02『転生』
誰でも、心の中に激情を持っている。
それを表に出すか出さないかは、本人の性格や状況、そしてそれが発露する原因の程度にもよる。
でも、少なくとも僕――木戸聖佳という男は、そういった激情とは無縁の存在だった。
名前も分からないまま赤ん坊の頃に、孤児院も運営するお寺の前に捨てられ、そこで『清い生き方』というものを教えられながら育ったせいもあるだろう。
ちなみに聖佳という名前は、僕の父親代わりになってくれた住職が付けてくれたものだ。
――佳い聖(僧侶)になります様に。
そんな願いを込めたかどうかは聞いた事がなかったが、まるでお坊さんみたいな名前は、正直好きではなかった。
憎まず、恨まず、危害を加えず。救い、敬い、我が身を差し出す。
まるで無抵抗主義者の様な人生を送っていた僕は、自然、人が傷付く事に敏感になった。
困っている人がいれば進んで助けたし、ケンカがあればそれを止めるために、我が身を顧みずその場に飛び込んだ事もあった。
だから僕の立ち位置は、当然いつも被害者側だったが――それでいて客観的だった僕の目は、実は加害者側に向いていたのかもしれない。
激情に身をまかせ、罵り、殴り、奪い、相手を屈服させる。
そういった激情に、僕は憧れていたのかもしれない。
そして、それを生まれて初めて表に出した僕は――死んだ。
暴漢に襲われていた、ヴェルカノンという女を助けたせいだが、斬り裂かれ殺されたショックよりも、まず僕の記憶に鮮烈に残っているのは彼女の『脚』だった。
ヴェルカノンが、暴漢に繰り出した『蹴り』。
それを倒れながら見上げる僕の目に映ったのは、めくれ上がった妖精の様な黒いミニスカートの中に見えた、黒いタイツと下着との間に見えた艶やかな肌色だった。
一度意識を失う前のわずか数秒の出来事だったが、その奥に見えた引き締まった臀部のふくらみも含め、僕はそれに心をときめかせた。
それも激情といえば激情だったのだろう。
別に禁欲的な生活を強いられていた訳ではないので、世間一般の普通の十八歳男子なりの性欲は持っていたが、それでもあそこまでの『情欲』といってもいい程の感情を奮い起こされた事には、自分でも驚いている。
それから――
と、死んだくせに、あれこれ考え続けていた僕は、突然、目を覚ました事で思考を中断させられる。
(――――⁉︎)
視界に入ってきたのは、空気が綺麗な世界。
それはおかしな表現なのかもしれないが、でも本当に目に見える大気が『澄みきっている』といった印象で、体が五体満足に戻っている事も合わせて、
(ああ、これが天国というものか)
と、僕は思った。
それを裏付ける様に、周囲の建築物はみんな幻想的で、まるで神様が出てきそうだったが――
ほんとに出てくると、やはり驚くものである。
「ショーカ……木戸聖佳ですね」
「えっ……?」
突然、目の前に現れた老婦人。
気が付けば、外にいたはずの僕は、荘厳な雰囲気の室内にたたずんでいた。
(――――⁉︎⁉︎⁉︎)
「今回の事は、私たちにとっても痛恨事でした」
呆然とする僕に構わず、穏やかな表情で語りかけてくるその人が――神様だった。
私『たち』と言っただけに、いつの間にか僕の左右には老若男女が居並んでおり、再び驚く暇もなく、まるで僕は裁判にかけられる様な形となる。
「ショーカ……あなたは私たち神の裁きの遂行中に、それに巻き込まれ命を落としました」
自分を神と名乗る老婦人の言葉は、すぐには理解できなかった。
まあ当然だ。理解するには、事態があまりに突然すぎる。
だが、その辺は察してくれているのか、
「いいですかショーカ、神は存在しています。そして日々、私たちが創った数多の下界……あなたが認識する所の『世界』というものが平穏、かつ正しい成長を遂げるため、管理監督しています」
老婦人は妙に説得力のある丁寧な言い回しで、神の世界について説明してくれた。
それから、
「此度は、あなたが生きる地球という世界に、あろうことか私たち神の一族……『戦神』が脱走するという事態が起こり、その討伐中にあなたが巻き込まれてしまったのです」
と、僕に降りかかった災難の『原因』についても言及してくれた。
神の存在、そして下界という表現のおかげか、一神教、多神教、神と仏などの定義はさておき、寺という環境で育った僕には、おぼろげながら自分が置かれた状況の全体像が掴めてきた。
だが、なにより気になったのは、『戦神』という言葉だ。
それが、あのヴェルカノンという女の事を指しているのか、僕の興味はそこに集中する。
もしそうなら、彼女は討伐対象だったという事になる。
だから彼女は襲われ殴られ続けていたのかと、話の辻褄に納得した僕だったが、
(嫌だ――)
発露した歪な激情は、あらぬ方向に向かっていく。
何が嫌なのか――それは、ヴェルカノンという女を失う事だ。
血まみれの僕が最期に発した、
――君は僕のものだ。
という声にならない断末魔の叫び。
それに、
――はい、ご主人様。
と、僕を胸に抱きながら答えてくれた、ヴェルカノンの潤んだ瞳が頭に思い浮かぶ。
あの時、被虐的な奴隷を支配した様な高揚感に、精神の快楽を覚えてしまった僕は、『所有者』として彼女が討伐される事が許せないと思ってしまったのだ。
冷静に考えれば、神に向かって不遜極まりない。
そんな感情を、もう少しで口に出してしまいそうだったが、
「では、ショーカ――」
老婦人の神が発した一言で、僕の人生は一変してしまう。
「あなたを……天使として転生させる事にします」