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第四十八話 ありがとう

 感情を失ったような顔。全てを諦め、悟ったような空っぽの表情。

 紗衣は小さく「そっか」と呟いた。


「じゃあこうする」


 紗衣はバットを拾い上げる。カラカラと音を立て、赤い線が地面に続いていく。


「ヒロインを殺しても愛されなかった私は、灯も殺して、この話はおしまい。好きな人を殺めて、あなたは私の中で生き続ける。メリーバッドエンド。寂しいけど、灯がそう言うなら仕方ないよね」


 無表情な目に宿った静かな殺意。背筋が凍る。鳥肌が立つ。今すぐ逃げ出したい。怖い。

 俺の中に渦巻く感情を飲み込み、俺は目を逸らさずに紗衣と対峙する。


「脅してもダメなんだ。じゃあ、そうするね」


 紗衣はこちらに向かって駆け出し、バットを大きく振りかぶる。

 が、それが振り下ろされることは無かった。


 鮮華は紗衣の腕を掴み、勢いそのままに紗衣を投げた。すかさず手からこぼれ落ちたバットを蹴り飛ばす。

 右腕を掴まれ、うつ伏せに倒れる紗衣。キッと鋭い視線が鮮花を突き刺す。

 鮮華はその上に馬乗りになって紗衣を拘束した。見事な手際だった。


「僕が護身術を身につけていることは知らなかったのかい? これでおしまいだよ」


 紗衣は左腕を地面に着いて起き上がろうとするも、強い力に押さえつけられるせいでその体は動かない。


「鮮華、助かった」

「嫌々でも覚えておいてよかったよ」


 鮮華本人も少し安堵したようににこりと微笑む。

 紗衣は確保した。彼女も抵抗を諦めたのか、力なく地面に突っ伏している。

 周囲の惨状を見て、気分が悪くなった。

 円満な解決とは到底言えない。ハッピーエンドとは程遠い。

 何人もの犠牲を出してしまったのは、やはり俺のせいだろう。

 紗衣の持つ力が増大する可能性はあった。考えりゃ辿り着けたはずだ。

 だが、俺は何もしなかった。考えもしなかった。詰めを誤った。

 ハッピーエンドという聞こえの良い言葉にうつつを抜かして、紗衣と向き合うことを先延ばしにしていた。

 その結果がこれだ。俺のせいで、何人もが死んだ。

 悔いても悔やみきれない。


「灯君。自己嫌悪に浸るのは後だよ。まずは彼女のことを優先しよう」


 鮮花の声でふっと現実に引き戻される。

 悔やんだところで時間は戻せない。時間は不可逆だ。前に進むしか道はない。

 紗衣は動けない。バットという証拠品もある。あとは紗衣を警察に突き出すだけ。それで全て終わる。

 俺が主人公になって、この物語に終止符を打つ。

 それだけのはずだ。


 だが、当の本人はくすくすと気味の悪い声を上げている。

 鮮花が不愉快そうに目を細める。


「何がおかしいんだい?」

「ふふ、私が主人公のこの世界で、このまま終わりなわけないのにね。こんなの、ただのアクシデントだよ。イベントのひとつでしかないんだから」


 次の瞬間、紗衣の腕を掴んでいた力がふっと抜けた。

 鮮華がふらりとよろめいて倒れる。赤い鮮血が吹き出し、首からからどくどくと赤黒い液体が溢れてくる。


「鮮華!」


 鮮華に駆け寄り、必死に喉元を押さえるも、その流れは止まらない。

 鮮華は痛みに顔を歪めながら、ヒューヒューと小さく呼吸する。


 鮮華の目線の先。振り返ったそこに紗衣が立っていた。

 赤い血液を垂らしたナイフを持って、紗衣は覚束無い足取りで近付いてくる。


「次はその子だね。私の灯を奪おうとしたそいつは、絶対に許さない」


 俺は咄嗟に、恐怖に怯えうずくまる三雲を庇うように抱きしめた。


「どうして庇うの?」

「これ以上、誰かが死ぬのは見てられない。お前が人を殺すところもだ。もうやめろ。やめてくれよ!」


 声を絞り上げる。

 感情の欠落した紗衣の顔を見る。


 もうやめてくれ。

 どうしてこんなことになるんだよ。

 この世界はただのフィクションで、ラブコメで、学園生活を謳歌するだけの物語じゃないのかよ。


 紗衣は小さくため息をついて、呟くように言った。


「そっか。じゃあ、残念だけど。灯を先に殺すことにするね」


 そして、鈍く光る刃が振り下ろされた。




 痛みはない。浅い呼吸が聞こえる。

 咄嗟に閉じた目を開ける。


 目の前で黒い髪が靡く。

 紗衣を突き飛ばし、その反動でひとつの体が俺にもたれ掛かる。

 俺は、その体をしっかりと抱きしめた。


「亜梨沙……なんで、お前がここに……」


 胸元に深く突き刺さったナイフ。そこから赤色が滲んで、広がっていく。

 亜梨沙は優しく微笑んで、俺の顔にそっと触れる。


「灯のことが、好きだからに決まってるだろ」

「亜梨沙……」

「みんなそうだ。私だけじゃない。灯に救われたから。灯を好きになったから。灯を信じてるから。灯のために頑張るんだ」


 亜梨沙は歯を食いしばってナイフを抜く。


「あとは、おねがい」


 亜梨沙はふっと笑った。


──ものがたりをおわらせて。


 小さく、消えてしまいそうな声。

 でも、確かに届いた声。



 俺はナイフを受け取って、亜梨沙をゆっくりと寝かせた。

 目頭が熱くなる。体の中でぐつぐつと煮えたぎる何かが全身から噴き出してくるようだ。


 こんなの、おかしいだろ。

 体が震える。感情が壊れたように涙が溢れる。力を込めたはずの手に感覚がない。

 どうして、こんなことになったんだ。

 ただのラブコメだったはずだろ。流血とは程遠い物語だったはずだろ。

 ナイフを握る手に再び力を込める。震える刃先を紗衣に向ける。堪えようとしても涙が勝手に流れてくる。

 どうして、俺の大切な人たちが傷付くんだ。

 ハッピーエンドが確約された物語だったはずだろ。ただの作り物の世界だったはずだろ。


 この世界は、俺を主人公としたラブコメの一部始終だったはずだ。

 それなのに、どうして俺はこんなにも悲しいんだ。

 どうして紗衣はあんなにも苦しそうなんだ。

 どうしてこの世界は残酷なストーリーを描いているんだ。

 苦しくて、悲しくて、怒りとも恨みとも違う感情に満たされていて、抱えきれない感情が溢れ出して止まらない。


 真っ直ぐに、紗衣を見つめた。

 紗衣もじっとこちらを見ている。


 紗衣によって齎された惨劇が眼前に広がっている。

 俺はその全てを見た。紗衣が人を殺す瞬間を。殺しておいて何も感じずに平然としている姿を。

 だと言うのに、俺は紗衣に怒りの感情一つも抱けない。

 俺の記憶の中の紗衣が笑っているから。俺の隣で笑ってくれる紗衣の姿が、目の前の彼女と重なってしまうから。


 記憶の中の紗衣と目の前で佇む紗衣。

 どちらも本物で、現実だ。

 これが物語の世界で、ストーリー上の一部だろうと、俺の中ではどちらも本物なんだ。


 だからこそ、ここで終わらせなきゃならない。

 紗衣を野放しにしないために。紗衣を一人にしないために。

 紗衣を俺の物語のヒロインとして終わらせるために。


 俺の目をじっと見つめたまま、紗衣は問う。


「灯に私が殺せる?」

「ああ」

「私を殺して、その先にハッピーエンドがあるの?」

「たぶん、ない」

「それで物語が終わるの?」

「俺が終わらせる」


 竦みそうな足を無理やり動かして、紗衣に歩み寄る。

 もう、止められない。

 この足も。手に込めた力も。溢れる涙も。


 紗衣は大きく手を広げた──。




 手に不気味な感触が伝わって来る。

 背中に伸びた二本の腕に包み込まれる。

 温かく、柔らかい感触だ。懐かしい。

 俺が一人で居ると、紗衣はこうして俺を抱きしめてくれた。

 頭の中に蘇る記憶が目の前の少女と重なる。


「これで、私の物語は終わりなのかな」

「ああ。バッドエンドで悪い」

「ううん。好きな人に殺されるのも、私にとっては、幸せなのかも。ヒロインの暴走を止める、主人公。悪くないでしょ?」

「バカなこと言ってんなよ」


 本当にバカな奴だ。こんな状況でも幸せそうにしやがって。俺に殺されることを受け入れやがって。

 なんで、お前は笑っているんだ。なんで、俺の方が泣いてんだよ。


「灯、ごめんね。大好き」

「俺の方こそ、ごめん。幸せにしてやれなくて、ごめん」

「最期くらい、好きって、言ってよ」


 言えない。その言葉は本物じゃないから。

 俺はこの物語で様々なことを知った。

 この世界は作られたものであること。この世界に生きる人たちは創造上のキャラクターでしかないこと。俺がこの世界の主人公であること。

 そして、そんな世界にも本物の気持ちがあること。


 俺が紗衣に好きだと告げても、それは本物の気持ちじゃない。

 だから、その言葉の代わりに、俺は紗衣に口付けをした。

 初めて自分からしたキスは、冷たく、ほろ苦かった。



 ありがとう──。


 耳元で聞こえた小さな声を最後に、紗衣の体は力なく項垂れた。


 カランと音を立ててナイフが落ちる。

 紗衣の体を抱きしめ、俺はまた泣いた。




「先輩。この後、私たちはどうしたらいいんですか」


 紗衣の体を寝かせると、三雲が不安を隠しきれない声でそう聞いた。


 鮮華も亜梨沙も既に息はなかった。

 残された俺たちは、この先どうしていくのだろう。

 そんな不安だけが残っている。


「俺は、約束を果たすだけだ」

「この物語を終わらせるんですね」


 俺が頷くと、三雲は目を細めた。


「私に出来ることはありますか?」


 目を潤ませながらも、必死に堪える三雲。

 そうだ。ひとつ、伝えたいことがあったんだ。


「伝言、頼めるか」

「……はい」

「明に伝えてくれ。約束破ってごめん。でも、必ずもう一度会いに行くって」

「……わかりました。必ず、伝えます」


 俺は、精一杯に偽物の笑顔を向けた。三雲もそれに応えるように笑顔を作る。


 三雲に背を向けて、俺は歩き出した。


「行ってらっしゃい、灯先輩。また、いつか……」


 少女の優しい後押しを背中に受けながら。

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