01『終わりの始まり』+表紙イラスト
その綺麗な女は――一方的に殴られ続けていた。
両の頬を腫らし、時にはパンチだけでなく蹴りも食らい、それでも倒れる事なく立ち続ける美女の姿。
それはある意味、理解しがたい光景だった。
見晴らしのよい公園は、逃げようと思えば全方向に逃げる事ができたし、深夜とはいえ声を上げれば誰かに届かなくても、相手に危機感を抱かせる事はできただろう。
だが彼女は、一切の抵抗というものを見せる素振りがなかったのだ。
それどころか、むしろこの状況を望んでいるかの様に、あえて大木を背に自ら退路を断っていた。少なくとも僕にはそう見えた。
そして、その頬にまた拳が打ち込まれる。
殴られる度に宙に踊る、長い黒髪。
それがスラリと伸びた手足と共に、彼女の長身をより際立たせていた。
――暴漢とその被害者?
それにしては、状況がおかしかった。
彼女の黒ずくめの妖精みたいな衣装とか、殴打の数の割には容姿が崩れていなかった点とか、そういった『この世界の常識』との矛盾点もあったが、それが気にならなくなるほどの『異常』がそこにはあった。
異常――そう、彼女は異常だった。
なぜなら、彼女は殴られながら笑っていたのだ。
でも、その異常は僕も同じだった。
右に殴られ、左に蹴られる度に、恍惚の笑みを浮かべる黒髪の美女。
そんな彼女を、たまらなく美しいと思ってしまったのだから。
むしろ僕は、さらに彼女が殴られればいいとも思っていた。
歪む彼女の笑顔を、もっと見たい。
できれば僕が、彼女を苛んでやりたいと。
こういうのをサディズムというのだろうか。
そんな、これまで体験した事のない感覚におののく余裕もないほど、僕の心は彼女に夢中になっていた。
深夜に、たまたま通りかかった近所の公園。
うっすらと聞こえてきた打撃音に吸い寄せられ、中に入るとその光景があった。
もちろん加害者の存在もあったのだろうが、それも目に入らないほど、僕は一瞬で彼女に魅入られてしまった。
周囲からは別の女の喚き声も聞こえていたが、それが何を言っているのかは、やはり耳に入らなかった。
この凄惨な光景に悲鳴を上げているのか、はたまた状況を傍観し続けている僕を非難しているのか。
正直、そんな事はどうでもよかった。僕の神経は彼女という存在だけに集中し、彼女以外のすべてを排除していたのだから。
でも、「じゃあ、そろそろ終わりにしてやろうか」という、加害者らしき男の声だけは、鮮明に耳に入ってきた。
続けて目に飛び込んできたのは、刃渡り一メートルはあろうかという大鎌。
それが、グロッキー状態の彼女に向けて振り下ろされた瞬間、
「ダメだ!」
と、僕は叫んでいた。
――何がダメなのか。
常識で考えれば、彼女への殺害行為に対してだろう。
だが僕の心の叫びは、まったく違うものだった。
(ダメだ! 彼女を苛んでいいのは僕だけだ。彼女は――僕のものだ!)
いったい、なんの権利があってそう思ったのだろう。もう異常さえ通り越している。
そして次の瞬間、僕の脳裏に映像が飛び込んでくる。
それは戦場。しかも、ここではない遠い世界――異世界で彼女を傅かせる自分の姿がそこにはあった。
(なんだ……これは?)
そう思いながらも、危機が迫る彼女に向けて、がむしゃらに走り出す。
同時に、「その程度ですか――」という、加害者の男に向けた彼女の声も聞こえてきた。
「やはりあなたでは……私に『絶望』を与える事はできない」
その嘲笑と侮蔑と怒りが混じった声が、これほど殴り続けられていながら――彼女がまだ物足りないと思っている事を、なぜか僕の心は的確に見抜いていた。
(僕なら……僕なら、君を満たしてみせる!)
心の叫びと共に、吹き上がる鮮血。
それは彼女の前に立ちはだかる様に飛び込んだ、僕の体から出たものだった。
どうやら僕は、鎌によって背中を肩口から袈裟斬りにされたらしい。
痛みは感じなかった。それほど鮮やかな一刀だったのだろう。
そして、明らかな致命傷を受けながらも、僕の心は、彼女を守れた事に――いや、彼女への新たな加虐を他人に許さなかった事に満たされていた。
そのまま僕は仰向けに倒れていく。
視界に広がるのは一面の夜空――そこに一筋の閃光が走っていく。
崩れ落ちる僕の上に伸びる艶かしい足、ふくらはぎ、太もも。
閃光の正体は、彼女が繰り出した蹴りだった。
いったい傷だらけの彼女のどこに、まだそんな力が残っていたのだろうか。
(綺麗だ……)
その肢体に釘付けになったまま、僕は意識を失った。
それから少し後、
「ヴェルカノン、何をしているの⁉︎ 追いなさい! ヴェルカノン――」
という、やかましい女の声で僕は目を覚ます。
(僕はまだ……生きている?)
それより驚いたのは、目の前に彼女の顔があった事だ。
もはや身動きひとつできない僕を、地に跪いた彼女が、まるで聖母の様に胸に抱いている。
僕はその事に興奮した。自分の命という、常識で考えればもっとも優先すべき事も忘れてしまうほどに。
細い顔立ち、憂いを帯びた切れ長の目、薄い唇。やはり彼女は美しかった。
それに触れたくて、血まみれの手を伸ばす。
でも、もう力を失った僕の手は、ただ虚空にもがくだけだった。
それでも僕は諦めなかった。
手が届かないなら、目で彼女を掴んでやろうと、残った命の炎をすべて視線に宿らせる。
その目はきっと旺盛に貪欲に、下卑た支配欲に満ちていた事だろう。
近くではまだ、
「ヴェルカノン! ヴェルカノン――」
という、やかましい女の声が続いている。そのおかげで僕は、彼女がヴェルカノンという名前なのだろうと知る事ができた。
「ヴェルカノン……君は……僕の……ものだ」
声にならない叫び。
だが、ヴェルカノンという女は、僕の唇の動きからそれを読み解くと、
「はい、ご主人様」
と――聖母から淫婦に変貌した様な――被虐的な恍惚に震える目で、はっきりとそう答えてくれた。
最後の最後まで、なにもかもが狂っている。
でも、それが無性に嬉しかった。
加虐と支配の喜び――それが僕の『人間』としての、最後の意識だった。
こうして僕の――地球という世界に生まれた、木戸聖佳という人間の十八年の人生は、『異常』の中であっけなく終わりを迎える。
だが同時に――
これが戦女神ヴェルカノンと僕との、『終わりの始まり』だった。