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Deeper than well  作者: 水素
第1章 妄念
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プロローグ

爆発。閃光。瓦礫が蝶のように宙を飛び、少女の目前を掠めた。眼前に広がる景色に、ただ、失笑を覚えた。

「また、居場所、なくなっちゃった………」

 立ち込める黒い霧。気管に入り込んで呼吸を阻害する。視界さえも奪っていく。肌を焼き付けるばかりの炎。更地と化しているのに、逃げ場なんて何処にもない。血と炎の地獄。何処にも救いのない世界。叫び声さえ聞こえない。見れば、生存者なんぞ、誰も居なかった。呆気ないものだ。先まで、喧騒を発していたタンパク質の塊は、みんなただの屍に成り下がっている。

 元々、この場所には教会が立っていた。周囲に転がる塊は、教会のシスターや、神父たち、そして十歳ぐらいの子供のものだった。

 そして、死体と同じ年頃の少女はみすぼらしい、黒いローブのようなぼろ衣をまとっていた。少女は孤児で、この教会の運営する孤児院で暮らしていた。周りの死体は同じ屋根の下で暮らしていた者たちだったものだ。

 少女の手には一冊の本が握られていた。分厚い装丁。世界で最も発行部数が多いとされている書物。そこに書かれているゴモラとソドムの景色と、眼前の景色が想像で重なった。

 ソドムとゴモラは、ヤハウェの裁きによって滅ぼされ、悪徳や頽廃の象徴として扱われている。

 大人たちは少女に、神がいる、祈れば救われると説いた。しかし、現にその大人たちは冥土に召され、地上は灰燼と化した。神を信じた敬虔な者は失命し、神を信じない背徳な者は存命していた。何とも滑稽としか言いようがない。少女は聖書を炎の中に投げ入れた。一瞬、炎が乱れ、火花が遊んだものの、本を包み込み、みるみると黒い塊へと変えていく。少女はその場に座り込んだ。何だか、ずっとこの景色を眺めていたような錯覚に囚われた。正直、心地よい気分だ。どんどんこの漆黒の空が続いて、世界さえ覆ってしまえば快哉だ。

 視界を覆っていた黒い霧は何者かによって引き起こされた旋風によって掻き消された。聳える黒い影。五十メートルはあろう巨体。全身が黒く、ハリネズミのように、禍々しい棘が無数に生えている。全身を支える、大木のように太い二本の足。強靭な腕。血のように赤い目が少女を覗き込んだ。

 少女は唇を噛み締めた。しかし、同時に笑顔が綻ぶ。理性が破綻していた。恐怖と共に興奮が、絶望と共に希望が、怯懦と共に安寧が、戦慄と共に爽快が、少女の体を駆け巡った。死を目前にして生を噛み締めた。少女には、怪物の憎悪を蓄えた瞳が眩しく、楽しそうに見えたのだ。だから、少女は今までにない幸福を享受していた。これは、神のいない世界に、神に対して捧げられるはずだった信仰を、崇拝を、彼女は怪物に向けていたのだ。

 怪物は気に食わないとばかりに、牙を備えた口を大きく展開。息とともに青白いフレアが巻き起こり、刹那、強烈な熱線が吐き出される。

 少女は一条の光の餌食になるはずだった。突如として、空から一筋の流星が降り注がない限りは。それは少女と、怪獣の間に落ち、視界から一切の事物を消滅させた。耳鳴りが少女を襲い、何が起きたのかを知るための五感を完全に遮断された。光は徐々に消えていき、少女は瞼をゆっくりと開けた。彼女の視覚は、怪獣の消滅を告げていた。強烈な光は闇の霧を払い、怪獣のいた場所には、黒い結晶が落ちていた。光の影響か、周囲に広がっていた炎も鎮火していた。しかし、むせ返る煙が充満している。少女は光る何かの前に立っていた。光が完全に消えると、そこには二枚のカードが落ちていた。少女は訝しげに眺める。すると、再びそれは光だし、心臓の鼓動のように、周期的に淡黄色のオーラを放ち始める。それは少女の心に直接、テレパシーのごとく、何かを訴えかけた。それは少女に、手に取るように仕向ける。少女はカードを握った。すると、カードは形を変え、光の粒に姿を変えると彼女の体に、血管の一つ一つに吸収されていく。全身の血が、灼熱のマグマのように沸騰していく。赤血球の一粒一粒が酸素の供給を訴える。体全身が痛みを叫ぶ。手の震えが止まらなくなり、立つこともできずに、ふとした拍子で体勢を崩し、瓦礫の大地を転がり落ちた。しかし、少女の体は無傷だった。全身の異変は収まった。彼女は立ち上がった。しかし、それだけではなかった。

 黒い空に、一機の飛行物体が瞬間的に通過した。黒い化け物は、先ほどの二足歩行のハリネズミだけではなかった。地獄の眷属は未だ健在だった。ステルス戦闘機のフォルムをした化け物。二又の尻尾の先から、それぞれ地上に向けて雷撃を放った。少女はかわすことも出来ずに直撃。

 マッハ三のスピードで通り抜ける怪物は、粉々になった人間の残りを見て、嘲笑をかましているかのような叫びをあげた。しかし、怪獣の眦には、俄かには信じがたい姿が映っていた。直撃したはずの肉体が無傷で、その場に存在していたのだ。

 少女は目を閉じ、全て指を開き、右手を頭上へと掲げる。そして、手のひらから、魔法のように二枚のカードを出現させ、中指と人差し指でそれを挟む。カードは青白く光っていて、表面には、古今東西、知られている言語のどれとも異なる未知の言語が書かれ、中央には水墨画のような、淡い濃淡を伴った、流体の絵が描かれている。縁はバロック建築の彫刻のような装飾が施されており、裏面は、鳥を象ったと思われる紋章があしらわれている。

 声を震わせ、空気を絞り出し、その振動はカードへと伝わっていく。

 ——元素召喚

「『水素』『酸素』」

 カードは光の帯へと姿を変え、空を駆け巡り、怪獣へと、蛇行して迫り来る。マッハ三の超高速で回避しようとする怪獣。光の水は容赦無く、どこへ逃げようと、空を覆い尽くさんばかりに広がり、怪獣を包み込む。もがき苦しむ。目は乱れ、口から泡が漏れる。そのまま、怪獣は地上へと堕ちた。光に包まれたまま、粒子へと姿を変え、その場所には黒い結晶だけが再び残った。少女の手に、光の水が帰ってくると、カードへと形を戻し、手の中へと消えていった。黒い結晶の側には、しかし、先とは異なり、一枚の、カードが堕ちているのに気づいた。見ると、先のカードと同じく、謎の言語が記されたものであった。少女はカードを、躊躇なくつかんだ。すると、そのカードも手の中に吸収されていった。

 既に、周囲に怪獣の姿はなかった。しかし、ここももう人の住むことのできない、暗黒の土地となったことだろう。

 少女の手には何もなかった。少女の目の前には何もなかった。あるのは少女自身の肉体のみ。

 滑稽。笑止。堪えようのない嬉笑。これほどに恍惚に満ちた日はあっただろうか。どんな麻薬を常用しようと味わうことのない多幸感。

 少女は仰向けに倒れた。誰も助けになど来ない、孤独と裏切りの蔓延る世界で、少女は甲高い声で笑った。精一杯の、腹が捻れるぐらいの声で笑った。恐らく、一切のフィクションでも、血みどろの世界にたった一人残されて、これほど痛烈な気分を登場人物に与えたことはなかっただろう。これほどの理性の崩壊をもたらしはしなかっただろう。

 イギリスの物理学者、ジョン・ホイーラーは、人間はフェニックスなどの想像上の怪物を生み出してきたものの、一番の想像力の怪物は、ブラックホールであるといった。しかし、少女にとってみれば、人間の暮らす世界こそ、欺瞞という名の想像に満ちていて、どんな想像の世界の生き物よりも恐ろしく、悍ましい存在であった。

 少女はそれを転覆させるだけの力を手に入れたことに瞬時に気づいたのだ。この力は、闇を照らす光などではない。闇と光の区別をなくす圧倒的な力なのだ。

 少女は既に世界に何も見出してはいなかった。少女の眼に映る世界は、どんな掃き溜めよりも汚れていて、ブラックホールよりも黒く、一切の光明のない、そんな世界だった。

 少女はそれを転覆させるだけの力を手に入れたことに瞬時に気づいたのだ。この力は、闇を照らす光などではない。闇と光の区別をなくす圧倒的な力なのだ。

 少女にとって、力の意味などはどうでもよかった。ただ、現実に、力は少女のものとなった。ならば、自由に使わせてもらおう。力は使い手に、その権利は一任される。それは悪いようにも良いようにも使われる。少女は悪いように使おうという意図はなかった。しかし、誰かを助ける、などという戯言を具現化しようなどと考えることもなかった。少女の想念は、ものの数時間で、信念へと変貌した。

「ああ、愉快千万」 

 


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