2-23【世界よ、さあ踊れ1:~不意の報~】
2-23【世界よ、さあ踊れ1:~不意の報~】
それは16年前の冬の事だ。
魔国の冬というのは、その他の季節からは想像できないほど厳しい。
極地から伸びる山脈の峰に沿って寒気が流れ込むため、草木は灼熱の夏を待って氷の繭の中に閉じこもり、動物達は凍死を逃れて北に大移動するか、冬眠するか。
魔人達も、できるだけエネルギーを無駄にしないように、頭までスッポリと覆う巨大な上着に埋まるようにして過ごす。
当然、声を出すのは贅沢な行為になるため、魔国の冬というのは静かで陰湿なものになりがちだ。
だがアムゼン魔国の都である”マシフ”は、この数十年以上無かったほどの興奮が渦巻いていた。
当時の魔王・・・つまり先代魔王が突然”重大な発表がある”と、国中にお触れを出したのだ。
先代魔王はこの時すでに完治不能の病に侵されていたので、誰もがそれを”次期魔王の発表”と内心で気づいていた。
”いよいよ、シセル・アルネスの時代が来る”
だれもがその言葉を顔に貼り付け、お互いを祝福していた。
病床に伏せている先代魔王の手前、公に喜ぶことこそしないが、トリオンを含め、当時の魔人たちの間に満ちた打ち震えるほどの歓喜の感情を表現する言葉はない。
”ゴブリンの策略”によってなされた、世界の盟主からトルバの属国への転落。
誇り高き魔人たちがそんな事を納得できる訳がない。
先代魔王の言葉がなければ・・・もっと言うなら、それを涙を呑んで口にせざるを得なかったシセルの言葉がなければ、この国は容易に内側から弾け飛んでいただろう。
だがシセルが魔王となれば話は変わる。
歴代でも5指には入る・・・いや、間違いなく歴代最強の魔王の誕生だ。
そうなれば誰に縋る必要があろうか。
トリオンは来る魔人の復興の時代に胸を踊らせながら、魔王宮の廊下をアクリラの博士課程から一時帰国していたアイヴァーと歩いていた。
その時、アイヴァーとどんな話をしていたかは覚えていない。
当時、研究職に進もうとしていたアイヴァーを引き止めたような記憶はある。
だがそれも、シセルの肉親として直臣となって支えてほしいという願いからだった。
トルバ独立戦争後に魔将軍を退役したトリオンは、次期魔王付きの”護衛兼側使え”になると決まっていたので、ついにシセルに直接仕える日が間近に迫っている事を肌で感じ興奮していたのだろう。
そしてその興奮は、魔王室に向かう途中のシセルを見つけることで最高潮に達する。
「陛下に呼ばれた」
シセルがいつになく神妙な面持ちでそう告げる。
その言葉は戦友としての親しみか、それとももうすぐ臣下になる者への通告か。
とにかくその言葉を聞いた瞬間、トリオンはいよいよこの時が来たと思った。
先代魔王の臥せる居室に向かう背中に、トリオンは確かにアムゼン魔国の未来を見たのだ。
だが、その思いはすぐに不安に変わることになる。
それは本当に偶然だった。
アイヴァーを1日かけてひとしきり案内し終わったトリオンは、収まる気配のない興奮を冷ますため、魔王宮からほど近い森の中を歩いていた。
若い時分に鍛錬の為に駆け回っていたその森の空気は、たった数十年前のことだというのにどこか懐かしい。
1000年近く生きる魔人とはいえ、まだ100を超えたばかりのトリオンではその年月はまだまだ重かったようだ。
当然、そんな若僧だからこそ興奮は殆ど冷めなかった。
だがそれも、その”慟哭”を聞くまでだった。
「
ふざけるなあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!
」
すっかり暗くなった闇を引き裂くような声が森を震わせる。
あまりの絶叫に、地面がミシミシと揺れていた。
トリオンはそれが誰の声なのか、初めは理解できなかった。
100年以上、殆ど毎日聞いた声だというのに、その者が発するにはあまりに感情的だったので結びつかなかったのだ。
だが、三眼を使ってその姿を見てしまえば、間違えようはない。
それは、この世の不条理に耐えかねるように地面に膝をつき、天に向かって声にならぬ悲鳴を上げるシセルの姿だった。
ドキリとトリオンの心臓が鳴る。
それは魔人にとってあまりに不穏な光景だった。
先程の声は最初に噴き出した物なのだろう、今は時折言葉にならない音を口から漏らしては、言葉に纏まらない声を、絶望するように吐き出しながら表情を強張らせている。
咄嗟にトリオンは三眼の視線を逸らす。
あまりに痛々しい光景を見ていられなかった。
だが、それよりも己の不安の増大に耐えられなかった。
己の何かが崩れる音がした。
不安はすぐに現実になる。
翌日、王都内の全ての閣僚や官僚が臨時に召集され、広い謁見の間は埋め尽くされていた。
上座には玉座の代わりに巨大な寝台が設置され、そこに血色の悪い先代魔王が苦しみ悶えながらも上体を起こしている。
昨夜から急激に容態が悪化した先代魔王が、意識の限りを集めて、最後の・・・そして最も重要な仕事をしようとしているのだ。
すなわち、”次期魔王の指名”を。
だが謁見の間に充満する期待に満ちた興奮を見ながら、トリオンは胸騒ぎを抑えられなかった。
よほど場に似つかわしくない暗い顔をしていたのだろう。
「・・・大丈夫か?」
トリオンの前に並ぶアイヴァーが、首をひねって気遣うようにそう聞いてきた程だ。
「大丈夫ですよ。 ちょっと考え事をしていただけです」
トリオンは誤魔化すようにそう返したことを覚えている。
だが、胸中のざわめきは一向に収まる気配はない。
昨日”あんなもの”を見てしまったからだろう。
シセルがあそこまで取り乱すのだから、よほどのことがあったに違いない。
そしてタイミングからして、それは先代魔王の口からもたらされた可能性が高かった。
その時、指名と遺言の立会人となる宰相が、謁見の間に静まるように号令を発した。
その掛け声で、場の空気が一気に締まる。
「・・・つぎの魔王・・・は・・・」
謁見の間から完全に音が消えた。
誰もが、医師でさえも次の言葉を聞き漏らすまいと音を殺す。
魔国の将来が切り開かれる瞬間に、誰もが耳を向けた。
だが、
「・・・あ・・・アイヴァーとする」
その希望は打ち砕かれた。
「・・・陛下、今なんと?」
宰相が苦笑いを浮かべながら聞き返す。
だが、その目は笑っておらず顔色は悪い。
すると先代魔王が、顔を顰めながら叫ぶように再びその名を告げた。
「・・・次の・・・魔王は・・・アイヴァーとする!!」
トリオンの身が縮み、胃の辺りが締め付けられるように痛みだす。
参列していた者達の三眼の瞼が一斉に閉じ、その内側で勢いよく動く気配が謁見の間に充満した。
惑うような魔力の視線が、先代魔王とシセルと・・・そしてアイヴァーを貫く。
だがトリオンはアイヴァーの表情を見ることができなかった。
目の前の背中から感じる緊張が、あまりに痛々しくて直視できなかったのだ。
その代わり、トリオンはシセルへ視線を向けた。
魔王への道が目の前で閉ざされた戦友へと。
シセルは震えていた。
数十万の大軍を前にしても怯まず、七剣数人を相手にしたときも眉一つ動かさなかった、あのシセルが・・・震えていた。
トリオンにとって、それは天が落ちるより恐ろしい事だ。
それでも事ここに至ってもなお、先代魔王の言葉を信じられない者は残っていたようで、しきりに、「聞こえませんでした」や「もう一度」といったつぶやきが、亡霊のように辺りに木霊している。
だがそれを聞いた先代魔王は、まるで念を押すように、そして間違えぬように、彼の命の最後の炎を目一杯に燃やしてシセルへ語りかけた。
「・・・余の最後の言葉として、シセル・アルネスに命ずる・・・その力・・・魔国の剣として・・・”アイヴァーの剣”として振るえ」
その声色は死の淵でありながら、”魔王ここに有り”と感じるほどの覇気に満ちていた。
だが、だからこそ臣下たちの混乱は止まらない。
今のは、明らかに”時期魔王”に命じるものではなく、その”直臣”を命ずるものだった。
そして同時に、死の淵の魔王にそこまでさせるだけの者などこの場に他に居ようか、という問題がこの言葉が間違いではない事を臣下たちに突きつける。
先代魔王の意思は間違えようがなかった。
ここに至って、”シセルを魔王に”との声を上げる者はいない。
「・・・謹んで拝命いたします」
シセルがそう答えた瞬間、先代魔王が力尽きたようにその場に崩れ落ちる。
トリオンが咄嗟に三眼を向ければ、なんと先代魔王の心臓が動きを止める瞬間だった。
側にいた医師が慌てて駆け寄り、宰相が我に返って血相を変える。
だがそれも徒労に終わるのは、その場にいた殆どの者が感じ取っていた。
先代魔王の疲れ果てた体にはもう、彼の魂を維持しておくだけの余力は残っていなかったのだ。
ただ、その表情は積年の不安から解放されたように穏やかで、それでいて希望に満ちているではないか。
その表情を見たトリオンは己の狭量さを思い知った。
先代魔王を苦しめていたのは、病でも己の代で消滅させてしまった魔国の威信を思ってのことでもなかった。
ただ、”シセルを魔王に!”と叫ぶ者達が心の内で抱える、勘違いも甚だしい優越感と、暴力性の言い訳でしかない正義が、魔国を根底から腐らせる光景を思い描いて、その絶望に身を腐らせていたのだと。
だが、そこまで思いを巡らせられたのはほんの一部だ。
場に木霊する、様々な絶叫と混乱。
シセルの魔王即位とそこから始まる魔国の復権を信じていた者達は、その”夢”という名の麻薬から、すぐには抜け出すことができないでいた。
トリオンだって、頭で分かる道理を用意できても、それを心の底で飲み込む事はあまりに難しい。
つい昨日まで・・・この場の殆どの者にとっては数瞬前まで描いていた”幸福”を捨てろと言われて、捨てられるなら、それだけで偉業だった。
「・・・我々が先代の、意をそのまま実行する必要はないのでは?」
誰かが呟くと、それに同調するような気配が続く。
「不敬な! 先代魔王の最後の言葉だぞ!」
誰かがそれを叱咤する。
だが、その声色に勢いが無いのは誰の目にも明白だった。
まるで場の総意が先代魔王の言葉を覆せと叫んでいる事の証拠にさえ思えて仕方がない。
そうなると”妥協案”が提案されるまで、時間は掛からなかった。
”今、この場でアイヴァーを消せば、シセルが魔王になるのでは?”
流石に、その言葉を口にするものは居ない。
だが魔人たちの目配せと、僅かに漂う”殺気”が、その言葉を雄弁に語り、事態を急速に進めていく。
アイヴァーの選定を覆すことはできない。
長きに渡って魔王を務めた先代には、”次期魔王の決定権”があるからだ。
だが今アイヴァーが死ねば、次期魔王は自動的に肉親のシセルに移る。
そんな始まり方をすれば、血に塗られた王権とはなろうが、その程度の悪評などのものともしないだけの求心力がシセルにはある。
その”悪魔の提案”はあまりに魅力的で、その為に忠臣が泥を被るだけの価値があった。
その証拠に、次に場に渦巻き出したのは、”お前がやれ”という圧力ではなく、”己がやるから手を出すな”という、”名誉の奪い合い”だった。
トリオンが咄嗟にアイヴァーの背を睨む。
新たな魔王の背中は、先程までより遥かに小さく感じる。
だが動けなかった。
”護衛としてのトリオン”が、己の内に渦巻く欲望を危険と判断して押し留めたのだ。
ただその判断の結果として、トリオンは”黙認”を選んでしまった。
それを見た隣の武人が、握っていた棒に魔力を込める。
「新たなる魔王、アイヴァーを讃えよ!!」
唐突に、シセルがその空気を打ち砕くようにそう叫んだ。
その言葉で、渦巻いていた様々な思惑が一瞬にして霧散する。
先代魔王の意は汲めずとも、信奉してきたシセルのその言葉に逆らえる者がいようか。
アイヴァーを称える声に、トリオンが続き、苦渋に満ちた表情で宰相が、血の涙を飲み込んでいるとばかりに臣下たちがそれに続く。
誰にも望まれぬその新魔王誕生の号令が、シセルとアイヴァーを静かに打ち据える。
魔王アイヴァーは、こうして誕生した。
そしてこの日を、魔国の人々は”魔王が死んだ日”と今でも忌み嫌う。
◯
過去の光景を思い出してしまったトリオンは、視線を横に動かして”今代の魔王”を見やる。
すると不思議そうなアイヴァーの視線と目があった。
「珍しいな、トリオンが呆けるなんて」
「少し考え事をしていただけです。 それより、リストは覚え終わったのですか?」
トリオンが誤魔化すようにアイヴァーの”課題”の進捗状況を尋ねる。
アイヴァーの手元には、各国の重要な関係者の顔と肩書と名前が列挙されたリストが握られていた。
精巧な似顔絵付きの特別製のそれは、魔国の社交の為に必要な物だ。
だが、千人を超す名簿の中身を覚えるのは容易いことではない。
「頭が痛いわい。 特に北方人の顔の判別がつかん、こいつなんて見てみろ」
アイヴァーがそう言って名簿の一点を示す。
それはこのリストでは珍しい幼い少女だった。
「モニカ・ヴァロア。 でこっちが、グレタ・
コンテ。 こっちがレベッカ・モンテーラ」
アイヴァーが次々にリストの顔を指さしていく。
「この絵じゃ、見たとき分るか不安だ」
アイヴァーがそう愚痴った。
モニカ以外は皆成人女性だが、確かに似ているといえば似ている。
全員が北方のホーロン系で、資料によれば血縁としても同じ系統の10親等以内。
純人族が見ればすぐに分かるのだろうが、魔人の感性では正直違いを記憶するのは難しい。
「魔力が極端に大きければ”モニカ・ヴァロア”ですよ」
トリオンは、入場時の事を思い返しながらそう答えた。
あの魔力量は人混みに紛れたとしても、魔人であれば簡単に気がつく程異彩を放っている。
だがそれを聞いたアイヴァーは、憤慨するように頬を膨らませた。
「あやつはもう知っとる! 魔力なんぞ測らずとも、小さいから見りゃ分かるわ! 妾は他の連中を見分けたいのだ!
モニカ・ヴァロアの特徴はもういらん!」
そう言って駄々をこねるように不満を口にするアイヴァー。
だが、確かにもう覚える必要のないモニカ・ヴァロアばかり情報が増えていっている。
「ホーロン人は見分けがつかん、どいつもこいつも同じ顔に見える。
この街にも”ホーロン系”がいるせいで、子供を見る度、何度”モニカ・ヴァロアがなんでここに!?”となったことか」
アイヴァーがそう言いながら、手元のリストの絵を睨みながら指でつついた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
”ヒューーーーーロッロロ” というトンビみたいな音を響かせ、山脈の上を優雅に飛んでいるのが見えた。
ん? あいつよく見りゃ翼長10ブル(m)くらいない?
何食ったらあんなデカくなんだか。
後ろに見えるバカでかい飛行ゴーレムが、そんなに大きく・・・変わんないか。
さすがにマグヌスの飛行ゴーレムの巨大さは格が違う。
それでも、そんな怪鳥サイズで兵器に近づいたら・・・ほら追っ払われた。
マグヌスの護衛部隊だろうか、20ブル級の飛竜が吠えながら飛んで来て、”デカトンビ”というか巨大ワシを追い払ってしまった。
あの怪鳥も普段なら無敵の王者だろうに、縄張りをいきなり世界最強の戦力達の巣窟にされて災難だな。
経験のない恐怖に駆られた巨大ワシが、思わず漏らした白い糞が隕石のように落ちてきて街の結界に当たって弾ける様を見ながら、なんともアンニュイな時が流れていく。
ラクイアは昨日から始まっているが、俺たちの宿のある”ポカラ”の街は、会場となる”ルクラ”とは6000ブル級の山を一つ挟んだ所にある衛星都市のため、拠点にしているアルバレスの”第2隊”の関係者が時折焦って走っていく他は、”マグヌス第8航空艦隊”の飛行ゴーレムの一隻が毎日交代でやってくるくらいで面白味がない。
お察しの通りここは、”俺達のために”急遽設けられた拠点で、会議の流れが不穏になるまでは特に何かあるわけでもない場所。
住民もここに誰が泊まっているか知らされてないらしいので、長閑なもんだ。
”ヒューーーーーロッロロ”
「・・・ヒマだねー」
モニカが窓から空を眺めながら呟く。
現在、俺達に”やること”はない。
アルトヴラ商会の宣伝に駆り出されて以降は、これといった用事は”モニカ連絡室”と”アルトヴラ商会”と”ヴァロア家関係者”が処理して、俺達が表に出ていく機会がないのだ。
そればかりか、この宿屋の最上階から出してくれる気配すらない始末で、気軽に散歩すらさせてはくれない。
連中も”狙い所”は分かっているようで、俺達にではなく、スコット先生やルシエラに止めるように言ってる徹底ぶり。
・・・あと”緊急回線”でベスから”お小言”が1時間毎に届く。
夜中も届いたので、おそらく回線の限界で溜まっているのだろう。
魔王入場でのことを誰が伝えたのかは知らないが、流石にこれはオーバーキルが過ぎる。
まあ原因となったのは俺達の”蛮行”のせいなんだけどね。
どうやら俺達の関係者は、俺達の危機回避能力に重大な欠陥があると判断したらしく、争い事の匂いからできるだけ俺達を離す事にしたらしい。
無理もない。
実質的に俺達を名指しで殺そうとしている相手に、こちらから近づいて、仕方がないとはいえ魔力をぶっかけたのだ。
あとから聞いた関係者の狼狽っぷりは想像に固くない。
特にルシエラが酷かった。
彼女もクリステラの戦力として飛び回らなければならぬというのに、今日だけで既に2回来ている。
その度に空中が臨戦態勢になるので面白いのだが、クリステラから「こんなこと言う義理はないけど、頼むから大人しくしてろ」という内容の連絡が、殆そのままの文言で届く始末だ。
彼の国もこの会議の前からずっと苦情を出し続けているから、段々言葉も飾らなくなってきている。
おかげで俺達は、スコット先生とルシエラと、彼等に脅されたエリクと、時にその両方に監視されながら、偶に宿のワンフロアを時々散歩するしかできないでいた。
侍女のアルトとのお喋りもネタは尽きるし、彼女だって忙しそうに動き回っている。
さてどうしようか。
モニカが窓から視線を外し、部屋の中を見る。
そこではスコット先生がエリクに、”剣のコツ”のようなものを教えていた。
「下手な剣を使うよりも、指の方がよく切れる」
「えっと、こんな感じに・・・あ・・・」
エリクが小さくうめき声を漏らした。
彼の指の下では、硬いパンがその下のまな板ごと真っ二つになっているではないか。
「だが、見ての通り指だと切れ過ぎるからな、おかげで剣よりも制御の練習になるが」
「なるほど!」
なるほどねー
って心の声が微かに聞こえながら、モニカが持っていた木切れの端材に指を当てる。
だが端材が切れる筈もなく。
「切れ過ぎて難しいなら、慣れるまでは手全体を使うといい」
・・・
『・・・あれは、そっとしておこう』
『そうだな、そっとしておこう・・・』
その内きっと、とんでもない剣士が出来上がっていることだろうが。
『ルクラの様子は?』
『ウルによれば、魔国との接触が中々持てないらしい。
どうも事前に情報が流れるのを嫌ってるのか。
”魔王が襲われたから”の一点張りで、外交を制限しているみたいだな』
『ふーん』
特に変化のない回答に、モニカが気怠げに相槌を打つ。
だが、その内ではソワソワとした焦燥感と、何もできない絶望感が燻っていた。
緊張感のない状態で、漠然と不安を抱えながら”何もできない”というのは、中々にキツイものがあるらしい。
極寒の氷の大地で何日も動かずに獲物を待ち続けられるモニカですらそうなのだから、それはきっとどうしようもないのだろう。
ちなみに俺はどうかって?
もちろん、やることが多すぎて、それどころではない。
ただでさえ、膨大な通信の傍受と解析に手間を掛けている上に、俺達の関係者に配った”御守”に偽装した”端末”からの情報の解析も大変だ。
その上、装備の更新や確認も終わる気配はない。
何せ今回の為に、ほぼ全ての装備を最新式にアップデートしたのだから。
デバステーターを始めとする、”決戦兵器”達の調整も言わずもがな、持ち込んだ”基本装備”もかなりの数だ。
他にも関係者用に用意した”小物”や、あっと驚く”大物”まで、数えだしたらきりがない。
そして、その全てに調整と確認が必要になる。
今もエリク用の”超大出力兵装”の調整にてんやわんや。
ヴィオが主体の装備とはいえ、俺達が矢面に立てない今回は事実上の切り札だし、エネルギー周りは俺の総力を注ぎ込んでいるだけに手は抜けない。
そんなわけで、俺のリソースはカツカツだし、それを管理する俺自身の意識もとても不安に苛まれる様な余裕はなかったのだ。
モニカがため息をつく。
今はアルトも用事があって一階に降りているし、俺がこんな状態なので、まともな話し相手が誰もいない。
仕方ないので彼女は視線をまた宿の窓から見える山脈の景色に戻したが、相変わらずそこには、絵に描いたような壮大な景色が全く変化なく広がっているだけ。
10階建ての宿屋の最上階とはいえ、”スイートルームだぁ!”と喜ぶ価値観も薄いモニカにしてみれば、地面から遠い牢獄でしかないようだ。
変化らしい変化といえば、先程から空を右往左往している巨大ワシがどこを飛んでいるかくらいか。
もちろん、そんなものが刺激になるわけもなく。
まあ俺としては、このまま何事もなくラクイアの期間が終わってくれればそれに越したことはないのだけれど。
さて、意識を”俺の仕事”に戻さねば・・・
一気に外側の情報を限界まで思考の隅に追いやった俺は、代わりに今取り掛かっている”作業”へ注目した。
現れたのはヴィオが絶賛御執心中という、大きな”巨大剣”の姿。
パッと見だけならその辺に転がってそうなくらいシンプルなそれは、だがしかし”データシート”に書いてある内容が、あまりにもあんまりだった。
刃渡り・・・・11ブル(約11.5m)!?
何に使うのこれ!? ・・・・ あ、”例のあれ”に持たせるのね ・・・・
って、大型吸魔器6基直列!? しかも昇圧用のバッファを12重!?
しかもそれを20サイクルで接続するって・・・ねえ、ヴィオさん仕様書に書いてるこの数値、予定してるデバステーターの最高出力を超えてるんですが、間違いじゃ・・・あ、そう・・・大丈夫と、どうなっても知らないよ?
そうやって、俺はヴィオとやり取りしながら構造を詰めていく。
それは今見ているような、勇者でも叩き潰すのかと思うような武装もあるが、可動軸の遊びの大きさといった小さなパラメータの変更も多かった。
他にも例えば・・・
『ねえ』
この情報処理ユニットは、今回の目玉の一つ”アイ・オブ・ジ・・・
『なんか来てるよ』
モニカの言葉に、俺は即座に周囲の状況を確認する。
”来た”というからには、それは既にこの場にいるスコット先生やエリクではないし、まだ階段をドタドタと駆け上がっているアルトでもないだろう。
”なんか”というからには、窓の向こうでかつてない勢いでユリウスが突っ込んで来ているのも、それにまたがる焦った顔のルシエラの事でもないだろう。
ついでに、俺的には”なんか”の範囲に含まれるが、この場の真剣度的に、挨拶もなしにいきなり現れた”サルモネラ将軍”も一応対象外だ。
そいつは、サルモーレと同じくらい唐突に現れていた。
モニカの視線がそこに流れた瞬間、部屋の扉が勢いよく開け放たれ、走り過ぎて息を乱したアルトが汗を振りまきながら飛び込んでくる。
「モニカ様!!」
何を言おうとしているのかは分からないが、その内容が手に持っている”書缶”に関連するのは間違いないだろう。
続いて、空中でユリウスからジャンプしたルシエラが、窓枠に着地しそのまま俺達を抱え込むように、”そいつ”の前に躍り出る。
だが、”そいつ”を見た瞬間、固まるように息を呑んだ。
「モニカっ・・・」
その口調からして、彼女がパワーバランス的に弱い立場であることが窺える。
つまり、現れたのは”ルシエラの知人”というわけだ。
スコット先生が油断のない表情で見つめながら、流れるような動作で側に置いてあったヴィオをエリクに押し付けるように持たせる。
「モニカは前に出ないでくれ」
その言葉に焦りの色が滲んでいるからして、相手はそれだけの実力があるのだろう。
対して、サルモーレの表情に切迫したような物はない。
「すいませんモニカ様、この人達、物事の”段取り”ってものがないんですよ。
やりやすい相手ではあるんですが、第三者が絡むとどーもコノザマで」
というからには、少なくともマグヌスとは何らかのやり取りがある相手なのだろう。
それがこちらに飛び火したという事か。
最後に、現れた”そいつ”が俺達を見回しながら、言葉を発する。
「『どうやら、サルモーレ将軍の言葉通り、早急に過ぎたようですね』」
その言葉は、耳にも頭の中にも響いている。
だが、不思議なことにアルトには届かなかったらしく、メイド服の彼女は急いで飛び込んだは良いが、何が起こっているのかわからないように、視線を”そいつ”以外に向けて動かしている。
エリクも似たような反応か。
何かは感じているようだが、それがはっきり見えていないといった様子で、”そいつ”の周りに目を凝らしている。
反面、何度も”似たようなの”と付き合いがある俺達や、ルシエラやスコット先生は冷や汗を流しながらそいつを見ていた。
俺達の中を、言いしれぬ”恐怖”が渦巻くが、その感覚にも覚えがあった。
これはその者を護るために、世界が行う配慮。
「はじめまして、私は此度の”ラクイア”にて産まれた、”緑の精霊、ルクラ”と申します」
そう言ってそいつはぎこち無く腰を曲げて挨拶した。
その言葉通り、全身は緑色に発光し、感じる圧力に身の内が縮こまる。
モニカが説明を求めるように周囲を見渡すと、急いで飛び込んできた者達はなんとも苦い表情を作った。
その中で、問に答えたのはルシエラだ。
「・・・こんだけ戦力が集まるとね。 産まれるのよ・・・”魔力精霊”が」
ルシエラの説明は驚きではあるが、至極真っ当だった。
何せ、本来山奥の田舎に、突発的にアクリラと比較できる量の”魔力源”が集中しているのだ。
どうやらこの”ルクラ”を名乗る精霊は、この街に超戦力が集まりすぎて発生する、”魔力精霊”らしい。
だから名前も、ルクラなのだろう。
彼はこの会議の期間だけ顕現し、会議が終わると自然消滅する。
その度に存在や魔力傾向は変わるらしいが、記憶はある程度引き継いでいるとの事。
「『私としては、会議の度に起きる感覚なのですがね』」
そう語る”会議の精霊”の言葉はなんとも軽いものだった。
『”えらいひと”?』
『・・・たぶんな』
モニカの問に俺は渋々答える。
肩書を聞くだけなら、おそらく王族でも頭を下げねばならぬ相手だ。
俺の感情からそれを察したモニカは警戒感はそのままだが、それでもアルバレス式の”最敬礼”で精霊を向かい入れることにした。
「はじめまして、”モニカ・シリバ・エドリマス・タラス・コモド・ヴァロア”です」
その言葉が、今回のために俺が用意した【社交】の機能を利用してのものではなく、モニカ自身の言葉だったのは、彼女の本能がこの精霊の前で謀ることの愚を悟ったからだろう。
そしてそれは間違いではなかったようで、精霊ルクラはただの挨拶を受けたにしては随分と気分を良くしてくれた。
「それで・・・”せいれい”様は、なんのごようでしょうか?」
続けてモニカがルクラに問いかける。
すると彼は、これぞまさに”超越者”と言わんばかりの笑顔で答えた。
「『どうか今夜、”竜王陛下”に会っていただきたいのです』」




