第四十一話 希望と絶望
「りり、アカリ君にスキー教えてほしい!」
一頻り笑った後、貴船のその一言から俺たちは初心者コースでスキーを楽しんだ。
まあなんだ、この二人は本当に運動ができなかった。亜梨沙以上だ。
まずまともに立つことさえ難しい。尻もちをついている時間の方が長かったように思う。
「足をハの字に広げるんだ」
「は……?」
「違えよ! 腕広げてどうすんだ。紅葉じゃなくてカタカナのハだよ」
「はっ! なるほど」
「貴船、上手くねえからなそれ」
「止まる時はハの字を広げりゃいい」
「広げる……」
「おい止まれ! どこ行くんだよ!」
「待って止まれない」
「汐留が待つんだよ! 足の先端じゃなくて踵側を開け!」
「お、おお……」
「怪我だけはやめてくれよな……」
「アカリ君そこ危ない!」
「危ねえのはお前だ!」
加速しながら突っ込んでくる貴船を体で受け止め、勢いそのままに汐留に激突。三人仲良く雪に倒れ込んだ。
三人分の笑い声がゲレンデに響く。
「怪我はないか?」
「アカリ君がクッションになってくれたからへーき!」
「雪のおかげでなんとか……」
雪の中から見上げた空はどこまでも遠く、温度の低い太陽は鬱蒼とした気分を晴らしてくれる。
作り物でもいいじゃないか。それでも世界はこんなにも輝いて見えるんだから。
「あー! 柊木の奴、彼女の次は両手に花かよ!」
「三人とも大丈夫?」
ちょうど合流した武道と吉岡になんとか起こしてもらう。
脳天気な吉岡の笑い声。恥ずかしそうに顔を顰める汐留。ぺちぺちと吉岡の背中を叩く貴船も気分を害している様子はなく、頬は緩んでいる。
尻もちをついた俺に手を伸ばした武道は、どことなく嬉しそうに口角を上げている。
「流石の柊木君も部活を辞めてから体が鈍ったかい?」
「違えよ、事故だ事故」
「……なんだか柊木君、楽しそうだね」
「そうか? いや、そうかもな」
楽しかった。本当に。
俺のしたいこと。それを思いっきりしたんだから。
憑き物が落ちたみたいに体が軽い。
今は、今だけは、この幸せな時間に浸っていたい。
「明日、絶対に筋肉痛だ」
「美少女二人に囲まれた罰だぜ」
「かもね」
「武道? お前は俺の味方じゃないのか」
修学旅行二日目も終わり、就寝時間を前に男三人でそんなことを話していた。
気が楽になったおかげだろうか。そんな他愛ない時間でさえ、愛おしく思えた。
「俺、柊木があんなに笑ってんの初めて見たかも」
「そうか?」
「確かに。僕も初めてだ」
「俺、今までそんなに楽しくなさそうだったのか」
「美少女に囲まれてたせいか!」
「いや関係ねえって」
「図星かな?」
俺はまた笑っていたらしい。
不思議なもんだ。自然と笑みがこぼれる。
心から楽しいと思える。どうやら俺は、その感情を忘れてしまっていたらしい。
随分久しぶりに味わう感覚に自分でも驚きを隠せない。
明日、汐留と貴船にお礼を言わなきゃな。俺がこの気持ちを思い出せたのは、あいつらのおかげなんだから。
消灯後、興奮のせいか俺は寝付けずにいた。
いや、もしかしたら紗衣のことを考えていたせいかもしれない。
俺にはこうして支えてくれる人がいる。諭してくれる人がいる。一緒に笑ってくれる人がいる。
でも、今の紗衣には……。
「柊木君、起きてるかい?」
「ああ」
暗闇の中から武道の声が聞こえる。よく通る優しい声だ。
「柊木君は、主人公になることを受け入れたのかい?」
「ちょ、お前」
「啓介は寝てるよ。早々起きないから大丈夫。合宿でも朝から苦労するんだ」
「ああ、じゃあいいけど」
「それで、どうなのかな」
「受け入れてはないな。ただ……」
「ただ?」
「教えてもらったんだ。例えこの世界が誰かの作り物でも、俺がその主人公として作られていたとしても、俺は俺のしたいことをすりゃいいってな」
なるほど、と言って武道は少し笑った気がした。
「じゃあ僕は主人公にならなくて済むのかな?」
「それはそれ。主人公なんて大役は超高性能イケメン転校生に押し付けてやるよ」
「はは、それは困るなぁ」
「武道はどうなんだよ」
「どうって?」
「ずっと気になってたんだよな。お前、なんで鮮華の犬になってんだろうって」
「犬って……。そうだね。僕は、会長から君のことをいろいろ聞いたからね。最低限、君の手助けがしたいんだ」
武道が鮮花のことを好いているのではないかと思ったが、どうやらその予想は大ハズレだったらしい。むしろ俺のことが好きなんじゃね? そういうのは否定しないが、相手が俺だとちょっと困る。
「なんだよそれ。気持ち悪いぞ」
「酷いなぁ。友達の助けになりたいのは変なことかな」
友達。武道は確かにそう言った。
そうか、友達。改めて聞くと少し照れくさいその響き。だけど、悪くない気がする。
「いや、変じゃない。ありがとな」
「君が楽しそうにしていると僕も嬉しいからね。君が笑っている方がなんだか落ち着くんだ」
それ以上の追求は、武道の就寝によって遮られた。
俺も寝よう。明日は最終日だ。
修学旅行を最高の思い出にしたい。そんな淡い願いを抱きながら。
その願いが叶うことは無かった。
俺の修学旅行最終日。それは鳴り響くサイレンの音から始まった。
けたたましいその音に跳ね起きた俺は、同室の武道、吉岡と共に外に出た。
外には既に同じ民宿に泊まっていた同じクラスの男子たちが集まっていた。
目の前を救急車が通過する。誰かが運ばれたんだとざわつく。
妙な胸騒ぎ。焦燥感。恐怖心。嫌な汗が止まらない。
「お前ら……」
神妙な顔つきで現れた三枝先生。見たことの無い剣幕に体が強ばる。
「一旦部屋に戻れ。指示があるまで待機だ」
「何があったんですか」
「うちの学校ですか」
生徒たちに囲まれ、質問責めにあう三枝先生。
俺も遠巻きにその光景を眺めながら、彼の言葉を待った。
聞きたくない。聞いてしまえば戻れない。昨日の思い出が全て夢のように消えてしまいそうな気がした。
それでも俺は聞かなければならない。背中にナイフを突き立てられるような恐怖に背中を押され、逃げることも許されない。
やがて三枝先生は大きくため息をついて、低く暗い声で答えた。
「貴船が怪我で運ばれた」
楽しかった時間は、そこでピタリと止まった。
一時間後、三枝先生から予定通り午前中はスキー、午後から市街地の観光という指示があった。
だが、クラスの中心人物である貴船の怪我という噂は瞬く間に流れ、うちのクラスだけはどうも盛り上がりに欠けていた。
三枝先生曰く、貴船は転んで怪我をしただけで命に関わるようなことはないとのことだが、それでも皆から心配の色が消えることはなかった。当然、俺も。
俺は、汐留と二人きりになったタイミングで、状況を聞くことにした。
同じ部屋に宿泊していたなら、きっと何か知っているだろう。
そう思っていた。
「ごめん、うちにはわからない」
「一緒にいなかったのか?」
「うん……。うち、早く起きたから少し外に出てて。戻ったら……りりが……」
状況はわからないが、恐らく今朝の惨状を思い出したのだろう。汐留はボロボロと涙を流し、ただ顔を覆うだけだった。
床にぐったりと倒れる貴船。その周囲には赤い液体がドロドロと流れている。そんな姿を想像しただけで胸焼けがする思いだ。
一番辛かったのは、そんな状況を目撃してしまった汐留だろう。俺は「ごめん」と謝ることしか出来なかった。
ただただ貴船が心配だった。
昨日まで一緒に転んで笑っていた貴船が。俺の話を聞いて、それでもなお汐留と共に受け入れてくれた貴船が。
三枝先生は命に別状はないと言っていたが、それでも救急車で運ばれるくらいだ。軽い怪我ではないだろう。
それに……いや、余計な詮索はやめるべきだ。まずは貴船の心配だろ。
本当に何事も無いのか、命に関わることでなくても、後遺症は? 頭を打っていたら記憶に関する障害が残る可能性もある。
時間が経っても不安は募る一方で、耐えきれなくなった俺はダメ元で三枝先生に会いに行った。もちろん、貴船に会わせてもらえないかと頼み込むために。
「そうだな。柊木には会ってもらった方がいいかもしれない」
三枝先生の返答は意外なものだった。面会は貴船が落ち着くまで禁止だと全員の前で言っていたのに、彼は鋭い目をいつも以上に尖らせてそう言った。
「他の生徒は予定通り十二時にここを出る。が、柊木は残れ。レンタカーで病院に向かう」
その指示通り、俺はバスには乗らずに民宿に残った。武道も吉岡もその理由を聞こうとはしなかった。いや、吉岡は聞いてきたが、武道が止めてくれた。
他のクラスメイトにも上手いこと誤魔化しておく、と言葉を添えて。
俺は三枝先生に連れられて、レンタカーで病院へ向かった。
手術は三時間ほどで終わったらしい。今は意識もはっきりしているとのこと。
「貴船に連れ添ってる脇田先生の話じゃ転んで怪我をしたの一点張りらしいんだが、どうもおかしい」
紫煙をくゆらせながら器用にハンドルを回す三枝先生は、ふとそんなことを呟いた。
「おかしい、とは?」
「怪我の位置が変なんだよ。後頭部と顔。転んで洗面所の鏡に頭を打ったのは間違いないんだが、それだと顔の傷に説明がつかないんだと。だが、貴船はそれを話そうとしない」
「……だから俺に?」
「ああ。お前になら話してくれるだろうと思ってな」
理由はどうあれ、会わせてくれるならそれでいい。
だが……顔の傷、か。
可愛さを追求し努力してきた貴船にとって、それは酷く辛いものだろう。傷が残らなければいいが。
しかし実際の貴船を目の当たりにすると、そんな希望でさえ楽観的だったとわかった。
「あ、アカリ君……」
俺が視界に入るや否や、貴船はすぐに目を逸らした。
俺には会いたくなかったと言いたげなその目は、片方しかない。白い眼帯と頭に巻かれた包帯から、その痛々しさが伝わってくる。
貴船の陰鬱な表情が、さらに拍車をかけていた。
「俺は脇田先生と医者の話を聞いてくる。二人にしていいか」
「……はい」
三枝先生は養護教諭の脇田先生を連れて病室を出た。
二人きりの空間に重い空気が流れる。こんな時にどう声をかけていいのか、全く思いつかない自分に嫌気がさす。
どうしてこうなったんだ。昨日のあの時間は嘘だったのか。
ほんの少しの幸せすら、この世界では許されないと言うのか。
血が出るほど強く唇を噛んだ。何も出来なかった歯がゆさと、脳天気に楽しんでいた自分を酷く憎む感情が血に混じって口の中に広がる。
「なんで来ちゃったの?」
貴船は目を合わせないまま、小さく口を開いた。
来ないでほしかった、と言っているように聞こえた。
きっとこんな姿は見られたくなかったんだろう。俺にも、他の誰にも。
「お前が心配だったからだ」
「……そっか。こんな状況じゃなかったら、嬉しいのにね」
貴船はそっと眼帯を押さえた。
真っ白な眼帯を痛々しさが染めていく。
「ガラスの破片が深く刺さっちゃったみたいで……もう、見えなくなっちゃうって」
胸が締め付けられるような気分だ。声を上げて叫びたくなる。
どうしてこの世界は、こんなにも残酷なのだと。どうして貴船の努力をこんなにも簡単に奪ってしまうのかと。
声を荒らげて、今すぐこの世界を飛び出して、どこか遠くから俺たちを見てほくそ笑んでいるであろうシナリオライターをぶん殴ってやりたい。
強く握った拳を緩め、俺はベッドの横の丸椅子に腰を下ろした。
ただ、近くに寄り添っていたかった。何も言葉が出てこない。それでも、貴船を一人にはしたくなかった。
俺が近付いてきたことで、貴船は俺に顔を見せないようにそっぽを向いてしまった。貴船の気持ちを考えりゃ、俺は今すぐにでも出て行く方がいいんだろう。
だけど、俺がそうしていたかった。貴船から離れたくなかったんだ。
「皮肉な話だな。以前の俺なら貴船の望むまま、この病室から出て行っただろうに」
「……それが、アカリ君のしたいことなの?」
「ああ。りりの隣に居たい」
力なく項垂れる白く細い指にそっと触れる。
卑怯だと思う。貴船は名前で呼ぶと喜んでくれると知っていて、そんなことを言うのだから。
そうすることで貴船は拒否できないとわかっていて、彼女の弱みにつけ込んでいるのだから。
「……ずるいよ」
「ああ、わかってる」
「りり、こんな顔でアカリ君と会いたくなかったのに」
「ああ、知ってる」
「こんな顔じゃアカリ君に好かれるなんて」
「それは違う」
ぎゅっと手を握ると、貴船はぴくりと体を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。
見えている右目には涙を浮かべ、艶やかな唇はふるふると震えている。
「今までりりは、自分磨きを怠らなかった。可愛くなる努力を続けてきた。それがそう簡単に崩れるとは思わないな」
「でも」
貴船の頬にそっと触れて、人差し指で涙を拭うと、貴船はされるがままにきゅっと口を噤んだ。
「なんだよ。心配しなくても可愛いじゃねえか」
例え片目を眼帯で覆っていても、頭に包帯を巻いていても、入院着を着ていても、貴船の努力が無かったことになるわけじゃない。
ちゃんと、いつものように天使のような温かさを持った、可愛い貴船のままだ。
「あ……。とう、くん……」
「涙拭ったのに泣くなよ」
「ち、違うもん。今度は嬉し泣きだもん」
「はいはい。じゃあ好きなだけ泣け」
貴船は何度も俺の名前を呼びながら、俺の手に頬をすり当て、声を上げて泣いた。
俺にはこうして傍に居てやることしかできない。それでも、貴船の顔を見ていると、それだけでも良い気がした。
貴船が泣き止んだ頃、先生たちが戻ってきた。
この後、貴船のお母さんが病院に来るらしい。
他の生徒たちもそろそろバスに乗り込む頃だそうで、俺は三枝先生と一緒に帰ることになった。
「じゃあな、また来るよ。き……」
「……」
「りり」
「う、うんっ。またね」
そんな残念そうな顔されたら名前で呼ぶしかなくなるだろ。
だけど、俺の一言で彼女が少しでも救われるなら、俺は何でもやってやる。
それが俺に出来る唯一の償いだ。
帰り道、怪我については何も聞けなかったと三枝先生に報告した。
貴船に「怪我については聞かないでほしい」と先んじてお願いされたからだ。
「すみません」と謝ると、三枝先生は穏やかに笑った。
「貴船が怪我も忘れて心から笑えるようになったなら、それだけでもお前を連れてきて良かったと思うよ。柊木」
三枝先生は優しく微笑んで、最後にありがとうと添えた。




