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第十九話 兄として

 その日の放課後から文化祭の準備が本格的に始動した。

 いつの間にか完成していたシナリオ。そのままだと長すぎるとの事で、モブ子が三十分程度の長さに改変したらしい。

 ふむ、なかなかやるな。内容を読む限り特に違和感もない。モブ子の名前は覚えてないけど。


 ただ、問題はそこに在らず。これだよこれ、配役の方だよ。

 言わずもがな主人公は武道……に押し付けられた俺。ランプの魔人はクラスの三枚目キャラ担当、吉岡君。そしてヒロインの王女様が……。


「なんで不服そうなの?」

「そりゃそうだろ。なんでお前なんだよ」

「仕方ないじゃん。誰もやろうとしないんだもん」


 ため息が出る。

 王女役の候補を募ったところ、女子からの立候補者はゼロ。以前の俺なら数人立候補したのかもしれないが、今の俺のヒロイン役を買って出るやつはいない。

 そりゃそうだ。絶対に空気が悪くなるしな。

 流石の俺も文化祭の練習で空気を悪くするつもりは無いんだが、俺はそういう奴だってイメージが張り付いているんだろう。

 一度張り付いたイメージはなかなか剥がれないんだ。瞬間接着剤かよ。


 そして、その様子を見ていた三枝先生の計らい(放課後まで面倒を見たくない確固たる意思)により、女子たちによる話し合いの場が設けられた。

 その結果、幼馴染ならそこまで悪い空気にはならないだろうという、半分押付けのような形で紗衣が選ばれた。


 まあ、俺としても気は楽だが、「紗衣ちゃんがいいんじゃない?」「そうだよ、幼馴染だし、結構合いそう」とかいう気持ちの悪い謎理論により紗衣が断れない状況に陥っていたのは、見ていて気分が悪かった。ほとんど俺のせいなんだけどね。


「ま、俺もお前でよかったとは思う」

「え、そ、そう?」

「付き合いが長い分、他よりマシってだけだが」

「消去法じゃん!」


 そう言って脇腹を小突く紗衣は、さっきの会議時間に比べるとら幾分か表情は和らいでいるように見える。

「押し付けられて最悪なんだけど、きも」と明のような態度で来られたらどうしようかと思っていた。本当に紗衣でよかったと心の底から安堵する。


「ところで、俺は何をすりゃいいんだ? 実際のストーリーとか見たことないんだけど」

「え、有り得ない! 映画やってたじゃん」

「いや見てないしな」

「あー、ラブストーリーだしね。一人じゃ見れないよね」

「うるせえ」


 違うからね? 映画館に行く習慣がないだけだからね?

 別にラブストーリーだろうと一人で見ようと思えば見れるし……いや、やっぱカップルが大半を占める中でぼっちなのは心が病みそう。


「実ちゃんが作ってくれた台本をちゃんと読めばわかるよ。綺麗にまとめてくれてるから」

「ああ、まあ帰ってから読むわ。セリフ覚えなきゃだし」

「私、覚えられるかなぁ。原作よりセリフ削られてるけど、それでもちょっと多いんだよね」

「ヒロイン役だし仕方ないだろ」


 紗衣はそこまで頭は良くないが、物覚えは良い方だ。本人が気にするほど心配はしていない。

 それよりも俺は、吉岡君と上手くやれるかが不安だ。主人公から降りる前からそこまで関わることも無かったんだよなぁ。

 そんな心配事を抱えていると、その吉岡君が近寄って来た。飄々とした足取りにへらへらとした笑顔をくっ付けて。


「よっす! 結城も柊木もよろしくな!」

「お、おう」

「あ、吉岡君! 吉岡君がランプの魔人って、なんかピッタリだね」

「だろー? 俺もちょっとやってみたかったんだよなー! 脅威のぉ、宇宙パゥワー!」

「あはは、ぽいよ! ぽいぽい!」


 ぽいぽい? 謎の教団っぽい。

 吉岡君はランプの魔人とやらのモノマネをしてるらしいが、俺にはさっぱりわからん。


 ランプの魔人と主人公は絡みが多いということで、俺は基本的にこの二人と練習することになっている。

 が、吉岡君はわざわざ立候補したこともあり、割とノリノリだ。案外上手くやれるかもしれん。キャラパワーって大事だな。


「よろしく頼むぜ、主人公!」

「ああ、よろしく」


 吉岡君は元気いっぱいに右手を差し出す。もしかしてこれは握手か? 今時そんなスキンシップ取るやつがいるのか?


 吉岡君は武道のような爽やか系イケメンというよりは、自由気ままなおチャラけキャラらしい。自分で三枚目と豪語するだけのことはある。


 目の前にある手を無視するわけにもいかず、仕方なくその手を取ると、彼はぶんぶんと俺の手を振り回した。自由気ままなのはいいが、少し鬱陶しいな。


「んじゃ、早速読み合わせしようぜ!」

「おー!」


 こうして地獄の読み合わせが始まった。

 具体的に何が地獄だったかと言うと……。


「柊木もっと感情豊かに読もうぜ!」

「灯、主人公とキャラ違いすぎ。なんか暗いよこの主人公」

「主人公ってより敵役みたいだよな!」

「あはは、わかるー!」


 いやわかんねえよ。頑張って読んではいるのだが、この二人と比べるとどうしても俺のキャラは薄い。というか、キャラに入り込めない。

 主人公となるとどうしても嫌悪感があるんだよなぁ。発作が出そう。主人公恐怖症なのかもしれん。

 こうしてつつがありまくりな読み合わせは続いた。



 初日の読み合わせはおよそ二時間。その大半は俺へのダメ出しで終わった。そしてほとんど進んでない。

 早急に敵役への役割変更を求む。なんなら通行人Bとかでもいい。Aはダメだ。たまにセリフがあるからな。


 問題点を多く抱えて読み合わせを終えた俺は、くたくたの体を引き摺るように教室を出る。

 と、そんな俺を紗衣が呼び止める。


「灯、一緒に帰ろ」

「ああ」


 家の方向も同じだし、断る理由も特にない。

 冒頭では考えられない変化ですね。


 関わらないよう突き放してもよかったが、どことなく嬉しそうに微笑む紗衣を見ていると、あまり無下にしてしまうのも悪い気がした。

 何より、昼間の役決めのことを思い出して少し同情してしまった。


 支度を済ませる紗衣を待ち、一緒に学校を出る。

 こうして一緒に帰るのも何だか懐かしく感じる。以前は逃げることに躍起になっていたのに。

 特に会話もなく並んで歩いていると、紗衣が小さく口を開いた。


「灯大丈夫?」

「ん、何が?」

「読み合わせボロボロだったじゃん。それで主人公できるの?」

「無理だろ。まあ、できるだけ頑張りはするけど」


 読み合わせ中はガンガン指摘してきたものの、紗衣は少し心配してくれているらしい。それならもっと俺に優しくしてくれません? 役云々よりも先にメンタルが壊れそうなんですけど。


「ねえ、今からもう少し読み合わせしよ」

「は?」

「いいじゃん。このままじゃ本番に間に合わないよ?」

「まあ、それはそうかもしれんが……」


 それでもまだこの地獄が続くのかと思うとどうしても拒否感が。ロスタイム制度があるなんて聞いてねえぞ。


 はっきりしない俺を差し置いて、紗衣は「じゃあ決定!」と話を進めてしまった。どいつもこいつも勝手が過ぎる。

 しかし、俺もそんな環境に慣れてしまったのか、否定する気も起きなかった。


「このまま灯の家でいいよね」

「まあ、いいんじゃね」

「やったー!」


 なんか楽しんでませんか? 俺をいたぶるのがそんなに楽しいですか? ロスタイムがあるなら負傷退場もあっていいんじゃなかろうか。

 どこかうきうきしている紗衣に肩を落としながらも、俺たちは家に向けて足を早めた。




「ただいまー」

「お前ん家じゃないんだけど?」


 我が家のように入るなこいつ。何度も来ているから慣れてはいるんだろうけど。


「あ、紗衣ちゃん」

「明ちゃん! 久しぶりー!」


 家に帰ると風呂上がりの明がそこに居た。

 体が火照っているんだろうけど、肌色の多いキャミソール姿で人前に出てくるのは如何なものかと思うぞ。

 数ヶ月ぶりの再開にキャッキャと体を寄せ合う女子二人。まあなんだ、眼福ってやつだな。悪くない。


「今日はどうしたの?」

「文化祭で演劇することになって、灯と読み合わせしに来たの!」

「え、お兄ちゃんも出るの?」

「ふふふ、灯はなんと主人公を演じるのだ!」


 えー、似合わない、無理でしょ。みたいな顔をするな。俺が一番わかってんだ。元主人公が主人公を演じるとはこれ如何に。


「灯ってば棒読みすぎてさ、これからみっちり猛特訓するんだ」

「あー、だよねぇ。ちゃんと恥ずかしくないように仕上げてね」

「まっかせて!」


 ドンと胸を叩く紗衣。やる気満々だなぁ。それを見てるだけで俺のやる気は削がれる。


「ほら、始めようぜ」

「はーい。じゃあ、ちょっと灯借りるね」

「うん、お兄ちゃんをよろしくね」


 何もよろしくないんだが。人をモノ扱いしちゃダメって先生に教わらなかったのか。

 テンションの高い二人に辟易しながら階段を上がろうとした俺を明が引き止める。


「私がいるんだから変なことしないでよね」

「しねえよ……」


 何を考えてんだこのマセガキは。紗衣がしっかり凹凸のある魅惑ボディだからって俺は何もしない。しないぞ、ほんとだぞ。


「あと、文化祭見に行くから恥かかせないでね」

「はいはい」


 恥だと思うなら見に来なきゃいいと思うんだが。

 まあ、俺も恥はかきたくないしな。やれることはやろう。現状からどこまで成長できるかはわからんが。ザコ敵とか倒してレベリングできる世の中なら良かったのになぁ。



 殺風景な俺の部屋。余計なものは置きたくない性格上、片付けや掃除は欠かさずしているため、いつ人を呼んでも困ることは無い。

 娯楽の類もほとんど無いせいでつまらない部屋ではあるが、今回は目的が違うし別に困りはしないだろう。


「じゃあ最初のシーンからね。私に会うところまではモノローグと灯のセリフだけだから、ここが大事だよ」

「へいへい」


「ここでお客さんの気をぐっと惹き付けるんだ!」と役者指導みたいなことを言っている紗衣を他所に俺はセリフを読み始める。

 が、すぐに止められた。


「ダメだよ君ぃ〜。感情が篭ってないよ感情がぁ〜」


 何キャラだよ。良い発声方法教えてあげようとか言い始めるアニマルビデオの監督みたいな喋り方はやめろ。

 俺の演技があまりにだらしないせいか、紗衣は台本を丸めて俺の頭をポンポンと叩く。キャラと相まって鬱陶しいな。


「灯はさ、演じることに固執し過ぎなんだよ」


 頭に置かれた台本を払う。彼女は何を言っているのか。


「演技なのに演じることを放棄するわけにもいかないだろ」

「うん、そうだね。でも、そうじゃないの」


 微妙に的を外すような表現に首を傾げる。演技なのに演じないとはこれ如何に。

 紗衣は俺の隣に座ると、足を投げ出して俺に寄りかかる。

 いやに近い距離感から逃れるように身を逸らすが、座っている状態では紗衣から距離をとることも難しい。

 どうしたものかと頭を抱えていると、彼女は耳元で囁いた。


「今、どんな気持ち?」


 どんな、と聞かれても困る。

 離れたいけれど、そうもいかない。彼女を突き飛ばすほど嫌でもない。

 なんとももどかしい気持ちだ。言葉に言い表すには複雑過ぎる。


「どうなんだろうな。紗衣が相手だからか、過度な意識もしないし、だからと言って平静でもない感じ」

「そういうことだよ」

「いや、どういうことだよ」


 要点を得ない話に肩を竦めると、紗衣はくすくすと笑って姿勢を正す。


「感情って、灯が思ってるよりもずっと複雑なんだよ。人の気持ちも考え方も、理解しようとして出来るものじゃない。だから、意識するだけ損だなって私は思う」


 紗衣にしては珍しく難しい話をするものだ。

 だが、彼女の言っていることは正しいと思う。

 俺がこの世界の理を知っているからか。或いは、これまでの経験からか。


 人の気持ちはわからない。

 桐崎がどうして俺からの相談を待っていたのか。

 三雲が俺に抱く好意に近い感情の正体は何なのか。

 鮮花先輩の言う本物の気持ちとは、一体何を指しているのか。

 俺にはわからないことばかりだ。

 それもそのはず。俺は彼女たちとは違う。その答えを知っているのは、彼女たちだけなのだから。


「無理にそのキャラクターになりきらなくてもいいんだよ。キャラクターがその時々で何を考えてるとか、どんな気持ちでヒロインと向き合ってるとか、考えてもわからない。だから、灯は灯の気持ちを押し出せばいいんだよ。自分ならこんな時何を考えるだろう、自分が主人公の立場になったらどうするだろうって想像するだけでいいの」

「なるほどなぁ」


 紗衣の指摘は思ったよりも的確だった。

 キャラクターを演じるとなれば、原作を知らなければ難しい。


『この時の筆者の気持ちを答えなさい』なんて問題と同じだ。

 考えたってわからない。もしかすると、全てを書き終えた作者にもその答えはわからないかもしれない。

 その答えを知っているのは、そのシーンを書いている作者だけなんだから。


 けれど、俺ならどう感じるかという観点なら、少しだけわかる気がする。

 俺は早速、彼女の指摘に沿って台本を読んだ。

 世界観に入り込む必要は無い。主人公になりきる義務も無い。

 ただ、自分を主人公に当て嵌めて台本を読み続けた。


 皮肉な話だ。

 主人公になりたくないと願った俺が、主人公としてどう感じるのかと考えているのだから。


 だけど、その方法は功を奏したらしい。

 初めて、一度も止められることなく台本を読み終えた。

 小さな拍手が静かな部屋に響く。


「やればできるじゃん」

「……まあな。俺はやればできる子だから」

「へー、じゃあ学校では手を抜いてたの?」

「紗衣が指導してくれたおかげですすみません」


 紗衣は満足気にうんうんと頷く。

 そんな彼女を見て、俺はふと笑みをこぼしていた。

 トライアンドエラーを繰り返し、着実に成長を積み重ねる。これが現代的レベリングかぁ。




 その後も指導は続き、気がつけば二十時を回っていた。


「もうこんな時間か」

「思ったより時間かかっちゃったね」

「悪かったな」

「いやいや、ほとんどは灯のせいだけど、一割くらいは私が時間かけすぎたところもあるから」

「そこは灯のせいじゃないよって言うところじゃねえのかよ」


 紗衣はけたけたと笑ってベッドから立ち上がる。


「ご飯作ってあげよっか?」

「いや、おばさんが準備してんじゃないのか?」

「今日、仕事で遅くなるから一人なの。カレーでいい?」

「いつもそれだな」

「シチューと肉じゃがも作れるよ?」

「工程ほとんど同じじゃねえか。よくそれで家庭部続いてんな」

「私は裁縫メインだからね!」


 レパートリーの乏しい紗衣のラインナップに苦笑していると、明が部屋に入ってきた。

 この時期にキャミソールだと寒かったのか、上からパーカーを羽織っている。


「ご飯作ったけど紗衣ちゃんも食べて行かない?」

「え、いいの?」

「うん。お兄ちゃんも特別にいいよ」

「俺の方がついでかよ」


 やったー、と両手を挙げて子供のようにはしゃぐ紗衣を見て、俺たち兄妹は口元を綻ばす。

 紗衣の前では、明は学校で見せた時と似たような表情を見せる。恐らく外用の姿ってやつだろう。リージョンフォームだ。


 紗衣の喜びようは大袈裟な気もするが、その気持ちはわからないでもない。

 明は海外を飛び回る両親の代わりに、小さい頃から家事をこなしてきた。

 その甲斐あってか、掃除洗濯はもちろん、料理に関しては店に出せるんじゃないかってレベルでこなしてくる。


 二人の時、俺は基本的にコンビニ弁当やらパンやら十秒チャージやらで済ませるため、明の手料理を食べるのは随分久しぶりな気がする。それこそ、モブに成り下がって以来だろう。

 俺も少し楽しみになって、リビングへ向かう二人の背中を追った。



 食卓には既に皿に盛り付けられた料理が三人分並んでいた。

 煮魚を中心とした和食のようだ。紗衣が和食好きと知っていてのことだろう。


 俺と紗衣が対面に、明が紗衣の隣に座る。昔から、三人で食事を摂る時の固定席だ。

 食物の神様にきちんと挨拶をして食事にありつく。


「……うまいな」

「だね、さすが明ちゃん! 私の嫁!」

「大袈裟だよぉ」


 そう言いながらも紗衣に撫でられ満更でもなさそうだ。紗衣の嫁になりたいの?

 実際、確かに美味い。この食事のために主人公に戻るのもアリな気がしてきた。胃袋を掴むってのはこういうことを言うんだなぁ。妹に掴まれても困るんだが。


 和気あいあいと話す二人を横目に見ながら、俺は黙々と箸を進める。

 昔はこうして二人が話している途中でたまに俺が会話に入って盛り上がっていたもんだ。


 懐かしさと共に少しだけ寂しさが押し寄せる。

 人と関わりを断つようにして、この時間を潰してしまったせいか。それともこの会話でさえ作り物だとわかっているせいか。

 自分の感情の正体でさえ、推し量るのは難しい。


「お兄ちゃん、口に合わなかった?」


 急に明に話しかけられ、俺は思わず箸を止める。

 難しい顔になっていただろうか。彼女は心配そうに俺の様子を窺っていた。


「いや、ちゃんと美味しいよ。さすが俺の妹だな」

「灯は料理できないじゃん」

「うるせえ。料理できない兄には料理上手な妹が居るもんなんだよ」

「なにそれ」


 俺と紗衣の会話にくすくすと笑う明。

 二人きりだと見れない明の表情は、確かに心の底から楽しんでいるように見える。

 胸が締め付けられるようだ。この笑顔ですら作り物だというのだから、この世界は残酷だ。



 食事を終えて片付けを済ませたところで、紗衣は帰ることにしたらしい。

 明と共に玄関先まで見送りに出る。こうして紗衣を見送るのも随分久しぶりだ。

 扉を開けた紗衣が名残惜しそうにこちらを振り返った。


「灯、ちゃんと台本読んできてね。練習しなきゃダメだよ」

「わかってるって。お前こそちゃんと台本覚えられるのかよ」

「そこは……まあ、頑張るよ! 気合いだよ!」


 やる気だけは一丁前な紗衣に苦笑する。精神論で覚えられるなら受験生は苦労しねえよ。

 ふと隣に立つ明を見ると、なんだか寂しそうで、笑ってはいるもののその表情はどこか暗い。

 そんな彼女を見ていると、胸の奥がズキリと痛んだ。

 まあなんだ、夕飯の礼ってことにしておこう。


「紗衣、また練習がしたいから、部活がない日は手伝ってくれないか?」

「えっ……うん、わかった! 家庭部はしばらく休むって伝えてるから毎日来てあげる! でも珍しいね。やる気出たの?」

「まあな。ついでにまた明の料理食べてきゃいい」

「え、明ちゃんがいいなら毎日食べに来るよ!」


 二人の視線を集めた明はパッと表情を明るくする。どうやら俺の考えは当たっていたようだ。


「う、うん、もちろん! いつでも遊びに来てね」

「やったね! じゃあ、また明日ね」


 そう言って家を出る紗衣の姿を並んで見送った。


 紗衣の姿が見えなくなって、俺は演劇の練習でもしようかと自室に足を向けた。

 そんな俺を明が呼び止める。


「その、ありがとう」

「なんのことだ」

「私の気持ち、気付いてくれて……」

「当然だろ。腐ってもお兄ちゃんだからな」

「なにそれきもい」


 いつもと同じセリフだが、その表情はいつもとは違う。穏やかで無邪気な笑顔を見せていた。

 彼女の笑顔につられ、俺も自然と笑みがこぼれる。照れくさいような、嬉しいような、そんな気分。


 なんであんなことを言ったのかは俺にもわからない。

 あの会話だって、明の表情だって、作り物だとわかっている。

 人の気持ちはわからない。でも、妹の気持ちくらいはわかってやりたい。

 そういう、妹を想う兄としての気持ちは、本物だと信じたかったのかもしれない。

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