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Deeper than well  作者: 水素
第1章 妄念
2/42

1.1

 眩しい朝だ。太陽は、地上の如何に拘らず、地球が自転している限り、東から昇り、西に沈む。千古不易の真理であるが、反対に、絶対に変えられないようなルールや縛りに歯向かってみたいという馬鹿な妄想を抱くのが、高校生という年頃だと、登校路を歩く八路見やみちあきらは感じていた。高校生というのは、高校という、子供と大人の間を円滑に進むための潤滑油を提供する場所に在籍する油まみれの集団だ。水と油ではないが同調意識が最も強い時期であるとも言える。大人はビジネスに託けることで潤滑油などなくても全体は回っていく。その術を既に学んでいる。しかし、高校生はビジネスを知らない。社会人になるとはどういうことかを知らない。理不尽なことに目を瞑らない度胸を威勢を未だ持っている時期である。その威勢は同時に差別意識も簡単に芽生えさせる。だから、全体というよりは個別の集団が最も生成されやすい空間であるとも言える。スクールカーストいう言葉がそれを如実に表している。

 見は、歩き読書をしながら、駅から学校まで一キロある登校路を、怠そうに歩いていた。

 周囲が見の方を向いているものの、全く注視せず、活字を追い続ける。こうしていれば、退屈な通学路も少しは、退屈せずに歩くことができる。そして、昇降口へと辿り着く。

 教室は相も変わらず、喧騒に満ちていた。

 見は、二年七組のドアをくぐり、席に着くと、文庫本を取り出して再び読み始める。

 すると、一人の男子生徒、流戸微ながれどかすかが、彼の席に近づいてきた。

「よっ、見。何読んでるんだ?」

 茶髪に染めて、耳にピアスの穴を開けている。いかにもヤンキーの風貌で周囲には近寄りがたい雰囲気を与えている。

 見は黙って本の角度を上げて、表紙を微に見えるようにした。

「『生は彼方へ』ミラン・クンデラか」

「チェコの作家だよ。最近、岩波ので『小説の技法』を読んで興味持ったんだけど、小説の分析書としては一流品だと思うね」

「ほう、分析書か。俺はだいぶ前にイーグルトンの『文学とは何か』なら読んだな」

「いいね。確か、歴史の解説をしている本でしょ?脱構築主義がどうたらこうたら……」

「そうそう」

「基本的に短い論説が六編ぐらい収められているけど、その中の『『夢遊の人々』によって示された覚書』がよかったよ。基本は、ブロッホの『夢遊の人々』の三部作を分析し、小説の原理を導き出す趣旨なのだけれど、その中の一節でアンナ・カレーニナの自殺を例に、行為の非合理性について書いているんだけど……」

「まぁ、人の行動なんて非合理に満ちているが、小説でそれを描こうとすると、難しいところがあるよな」

「そうなんだよ。『昔の小説家たちは人生という混沌として繋がりのない素材から、清透な合理性の糸を引き出そうと努めた』てわけさ。カレーニナは自殺する予定なんてこれっぽっちもなかったけど、『思いもかけない衝動にかられて』自殺を選択する」

「これは俺も大分混乱させられたな」

「でも、その、因果律の彼方にある衝動を書くってすごいことだよね。実際、クンデラは『存在の耐えられない軽さ』で書いてると思うんだよね。私たちの存在は、軽くて、自重で押しつぶされそうなぐらいだよ。それに耐えきれなくて、私たちは人を愛するとか、色々なことで重みをつけようとする。でも、この耐えきれなくてって、思いもかけない衝動だと思うんだよね。それを小説の主題に据えたことであまりにも人間的な作品に仕上がったんだと思う」

「朝から、専門家もびっくりの解説ありがとよ」

「若干の皮肉を混ぜるのはやめてよ」

「でも、よく周囲の目も気にならずに喋り通せるよな。俺じゃなかったらおそらく逃げてるぞ」

 微は、机に凭れて首筋を掻く

「でも、僕、こういう話をしだすと止まらなくて……」

「だから俺以外友達ゼロなんだろ」

「なんで、そんなこと言うんだよ?」

「事実だろ」

「そうなんだけど、事実って事実のまま言っちゃったらただの爆弾だよ。僕が心配するのも変かも知れないけど、そんなんで友達いるの?」

「部活仲間ならいる」

「それって友達?」

「そう言われると、なんかぐさっとくるな」

「でしょ?」

 見は器用にも、喋りながら『生は彼方へ』を読み進めていた。

「友達って何だろうね」

「すぐに哲学の問題にするなよ」

「だって考えたくなっちゃうじゃないか。僕たちは、一応、友達の基準に含めるとしたら、どんな基準で友達ってことになってるかな」

「うーん。何でも話せる?」

「それ重要そう」

「あとは……。興味のない話でも、友達の話なら聞こうってなるよな」

「それって、遠回しに、僕の話、興味ないってこと?」

「誤解だ。見の方はなんかないのかよ?」

「ピンチになった時には、助けるとか?」

「おお、友達っぽいな、それ」

「まとめると、興味のない話でも聞いていられて、その人がピンチになった時に助ける関係?」

「そう言うことになるな………」

「………いないな………微は?」

「俺もいねぇ………」

「やっぱ僕たち二人が友達ってことで議論は終焉を迎えそうだね」

 チャイムが鳴った。先までの喧騒が一挙に収まり、生徒たちは着席し、授業が始まるまでの十五分間の自習時間を、文字通り自習に使う。見は御構い無しに読書を継続し、微は机に絶妙に隠して、携帯ゲームで遊んでいる。

 担任の数学教師、巣鴨和明が教室に入ってきた。いつもならホームルームは行わず、そのまま一限が始まるはずだ。生徒たちの疑念が教室を満たしていた。

「えー、今日はホームルームを行う。転校生が今日からこのクラスの一員になるからだ」

 生徒たちは一挙に騒めき始める。見はページを繰る手を止めない。

「おっ、転校生。漫画なら新しい出来事のフラグなんだけどな」

 漫画オタクの微は独りごちている。

「でだ、少しだけ紹介しておくと、勾田高校から編入してきたのだが、編入試験では満点を叩き出している。学校史上初だ。勾田高校では遺跡部に入っていたようだ。仲良くしてやってくれ。じゃあ、入ってくれ」

「満点!」「超天才じゃん」「遺跡部って部活があるのか?」

 スライドドアががらんごろんと音を立て、生徒は教室へと足を進める。

 見が彼女と対面した感想は、まるでバルザックの小説『サラジーヌ』のヒロイン、ザンビネッラのようだと思った。主人公サラジーヌは留学先のイタリアで、オペラ歌手ザンビネッラの美しさに一目惚れする。いかなる存在も比較にならない絶対的な美をサラジーヌは謳う。それを目の前で見ているようだと見は思った。

 彼女の均整美を賛美するわけではないものの、一瞬、確かにそれぐらいの心の揺さぶりを感じた自分がいたのも事実だった。しかし、それ以上の情念は浮かばなかった。

「残火、自己紹介をよろしく」

 彼女は教壇に羽のように上り、丁寧なお辞儀をした。良家のお嬢様と言った風だ。

「残火羅愛と申します。どうぞ宜しく」

 既に教室では、彼女の美貌の虜になった馬鹿な男共に溢れかえっていた。

「えっと、じゃあ、奥の空いてる席に座って」

 羅愛は流麗な黒い脚を一歩、また一歩と進めていく。これだけでも彫刻家は彫像を掘りたくなるほどの感性を受けることだろう。

 見は瞳を一瞥した。瞬間、視線は空中で邂逅した。見は刹那、戦慄に襲われた。彼女の遠くを見据えた眼差しは氷を湛えていた。何処までも、井戸よりも深く冷たい世界に閉ざされているかのようだ。あの瞳を覗いてしまうと全てが嘘のように思えた。彼女の、淡々とした声も、ちょっとした笑顔も所詮は作り物ではないか。これは見の妄想で幻惑と言えるかもしれない。過大な思い込みかもしれない。というより、確率としてその方が高い。一回、しかも彼女の瞳を見ただけで戦慄を覚えるというのも可笑しな話だ。

「あ、そういえば、天童、放課後、学校を残火に案内してやってくれ」

 巣鴨がクラス委員長に指示を仰ぐ。

 羅愛が席に着く頃には、見は杞憂と思い直し、目前の本に注意を戻した。


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