05『茨の鞭』
なぜこんな事ができたのか分からない。
僕の手から放たれた鎖が、ヴェルカノンの体を拘束している。
確かに天使には転生したが、勢いとはいえマルヤの見よう見まねで、本当に神の権能が発現できるとは思ってもみなかった。
しかもそれはマルヤの様に、一瞬で断ち切られるという事はなく、ちゃんと鎖としての効力を発揮している様子だった。
だが、果たして問題はここからだ。どうすればいい?
とりあえず僕は、この流れに巻き込まれただけで、いわばケンカの仲裁みたいなものだ。
だからといって生前の様に、
「やめなよ。二人とも仲良くしなよ!」
と言ったところで、相手は神だ。次元が違う。
それにそもそも、そんな事が僕の目的ではない。
僕の目的――それはヴェルカノンに会いたかった事だ。
――彼女を支配して、自分のものにしたい。
死の直前に、僕が抱いた願望はあまりも大それていたが、それでも心の奥底にある本心が、ヴェルカノンという存在を求めていた。
だから会いたかった。会えなくて落胆した。
そしてマルヤの突入という予想外の展開ながら、こうして同じ神の眷属として再会できたのに……。
なのに――
ここまでの君の態度はなんだ。僕は君にまた会えて嬉しかったんだぞ!
君は僕を、『ご主人様』と呼んでくれたじゃないか!
ならどうして、僕を無視する様な態度をとったんだ⁉︎
焦らしたのか? 僕の心を弄んだのか?
それでいて僕が前に出なければならない様に仕向けておきながら、『早くきて』だなんて、君だって僕を求めていたくせに、どれだけ身勝手なんだ!
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
許せない。僕は怒ったぞ。ご主人様に対してなんたる振る舞いだ。
君を今から――躾けてやる!
以前の僕なら考えられない思考が、また体を支配していた。
そして、湧き上がる衝動に突き動かされるまま、僕は前に進む。
背中にかかるマルヤの声も、何を言っているのか聞き取れなかった。
おそらく僕の軽率な前進を注意していたのだろうが、僕には根拠のない絶対の自信があった。
――ヴェルカノンは僕に逆らえない、と。
そのヴェルカノンが僕を見つめている。
依然、彼女は『緊縛の鎖』に拘束されたままで、膝をつき赤黒い鎖に締め上げられるその目は、何か言い知れぬ期待に満ちていた。
それが一層、僕の神経を逆なでする。
もう許さないぞと思いながら――でも、ついにヴェルカノンの真正面まで来た僕は、不意にそこからどうしていいのか、分からなくなってしまった。
殴るのか? 僕はこれまで殴られる事はあっても、人を殴った事がない。
では口汚く罵るのか? そう思っても、やはり僕のボキャブラリーの中には、それらの言葉は用意されていなかった。
苛みたい――でも、苛み方が分からない。
いたって根本的な理由で、僕の昂ぶり荒ぶった心は完全に思考が停止してしまう。情けないといえば、これほど情けない事もなかった。
それを見越した様に、ヴェルカノンが僕を覗き込む。
きっと侮蔑か嘲笑を浴びせられると、思わず怯んだ僕に――なぜか彼女はこれまで見た事のない、優しい微笑みを送ってくれていた。
(……綺麗だ)
僕はそれに魅せられた。
初めて会った時の、殴られながら笑っていた彼女。
僕の歪な欲望を受け入れてくれた時の、被虐の喜びに笑った彼女。
マルヤを挑発し、それを狩り殺さんと不敵に笑った彼女。
そして今、すべてを許す様に笑ってくれている彼女。
――いったい、どれが本当のヴェルカノンなんだ。
倒錯の後に訪れた困惑に、呆然としていると、
「あなたは……それでよいのですよ――ご主人様」
今度ははっきりと、でも間近にいる僕だけに聞き取れる声量で、確かにヴェルカノンは肉声のメッセージを送ってきた。
その鈴の音の様な調べに、僕の心は貫かれ、思わず身を乗り出してしまう。
――僕はそれでいいって、どういう意味なの⁉︎
だが、それを口に出す事は許されなかった。
なぜならその直前、僕は激しい衝撃に、後ろに吹き飛ばされていたのだから。
「そこまでだ!」
続けて聞こえてきた声に目を凝らすと、闇の中に新たな女の姿が浮かび上がってきた。
ヴェルカノンと同じくらい背が高く、髪の長い女性。違う点はその髪が白、いや闇の中でも光り輝く銀髪だった所だ。
「レジーラ様⁉︎」
マルヤが恐れおののく声で、その名を呼ぶ。レジーラという女の手には太く、そして長い鞭が握られていた。
(あれで僕は打たれ、飛ばされたのか)
よく見れば鞭には無数のトゲが生えており、そのせいか僕の体には浅手だが、いくつかの傷ができていた。
「マルヤ、ここは私の屋敷だ。そしてヴェルカノンは今、私の管理下にある。それを知っての狼藉とは、いい度胸だな」
「レジーラ様、聞いてください! 私は――」
「フン!」
マルヤの必死の弁明を無視する様に、レジーラは気合と共にその『茨の鞭』を振るうと、次の瞬間、ヴェルカノンの体に巻かれた僕の『緊縛の鎖』が、バラバラに砕け散る。
「――――!」
それはレジーラという神の、圧倒的戦闘能力を表しており、そのプレッシャーのせいでマルヤだけでなく、僕も身動きが取れなくなってしまう。
「ほう……お前が『鍵』か」
「――――?」
レジーラが僕を見て『鍵』と言った。そして、その意味を問いただすよりも先に、
「今日のところは退け。追って沙汰する」
銀髪の女神はそう言い残すと、今度はヴェルカノンの体を鞭で絡め取るなり、音もなく闇の中に溶けていった。
「ヴェルカノン!」
僕は叫んだ。
だが、
「ショーカ!」
という、僕が期待した彼女の声は返ってこなかった。
残されたのは、元あった一面の闇。
断ち切られた赤い糸――僕の心はただ切なかった。