時は戻せない
乾燥したにんじんと一緒に家に帰った僕は、入り口の扉をくぐる時に、思いっきり左肩をぶつけた。
広い森の道を歩く分にはあまり困らなかったけれど、住み慣れた家ってなんだか――ただ左目が見えづらくなっただけで、難しい。
レンファの家はどこに何があるか分からないから、慎重に確認しながら歩いたおかげで大丈夫だった。だけどセラス母さんの家にはひと月半も住んでいるから、どこに何が置いてあるか、だいたい分かる。
だからついつい、いつもの感覚で適当に歩いちゃうんだな――もっとよく見て歩こう。
僕の「ただいま」よりもドン! って音の方が大きかったから、入ってすぐの台所で夕飯の用意をしていたセラス母さんが、ビックリした顔で振り返った。
「ああもう、アル、何よ、どうしたの? ……何かにぶつかった?」
「ごめんね、ちょっと入り口に引っかかった」
母さんは「何よソレ、レンと話せて浮かれているんじゃないの?」って小さく息を吐いた。うん、確かに、それもあるかも。
「ねえ、レンファにシナシナのにんじんを投げられたから、母さんにあげる」
「い、一体どういう状況なのかしら、にんじんを投げられるって――」
僕は、言いながら部屋の真ん中にあるテーブルの上ににんじんを並べた。結構、投げられたんだな。全部でいくつあるんだろう?
気になったから、5つずつの束にして数えてみる。九九は7の段まで言えるようになったからね!
そうしてにんじんを束にしながら、僕は早速セラス母さんに「僕、アルじゃなくなった」って言う。
「レンファが新しく『アレク』ってあだ名を付けてくれたから、母さんもゴードンさんも今度からアレクって呼んでね――わあ、38本も投げられたんだ。あんな小さい手でよく投げたな」
「あら、そうなの? 分かったわ、アレク」
母さんはちょうど料理を作り終わったみたいで、僕はテーブルの上に並べたばかりのにんじんを床下の貯蔵庫に片付けた。横で母さんが「これから寒くなるけど、高麗にんじんのお茶を飲んでいれば風邪をひきにくくなるわよ」って言ってきた。でも僕は「ふぅん」って返すだけにした。
絶対に飲まないぞ、僕は。
母さんに「食器を出して」って言われて、すぐ近くの食器棚を開ける。チラッと台所を見ると、汁ものと――干し肉と野菜の炒めっぽい? あと釜からバターの良い香りがするから、たぶんパンも焼いているな。
僕、レンファの泥にんじんを飲んでからすっかり葉っぱ――野菜が嫌いになったんだけど、でも、にんじん以外はまた食べられるようになったんだ。野菜はちゃんと美味しいのが分かるけど、にんじんだけはまだダメ。なんか匂い――風味? 食感もダメかも。あのもったりした甘さがすごく嫌だ、飲み薬の味をグンと悪くしている気がする。
――ええと、そんなことよりもお皿を出さなきゃね。
スープ用の深皿と、炒め物を載せる大皿と取り皿。あとパンを載せる小皿。落として割ったら大変だから、少しずつ手に持ってテーブルに並べる。
そうして並べ終わった後に、食器棚を閉じようと戸に手をかけた。いや、かけたつもりが、僕の左手は戸の手前でスカッと空を切った。うーん、これ結構、不便だ。
不便で大変だけど、そういうことを考えるたびに右目が無事で本当によかったと思う。いきなり両目が悪くなっていたら、僕はこれから生きて行くのがすごく大変だったはずだから。
――やっぱり、レンファにはもっとありがとうを言わなくちゃいけないな。
「それで、レンとはどんな話を――アレク?」
「うん? うん、あのねえ」
「……待って。アレク、ちょっとこっちを見て」
「えっ、うん。どうしたの」
セラス母さんは鍋から大皿に炒めを移していたけど、チラッと僕の顔を見ると首を傾げた。
そして鍋を窯に置くと僕の所まで来て、少しだけ荒れた手で、そっと両頬を包まれる。
「あ、もしかしてまだ頬っぺた腫れてる? そうそう、僕ちょっとレンファを怒らせてね。たくさん叩かれ――」
「……アレク、あなたちゃんと私の顔が見えてる?」
「え? 見えてるよ。今日もお化粧バッチリ、髪の毛サラサラのビ魔女だよ」
母さんってば変なこと聞くなあ。確かに左目は悪くなったけど、右目は平気なのに。
――ああ。もしかして、そのせいで僕の目が変になってる?
「アレク、斜視の症状が出てるわ。今朝はそんなことなかったのに、急にどうして……」
「シャシ?」
「右目と左目、どちらも私を見ようとしているけれど、向き――見ている方向が、ほんの少しだけ違うわ。明日、街へ行って医者に診てもらう? ゴードンが来たら馬車に乗せてもらって」
「あっ……えっとね、そのことなんだけど」
すごく心配そうに眉尻を下げる母さんを見て、僕はなんだか、胸の辺りがチクチク痛むような感じがした。
村に居た時は、熱を出しただけで皆から心配されるジェフリーが羨ましかったけれど――あんまりいいものじゃないんだな。
大変な病気だと思われているのかも知れない。早く安心させてあげなくちゃ。
僕は椅子に座って、今日レンファの家で起きたことをイチから全部セラス母さんに話した。
母さんは黙って聞いてくれたけど、僕も母さんも話に夢中になった。だから話が終わる頃には、せっかく作ってくれた料理が冷めていて――セラス母さんは、突然両手で顔を覆って泣き出した。
「か、母さん? どうしたの、驚いた? ごめんね」
どうして泣くのか分からなくて訳を聞いても、何も言わずに泣く母さんが怖くなって僕はドキドキした。
僕は、何かとんでもない間違いをしてしまったのかも知れない。
今更になって、レンファに言われたことを思い出した。「またセラスから希望を奪うことになっても、構わないと?」って――僕はレンファのことに意固地になって、母さんのことをひとつも考えていなかったんだ。
母さんから、何度も「考えることをやめちゃダメ」って言われていたのに。
「ご、ごめん……ごめんなさい、母さん。僕、すごく勝手なことした。勝手なことをして、レンファも母さんも傷付けたんだね……」
何だか、初めてこの森に来た時と同じくらい不安な気持ちになった。
村に、家族に捨てられて、何も持たせてもらえずにたった1人で森に放り出されて――魔女に愛してもらえる保障もないのに、どうすれば良いのか。すごく高い崖から、たくさんの人に笑いながら突き飛ばされるような、あの感じ。
ああ、セラス母さんにまで嫌われたら、今度こそ僕は生きられないのに。どうして、何でも――例え死んでも受け入れてもらえると勘違いしていたんだろう?
僕は、思わず「許してください」って言いかけた。だけど「許してください」はすごく汚い言葉に思えて、慌てて口を噤んだ。
だって、僕が母さんをいじめたのに、これ以上の勝手は許されちゃいけないって思ったんだ。
許す、許さないは母さんの判断だ。僕がお願いして良いことじゃない。
僕は、まず母さんが何を悲しんでいるのかちゃんと理解するために、必死に頭を働かせた。




