04『緊縛の鎖』
長い黒髪、細い顔立ち、闇の中でも鮮やかな黒一色の衣装。
僕が探し求めていた、美しく、艶やかで、苛んでやりたくてたまらなかった女――ヴェルカノンがそこにはいた。
「ヴェルカノン、アタシともう一度きなさい!」
再会に胸を高鳴らせる、僕の感動を妨げる様にマルヤが叫ぶ。
だが、それにヴェルカノンは動じる事もなく、
「フフフッ」
と笑うだけだった。その態度は明らかにマルヤを、『せせら笑っている』様に僕には見えた。
あらためて見るヴェルカノンは、本当に背が高く、身長一七〇センチの僕が軽く見上げるくらいだから、一八〇センチ近くはあるだろうか。
そんな彼女がマルヤを上から見下ろしている。
その見下す様な自信に満ちた視線に、僕は違和感を感じる。
――ヴェルカノンという女はもっと被虐的で、こんな風に相手を威圧する様な態度を取るはずがない。
彼女の事をまだよく知らないはずなのに、それでも僕はその思いに確信を持っていた。
「なに笑ってんのよ、戦神の分際で!」
再びマルヤの声が飛ぶ。そして、ようやくヴェルカノンも口を開く。
「確かに私は戦女神。神々の中でも最下層の忌まれる存在です……。ですが――」
そこまで言ってニヤリと笑ってから、
「天使に落ちたあなたは、今や私以下! そのあなたを、どう笑おうと私の勝手ですわ」
ヴェルカノンはさらに挑発的な態度で、マルヤの神経を逆なでしていく。
「何ですって!」
当然マルヤは逆上する。この流れは、出会ったばかりの僕でもすぐに予想できた。
だが、これまで受動的な人生を送ってきたせいか、客観性が人一倍研ぎ澄まされた僕は、ふとこの流れが、ヴェルカノンによる『誘導』なのではないかと思った。
本当にただ思っただけだが――でもそこに、何か言い知れぬ期待を抱いた僕は、黙って次の展開を待つ事にした。
「誰のせいでこうなったと思ってるのよ! みんなアンタのせいよ!」
「あら、ずいぶんな仰りようですわね」
憤怒の形相のマルヤに、ヴェルカノンがキョトンとした顔で応じる。
それは何かこう、どう応じれば相手がさらに怒るのかという、ツボを心得ている様に僕には見えた。
「ぬけぬけと……。アンタがあの時、アタシの指示に従わなかったから……あんなふざけた戦い方をしたから、こんな事になったんじゃない!」
思惑通り、マルヤはさらに眉間にシワを寄せて語気を強める。
そして、ここまでの情報で、僕には気付いた事があった。
ヴェルカノンがマルヤの指示に従わなかった、という事は、二人には上下関係が――すなわち二人は、同じサイドにいた事になる。
それは、討伐に失敗したマルヤとヴェルカノンは共闘していた事を意味しており、ヴェルカノンは討伐対象ではなかった事が、そこから推し量れた。
僕が殺された現場で喚いていたのがマルヤと分かった時点で、そうなのではと薄々は思っていたが、裏付けが取れた事で、ひとまず僕は安心する。
「――おまけに下界の人間に犠牲者まで出して……おかげでアタシは天使に降格されたのよ!」
ホッとしたのも束の間、マルヤは今度は僕を指差しながら、自身の降格の責任を追求し始める。
自然、僕も話に巻き込まれる形になったのだが、そのおかげで話の流れが、僕の『もう一つの懸念』にシフトしてくれた。
僕の懸念――それは、ここまでヴェルカノンが、まったく僕に反応を示していない事だ。
まるで一夜の契りを未練がましく引きずっている、初心な『ねんね』の様な僕は、ヴェルカノンの顔を覗き込む。
いったい彼女は僕の件に対して、どう言ってくれるのだろうか、と。
だがそんな期待も空しく、それでもヴェルカノンは僕の顔を見ない。
忘れているのか? いや、転生した僕でさえ生前の記憶を引き継いでいるのに、神様の方が天界に戻ったからといって、記憶がリセットされるなんて事は考えられない。
なら、どうして? 血まみれの僕を胸に抱いて、『君は僕のものだ』という心の叫びに、『はい、ご主人様』と応えてくれた彼女は、いったいどこに行ってしまったのか。
思いがけぬ再会に、きっと僕を見て微笑んでくれると思っていた淡い期待は、見事に肩すかしを食った形となっていた。
マルヤが一方的に話を進めている展開とはいえ、あまりといえばあまりな対応に、僕の心はさざ波立つ。
――この女、思い知らせてやる。跪かせて僕に屈服させてやる!
突然、湧き上がった感情に自分で驚く。僕は何を考えているんだ。
あまりに自分勝手なドス黒い欲望に動揺していると、
「それは……目付神だった『あなたの』怠慢でしょう?」
なんとヴェルカノンは、さらにマルヤの怒りを煽る様な、挑発行動に出た。
「な、な、な……なんですってーっ!」
ついにマルヤの堪忍袋の緒が切れた。
「もうアッタマにきた! アタシはこのままじゃ終わらない。テルメメロイ様はお許しにならなかったけど、今度こそガズルを討伐して、アタシは神に返り咲いてみせるわ!」
身を乗り出し、喚くマルヤに、
「あなたお一人で、何ができるというのですか?」
さらにヴェルカノンが冷笑を浴びせかける。
僕の事をそっちのけで、もういい加減にしてくれと言いたくなってきたが、そんな思いが届いたのか――マルヤは状況を打開するべく、ついに『行動』に出る。
「誰が『一人』でって言ったのよ。アンタも縛ってでも連れていくわよ――まあ、本当に縛るんだけどね」
不敵に笑うマルヤが両手を前にかざし、
「いくわよ! 『緊縛の鎖』!」
と叫ぶと、次の瞬間、ヴェルカノンの体が幾重もの鎖に絡め取られた。
「――――⁉︎」
初めて目にする神の権能に、僕は言葉を失う。
これまで天界に来てから、瞬間移動などの超常体験はしてきたが、実際にまるで魔法の様な技を見せられた事は、あまりに衝撃的だった。
「どうよ。いざとなれば、戦神はこの鎖には逆らえない。身の程を知ったなら、おとなしくアタシに従いなさい」
鎖の端を握り勝ち誇ったマルヤが、ヴェルカノンへ通告する。
マルヤの言葉によれば、戦神であるヴェルカノンは、この鎖には抵抗できない――はずであったが、
「フフフッ、フフフフフッ」
勝負あったかという展開の中で漆黒の戦女神は、それでも挑発的な態度を崩さなかった。
「なによ……なんなのよ⁉︎」
予想外の流れに、強気のマルヤもさすがに警戒の色をにじませる。
その時、直感で僕は思った。マルヤではヴェルカノンに勝てない、と。
悪い予感は証明される。
「アッハッハッハッハッ!」
ひときわ高く上がった嘲笑と、破裂音。
それはヴェルカノンが、自身を拘束する鎖を気合一閃、バラバラに断ち切る音だった。
「嘘……どうして……」
「さあ、どうして差し上げましょうか?」
恐怖に顔を歪め後ずさるマルヤに、薄笑いを浮かべたヴェルカノンが足を進める。
(まさか、マルヤを攻撃する気なのか⁉︎)
慌てた僕は無意識のまま飛び出し、マルヤを守る様に、その前に立ちはだかる。そして我に返り、心で叫ぶ。
(またやってしまった。いつも僕はこうだ!)
無抵抗主義でマルヤにも言われ放題だったのに、そのくせ彼女が危機に陥るや、自分の身も考えず、それを救おうと動いてしまった。
人間のケンカとは違う。相手は神だ。こんな事をして、ただで済む訳がない。
実際それで命まで失っているのに、それでもまだ僕は懲りていないのか。
迂闊すぎる自分に、そんな苦言を呈し続ける。
だが、そんな葛藤も一瞬で消し飛んでしまった。
なぜなら、マルヤの前に出たおかげで、真正面から相対する形となったヴェルカノンが――ようやく僕を見てくれたのだから。
好戦的な視線はそのままだったが、僕にはそれがひどく扇情的なものに思えた。
そして僕は、そこから彼女のメッセージを読み取る。それはきっと、僕にしか分からない心の声だったに違いない。
(早く……きて……)
確かに聞こえた。ヴェルカノンは、あの時と同じ被虐という恍惚に溺れたがっている。僕という存在に支配を受けたがっている。
同時にまた、僕の心に思いもよらぬ感情が湧き上がってくる。
――ふざけるな、この女! 僕を惑わせたつもりか!
次の瞬間、僕の両手は前に突き出され、そして叫んでいた。
「緊縛の鎖!」
淫靡な情念が乱れ咲いた様な、真っ赤な鎖。
僕の手から放たれたそれが、まるで生き物のごとく蠢きながら、ヴェルカノンの五体を乱暴に縛り上げていく。
続けて口から出た、
「ヴェルカノン――跪け!」
という言葉と共に、手にした鎖を地面に向け引き絞る。
それに抗えず、ヴェルカノンが無様に膝をついた。
まったく意図しない無意識の流れ――だが、僕はこれまでに経験した事のない激情に興奮し、生まれて初めて他人を屈服させた悦びに心を躍らせていた。