開けて。
ベタ過ぎとか言わないで
ある日のこと。
その日は用事が遅くまで延びてしまっていたので、急いで自宅へ向かっていた。
玄関前に着く頃にはすっかり辺りは暗くなっており、虫の鳴き声が僅かに聞こえるだけの、静かで不気味な雰囲気を漂わせていた。
鞄から鍵を取り出し、鍵穴に挿したあたりで、一瞬首元にふわっと生暖かい風が通り過ぎた。私は前日にテレビ番組のホラー特集を食い入るように観ていて、帰り道も暗闇に若干ビビりながら走っていた。
脳裏に嫌な想像が浮かんだので、慌てて鍵を開けて扉を開き、すぐさま扉を閉めて鍵を掛けた。
リビングに入ると、そこには誰もいない。時間は午後九時を過ぎた頃だというのに、家には空虚な空間が広がっていた。
先程の出来事もあったので、誰かに電話を掛けて安心したい一心であったが、流石にいい歳してそれは恥ずかしいと思い、リビングの電気を点けて、テレビのバラエティ番組を大音量で流し、怖さを誤魔化した。
そうして十分ほど経った頃、突然チャイムのピンポーンという機械音が鳴り響いた。私はソファから立ち上がり、チャイムのモニターを覗いた。
そこにいたのは母親だった。片手にはビニール袋をぶら下げている。どうやら私はタイミング悪く、母親の買い出しの途中に帰ってきてしまったようだ。
私は通話ボタンを押そうとしたが、ふと、あることに気付く。
私の家族は基本的に、自分用の鍵を持ち歩いている。
常に誰かが家にいるということがそこまで多くないため、全員大抵の場合は自分の鍵を使って家に入ってくる。なのに、なぜ母親は私や父が帰ってきていることを前提に、鍵を使わず、チャイムを押している?
いや、これは考えすぎだ。常識的に考えて、これもチャイムの正しい使い方であり、母は鍵を忘れてしまっただけかもしれない。何一つとして警戒する必要は無い。ただ神経質になってしまっているだけなのだ。
しかし、その時の私に、そのモニターの通話ボタンを押す勇気は無かった。開けてはいけない、という自己防衛の精神が、その何でもないボタンを押すのを全力で阻止していた。
無機質なチャイムの音は止まらない。ピンポン、ピンポンと、いつまで経っても手を止めようとしなかった。
やがて、チャイムの音はピタリと止まった。モニターからは人影が消え、真っ暗な道路のアスファルトが広がっている。恐らく誰もいないと諦めてくれたのだろう。もし本当に母だったとしても、いずれ帰ってくる父が開けてくれるだろうと、自分の臆病な心を正当化した。
しかし今度は、窓をコンコンと叩く音が聞こえ始めた。
硬くも柔らかくもない音。人が手を使ってノックしている音だ。
コンコン、コンコンと、先程のチャイムと同じように叩き続ける。
最初は怖がっていたが、段々と恐怖よりも、苛立ちの方が湧き出てきた。身勝手なのは分かっている。だが、いつまでも鳴り止まない音というのは不思議と苛立ちが生まれるものだ。
私は窓を覆っていたカーテンを開けようと手をかける。モニターに映っていたのは紛れもない母の姿。直に見れば本物だと確信できる。それで万事解決だ。
だが、またしても私の手を止める事が起こる。
私の家には猫がいる。私が小学生の頃から飼っている、今や年老いた穏やかな猫だ。
その猫が、カーテンをすり抜けて窓を見つめる。
そして、フーっと、激しく呻りだしたのだ。
まだ小さい頃は、家に来た見知らぬ人や、外を歩く野良猫によく威嚇したものだが、現在はそういうことは殆どしない。五月蝿い掃除機を向けられた時くらいなものだ。
だが、なぜ今日に限って、それも外にいる母に向かって呻ってる?
外にいるのは、一体何だ?
そう考え始めた時、私の手はカーテンから離れていた。
思い込みは簡単に拭うことは出来ず、私は窓からもチャイムからも離れた、ソファの上で毛布を被ってずっと震えていた。
コンコン。コンコン。音は鳴り止まない。
コンコン。コンコン。まだ鳴り止む気配はない。
そうしているうちに、私は今日の疲れもあってか、眠りについてしまった。
コンコン。コンコン。コンコン。
ドン。
*
目が覚めたのはそれから1時間後。布団から顔を上げると、母がビニール袋の中身を片付けていた。
「全く、いるならチャイム出てよ」
開口一番にそう言った。
「あんたがチャイムに出ないもんだから、お父さんが帰ってくるまでずっと玄関前で待ってたわよ」
改めて聞けば、結局鍵を忘れていただけだったという。
つまり、全部自分の思い込みだったわけだ。まあ大体、母に化けた幽霊なんてベタな話があるわけがないだろ。
お化けなんて信じる年齢でもないし、信じてもいなかったのに、ちょっと心霊番組に影響されただけで、ちょっと風に当たっただけで怖がってしまった。
本当に馬鹿馬鹿しいことだったよ。
明日も早い。遅くなった晩御飯をかき込み、さっさと布団に入って瞼を閉じた。
……ふと気付いたことだが。
母はチャイムを押した後、ずっと玄関前で待っていたと言っていた。
だが、私は電気を点けたまま、大音量でテレビを流していた。
玄関辺りからは閉め切った部屋の音は聞き取りづらく、窓の明かりも見えにくい構造となっているのだが、窓を覗けば誰かがいることくらい容易に分かる。なのに、母はいないと思っていたと断言した。
つまり、あの時窓には誰も行っていないことになる。
あの時窓をノックしていたのは、誰だったのだろう。
あの時カーテンを開いていたら、一体どうなっていたのだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
怖い話書くのって難しいですね。