2.3
デミウルゴスの一件は、世間では七竅駅事件と呼ばれ、二十一世紀初頭に中東で台頭したイスラム過激派に触発された学生が起こしたテロ事件の一つして扱われた。七竅高校では二週間の自宅学習が命じられ、その間、見と微は入院をしていた。親の定期的な見舞いがあり、そして、事件から三週間が過ぎ、退院した二人は間も無く学校へと登校できるようになった。駅周辺はいまでも完全に封鎖されていて、そのために電車などの交通手段が使えず、止む終えず見は親の車で送ってもらい、微は自転車通学へと切り替えた。
微が教室に入ると、既に見は席に着いて、相変わらず読書をしている。脇には松葉杖を立てかけていた。表紙を見ると、今日は『冗談』を読んでいる。微は、今生きている世界がすべて冗談だったらいいのに、と思いながら鞄を横にかけて席に着いた。羅愛は顎を手に乗せて肘を机につきながら外を眺めている。彼女の表情は隠れてよく見えなかった。
微は見に声を掛けず、腰を下ろした。ため息をついて顔を机に伏した。
「疲れる………」
睡眠体制に入っていると、担任の巣鴨が教室に現れた。一挙に教室は静まり返った。巣鴨は重々しく教壇に上り、教卓に日誌を優しく置いた。廊下にある水道の蛇口から漏れる一滴の雫の音が耳に聞こえるばかりになった。深刻で厳粛な表情のまま、口を開く。
「えーと。三週間前に痛ましい事件があったのは周知の事実だと思う。うちの生徒も十名が巻き込まれ、命を落とした……」
巣鴨の暗い趣は教室中に伝染していた。
「この教室でも、一人、この事件の犠牲になった……。三部けい君は朗らかな生徒だった。数学の成績も優秀で、亡くなったことが今でも信じられない……。この場の全員で黙祷を捧げようと思う………。黙祷…」
静寂はより色濃くなる。他の教室でも同様の儀式が執り行われているようだった。
微は駅から吹き飛ばされた時のことを回想した。もし、少しでも飛ばされた位置がずれていれば、ここに生はなかった。脳裏に浮かぶ部員の顔。舌が深海魚のように飛び出ていて目が見開かれていた。自分も、これからあのような悍ましい死を迎えることになるのだろうか。そう思うと恐怖で一ミリも動かず、一考も働かなかった。
しかし、同時に爽快感を僅かながらに感じていたのも事実だった。自分を貶めていた人間が死に、自分は運よく生き残った。これほどの滑稽が果たしてあるだろうか。その点、デミウルゴスには感謝をしてもよかったかもしれない。とは言いつつ、死が身近になることに恐怖しない人間はほとんどいない。
微は見を一瞥した。素直に目を閉じている。何を考えているというのだろう。
羅愛はどうだろうか。閉じられた瞼、綺麗な眉毛が湿気で簾のように垂れている。関わらずに眺めているだけなら人畜無害どころか、目の保養になる。けれども彼女は人間の姿をした化け物の類だ。人の血が通っているとは到底思えなかった。
黙祷が終わり、巣鴨が終了の声を出す。
「俺はあの世の世界があるかはしらない。しかし、もしあるとすれば、死んだ人にも居場所がある。それは死んだ人にとっても生きている人にとっても救いになる居場所だと思う」
救い………?巣鴨の言い分に微は心中、笑わずにはいられなかった。人間は死んだら、待っているのは死だけだ。輪廻もしないし、永劫回帰もしない。死人の思い出は心を毒づかせるだけだ。どこにも死人の居場所はないし、そうした居場所があるのなら、それはユートピアではなく、ディストピアだ。死は、文字通りの死ではない。人の無念であり、断末魔の叫びであり、百載無窮の怨嗟である。それが濃密に凝縮された、言わば負の結晶である。
ホームルームは終わった。思わず、昔のことが頭によぎったせいでほとんど話を聞いていなかった。
微は再び、睡眠体制に入った。