……」
「本当なら?」
「小手尼は……私と同じ狐ということになりますぞ」
「なぜ、私はそやつを側近に……」
「……私の推測に過ぎませんが、これも幻術の類かと思われます。どうか、お気になさらないでください。陛下、そのことはまだ誰にもおっしゃっていませんね?」
「もちろんじゃ」
「そうでしたら、今は、騙されたふりをしておきましょう。私に策がございます」
「策とは何じゃ。申してみよ」
「は。奴の狙いは、陛下、清麻呂殿、私と考えて間違い無いでしょう。その中で、全くその正体に気づいておらず、一番危険なのは……」
「真の神託を受け取ったであろう、清麻呂だろうな」
「そうでございます。ですから、我々がやるべきことは、いかなる手を使ってでも、清麻呂殿のお命を助けることです。念には念を入れて……」
「具体的に、朕は何をすれば良い」
「奴の狙いは今まで全て失敗しています。最後に奴の狙うことは大体想像がつきます。これから申し上げますことを、よく覚えておいてください。そう日にちも待ってはくれませぬ」
それから暫くして、遠路はるばる、清麻呂が神託を携えて都へと帰還した。その目は正義の眼差しである。彼は新しく受け取った真の神託を堂々と読み上げた。彼は帝に対して忠義をなしたつもりであったが、帝の表情は途端に曇り出し、彼が予想だにもしなかった展開を迎える。
「清麻呂!おぬしは宇佐八幡宮で何をした!本来の通りの神託を早く読み上げよ!」
帝は声を荒げて、清麻呂を鋭い目つきで睨みつけた。
「陛下が道鏡様を信頼なさっているのは重々承知しております。しかし、皇位の継承とあっては話は別。今日ただいま、私がお持ちし、お読みしたものこそ、真の神託でございます。どうか、どうか」
「ええい、うるさい!……道鏡こそ帝にふさわしいのじゃ。その真の神託とやらも怪しい。それは貴様の妄言であろう。そうであろう!」
「いいえ、違います!これこそが真の神託。私は大神から直接、こちらを授かったのです……」
「ふん、全ては戯言に過ぎぬ。清麻呂よ、忠義、忠義と言うならば、朕の命に逆らうな」
「いえ。そのようなつもりは一切ございません!道鏡様も、何か仰ってください。貴方様も、私と同じ忠の士のはず。この神託の意味を、きっとお分かりでしょう。貴方様のような方が帝になることは、断じて許されることでは無い……。それでも良いのですか」
道鏡は静かに口を開けた。
「私から貴殿に言い渡すことはない。慎んで、命をお受けする次第。偽の神託に用はない」
「その行為がこの国を容易に滅ぼすに至らせることを、貴方様は理解しておられない……。ああ、貴方様でしたら、この国のために尽くすと思っていたのに。聡いお方だと、心より信じていたのに!今はただ……今はただ悔しゅうございます……。己の不甲斐なさ、大神から、神託まで授かっていながら……」
清麻呂は地に伏し、涙を流した。
「その方、朕と道鏡を愚弄し、偽の神託を読み上げた罪で、大隅国へ流罪を言い渡す。今すぐじゃ!二度と都へ近づくことは許さぬ。……それに加えて、おぬし、これより和気清麻呂から、別部穢麻呂と名乗れ。勅命じゃ」
「これほどの屈辱……これでよろしいのですか……」
清麻呂は小さくつぶやいた。土で汚れた両袖を振り払う気力さえ起らなかった。
「命があるだけよしと思え。これで終いじゃ!」
貴族達は、あまりの帝の激昂に、動揺を隠すことができなかった。彼らの間にはいつしか、道鏡と帝は不義の関係であるといったような噂が立つようになり、それは瞬く間に都中へと広がっていった。
「確かにあの溺愛ぶりは、異常としか言いようがないのう」
「本当にそうじゃな……。この国はどうなるのじゃ。一介の禅師が、この国の帝になるのだぞ……」
「清麻呂の方も気の毒じゃ……。いや、これ以上言うことはやめておこう。次は我が身かもしれぬ」
「そうじゃそうじゃ。気をつけねばのう」
向こうで何やら頭を捻っているのは、計算の狂った小手尼である。その近くを通りかかった道鏡が声をかけた。
「おや。そこで何をしておいでですかな。小手尼様」
「あっ……これはこれは。道鏡様ではございませぬか。貴方様こそ、いかがなされたのです」
「いや。特には何も……。あ、いや、一つお伝えしなければならないことがございました」
「ほう。それは何でしょうか」
道鏡の声は、冷たく空気を震わせた。
「清麻呂殿に、刺客などを差し向けても無駄ですよ。私の子供たちが、護衛についていますからね」
「急に何を……!何をおっしゃるのです……」
小手尼は思わずたじろいだ。
「かの男は神の加護をさずかったもの。何か事が起きたとしても、必ずや加護があることでしょう。名も変わりましたが……その心までは奪われはしません。では、私は陛下のところへ。それでは」
九尾狐は思わず肝を冷やした。
「あやつ、もしや気付きよったか……。でもなぜ……。いや、考えても仕方がない。かくなる上は、実力行使じゃ。まず手始めに……」
極めて小さい手であったと伝わる小手尼の手が、一瞬だけ狐の手に戻ったのは、後にも先にもこの時だけである。
さて、自室の帝はひどく疲れた顔をして、道鏡に語りかけた。
「道鏡よ。これでよかったのだな」
「はい……。清麻呂殿には大変申し訳ないのですが……。この都にいては、彼は危険なだけでございました。名を変えるのも、念には念を入れてです。古来から、不浄な字には、悪霊を寄せ付けぬという話がございますが、それは真実なのです。……しかし、繰り返すようですが、何も知らぬ彼にはひどい仕打ちをしてしまった……」
「うむ。そうじゃな……いつか……」
帝の声が唐突に細々しくなったと思うと、その場にばたりと倒れ込んだ。
「陛下!」
十一 道鏡の言伝
「なるほどこの時、貴女はお父様のご命令で護衛していたと」
「そうよ。何も別に起こらなかったからすぐに帰ったけれど……。彼の顔つきは無念そのものだった。たとえ推し量らずとも、ね。それより、この時期は……」
帝の命は、今にも尽きようとしていた。
「もう何日も意識を取り戻していらっしゃいませぬ……」
治療に当たらせられたのは、当然、帝の医師である小手尼である。
「何か救う手立ては」
「もうだめじゃ」
口々に貴族たちが好き勝手なことをいう。
「皆様。この小手尼に全てお任せください。必ずや、お救い申し上げます」
小手尼はその場を立ち去ろうとした。
「これは一大事でございます。私目もお近くに」
この声の主は道鏡である。
「道鏡様。帝は女性でございます。容態は一刻を争うのです。男性である貴方様に、できることなど何もございませぬ」
「小手尼様は存じ上げぬかも知れぬが、私は以前、帝をご病気から救ったことがあるのです。どうか陛下のおそばに」
その時、名前もわからぬ一人の貴族が声を上げた。
「道鏡様、帝との逢瀬が出来ずに、寂しゅうございますのか」
「貴様っ!何を……」
「いやいや。私は何も」
「その言葉は陛下を愚弄することにもなるのですぞ……。許さぬ」
いやはや何かを盾にした人とは恐ろしいものである。他の者も声を上げ始めた。
「何を動揺していらっしゃるのです」
「道鏡様、お気持ちはわかりまするがな……。ふふっ」
「お互い若くもなかろうに……」
「黙れっ……」
小手尼は静かに語った。
「このような際に、貴方様のような方を陛下のおそばに置くことは断じて許されません。事が収束するまで、自身の邸宅にて蟄居をお願い申し上げます。監視の目もつけることと致しましょう。雄田麻呂(のちの藤原百川)殿、よろしくお願いいたしまする」
「承知」
「くっ。貴様……。いや、貴様らか……」
道鏡は周りの貴族に連行される形で、邸宅へと戻った。勿論子供たちも一緒である。
「あの人たちは、九尾狐にまた操られていたのですか」
「いや。そんな様子はないわ。あれは本心なのよ。父のことをよく思わない人なんて沢山いたのは知っていたのだけれど、こうも肝心な時にね……。屋敷に着いた父は、私たちに変なことを言い出した」
邸宅の中で、道鏡と三人の子ども達が座っていた。
「皆、本日中に、この都を出なさい。前に言っていた、都を去る日が来たのだ。幸い、狐一匹分は、通ることのできる通路がある。誰にも見つかる心配はなかろう。狩人に気をつけながら、東へと向かえ。ここは直に、我々にとって危険な場所となる」
「危険、とは?」
「おぬしたちには、後で説明しよう」
「お父様はいかがなさるおつもりなのですか」
「一つ、やり残した仕事を終えてからにする。お前達、父のことが心配なのはわかるが、手は出さないでくれ」
「承知いたしました。何をなさるのか存じ上げませぬが、どうかご無事で」
「うむ」
子ども達はこの日の夜に、密かに都を抜け出した。
「……私の記憶はここでおしまい、と」
「お父様は無事だったのですか」
「大丈夫。そのあと、下野国で落ち合った。と言っても、何ヶ月かは経っていたんだけれど……。不思議なことに、その間のことはあまり語らず……。それから数百年生きて、最期に父はこう言った」
「一体何と?」
「清麻呂殿の子孫によろしく。もし会えたら、話をしてやってほしい」
ここから先は、この世の誰ひとり、知らない物語。
十二 月光の下
門番たちが話をしている。
「何じゃありゃ?」
「ん?どうした?」
「あれは……あそこの屋根の上にいるのは……もしかして例の狐じゃないか?」
「何をお前、寝ぼけたことを……。仕事で疲れているんじゃないのか」
「そうかねえ……。ふあぁ」
しかし、その黒い影、光る目は確かに狐そのものだった。
しばらく後、瞬く間に伝令が駆け巡った。
「霊狐が……霊狐がでたぞ!直ちにとらえよ!」
都中がどよめく。その知らせは当然、小手尼の元へも届けられた。
「なるほど。狐の体なら、あの屋敷から抜け出すことも難しいことではあるまい。しかし、今のおぬしは追われる身。……雄田麻呂殿はおりますか」
「はっ。ただいまこちらに」
「妖狐は国家を破滅に導くと言われています。直ちに捕えなさい」
「はっ」
小手尼は筆を取り出し、帝の名を書き出した。
「清麻呂の時には邪魔をされたが、今度こそは……」
その紙は紫色に怪しく光った。
「これよ……。名を呪われたものは、無間の中で彷徨い続けるのじゃ……。こう簡単に死なせてなるものか……」
小手尼は長い呪文を唱え、全ての力を注ぎ込む。しかし、何と紙は散り散りに破けてしまった。
「なぜ……なぜじゃ……」
「おぬしは何も知らぬな……」
意識を失っていた帝が口だけを静かに開けた。
「何!」
「ふん……」
「今、この手で地獄へ送ってくれる」
小手尼が帝の首を締めようとした、その時である。扉越しに声が聞こえた。
「小手尼様、小手尼様。雄田麻呂にてございます。ただいま、霊狐めを退治いたしました。その報告に」
「ほう……死にましたか」
「はっ。その死体はいかがいたしましょう」
「今どこにあるのですか」
「私が預かっております」
「よろしい……。見せなさい」
小手尼はがらりと扉を開けたが、そこには何もなかった。
「奴の死体は……」
そう言い終わらぬうちに、真横から鋭い一太刀がせまる。
「油断。おぬしは……わしが道鏡にしか化けぬと、思い込んでいたであろう!」
「ぐっ」
「気づくのがもう少し早ければよかったが……。今しかあるまい。おぬしこそ、国を滅ぼす、霊狐なり!」
刀は空を裂き、見事に小手尼の胸を捉えた。すると、みるみるうちに体から獣の毛が生えはじめ、絵巻に描かれたような九つの尻尾、狐の顔が顕れた。
「ぐうう!」
「……おぬしは今まで化かすことばかりを考えて、化かされるということを知らなかった。それが敗因じゃ」
「……煩い……煩い!わしは……わしは簡単には諦めんぞ……。この傷が完全に癒えれば、必ずこの国を混乱に陥れてやる……。何百年と経とうが……。首を洗って待っておれ……」
九尾狐は闇世に溶けていくかのように消え去った。
「陛下!ご無事ですか!」
道鏡はすぐさま帝のもとへ駆け寄った。
「ふ……朕は大事ない……。朕はもう目が見えていないが……。そこにいるのは、きっと道鏡なのだろう。おぬしも……なかなか器用な奴じゃな」
「狐とは、化けるのが仕事でございますから」
「そうか……。今までも、そうであったな……」
「しかし私は……もう疲れてしまいました。ですから、今この時は……」
「よかろう」
「いつまでも、お側におりまする……」
「それは、頼もしきことよ……。……道鏡よ。最期にひとつ、話でもせぬか」
「それはよろしいことですなあ」
十三 大神の斎へる国
途端に夜は静かになった。
「道鏡。……外の様子を教えてくれぬか」
「そうですな……それは美しい月が出ております。一足早い秋風までも」
「そうか……朕にはもったいない代物だな。思い返せば……朕はこの治世で……何もできなかったな……。あの世で父上、母上に顔向けできぬ。いや、父上と比べるとは、畏れ多いこと極まるが……」
「そのようなことは一切ございませぬ。陛下の仕事は、私が一番間近で見ておりました」
「……道鏡よ、朕が死んだのち、この国はどうなると思う。後継者もろくに指さず……」
「きっと……。きっと大丈夫でございます。まもなく世は平安へと向かうことでしょう」
「ふふ……平安とな……それは本当か……?」
「狐は化かすことはしても、嘘は申しません。それに……」
「それに?」
「あの忠臣が残るのですから」
「忠臣……ああ、清麻呂のことか……。奴には、悪いことをした……。奴だけには、真実を伝えても良いと思ったのだが……その機会は失われてしまったようじゃ。結局のところ真実を知るのは、この世で、朕と、おぬしだけ……。少しばかり、寂しいのう」
しばしの沈黙が流れた。
「ううむ……。これは苦肉の策とも言えますが……そのことは、私の子どもに、託すことにいたしませぬか」
「ほう……。どういう意味じゃ……」
「我々狐の一族は、自身の持つ記憶を、他人と共有することができます。その力を使って、私の子どもが、清麻呂殿の子孫に、この真実を必ずや伝えましょう」
「そうか……。されど、おぬしの子たちは、清麻呂の子孫と、本当にめぐり逢えるのか……?」
「陛下。ご心配なさらず。縁とは、不思議なものだと思いませぬか。よく考えてみてくだされ……。ただいまこうして、陛下のおそばに私がいるのも……」
「あの時、朕の命が救われたのも……」
「そうでしょう、そうでしょう。縁はどこかで、必ず結ばれまする。帝も“仰っていた”ではありませんか。全て、大神が図ったかのように……」
「ははは……。そうじゃな……。わかった……」
白い雲が月を優しく隠した。
それからしばらく後、清麻呂は念願の帰京を果たす。そこで家臣からとある話を耳にした。
「何だと。道鏡様が消えた……?」
「は。先帝が亡き後、数ヶ月は都にいらっしゃったそうなのですが……。忽然と……」
「まるで狐につままれたような話だな」
「あまりにも急なことでしたので……。というのも、道鏡様はその前日まで、御陵におられたとのことなのです。どうも真相は不明とのことですので、先の件で都から追放ののち死亡と、記録されたご様子」
「先の件……そうか……。私はどうも道鏡様が死んだとは、思えないのだがな……」
「何か、心当たりでもございますか」
清麻呂はふと足を止めた。
「いや……。そんな気が、するだけのことよ」
世は着々と、平安へと歩み始めていた。
終 相飲まむ酒
時代は戻って、現代。
「お父様は、結局何を言いたかったのでしょう」
「それは私にも、わからないわ。私はただ、清麻呂殿の子孫によろしくと……。あの後、一度も奈良へ戻ったことはなかったし」
「そうですよね……」
女はふと、彼のグラスに目をやった。
「あら、貴方、氷が溶けちゃったみたいね。新しいの、持ってきましょうか。私の奢りでいいわよ」
「じゃ、じゃあ、同じのを……」
「同じの?折角だから、思い出の酒にさせて。味が嫌いだったらごめんなさいね」
女は奥の棚から、年季の入った酒を取り出した。そこには“そらみつ”と書かれていた。
「父は酒が好きだった。……とりわけ、この酒は……。というのも……」
「というのも?」
「父は何回か、帝と酒を飲む機会があった。その時、教えてもらったみたいなの」
「なんと教えられたんですか?」
「別れた人が、遠く離れた所から帰ってきた時に、人間は酒を準備して迎え入れるのだ……ってね。その時語り合ったこと、当時のことのように思い出せるんだって」
「そうなんですか……」
――古の奈良の都にて――
「道鏡よ。おぬしら狐にも、死は存在するのか」
「はい。私にも、いつしか死が訪れましょう。しかし、人とは大きく異なりますゆえ、千年、いやそれ以上でございます」
「千年、か。朕には想像もつかぬ」
「しかしながら陛下、私は人が羨ましいのですよ。短い命だからこそ、また出逢いたいと思い、別れた後も、思いを馳せる。人とはそういう生きものなのでしょう。狐の世界では再会を誓ったり、亡くしたものを思い出したりは、決して致しませぬ」
「そうか。朕は、いつでもおぬしを、思い出せるぞ」
「ははは、陛下よりも、私の命のほうが長いと、先ほどお話ししたではありませんか。かたじけのうございますが、思い出すのは私の方です、確実に」
「道鏡。おぬしは一つ、勘違いをしている。こうした営みに、この世に流れる時間などは関係ないのだ……。人が人との再会を望めば、きっとそこには……」
「こうした感情は、時間ですら乗り越えると、仰るのですか」
「そうじゃ。それを人は、“縁”と呼んできたのよ」
「ううむ。私目には難しい……」
「ははは、よう考えよ……」
帝は静かに盃を置いた。
ごくごく、ごく。男は“そらみつ”を流し込んだ。
「おいしいです」
「それは、よかったわ。ねえねえ、私の思い出ばっかり話すのも何だから、今度は貴方の家族の話でもしてよ……。もう終電もなくなっちゃったし、ね……」
「そ、そうですか……。困りましたね……。うーん……。こんな大それた話はないんですけど……祖母の話でも……してみましょうか」
「いいじゃないの」
「実はですね、僕が……小学生くらいの頃によく、昔話をしてくれて……」
「あ、それって、もしかして……」
「ご存じなのですか」
「ふふふ……」
二人はいつまでも語り合い、笑い合った。店の扉の隙間から、声と光が小さく漏れていた。
そんな二人をよそに、夜の闇は一向にその表情を変えようとはしない。冷たい風が吹いて、木製の吊り下げ看板を揺らした。……路傍には、空き缶が転がっている。