2.6
オルフェウスホールは、東京ドームほどの広さがあり、去年新設されたばかりのコンサートホールである。名称の通り、エントランスには大理石で作られた古代ギリシャの吟遊詩人、オルフェウスの像が立ち、来客を出迎えている。
生徒たちは教師の誘導でホールへと入り、クラス毎に出席番号順に席に着いていく。全学年でおよそ千人近くいる高校なので、全員がホールに入場するまで多大な時間がかかっていた。
微は物憂げに、生徒が会場に入る様子を眺めていた。
微は見とどう接すれば良いかわからなくなっていた。七竅駅での一件に、見とは明らかな温度差を感じていた。見に恐れを抱いたのだ。その恐れは寧ろ、微にとっていつも通りの行動を起こさせた。いうも通りの行動、態度の利点は頭を使わずに行える点だ。なぜ、頭を使わずに行うようになるのか、これは一種の慣れと呼んでよいのかわからないが、既に先が予測できる事柄にいちいち頭を使うほど、脳は非効率に出来ていないのは確かなはずだ。
しかし、思考の停止は良い面もあれば、悪い面もある。考えたくないことを考えなくするということは都合がいいものの、問題自体は留保されたままなので、放置された納豆のように発酵していき、いずれ手が付けられない問題に発展しかねない。見との関係に一つの区切りをつけられればよいのかもしれないが、良い意味でも悪い意味でも友達と思える友達が微には見しかいなかったので、恐怖を抱いていてもそう簡単に関係を終了できなかったのだ。
「これって年に一度の芸術鑑賞会だったよな?」
教師による会場誘導の待ち時間の間、二人はいつも通り一緒にいた。微はもたついている前の生徒に苛々しながら、ぼうっと青空に飛ぶボーイングを見上げている見に会話を降った。
「そうだよ」
「で、そういや今年の芸術鑑賞会の題目なんだっけ?」
「一応、栞があるとおもうんだけど………」
「ああ、あれなら前川の孔雀にして家に置いてきた…………」
「折り紙にしないでよ……」
「で、何だよ?」
「確か、琴だったよね……」
「琴か………。去年は何だっけか?」
「去年は落語だったね。『井戸の茶碗』だったのは覚えているけど……」
「今年も寝る感じかな。で、誰が弾くんだ?」
「栞によれば、『剛理舞依』って書いてあるね。えっと…、日本のハープ奏者、三歳からハープを始め、数々の音楽賞を受賞、現在、東京藝術大学三年生。現役の学生さんみたいだね」
「そうか、寝るか」
会場整理が進み、二人もホールへと入場し、指定席についた。
編入してきた羅愛は出席番号が最後になり、一人、余って二階席にて腰を落ち着けた。隣に担任の巣鴨が座っていた。
間も無く開演ということで、照明が徐々に暗くなり、客席誘導灯が相対的に明るくなる。生徒の喧騒は霧消し、ステージの幕が上がった。置かれている一台のハープ。カマック・グランドハープ オライアン47。間も無く、舞台袖から純白のドレスを纏った若い女性が現れる。
しっかりした足取りで、ハープの前に立ち、一礼をすると手に持ったマイクを口元に近づける。
「本日は、足元の悪い中、七竅高校の生徒、先生方にお集まりいただき、そして、このような場で演奏を披露させていただけて大変光栄です。ハープは古来、祓いや呪いに使われていたとされ、その音色に人々は神秘性や幻惑的なものを感じ取っていました。ギリシャ神話の世界では、ハープはゼウスの心を鎮めるために亀の甲羅から作られたと言われています。六年前に世界を未曾有の災害が襲い、その傷は未だに私たちの心に残っています。様々な後遺に苦しんでいらっしゃる方も多いと思います。此度は皆さんの心にハープの音色で癒しを届けることができれば幸いです。では、お聞きください」
拍手が湧き、静寂。ハープに手をそっと置いた。一瞬だけ、右腕の動きが止まって、ぴくついているように見えたが、気になるほどのものではなかった。すぐに指の一本一本を調えた。ハープの一音が空気に響き渡るための前節は整った。
爪弾かれる弦。その震えは空気を甘く揺らした。魅力的な音色、心を癒す音色、温かみのある音色、聞き手によってその音色は様々な解釈に変わって、人の心を震わせた。
葬送行進曲 ハ短調 作品72ー2。ショパンが1827年に作曲した作品。大胆なハープアレンジ。シンプルな楽曲ながら、重厚で装飾的なハープの音色によって、より壮大さが上乗せされ、空想の城を浮かびあがらせる。
見は感動を覚えるも、相も変わらず上記の分析を続ける。
微は涙を漏らした。どっと過去の記憶が流れてくる。途轍もなく苦い過去。それらが一瞬でも溶けていくかのような音。記憶が書き換えられていくような錯覚。浮かぶ姉の顔。姉の歪みきった顔。それも、笑顔に変わっていく。あんなに苦しんでいたのに、救われたように笑っている。身体に受けた傷もない。ただ、笑っている。それだけでも幸せだった。
二人をよそに、羅愛は戦慄していた。身体が金縛りにあったように全く動かない。ハープの音色によるものだった。そして音色は頭の中で徐々に人の声へと変わり、脳内に直接語りかけてきた。主は眼前の演奏者、剛理舞依だった。
彼女には羅愛は見覚えがあった。
『気づいた……?』
外見から漂う大人っぽさの割には幼くて、遊んでいる声。
「何の用?」
『釣れないこと言わないでよ。以前出来なかった挨拶をと思って』
「戦う相手に挨拶なんて必要なの?」『それが礼儀というものだと思っていたのだけれど、確かに言われてみればそうかも』
声の主の身体は苛烈を極めている。ハープの優しい音色を生み出すために、ありったけの激情を、一個の生命へと注ぐ。汗が迸り、緻密に構築された指が踊る。
「目的は?私のカード?」
『それは勿論だけど、今回はね、あなた自身』
「私……?」
『あなた自身も貴重だからね…』
羅愛は歯を食い縛る。こんな音色の呪縛に負けたくはない。両腕を肘掛から無理やり起こし始める。
『そんなに頑張らなくても、今はただのお喋りで戦うつもりはないけど』
無視して、腰を浮かせる。見えない縛りは、糸が切れていくように徐々に緩んでいき、骨が軋みをたてる。羅愛は神経の強烈な痛みを振り切って、音色の鎖を自力で断ち切った。汗がとめどなく溢れ、全身の筋肉が外れそうだった。
『私の音色から逃れるなんて、やはりタイプワンは違うか』
演奏は最終局面を迎えていた。誰かと話しているような、散漫な印象を一切抱かせない、激甚な集中力を総動員した演奏。ハープの一弦一弦が舞依自身に血肉となって取り込まれそうになりながらも、ハープ自身も取り込まれないと音を鳴らし続ける。誰の心にも都合よくはまる歪な美しさがある。
『もっとお話がしたいけど、演奏もここまでだね』
そう言い、頭の中の声は消え、演奏も終わった。一瞬の沈黙。その後に湧き上がる拍手。完全試合を達成したかのような清々しい表情を浮かべる舞依。さらなる歓声の渦。
舞依は舞台裏へと消えていく。まるで、少しの間しか姿を見せない妖精のようだ。
先生による生徒の誘導のために、待機を命じられる生徒たち。同時に発生する喧騒。羅愛は隙を見てホールを抜け出し、舞台裏への入り口のドアを見つけて周りを確認したのちに入った。灰色の絨毯の通路が一直線に続いている。スタッフの一人に舞依の所在を確認すると、既に会場を出たと聞き、急いで会場を飛び出す。雨は止み、空には鮮やかな虹が掛かっていた。視界に映る白いドレスの一片。地下駐車場へと逃げていく。
羅愛がスロープを降りて走ると、ナトリウムランプの照らされた中、地下のホール出入り口を背にして、地下駐車場の出入り口の方を向いて舞依がいた。
手には先ほどの巨大なハープと違って、小型のハープ、ベイビーハープ スプルースが握られている。弦も一二弦ほどしかないので可音域は狭いが、手持ちができるハープとして知られている。
羅愛は咄嗟にカードを手に握る。すかさず詠唱。見開かれた羅愛の瞳は、未だ瞑っている舞依を射抜いていた。
——元素召喚
「『水素』『酸素』」
粒子は散開し、三方向から水流を放つ。舞依はハープを抱えているので逃げることができない。そのまま高圧水流に飲み込まれ、普通なら人体がプレスされているはずだった。
微かにハープの音色が聞こえたような気がしたが、水流の音にかき消されはっきりとは聞こえなかった。
しかし、現に水流は何かにあたり、音を立てて、滝のように下に流れていく。
水しぶきがやむと、そこには分厚いコンクリートが盾になって水流を完全にシャットアウトしていた。舞依を中心にして、ドーナツ状に周囲のコンクリートが抜けていて、それが三つに割れて盾になっていたのだ。
羅愛は二枚を元に戻し、すかさず別のカードを取り出す。
——元素召喚
「『アンチモン』『鉛』」
粒子は銀色の銃弾へと変貌、驟雨が降り注ぐ。するとコンクリートの壁が糸で吊られているかのように動き出して銃弾を全て防御する。再び微かにハープの音色が聞こえた。
舞依はまだ一歩も動いていない。それどころか、目すら開けていない。完全な余裕を見せている。銃弾の雨を降らしつつ、羅愛は間合いを詰め、解除して二枚を手元に握って取り込み、そのまま蹴りを一発。しかし、三枚のコンクリートがミルフィーユのように層になって防いでいた。違和感のあることに、コンクリートには亀裂一つ入っていない。
後方に宙返りをして態勢を立て直す。
「驚いた?」
「ハープを使って操っているのか……」
「それに気づくことない?」
「クロムメッキ…」
「やはり碩学ね、羅愛ちゃんは…」
にこっと、天使のように笑う。しかし、羅愛には堕天使の微笑みに映った。
舞依の左手には二枚のカードが戻っていた。一枚はクロム、もう一枚はニッケルのカードだ。
「硬度の高くなるメッキの一つ。やはり持っているカードの特性を熟知せずには戦えないよ」
「ならば……」
——元素召喚
「『ホウ素』『鉄』『ネオジム』」
粒子は黒い塊となり、それを手に握ると明後日の方向へと投げ飛ばした。すると、周囲の自動車などが黒い塊に引き寄せられ、メッキの施されていたコンクリートも例外に漏れず、黒い塊と邂逅。付着物同士で激突して、コンクリートや自動車は木っ端微塵に粉砕される。
「確かに、クロムもニッケルも強磁性……」
そう言い、別のカードを首筋から取り出した。羅愛とは異なり、手が義手である舞依は手から直接カードを出すことができないのだった。
——元素召喚
「『ハフニウム』」
小さなハフニウムボタンを大量に出現させる。そして、ちょっとした細工をするとプラズマ化、羅愛の召喚によって、周囲に広がっていた微量の鉄粉に作用して、火花が巻き起こる。バーナーの一種であるプラズマトーチの危険な応用である。
火花のシャワーをすかさずかわし、合間をぬってがら空きの舞依に渾身の拳を振りかざしたその時だった。
弦の振動、ハープから発生したとは思えない、狂気的な音色。それと共に、あらぬ方向からの銃声。謎の銃弾は羅愛の肩に命中、銃弾の運動量が保存されたまま、身を庇えずにコンクリートの柱に激突。重力に従い落下。遅れて柱の瓦礫が落ちる。肩からどくどくと血が流れ、黒い制服を赤く染める。人の気配はどこにもなかった。カードを使った形跡もない。推測をわざわざたてずともハープが噛んでいるのが 羅愛は立ち上がり、周囲を見回す。やはり、人影はない。どこから銃弾が飛んできたのか。
狂気的な音色の再来。謎の銃弾。四方向同時攻撃、三発は躱したものの、一発が踝に命中、骨の砕け散る音が聞こえた。そのまま態勢を崩して初速を以て地面と激突。撃たれた右肩が押し付けられて鮮血がさらに吹き出した。
「降参してもいいよ?」
最初の位置から一切移動していない。不動のまま、瞬足の羅愛を圧倒し、跪かせた。羅愛は唇を千切れるほどに噛んだ。元素召喚、銃弾を舞依の背後から浴びせる。今度もコンクリートの壁が防いでいた。
「やっぱり降参しないよね」
頭を狂わすような音色。そして、先とはまた異なる方向からの射撃。羅愛は咄嗟に鉄を召喚して、防壁を作る。一撃は何とか弾いたものの、既に鉄壁は圧で凹み、崩れ去ろうとしていた。
爪弾く。見えない銃撃。鉄のバリアが破壊されたと同時に、羅愛は突進。繰り出される銃弾に対して、砕け散った数百の鉄屑を空中で蹴飛ばして、銃弾に掠らせ、弾道をずらす。舞依に瞬足で近づく。すかさずハープの音色、瓦礫を浮上させて防ぐが羅愛の強烈な蹴りを二度も防げず瓦礫が粉砕。彼女の蹴りは舞依の右手にクリーンヒット。肘より先が四散する。舞依は顔を歪める。
羅愛は着地し、落ちている腕を見た。予想とは異なる光景だった。血が一滴も見当たらず、代わりにプラスチックのようなものが粉々に砕けていた。舞依の上腕を確認すると、肘関節が皮に包まれていてそれより下が元々ついておらず、電極のようなものが露わになっていて、金属線が垂れていた。
「義手………か……」
舞依はハープを鳴り響かせる。周囲の銃撃。しかし、片手のみで弾じたので、精度が出ず、元素召喚で出した銃弾と相殺される。
「こっちに分があるみたいね」
その時、どこからか人の声が聞こえてきた。
振り向くと、ホールの出入り口から機材を搬入するために、スタッフが降りて来ていた。ハープが荷台に運ばれて徐々に近づいてきていた。
「撤退か……」
舞依は、落ちている右手義手を見やるがカードを取り出す。
——元素召喚
「『ニオブ』」
粒子は舞依の足元へと降りていき、白い煙を伴って、超伝導磁石が現れる。地面を一発蹴ると、強烈な初速として跳ね返り、スロープを駆け上がって、気づくと姿が消えていた。
羅愛も、人目につくと面倒だと判断し、早々にスロープへと向かっていき、会場のエントランスまで自力で歩く。その頃には、肩と踝に受けた傷は再生能力によって塞がれていた。既に生徒のバスへの誘導は三年の最後のクラスに差し掛かっていて、二年七組のバスは発車寸前だった。
トイレに行っていた生徒が戻ってきて、羅愛はそれに便乗することで目立たず、戻ることができた。
心配していた見を尻目に、席に着くと、制服の破れを隠すために座席にそのままにしていたカーディガンを被った。ただ、スカートについた塵を落とさずに乗ったので、隣の見は訝しんで、直ぐに一つの結論に達した。
「もしかして……」
沈黙を貫いていた。
「例の、敵の能力者?」
「今は五月じゃないわよ」
「五月蝿いってことを遠回しに言われてもね……」
「で、何?」
「確かに、僕の出る幕ではないけど、見た様子では強かったみたいだから……」
「確かに強かったわ。でもそれだけ。対策は一人で考えるわ」
「僕に話してくれてもいいんじゃないかな……」
「言ったでしょ?馴れ合う気はないの」
「そう………………………」
彼女の言い分は最もだと思った。見はあくまで部外者であり、首をつっこむ必要のないことにまで自ら首をつっこんでいる。これは、羅愛から見れば土足で人の家に不法侵入しているのと何ら変わりないのだ。見の好奇心は、羅愛にとって障害でしかなかった。見はそれを改めて自覚して、身震いを覚えたが、それで好奇心が収まるほど、彼の好奇心は軟弱ではなかった。
羅愛は誰も寄せ付けない美しさを持っていたが、裏を返せば悪徳を持っていた。決して馴れ合いを望まず、人とのコミュニケーションを最小限にする。これは羅愛のアイデンティティのようなものだと見は思った。あの悲しそうな、切なそうな瞳の奥に潜む情念は一体どのようなものなのか。見の彼女への興味は絶えなかった。