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Deeper than well  作者: 水素
第1章 妄念
33/42

6

 三歳の誕生日に母から貰ったプレゼントはタイニーハープだった。

 おもちゃみたいに遊んでいて、ハープの優しい音色の虜になった。お母さんはそんな私にハープ用の楽譜を与え、読み方を教えた。私は言われるがままに読んで練習をした。ミスなく弾くと、お母さんはやりすぎと思うぐらいに褒めてくれた。でも、その時はまだ私は子供だった。お母さんに認められたい、もっと褒められたい。そんな単純な動機がハープへの練習をのめり込ませ、やがては自分を魅了する存在へと発展した。

 好きという気持ちは人に彩りを与える。小さな頃の私は、客観的に見ても本当に生き生きしていたと思う。毎日が本当に楽しかった。朝から晩までハープの練習に打ち込んで、それは大変な労苦だったが、その分の喜びがやってきて、飽きずに続けていつの間に全国大会で優勝するほどの腕前になっていた。それが十歳の頃だった。


§

「ねぇ、ゆかり、一緒にご飯食べよ?」

「あ、うん……。ごめんね?先生に呼ばれてて……」

「わかった………、ねぇ、あおい、ご飯一緒に食べない?」

「五限提出の宿題、まだやってなくて……。今度ね?」

「………………………………」

 なぜ、私は懲りずに断るとわかっている相手に対して、いつもご飯を一緒に食べようなどと言っているのだろう。明日も私は言うだろう。そして同じようにはぐらかされることはわかっている。いずれ、「うざい」と言われるのだろうか。中途半端な優しさを彼らが持っているせいか、言われない気もする。私は何かしたのだろうか。心当たりがないだけで、私は彼らを傷つけたかもしれない。どうして、いつも一人なのかわからない。

 放課後に、廊下を歩いていると、ひそひそと女子たちが教室で話す声が聞こえた。

「ねぇ、剛理さんって何考えてんだろうね?」

「毎日、懲りずに一緒に食べよ、だなんて、馬鹿みたい」

「なんか、彼女、嫌なのよね。雰囲気からして」

「わかる〜」

「自分、賢いです、みたいなアピール、なんかオーラだしてるよね」

「ハープやってるって言ってたけど、あれもね?」

「ハープやってるから何?ってかんじだよね」

「どうでもいい」

 私はそのままハープ教室の方に足を運んだ。そこでも私のことについて話が交わされていた。

「何で彼女が優勝するのかしらね。ほとんど練習もせずに、澄ました感じで出来ますみたいな」

「偉そうだよね」

「私たちの方が練習してるのに、彼女ばっか周りからちやほやされて……」

 その日、私はハープ教室を休んだ。


§

「ねぇ、あなた、最近舞依がハープをやらなくなっちゃって……」

「まぁ、あいつがやりたくなったらやるだろう。そんなに俺たちが言って聞かせるようなことでもない」

「でも、ハープなんか一日でも触らないと手が鈍る楽器なのよ。このまま続いてハープを弾かなくなると思ったら……」

「お前、いくら自分がハープ奏者になりたい夢があったからって強制してもお前にもあいつにもいいことはないぞ」

「そんなんじゃないわよ。ただね、ハープを弾いてほしいってだけよ。そうすれば、舞依にとっても良いのよ」

「良いか悪いかは自分で判断できる年頃だろう。舞依も今年で十五だ。ここまで立派に成長してくれて、父としては嬉しいさ」

「立派なんかじゃありませんよ。まだ舞依は自分で何も決めることは出来ませんよ。私が見てあげないと。むしろあなたは心配じゃないのですか?」

「心配だが、心配しすぎるのも気負いさせるみたいで悪いさ。子供の頃は私たち親が面倒見てあげなきゃいけなかっただろうが、もう舞依は子供ではない。まぁ、舞依が笑ってくれていたら嬉しいさ」

「まだまだ子供ですよ。今月だって三回も教室を休んだと先生から連絡がありましたし。どこで何をしているのやら…………」


§

 夕暮れの太陽は何だか綺麗で、丘の上から見ればその美しさはとびきりのものになる。

「もうレッスン、始まってるな………」

 遠くの空でカラスがネバーモアと叫んでいるような気がした。


§

 真っ暗な部屋。倒れているハープ。どうして私は仲間外れにされなくてはならないのだろうか。ずっと努力してきたし、人と関わりたいと思った。でも、周りは私のいないところで陰口を叩く。幻聴が聞こえる。罵声、罵詈雑言。数多の悪口が耳を通過し、脳内に停留する。ハープは私の魂そのものだったはずだ。大好きなものだ。でも、自分の大好きが人の大好きとは限らない。相手が受け入れてくれるとは限らない。自分の「好き」は人との大きな壁を作っていた。それはもう、私自身がいらないと否定されているようなものだった。

「いるの?返事しなさい?」

 お母さんが部屋のノブに手を掛け、ドアを開けた。暗闇に伸びる光線。次に部屋の照明が灯った。開けないで、と叫びたかったが、そんなやる気もなかった。私はベッドでうずくまっている事しかできなかった。

「舞依、って何してるの!」

 床に転がっているハープを見て、悲鳴を上げた。

「何でハープを倒しているの!?」

 悲鳴が徐々に怒声に変わっていく。

「壊れたらどうするつもり?何度も言ってるでしょ!楽器は丁寧に扱いなさいって。ハープの教室も無断で休むなんて。聞いたわ。今までも何度も休んでたことあったって。その時は法事と言ったそうね。びっくりしたわ。二度とこんなことしないって約束しなさい」

 私が消沈していることよりも、楽器の方に母の関心は向かっていた。楽器、ハープ。全ての元凶。そんなものがなければ私は人から除け者にされることもなかったんだ。母はそんな元凶を庇い、私を咎める。私は何も悪くないはずなのに。心がガンガゼのように尖っていく。棘の先からは毒を分泌し、周囲を傷つけることなど容易い。

 気づいた時には家中に響き渡るぐらいの声で怒鳴っていた。 

「ふざけないでっ!」

 母は突然の出来事に茫然自失していた。

「何で、そんなにハープをやらせたいのよ!ねぇ!ハープなんてもうやりたくない!」

「舞依にとってハープをやるってことは意味があるのよ。舞依には才能があるのよ。こんなところで終わりにして良いの?」

「私にとってじゃなくて、意味があるのはお母さんにとってでしょ?私、知ってるんだよ。お母さんが昔、ハープ奏者になろうとしたけど才能なくて諦めたこと、どうせ私にその夢を代わりに叶えてほしいだけでしょ!私はお母さんの言いなりなの?道具なのっ?今でも音楽が諦めきれなくて教師やってるなんて、未練がましいってありゃしない!私にだって気持ちがあるの!やりたくないの!苦しいだけで、馬鹿にされて、もう耐えられないの!」

 母は私の怒鳴り声に気圧されたのか、何も言わずに電気を消すとドアを閉め部屋を後にした。

 私は、暗闇の中で啜り泣いた。


§

「はい、写真を撮りますよ!」

 高校の入学式にて、近くにいた方に頼んで、家族三人で校門の前で写真を撮った。

「ほら、笑って、笑って」

 撮影者はまるで自分のことの様に元気な様子で言っている。

「舞依もせっかくなんだから笑ってよ、ね?」

 母が言う。笑う気になど到底なれなかった。昨日もハープ教室では私の悪口が飛び交っていた。私のいないところで。

「はい、チーズ」

 私は笑わなかった。両親は笑っているのに、私は笑わなかった。笑えなかった。


§

 目が覚めた。重い瞼はあいているのに、意識がよそに飛んでしまっていた。不思議だ。腕の感覚が麻酔でもかけられたかの様に皆無だ。点滴が身体に繋がれているのには気づいたが、どうして感覚がないのかわからずにいた。身体を起こすと、その理由がはっきりとした。大して驚かなかった。肘から先がなくなっていた。

 それで全てを思い出した。

 高校に通う途中で黒い霧が突然発生した。周囲の人々を飲み込み、一瞬のうちに殺していく。黒い霧の中から巨大な怪物。口から熱線を吐き、住宅街を吹き飛ばす。父がまだ家に残っていた。私は黒い霧の中を走った。先が見えないけれど走った。跡形もなかった。怪物は前進し、家を蹴り飛ばした。瓦礫が宙を舞い、落下。私はその下敷きになったのだ。

 あるはずの手がなくなったことに感極まった。もうハープを弾かずに済む。二度と苦しめられずに済む。ハープから完全に解放され、これからは指図など受けずに自由に生きていける。たとえ母が何と言おうと、手がなければハープは弾けないのだ。これまでで最大の幸福を感じていたと思う。しかし、最大の幸福は僅かな期間で最大の不幸へと変わる。

 一時間も経たずに父が死亡し、母が東京で怪物に巻き込まれ意識不明の重体だと連絡が入った。母は修理に出していたハープとハープケースを受け取りに向かっていた。一週間ほどしてハープはケースと共に私の所に届けられた。まるで私たちの状況を皮肉っているかの様に無傷だった。

 自分の意思に反して身体はねじが抜けたかのようにぎこちない挙動を繰り返した。顔はずっと笑っていた。

 私だけが生き残った。そんな状況珍しくないのかもしれない。でも、この溢れ出てくる感情をどこにぶつけたら、どうすればいいのだろう。ただ、心に蓄積されていく。

 一ヶ月、病室のベッドから一歩も動かなかった。見舞いになど誰もこない。ずっと一人で。看護師にいくら外室したほうがいいと言われても無視した。もう自分から外に出たいとは思わなかった。

 徐々に、両手が呪いのように思えてきた。私の手はハープが弾ける私の象徴だった。同時に、母とのつながりの象徴でもあった。父は死に、母は意識不明。助かる見込みがほとんどない。手はハープとのつながりを断ち切ってくれたが、同時に母とのつながりも断ち切ってしまった。

 手がないことを感じるたびに思い出す。あの時に笑っていれば。あの時に母に八つ当たりみたいなことをしなければ。あの時にあんなことをしなければ、今、こんな気持ちにも、こんな状況にもならなかったかもしれない。勿論、私たちが巻き込まれた事と私の振る舞いに因果関係など存在しない。でも、私はそれが頭では理解できても、納得はできなかった。ないはずの腕が痛みだす。医者からは幻肢痛だと説明を受けた。神経症の一種らしい。本当に、二度と楽器を弾けない身体になってしまったんだ。この事実は徐々に私の中で解釈を変えた。

 ハープは私の全てだった。きっかけはどうであれ、ハープをすることが楽しかった。今思えば好きを全力で、悪く言えば馬鹿みたいに一心不乱に続けることができたというのは幸せなことだったんだ。もう私にはそんな幸せが訪れない。もう二度と楽器が弾けない。二度と母に褒めてもらうことができなかった。


§

 ある時、初めての見舞いが訪れた。私の知らない人物だった。青地のスーツに、エメラルドグリーンのネクタイ。サラリーマンという印象は受けない。むしろ、研究者といった印象だ。花束と共に、その男は名刺を渡した。ヘブンズヘル研究主任結城豪久とある。

「この度はお父様のこと、大変お悔やみ申し上げます」

 どういう意図で私のところに来たのだろう……。

「お母様の容体も拝聴しております。大変、お気の毒です。そこで私からの提案なのですが、お母様の治療を我がヘブンズヘルに一任させていただけないでしょうか。現在、ヘブンズヘル系列の病院で最新鋭の治療技術が誕生しておりまして、少し時間は掛かりますが、その最初の治療者として、ぜひお母様に参加していただきたいと思いまして」

「治るんですか………」

「はい、確実に。さらに、もう一つ。あなたの腕、私たちが保証してあげましょう。貴方に完璧な義手を提供し、もう一度、演奏のステージに招待します。ですが、その為に貴方の協力が必要です。幾つか貴方に実験をすることになりますが、それほど痛いものではありません。それを承諾してくだされば、今述べた二つのお話は約束いたしましょう」

 私は神を信じていない。もし、神がいるのなら如何なる苦役も人々にもたらさなかっただろう。神が人々の幸福を願っているような清らかな存在ならば、怪物はなぜ現れて、厄災を与えたのか理解できない。しかし、この時、私は神を信じてもいいかもしれないと思った。罪を贖うチャンスをくれたと思った。母の治療費を払えるほどの余裕など私個人にはないし、もう一度、ハープを弾けば、母に対する示しがつくと思った。反対に、それでしか私は母に顔向けする方法が浮かばなかったのだ。


§

 この暗闇に囚われてから何日が過ぎたのだろうか。身体も四肢が拘束されたままずっと血液を抜かれ、身体を切り開かれ、電気を頭に流されたり、生体実験として思いつきそうな事は全て研究者たちが試した。これは実験ではなく、拷問の間違いではないだろうか。口答えをすれば頰を叩かれ、黙らされた。食事もとらせて貰えず、実験は続く。私にもその実験の概要は教えず、ただ命を削っていく。

 実験の間も麻酔を掛けてもらえないので痛みに耐えるしかない。これの実験の内のようだ。誰かが私に慈悲を掛けてくれるわけではないし、一人で全ての苦役に我慢する。究極の孤独を味わった。周りにいる人間は全員が敵であり、自分はもうどうする事もできない力に支配され、パペットのように操られ、弄られ、それを全て、一つの回答によって満足させる他なかった。

 母は今頃どうしているだろうか……………?


§

「初めまして、だな」

 汚物の塊のような形相をしている男が社長椅子に座って、ゴキブリのような眼をこちらに向けていた。

「鎧元徳だ。ヘブンズヘルの社長だ」

 私は結城に連れられ、デスク前に立たされた。

「お前が、剛理舞依か。お陰で義手の研究がより進んだ。感謝しよう」

 結城から私が研究所に入ってから一年が過ぎたことを聞かされた。その一年の間に義手が完成していた。今朝方、早速私の肘に取り付けられた。数日して身体に馴染んできた。

「どうだ?お前の手の様子は」

「自由に動かせますが、ハープが弾けるのか、一抹の不安があります」

「結構だな、俺としてはこっちの方が重要だ」

 鎧はデスクに置いてある代物に視線を落とした。

「これは…………?」

 デスクに置かれているのは白色の、みたこともない文字が書かれているカードだった。

「それはな、君のような特別な人間にしか使えない強力な代物だよ。手に取ってみたまえ」

 私は鎧元帥の言われるがままに手に取った。カードは突然に目が開けられないほどの光を放った。気づくとカードが手から消え、蛍の光のように、部屋中に光の点が満ちる。それらは私の身体に吸収されていく。鎧元帥は、吐き気を催すほどの不敵な笑みを浮かべていた。

「な、何………?」

 全身が熱くなっていく。同時に、身体に残っていた傷が癒えていくようだ。

「これで能力者の確認は五号目になりますね」

 結城が眼鏡を押し上げながら言った。

「はは、最高だよ」


§

 義手で触れた初めてのハープ。まだ一年しか経っていないはずなのに、十年ぐらいは触っていなかった気分だ。それこそ、手がなくなるまでは毎日、一日も欠かさずにハープに触っていた。たとえハープが嫌いと口では言っていても心はそうではなかったのかもしれないと、今なら冷静に考えることができた。一年のブランクを取り戻すのは、素手で殺人鬼を捕まえようとすることぐらいに難しいことだ。でも、これは目標ではなく、義務だった。ヘブンズヘルが私にハープ奏者として復帰してもらう事を望んでいたのだった。たとえ、どんなに無理なことでも強制ならやらなければならない。そうでなくては母は助からない。

 毎日、寝る間も削って必死に練習した。それこそ、義手が弦との摩擦で擦り切れて一週間に一組は駄目にしてしまうほどに。それを一年続けた。すでに一年死の瀬戸際を彷徨ったので、ハープの血の滲むような練習に辟易する事もなかった。慣れは恐ろしいものだ。

 そうして力試しに全国ハープコンテストに再び出場すると、グランプリを獲得した。あの時の勘を取り戻していた。

 しかし、私はそれで満足しなかった。充溢感に身を涵しては、以前のように容易く奈落に落ちてしまうような繋縛を覚えた。後悔を残すような生き方をすれば、自分にそのツケは回ってくる。現に自分は今、そのツケを払う毎日を過ごしているのだから。今の生活に終わりなどないことは目に見えていたし、一生奴隷のままかもしれない。けれども、後悔だけはしたくなかった。後悔しないように生きるのなら、どんなに汚れたことでもやろう。仮面でも被ろう。この身を犠牲にしよう。二度と、大切なものをこの手からこぼしてはならないという使命だ。だから、笑っていよう、と決した。


§

 撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、死ねば一発で地獄に落ちるぐらいに撃った先に…………。


「今日もお疲れ様でした!」

 専属スタッフ一同、互いに労いの言葉をかける。

「剛理舞依さんの演奏、今日もすごかったです!」

 新人のスタッフの女の子が私に声をかけてきた。

「ありがとう」

 屈託のない笑顔。笑顔は伝染して、女の子も嬉しそうに飛び跳ねている。

「では、私、ちょっと出かけてくるね?」

 周りにそう言い残し、舞台裏を後にする。後ろで私についての話し声がうっすらと聞き取れた。「ねぇ、先輩、いつも舞依さんってどこかに出かけますけどどこに行くんですかね?」「お前、剛理舞依のファンならそれぐらい知っとけよ。帽子を買いに行ったんだよ」

 ニューヨークの夜の街並みはネオンライトに満ちていて、その人工的な様は私自身の念願の夢に現実味を与えてくれていた。カーネギーホールを出た私は真紅のドレス姿のまま、エントランスにいた恰幅の良い七十代ぐらいの男性に接触した。

「おやおや、これは、今宵は素敵な演奏をありがとうございます」

 男性は、黒いパナマハットを取り、頭を下げた。

「いえ、私の方こそ、演奏を最後まで楽しんでいただけたなら光栄です。アンティ・オペウス上院議員」

「はは、こんなお綺麗な方にお名前を覚えていただけているとは大変嬉しい限りです」

「オペウスさんはアメリカでの黒い霧病の差別撤廃に尽力なさっているとか」

「はい。いや、個人的な話で恐縮ですが、私の孫が黒い霧の病で亡くなりましてね。まだ十歳でした。現状、黒い霧病に対する世間での認知があまりにも害意に満ちています。こんな老人ですが、これでも政治の世界ではそれなりに幅が効きます。アメリカで差別撤廃が実現されれば、世界的にも日本に続く事例になります。死んだ孫のためにも実現したいと思いましてね。私のささやかな夢です」

 オペウス議員は笑った。老人の皺が織りなす柔らかな形は心からの笑顔に見えた。万華鏡のような幻惑的な笑顔とは別の、同じ偏光の原理で輝いているものでも、構造色のタマムシのような嘘偽りのない、騙しのない輝きを放っていた。

 私には無理な話だった。これ以上の会話は妨げにしかならない。

「おや、どうなされましたか?」

「……………いえ」

 周りを見渡せば、沢山の来客で充ちていて、誰が何処にいるのかさえ、誰も確認など出来なかった。それこそ、殺しには絶好のシチュエーションだった。

 私は手に握っていたポーチからサプレッサー内蔵型の銃、Maxim9を取り出した。オペウス議員はそれを見て、予見していたかのように驚きもせず、悲しそうに俯いた。

「そうですか………。あなたが……………残酷なものですね………」

 微かな銃声も街の喧騒に掻き消された。私はその場から離れ、電話を掛けた。

「任務完了しました」

「御苦労。アルテ議員に恩を売れるな。彼は差別撤廃に関してオペウスと対立していた。しかし、アルテは医療方面に手広く力を持っている議員だから幸いだ。これでVICEのアメリカでの販促路も確保できる。次のコンサートでも引き続き任務を遂行しろ」

「了解です………」

 電話を切ると、私はそのまま舞台裏に戻った。

 スタッフたちがハープのトラックへの搬入を行っていた。

「あ、お帰りなさい、あれ、帽子を買ってこなかったんですか…?」

 スタッフの一人が手ぶらの私を見て、訝しそうに言った。

「あ、いや、今日はいい帽子がなくてね、ははっ」

 硝煙のような笑顔だった。帽子を買うことで、オペウス議員を自分が殺した人間の一人に入れたくなかった。


 撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、撃って、死ねば一発で地獄に落ちるぐらいに撃った先に…………私はいなかった。


§

「七竅市、ですか………?」

「そうだ」

 鎧は偉そうに言った。

「そこにタイプワンが潜伏しているという情報が入った。まんまと俺が流した情報の罠に嵌ってくれたわけだ」

「タイプワン……、それはっ……」

「ああ、お前と同じ、能力者だ」

 能力者という言葉の響きが私の心の中で反芻される。私と同じ、カードを操り、人間以上の存在である文字通りの化け物。しかもタイプワンは最初に確認された存在であり、化け物の中でも化け物と言われている。「殺戮の天使」などという異名も耳にしたことがある。

「残念ながら何処に潜伏しているかは未だ不明だ。そこで、七竅市を隈なく我々の方で調査をする。ちょうど最終試作が完成したFLASHを実験的に運用する予定だ。お前の能力ならデバイスは不要だろう。それを使って監視し、そいつを捕らえろ。しかし、今日からお前は日本ツアーだ。そちらの方を優先しろ」

 新幹線に乗っている最中、悶々とタイプワンの事を考えていた。同種の存在がいることは情報でわかっていたものの、いざ対面する事を考えると今までにない高揚と、同時に逡巡を覚えた。会ったこともない相手に期待し、嬉しくなる。未来への勝手な信奉だ。自分は彼女の敵として対峙するわけであり、友達とか、親しい関係をこれから築こうとしているわけではない。私の中の孤独が波打ち際のように揺れ動いていた。ギロチン台にでも立っている気分だ。

 コンサートは無事に終わり、博多駅に着いた頃だった。駅構内の電光板に最新のニュース映像が流れていた。

「えー、こちら東京都七竅市七竅駅上空です。突如としてデミウルゴスが出現し、現場は火の海と化しています」

 七竅市にデミウルゴスが?一体なぜ?

 そうした疑問の次に浮かんだのは、必ずタイプワンはやってくるという確信だった。

 私が七竅駅に到着した頃には既に戦闘は終わり、少し歩けば一人の少女が化学工場でぼろぼろになりながらもその場に立っていた。野獣のようにギラついた目、ゾンビのようにしぶとい精神、ドラゴンのように悍ましい息遣い。しかし、外見は単なる可憐な少女だ。黒髪ロングの、白皙の、整った容姿の女の子だ。私はその姿が実験時代の私に重なって見えた。私はこれから、あの子を監視し、捕えなければならない。そう、これは目標ではない、義務だ。必ずやり遂げなければ母は死ぬ。これは決意ではない。誓約だ。どんなに足掻こうと逃れることの出来ない鎖なのだ。私はそう自分を洗脳した。

 一歩、また一歩、私は影から近づいた。


§

 一度会った顔ならば、FLASHで捜索し潜伏先を見つけ出すことなど容易かった。七竅駅事件から三日が過ぎて、もう一度あの少女と、今度はカメラ越しに対面した。経歴を調べると、七竅高校に通う高校生ということ以外、情報がなかった。潜伏先は視上クリニックという小さな医院で、幻エリという女性が一人で経営していた。

 ある時、無精髭を生やした、人間なのかも怪しい身なりの男が通った。顔は帽子で隠れてよく見えなかった。すると、次の瞬間にカメラの映像が真っ暗になり、ノイズが遅れて到来し、こちらの応答を一切受け付けなくなった。焦っていても回復するわけでもなく、すぐさま連絡を入れた。しかし、連絡を終えた途端カメラが復旧し、視上クリニックと路地の映像が再び映し出された。そのFLASHは本社の方で回収し、念入りに点検が行われたが、特に異常は見られなかった。

 彼女の学校生活も監視し続けると、二人の男子生徒と良く話をする姿が目撃された。一人は八路見という、冴えない感じの、身長の低い青年でもう一人は流戸微という、金髪のヤンキーだった。二人の経歴も調べた。一人の方は、五年より前の記録が一切なかった。そもそも戸籍さえあったか怪しい。まるで、残火羅愛のような存在だ。もう一人は……。

 私の関心は彼に向けられた。


§

 FLASHで残火羅愛とは別に、独断で流戸微の監視を続けていたある日、私は彼を追って子桑公園に来ていた。自分でも、彼に対する関心は、残火羅愛に対して向けていた関心よりも強大なものになっていたことを驚きを持っていた。

 姉が黒い霧病で同じ人間から魔女狩りのように殺された事実に、一高校生は何を考え、生きているというのだろう。あの時の、本当に屈託のない笑顔を見せた老人の顔が浮かんだ。もし彼が生きていれば、彼の姉のような犠牲者を減らす努力をしてくれていたかもしれない。

 小さな子供が目の前を通った。手首には黒い腫瘍。子供は大学生に道を阻まれて、うずくまっていた。ああ、いつものあれか。

 大学生三人相手に子供の盾になる少年がいた。勇ましいことこの上ない。しかし、その顔を見て、考えが変わった。彼は何を思って立ち向かうというのだろう。強気な声とは裏腹に、彼の唇は震え、頰は引きつり、目が港に放置されている船のように揺蕩っている。ああ、プライドなのかもしれない。ほんの小さな誇りでも、それを守っていかないとこの世界では生きていけないんだ。周りは自分から様々な物を奪っていく。奪われても最後に残った誇りを守ろうとして、それが生きるってことなのだと信じて疑わない。

 私は、そんなくだらないプライドに加担したくなった。


§

 未来への勝手な信奉は、過去への妄執とほぼ同義だと思う。時間に囚われ、自分の存在を出来事に拘束される中で生きるという誓約であり、破棄不可能な書類だ。

 抗いたい。

 ほんの数日で芽生えた感情だが、これが永遠に続けばいいと思った。ロミオとジュリエットはたった六日間の物語だが、彼らの物語は、彼らの恋は永遠なものとなった。私の微への感情もそうであればいいと思った。

 私は、母の治療のために生きることで、昔の罪を清算していると思っていた。どんなに苦しくて絶望的な状況でも、心を殺し、これも全て自分の過去の清算なのだと納得した。だから心からの笑顔なんてしてはいけないと思ったし、そのための仮面だって作り上げた。それも、全て後悔しないためという自分のエゴだったのだ。二度と贖罪を背負いたくないという……。微はぶっきらぼうで、無愛想で、見た目通りのヤンキーだが、それでも話はちゃんと聞いてくれた。彼も私に何か、別の感情を寄せているかもしれない。過去を重ねているのかもしれない。それでも私には実質関係のないことだった。たとえ、本心で繋がっていなくても、仮面のある付き合いでも、それで自分が蓄えてきた重みが少しでも軽くなるのならそれでいい。


§

「笑ったって意味なんてないんだ。そうなんだ、意味なんて………」

 意味があろうがなかろうが、私には関係なかった。ただ、一瞬でも、刹那でも、一時でも心を軽くすることができるのなら、自分のエゴが作り上げてきた重みを軽くすることができるのなら何でもよかった。笑顔でいれば、仮面を密着させていれば、顔を上げていても表情は見えない。微は私の仮面を壊そうとした。いや、仮面に元々入っていた罅をこじ開けて、私の表情を覗き込もうとしたんだ。自分でさえ覗こうとしなかったものに、微は踏み込んできたのだ。

「………………執着だな」

 微は言い当てた。私の内にあった言葉を。でも、どうしろというのだろう。執着しないで、何ができるというのだろう。それ以外に私の元から伸びている道はない。選択せざるを得なかったのだ。現在に意味を見出せないなら、過去に意味を見出すしかない。未来など私の妄想でしか意味を見出せないが、過去は確定事項であり、それが、私のとっての心の支えだった。

 様々な人物の笑顔が思い出される。笑っていてもやはりしょうがなかった。そんなことはわかっていた。でも、笑っていなければ、私は砂の城のように崩れてしまう。いかに精巧で、緻密な仮面を用意しても、所詮は偽物であり、笑いたいと心から希求して得られる笑顔などと比べ物にならなかった。しかし、紛い物は私に合っていたのだ。私のように、後悔しか、執着しかできない人間にとっては………。

 本社に戻ったら母の事を聞こう。母の容体を確かめなければならないという義務感に囚われた。容体は少しずつ良くなり、そろそろ目を冷ますだろうと耳にしていた。執着にも一つの終止符が打たれる、そんな願望を抱いた。

「は、あいつ、母親が未だに生きていると思っていやがる。ま、俺にとっちゃ好都合だ。おかげで裏社会でのヘブンズヘルの地位をきずいてくれたんだからな」

「恐らく、明日のタイプワンとの戦闘では十中八九負けると予想されます。しかし、その間にタイプワンの庇護者を捕らえれば、人質にして、本命を捕まえることができます。そのためにFLASHを使って足止めをさせることが最善です」

「負けてくれてもさほど問題はない。明日にデモンストレーションをするとはいえ、別にタイプワンに勝つ事を誰も期待はしていない。俺もタイプワンに勝てるほどの性能をFLASHには求めていないからな。ただ、タイプワンでも手こずらせるほどの性能である事を見せつければ良い。そうすれば、世界は私の兵器に目をつける。まぁ、タイプファイブは負けてくれて、そのまま死んでくれる事を祈るさ。万が一生き残ってもこの仕事が終われば、薬で大好きな母親の元に連れてってやるだけさ」

 私は社長室に入らず、家に戻った。

 大理石の床が霜焼けを起こすぐらいに冷たくて、高級ベッドが鉛のように硬かった。私の通った跡は、デミウルゴスの通った跡のようになっていた。ハープは木の破片になるまで徹底的に壊して、楽譜も全て床にぶちまけ、散りぢりに破いた。もう壊れた。私という実体のみが残り、空っぽな道化が出来上がった。でも、一つだけ壊せなかった。あのハープだけは……。私の目指したものは最初から存在しなかった。引き下がるとか、引き下がれないとかそういう問題ではなかった。最初から道さえ存在していなかった。世界は百載無窮と信じて疑っていなかった。縋る事に必死で、縋る対象が崩れ去るなんて考えもしなかった。形など最初から存在していなくて、全てが夢であり、境界などなく何の区別のない世界だった。微の通り、意味なんてなかった。私が私に見せていた幻だった。

 突然に咳を催した。白いシーツは唾液と混ざり合った血液で染まっている。

 空っぽになったならば、何かで埋めなくてはならない。何かで埋めなくては残り僅かな命であっても、一秒でさえ身体を生かすことができない。

 やはり、私は過去に執着するしかないんだ。意味などなくても、意味がないとわかっていても、それしか私はこの空っぽを埋める方法を知らないのだから。もう私のやる事は決まっていた。

 起き上がり、残骸を踏み分けて、唯一残存していたタイニーハープに手を伸ばした。

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