1.5
羅愛は校門を抜けて外に出た。
七竅高校から十分ほど歩き、市の中央を縦断している儵忽線に七竅駅で乗り、視上駅で下車、そこから五分ほど歩いたところに、視上クリニックがある。三階建ての建物で、二階までが医院で、三階が医院の経営者の自宅となっている。外からクリニックを観望するに、誰も患者が来ないので、出掛けてしまったようだ。医院の経営者である幻エリならやりかねないと思いながら、建物脇についている階段を上り始めた。三階には階段で外から直接行くことができ、辿り着くと、渡されている合鍵をドアに差し込んで回した。
無精髭を生やして、髪が乱れて、垢抜けない雰囲気の三十代後半の男性が、部屋をばたばたと行ったり来たりしている。何かを探しているようだ。羅愛の帰宅に気づいた男性は立ち止まって、ニコッと微笑んだ。小綺麗にすればよくも見えるのだろうが、これでは恐怖を感じさせる微笑みでしかない。
「やぁ、羅愛くん、おかえり」
「先生、今度は何を?」
「いやぁ、ガラテア、どこに置いたかなーって色んなダンボール探していたらこんななっちゃって……ははっ……」
ガラテアとは、先生と呼ばれている、日木頭花が愛してやまないクマのぬいぐるみのことである。ギリシャ神話に登場するピグマリオンという青年が自分の理想形として彫像した女性、ガラテアの名からとっているそうだ。
「おっ!やっと見つけた!」
ダンボールの奥から姿を現した、クマのぬいぐるみ。年季が入っており、所々に糸のほつれもみられるが、状態はとても良い。焦げ茶色のもふもふとした毛。半円の耳。体の五分の二を占めるずんぐりとした頭。中央に寄った黒い目。首に結ばれている赤いリボン。羅愛は普通に可愛いと思ったが、先生がガラテアという名前を付けてくれたせいで、嫌悪感しかない。
「ごめんよ、私が忘れっぽいばかりにぞんざいに扱ってしまって。数日間離れ離れになってて寂しかったろう。これからはちゃんと一緒にいられるからな……」
先生は、ノーベル賞候補とまで目された物理学者の権威で、彼の業績は計り知れない。百年に一人の天才と数年前は言われていたそうだ。
「そういえば、学校初日はどうだったかい?」
ガラテアとのスキンシップを終えて満足した花は自室として割り当てられている物置の部屋にガラテアを置いてくると、居間に戻って来た。羅愛は鞄を置いて、疲れからか、ソファに身を投げていた。顔を伏せたまま曇った声で答える。
「どうも。一人、妙に絡んでくる生徒がいたので余計なお世話と言ったぐらい?」
「相変わらず、行く先々で辛辣なセリフを言っちゃうね……。僕は慣れているけど、初対面の人だと、引いちゃうんじゃないかな」
「正直、私は先生の嗜好に引くわ」
「ははっ、ヤドクガエルの毒を塗った矢をお見舞いされた気分だよ」
「人はなぜ、そんなにも人と関わりたがるのか、私には理解できない」
「等しく孤独を嫌うからじゃないか?群れるのは人の性だとよく言うし」
「でも、私のように孤独を愛する人もいるわ。一般論を言うなら、私にでも当てはまるような一般論がいいわね」
「無理難題を突きつけるね………。まぁ、思いつく限りで。人は、人と関わることで、自分の価値を高めようとしている。人は一応社会性を有する動物だ。ということは、一人でない以上、社会での自分の立ち位置というのを気にする必要がある。それが社会で生きて行くということだ。しかし、立ち位置というのは、社会においては、その人の価値、有用性といったものに直結する。もし、価値が認められないなら、人間にとっては死も同然だ。完全に、自分一人しかいない環境で暮らせば、そんなことを気にする必要もないだろうが、それがない以上、価値というのは人生における中心課題にならざるを得ない。しかし、価値を自分で創出するというのは多くの人にはハードルの高い行為になる。そこで、価値を創出する一番効率的な方法こそ、他人と関係を築くことだと言えるだろう。他人と関わりを持つことで、他人の認識を占有し、結果、価値をあげているのかもしれない。価値というのは、他人が認識し、評価してこそ、ようやく生まれるものだから」
「面白くない世ね。価値なんて人間の勝手な創造物であって、何処にも根拠なんてありはしないのに」
「しかし、それをせずに人生に意味を見出すことが出来ないんだよ」
「自分自身の力で空っぽを満たすことを怠っているだけ……。やはり、私には理解しがたいわ」
花は、一瞬口を噤んだ。理解しがたいという言葉に、不安を覚えた。
羅愛は静寂を掻き消すように、備え付けられていたテレビをつけた。すると、そこには息を切らしたリポーターがヘリコプターに乗りながら、現場の実況を行っている。
「こちら東京都七竅駅上空です。突如としてデミウルゴスが出現し現場は火の海と化しています」
映っている黒い化け物。その強靱な顎を全開にし、周囲のビルを粉々に破砕する。戦闘車が必死に応戦しているが、一切のダメージを受けていない。すると、突如に何処からともなく瓦礫が飛来し、それは徐々に映像の視点に近づいて行き、ゼロ距離になると爆発音と共に、テレビの画面は真っ暗になった。直ぐに放送局の方に映像が移された。
「これは……カードの………」
花は羅愛を省みた。ベランダに通じる窓が開き、カーテンがはためいていた。