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授業というのは退屈するためだけの時間だと思う。授業の第一目的は知識の伝達にあるはずだ。しかし、その知識を知っていれば、授業の意味は喪失する。つまり、聞かなくても良いという発想に至る。見としては寝たいところだがどうしても頭の中で微のことが巡って側から見れば、ペンを右手に持ち、ノートと教科書を広げて姿勢を崩さずに真面目に聞いている様を保っていた。
「電場や磁場というのは要するに波です。ここで音の復習をしたいと思います。音というのは空気の振動です。振動するということはばねのように伸び率があります。なので、電磁波にも伸び率があります。ただ、これは光の速度、真空の誘電率、透磁率などの定数によって決まります。光の振動数も同じです。もし、これが音ならばこの振動数は、固有振動数と呼ばれ、振動する物質の性質や形状に由来する定数になります。共振は、電磁波でも起きます。正確には、電気回路で起こるものですが、この辺りは先週に勉強したことですね?交流回路のところですね。共振振動数というのは、コイルとキャパシターの抵抗を考えなくてもよいような状態の時の振動数です。ですので、音の方で見ますと、共振というのは音をシャットアウトする時の原理としても使えます。その一例が吸音材です。吸音材というのは三つほどタイプ分けがされますが、その一つ、共鳴型吸音材というのがあります。消したい音と同じ振動数の構造を設けることで、その構造内で空気をたくさん振動させ、エネルギーを消費させることで音を消すという仕組みです」
他の教師がしない新規性のある説明の仕方だ。しかし、それに気づく聡明な高校生は果たして何人いるだろう。多くは、喋る先生が綺麗だからという安直な理由で聞いているに過ぎない。
ハロー効果というのがある。一つの特徴に引っ張られて、対象に対する客観的な評価を歪めて見てしまうという心理効果のことを指す。
ただ、そうした一般的な原理を踏まえた上で、微との関係、つまり友達と呼ばれる関係について当てはめてみると、なかなか面白い結論が得られる。
友達というのは外見的な関係である。つまり、友達関係において最も重要なのは、周りにどう見られているかということだ。問題は中身ではない。どんな関係を相手と構築しているかではない。誰とつるんでいるかだ。どれほど仲良く見えるかだ。見自身は、微を友達としていたのは利益のためかもしれない。本当にそうなのか自分でさえわからなかった。
どんなに真剣に考えても、自分なりの結論に到達することができない。はっきりとした個人的な真理を得ることができない。あくまで、一つの可能性としての考えしか提起できない。
一体、自分の考えとしてどれを選択すればよいのか全くわからないのだ。この原因を考えるに、自我というものがないからではなかろうか。思想とは、自我が存在して初めて成立する。自我が、思想を決定し、思想が行動を決定し、人間としての諸要素を網羅していくのだ。ただ見は、観察し、蓄積し、思想を編み出すための知識はあるものの、それは知識的思想にとどまり、自我的思想からは程遠い。この二つの圧倒的差異は、知識的思想はあくまで知識なので、そこに自分の考えと呼べるものがないのだ。
羅愛は机に伏して子猫のようにスヤスヤと眠っていた。血で血を洗うような戦い方をする能力者とは思えない、上品な寝姿である。
羅愛は言った。人はみな、同じに見えると。これを採用すれば、自我も何も存在しなくなる。
そういえば『不滅』にはこんなことが書いてあった。
「人生において耐えられないのは、存在することではなく自分の自我であることなのだ」
主人公のアニェスは人生というものはむしろ、自我を持って生きることで、幸福が奪われる。自我を忘れ、失い、解放されることに幸福があると考えていた。
「生きること、生きることにはなんの幸福もない。生きること、世界のいたるところに自分の苦しむ自我を運びまわること」
一方、『生は彼方に』のヤロミールは現実の生としてこれを求めようとしたように思う。
ヤロミールは何を手に入れようともそれに満足せず、どんどん夢から夢へと、志向していく。この姿勢はフェヒテのいう自我の行為そのものである。しかし、ここで言っている夢というのは、夢想の意味で使っている。そして、夢想の例として挙げられているのが「死」である。死についての思索を深めることで、彼は現実の生(生きている生)というのをより大きなものにしなければならないという義務感を覚える。
他にも、『不滅』では、「生と死とへの激情的な一体化が必要であったのだ。なぜならば、ただそのような条件においてのみ、われわれはわれわれ自身の眼に人間の原型の単なる変形ではなくして、交換不能な固有の本質を備えた存在と見えるからである」と述べている。
死とは人間の生の終着であるが、魂の終着ではない。たとえ死んでも、人々に影響を残していく人物はそれぞれの個人の中にいる。死者はは他人から新たな本質を規定される。人間は死後のことも考えるようになれば、人生は途方も無いものになる。それが自我であるとヤロミールは考えたのだろう。ただしアニェスはその永続性が苦痛であると感じたわけだが。
人々は、「人生はあっという間だ」とは言うものの、「死ぬまではあっという間」だとは絶対に言わない。主張事実には大差ない。しかし、違いがあるとすれば、「死」をどれだけ気にとめているかということだろう。人々は死のことを忘れようと努めるが、実のところ、そこの感情が見には理解できなかった。人は生きることを目的として見出せるが、死ぬことを目的とは思わない。不可逆な存在に恐れをなして近づこうとさえしない。
やはり、何が正解で、何が間違っているのか、知識だけでは何もわからない。これは感じ方の問題なのかもしれないが、見は何も感じない。どれもただの知識で、血肉とはなってくれていない。
見には、羅愛は強烈な、他人と一線を画しているような自我を有していると思った。微も自我を持っているように思う。しかし自分はどうだろう。その違いは一体どこにあるのだろうか。
人を突き詰めて行けば、それは物質に突き当たるわけではない。自我に突き当たる。物質に突き当たるとするなら、人間であれ、デミウルゴスであれ、全てが等しく同じものと見做されることになる。突き詰めていけば、より単純化される方向ではなく、より複雑化される方向に行かなければならない。自然科学と違い人間科学は洗練された関係そのものを議論するのではなく関係の形成を議論するので、同じもの同士の関係ではトートロジーのようなもので、何も生産しない議論になってしまうからだ。
友達は自我同士の関係であり、その自我が相手を友達と思うか、思わないかを決定するのではなかろうか。すると、見には十分な自我が備わっていないので、友達関係が無謀にも思えた。つまり、自分はどうしたいか、何をしたいのかがはっきりとなっていなかった。
議論がふりだしに戻る。
ちょうどチャイムが鳴り、授業が終わった。ほとんど頭の屋根裏部屋に籠っていたので授業をほとんど聞き逃していたが、どうってことなかった。昼休み特大の喧騒が拡散していく。
今度は、微に声をかけて、一緒にまずはご飯を食べようと思い、立ち上がって声をかけた。
「ねぇ、微、弁当を一緒に」
「わるい、サッカー部の顧問に呼ばれてるから」
そのまま、足早に教室を抜けて行った。
「懲りないわね」
小声で囁きかけるように羅愛が言い、見の前を通り過ぎて教室を出て、風来坊のように歩き去って行った。




