2-X10【幕間 :~煉瓦の悪夢~】
”その日”がいつだったか、正確な記録は残っていない。
ただ、”投票”が行われた12年前の夏から、最初の蜂起が起こった10年前の秋までのどこかの間にその日があったことは確かである。
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アルバレスの広大な国土のどこか、厳重に秘匿された場所に造られたその”儀式場”はとても暗く、地下牢を思わせる雰囲気に包まれ、とても陰湿な空気に満ちている。
壁も床も、専門の魔法士が数人がかりで描き込んだ爪の先程もない魔力回路でびっしりと覆われ、それらが魔力を吸って発生する仄かな光だけが、この場唯一の光源だった。
しかも全方位から照らされて影が潰れ、更に様々な色が乱反射するせいで余計に全てが浮世離れして見える。
そしてその中心には、これまた全身に魔力回路を描き込まれた痩せこけた少年が、何も着ずに部屋の中心にうずくまり寒さでカタカタと震えていた。
”観客達”も普通ではない。
”儀式”を管理する魔法士達も、監視のために送られてきた”聖王教会”の司祭達も、目を血走らせている国の高官たちも皆、儀式を妨害しないように魔力の漏れぬ長丈の服を着込み、全ての肌を黒か白の特殊な塗料で塗装していた。
唯一人の例外は、少年の正面に立つ”見届人”の長身の若い女。
”光弓の勇者:ライザ”のみである。
当時全盛期を迎え、アルバレスの切り札だった勇者を見届人に立てていることからもわかる通り、この儀式にかけるアルバレスの期待は並のものではない。
部屋の大きさも、魔力回路の量も、投入される魔力の量もこれまで行われてきた”この儀式”の比ではなかった。
魔法士の手により、中央の少年の周りに沢山の武器達が置かれていく。
その全てがアルバレスで造られた最高ランクの武器であり、その全てに部屋と同様の回路が書き込まれている。
それを置く魔法士達も真剣な眼差しで位置を何度も確認して、横には回路に不備がないか確認する者が付いて動いていた。
だが、観客も含めて誰も言葉を発さず、魔法士達も訓練されたハンドサインでやり取りを行っているせいで、素人目には何をしているのか分からない。
魔法士達の空気はまるで、言葉を話せばこの場が爆発してしまうかのような・・・
だからその儀式の始まりの合図を専門家でない者が認知するのは難しく、実際に今回も参加者の殆どにとっては気づけば始まっているという印象だった。
儀式が始まると、すぐに”見届人”のライザの目が鋭くなる。
すると間髪入れずに少年の周りで空気が渦巻き始めた。
”変化”を察知した少年が瞼を押し上げ、恐怖の目で周囲を見回す。
だが体はカタカタと揺れるだけで動かない。
次第に部屋の中に大量の魔力が充満し始め、その光で薄暗かった室内が真昼のように明るく輝き始めた。
さらに靄の様に不定だった魔力の形も徐々に纏まり始め、まるで血管のように筋状に並び始めたではないか。
それはまるで”立体の魔法陣”の様な光景だ。
いや実際にそうなのかもしれない。
なにせ使われている回路や概念は、現代のどの魔法とも異なっているのでわかりようがないのだ。
そしてその魔法陣は一旦完成すると、何度も何度も魔力を流してはその度に小さくなっていき、内側が少年の体に触れてはまるで取り込まれる様に消え、その度に少年の顔が悲痛に歪んだ。
だが少年は、まるでその形のまま縛られているかのように、姿勢は変わらず声も出ない。
結局、彼がその苦痛から解放されたのは、”立体の魔法陣”が完全に取り込まれた後の事だった。
その場の全員の目が、突然倒れこみのたうち始めた少年に釘付けになる。
見た目上、少年の姿に変化はない。
だが存在が変わってしまったことは誰の目にも明らかだ。
少年の内側から魔力が脈打つように光り、その度に少年の周りに血が飛び散る。
だが、どれだけ血が飛んでも少年の体に変化はなかった。
その反応にライザの目の色が変わり、他の観客達が無言で頷きあう。
この瞬間、その場の全員が新たな”勇者”の誕生を確信したのだ。
だがすぐに彼らの興味は未だ苦しみに呻く少年を無視して、その周囲へと散らばった。
空間には立体の魔法陣の最外縁部が未だ漂って残っており、それが纏まった魔力がまるで拠り所を求めているかのように彷徨っていた。
観客達・・・特に政府の高官はその動きに目で追い、周囲の武器に近づく度に息を呑んでいる。
この魔力が入り込んだものが、この勇者の”武器”になる。
剣か、槍か、鎚か、弓か、他にも奇抜な武器がたくさんあり、そのどれが選ばれるかは分からないが、強さの質がその武器の特性に依存する以上、どれが選ばれるのかはかなり重要度の高い事柄だ。
特に今回は、かつて前例のないほどのリソースを投入している以上、出来上がる勇者もまた前例がないだろう。
高官達は魔力が武器に近づく度に、拳を握って固唾を飲み込んだ。
だが空中の魔力は、まるでいつまで経っても宿り先を見つけられないかのように彷徨ってばかりで、落ち着かない。
ライザが魔法士を見る。
彼女の時は、まるで最初から決まっていたかのように弓が選ばれたので、今回は何か問題が発生しているのかと思ったのだ。
だが魔法士も不安そうな表情で首を振るだけ。
すると残った魔力が、その場の全員の想像を超える反応を見せ始めた。
武器が置かれているエリアを抜けると、なんと部屋中に移動範囲を広げ始めたのだ。
今では武器どころか、観客の持っている物や本人達まで近づいては離れ、床の埃にすら興味を持っているように見える始末。
その予想外の反応に観客達は大いに慌てふためいた。
この場で一番経験のある魔法士ですら、魔力が接近した時、飛び上がったように後ずさる程。
幾人もの勇者の誕生に立ち会ってきたこの者でさえ、このような魔力の振る舞いは初めての経験だったからだ。
そして魔力が、部屋中の全ての物品を物色し終えた頃、ようやく自分の宿り先としてふさわしい”物”をみつけた。
突然、魔力がまるで吸い込まれたかのように直線的にさっと動き・・・そのまま”壁の中”へと吸い込まれだのだ。
その、あまりにもの予想外の結果に誰もが目を見開いて驚く。
唯一反応できたのはライザのみで、彼女は魔力が吸い込まれると同時に駆け出し、魔力の消えた壁をすぐに殴りつけた。
表面の盛り土が吹き飛び、その向こうの煉瓦造りの赤い構造が顕になる。
更にライザは、手で掻き出すように煉瓦を砕き出し続ける。
勇者の力では煉瓦の壁など藁よりも脆い。
だが2ブルほど掘り進んだ頃だろうか、とつぜん”ガキン!!”という音がしてライザの手が止まった。
全員の目がそこへ集まる。
ライザがゆっくりと周りに見えるように横へどくと、そこに見えたのは、削り取られた煉瓦の穴の中と、その中心で唯一つだけ無傷だった煉瓦が突き出ている光景だった。
その煉瓦の表面は赤土で出来ているにもかかわらず、魔力で薄っすらと黒く光っている。
”選ばれたのは、この煉瓦だ”
それを見たライザが高官達を振り向いて苦い顔で首を横に振り、次の瞬間、深い失望の溜息が部屋を包み込んだ。
そして月日が流れる。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
現在。
アルバレスの西のとある一帯・・・現在では”ハイエットの領域”と呼ばれるその地域では意外にも・・・外から思われているよりは、まともに人々は生きていた。
・・・少なくともこの村では。
アルバレス時代からの慣習で”ゼルタ村”と呼ばれているこの古い集落では、300人ほどの住民達が見た目上は穏やかに暮らしていた。
作物を育て、家畜を育て、その恩恵に感謝しながら生きる。
下手に経済社会に染まって荒涼としているアルバレスの他の地域に比べれば、随分と健全に思えるほど。
その村の西側に作られた家の中では、この村の村長のケルファが彼の娘と共に朝食を摂っていた。
「おとおさん、ぜんぶたべれたよ!」
今年6歳になったばかりのケルファの娘がそう言って、嬉しそうに空になった木の皿を父親に見せる。
するとケルファは、それ以上に嬉しそうに頭を撫でた。
「そうか、よくがんばったなモニカ」
「うん!」
幾度の流産の末、ようやくできたケルファの娘の”モニカ”は生まれたときから体が弱く、よく寝込んではケルファ達を心配させていた。
食が細く栄養失調気味なので5年は保たないと言われたが、最近ではだんだん体力もつき始め、同年代の子よりはまだまだ少ないが、ちゃんと食べる事もできるようになってきている。
これならば10歳を超えることだって夢ではないだろう。
「しっかり食べて、俺みたいに大きくなれよ」
ケルファがモニカに対し、そう言って表情を綻ばせる。
”俺のように大きくなれ”はケルファの口癖だが、モニカはいつもそれに頷いて答えたくれた。
病弱で小柄なモニカにとって、父の大きな体は健康の象徴であり将来の希望だ。
だが今日は意外なことに、モニカは首を横に振る。
「モニカ、おとおさんみたいに、大きくならなくてもいい」
「どうした急に、”おとおさん”みたいなりたいっていつも言ってくれるのに」
そう言いながらケルファはわざとらしく拗ねたようにモニカの顔をつかんでワシャワシャと動かす。
するとモニカがキャッキャと喜声を上げてよろこんだ。
「きゃははっは、モニカね、”きたのモニカ”になりたいの」
「”北のモニカ”?」
「うん、クレルさんがおしえてくれたの、わたしとおなじでちっちゃくて、とっても、とーーーーーっっても! 強いんだって!」
モニカが目を輝かせながらそう言ってきた。
「そういえば、そんな噂があったな」
ケルファは、数週間前からチラホラ聞こえ始めたその話のことを思い出した。
曰く、ここから北のヴァロア領の孫娘がモニカという名前で、しかもたいそう強いんだそうだ。
噂では”ハイエット様”よりも強いという声すらある。
外の噂は、モニカが名を挙げた”レンジャー”のクレルがどこからか仕入れてくる。
ただ所詮は伝聞なので尾ヒレが付いているので、ケルファはその点については全く信用してなかったが、外界と隔絶されたハイエット領にまで流れてくるからには、その噂は外ではとんでもない騒ぎなんだろうなとは思っていた。
いや、愛娘と同じ名前の少女の活躍に、単純にどこか高揚する感情を持っていたのかもしれない。
「モニカは、その”モニカ”みたいになりたいのか?」
「うん、モニカ、”モニカ”になりたい!」
モニカが元気いっぱいの声でそう答える。
彼女がここまで元気なのは珍しかったのでケルファは嬉しくなった。
”ハイエットの時代”に生まれたモニカは、ケルファにとっては、今を生きる希望の象徴だ。
ケルファは心の中で、”北のモニカ”に感謝し同時に念じる。
顔も知らない”モニカ”へ、どうかモニカの最期まで、彼女の目標であってください・・・と。
「じゃあ、強くなるために夜もしっかり食べないとな」
「うん! すぐに強くなって、私も”集力”のお手伝いする!」
モニカのその返事にケルファは苦い顔をなんとか隠した。
◯
朝食の後片付けを済ませると、早朝から村の用事で出かけていた彼の妻が暗い顔で現れた。
「モニカ、ごはん食べてくれた?」
「ああ、全部残さず食べてくれたぞ」
ケルファがそう言うと、彼の妻はホッとした表情を浮かべた。
「よかった、ここ数日で唯一の明るい話だわ」
妻はそう言うと、苦さの混じった笑顔を浮かべた。
だが、その言葉の裏に隠れた意味にケルファが少し落胆する。
「ということはシタデルの所の収穫は・・・」
「”集力”に回せる分は殆ど無いって」
「・・・わかった」
ケルファはそう答えると、眉間を指で揉みながらため息を付いた。
「私の”血”も使って」
妻が心配そうに言う。
だがケルファはそれを首を振って止めた。
「俺達が”血”を出したくらいでどうにかなるもんじゃない・・・”ハミルトンさん”に話してみるよ」
「”あの人”・・・怒らないかしら、ほら不気味でしょ?」
「大丈夫さ、前に今よりも少なかった時でも、何もなかっただろ?」
「でも隣の村は、村ごと半分”集力”されたわ」
妻が青ざめた表情でそう言う。
だがケルファは肩を抱いて宥めた。
「いいか、うちの村は安定して”力”を納めてきたし、これからもそのはずだ。 村を持っていけば来年からはない。 ハミルトンさんも・・・ハイエット様もそんな馬鹿なことは考えないさ」
「そうだといいんだけれど・・・」
妻はそう言って心配の色を強めた。
◯
ハイエット影響下でも村長の仕事は大して変わらない。
村の状況を確認して、様々な状況に対応するのが主な役目だ。
目下の最大の問題は、早ければ今日にもやってくるかもしれない”集力”への準備。
村の中心にある倉庫には、村中から集められた様々な物品が所狭しと置かれていた。
だがその物品は驚くほど統一感がない。
ハイエット領の数少ない良いところは、差し出すものが”なんでもいい”ということだ。
それこそゴミだって構わない。
全て魔力的に変換されて持っていかれるので、物質であればそれだけで価値があるのだ。
ケルファは倉庫内をざっと見回してから、横に作られた柵へと向かう。
そこには村の家畜や、周囲で捕まえた生きたままの獣が集められていた。
肉食の狼達が口と脚を縛られ、自由な牛達を恨めしそうに見ている。
これらも全て”集力”のための生贄だ。
”集力”に差し出す物はどんな物でもいいが、生きていればそれだけで価値が数倍に跳ね上がる。
この狼の一頭で、2家分のノルマにはなるだろう。
だがその数を数えながら、ケルファは溜息をつく。
「9割・・・やっぱりあと少し足らないか」
それでも他の村に比べればマシな方だろうし、妻に言ったとおり、以前は7割でも大丈夫だった。
もっとも・・・保障など無いのだが。
不安に思ったケルファは倉庫の中へと入ると、ハイエットから貸し出されていた”変換器”へと近づき、その上部に腕を伸ばし、ナイフで小さく切って血を滴らした。
変換器に触れた血が塵のように砕けて”力”となって吸い込まれる。
これは”集力”の日まで保存できない物を予め変換しておくための物だが、動物の血抜きをここでしたり、こうして住人がちょっとずつ血を捧げると案外馬鹿にできない量になる。
だが、当然ながら1回やった程度では雀の涙でしかない。
それでもケルファに不安を抑えるためにやる以外の選択肢はなかった。
その時、不意に後ろから誰かが近づく気配を察知して、ケルファが後ろを向く。
「探したぞ」
そこにいた人物がそう言って、こちらを見つめてきた。
その顔は、ケルファも知ったものだ。
「”ファルタ”?」
怪訝な表情でケルファが聞く。
その顔は、去年村の半分ごと集力された隣村に住んでいた従兄弟その物だった。
すると予想通りファルタが頷く。
だが纏う雰囲気はまったくの別物だった。
「ファルタ・・・生きてたのか?」
「俺は仕事で外に出てたからな、だが家族は持っていかれた」
ファルタが沈痛そうにそう答える。
「そうか・・・だが、お前が助かってよかった」
ケルファはそう言うと、奇跡的に助かった従兄弟の体を抱きしめた。
だが、ファルタは抱き返さないばかりか、直立したまま動かない。
「・・・ファルタ?」
ケルファが怪訝そうに従兄弟の目を覗き込む。
だがそこにあった目は、ケルファの知っている従兄弟のものではなかった。
「悪い・・・お前の所しか、奴らが来る”場所と時”を知らなかったんだ」
ファルタがそう言うと、驚いた事にその後ろから何人もの見知らぬ者達が現れたではないか。
「誰だ・・・そいつ等は」
ケルファがそう問うと、ファルタの代わりに見知らぬ集団の頭目と思わしき男が前に出て名乗りだした。
「はじめまして村長さん」
「誰だあんたら!」
「俺達は協会指定冒険者、”黒金の短剣”のメンバーです」
男はそう言うと、ニヤッと笑いながら真っ黒な短剣を取り出す。
すると他の者達も揃いの短剣を見せた。
この短剣が彼等の”印章”か何かだろうか。
「悪いが、今回はこの村を俺達の”踏み台”にさせてもらう。
”柱”の一人が近日中にこの村に来ると聞いてね」
「ファルタ、どういう事だ!」
ケルファが怒鳴るようにファルタに問う。
だがそれに対して、ファルは燃えるような瞳で見返してきた。
「見ての通りだ、この人達に”村の仇”を取ってもらう」
「この村を巻き込む気か!」
「だから謝ってる。 だが、正直に言えば、俺は奴らに一矢報いれればどうでもいい」
「お前!!」
ケルファがファルタに掴みかかる、だがそれは、即座に割って入った黒金の短剣を名乗る男に割って入って止められた。
「まあまあまあ、俺達はAランク魔獣討伐経験もあるプロです。 遅れは取らない」
男がそう言うと、他のメンバーが自信ありげに各々の武器を掲げる。
”Aランク魔獣”という言葉にケルファの心が一瞬グラつく。
門外漢のケルファにしてみれば、ハイエットも彼等も雲の上過ぎて実力が分からない。
「何しに来た?」
ケルファは鋭い声で聞いた。
すると男はニカリと笑う。
「まずは”柱”を一人ずつ、確実に撃破していく。
確かに奴らは厄介かもしれないが、俺達全員でかかれば倒せるだろう。
各個撃破と一撃離脱の繰り返し。
”柱”さえ落とせばハイエットは弱まる、そうなれば俺達が手を出さずとも、すかさずアルバレスが潰しに入りますよ・・・もっとも、そこまでする必要がないかもしれませんが」
男はしたり顔でそう語って聞かせた。
その内容を、ケルファは高速で吟味する。
いくらハイエットといえども、その部下ならば彼ら全員でかかればどうにかなるのではないか。
そんな思いが、ケルファの中で芽生え始めていたのは事実だ。
だが、だからといって村を危険に晒すのは論外である。
「この村から出ていってくれ! こんな所をハミルトンさんに見られでもしたら・・・」
「私に見られたらどうなりますか?」
突然、その場に響いた声にその場の全員が一斉に振り向く。
するとそこには、確かにさっきまで存在しなかった筈の人影が・・・
「ハミルトンさん・・・」
ケルファが呟く。
その人影はこの近辺の人種のものではない。
そればかりか、”人”ですらなかった。
顔は非常に細長く、頬は鮮やかな色をしており、腕は足の倍の長さがある。
男の癖に貴族の女執事などが着ている服を身につけ、全身黒ずんだ赤に統一していた。
話によれば”猿”の1種ということだが、スラリと垂直に立つ姿は異様な知性を感じさせていた。
「ゼルタ村長さん・・・ケルファさん、そちらの方達は?」
「し、知らねえ連中だ! 勝手に入ってきた!」
ケルファが咄嗟に叫ぶ。
ハミルトンに対し害意があるわけではないとアピールしなければとケルファは必死だったのだ。
だが見知らぬ冒険者達は、口だけではなかった。
即座に動くと一瞬にして視界から消え、凄まじい速度で倉庫の壁を破ってハミルトンを取り囲んだのだ。
あまりの早さにケルファの目では追えず、突き破られてバラ撒かれた壁の破片の雨に打たれて目を閉じるしかない。
「チーフ! チャール! マチルダ! 相手は小型、”封殺陣”を敷くぞ!」
リーダーの男の言葉で即座に完成する必殺の陣形。
冒険者達は、まるで全員で1つの生物ののように滑らかに連携し、3人がかりの超高難度捕縛魔法と、3人がかりの超高難度攻撃魔法が一瞬にして完成していた
Aランク討伐経験ありというのは伊達ではないらしい。
だがハミルトンは不思議そうな顔でそれを見つめるだけ。
それも明らかに動きが遅い。
「予想が当たったぞ! こいつ反応が鈍い!」
冒険者リーダーの男が勝ち誇った様にそう叫ぶ。
すると連携の捕縛魔法から放たれた魔力の鎖が、四方八方からハミルトンを包んで縛った。
「やはり、貴様らの力はハッタリのようだな」
冒険者の男が、勝ち誇った様に叫んだ。
「貴様ら、”ハイエット”じゃねえだろ!」
するとケルファが驚いた顔で冒険者達を見回す。
「・・・はて?」
一方の赤黒の猿は、魔力の鎖にがんじがらめになりながら首を傾げていた。
だがその動きは哀れに思うほどぎこちない。
「どういう事だ!?」
ケルファがファルタに大声で問う。
するとファルタは不気味な笑みで答えた。
「ハイエットなんていねえんだよ」
それを聞いたケルファに激震が走る。
ハイエットがいない? どういう事だ。
すると冒険者の男が補足した。
「よく考えてみな。
”西の屈辱”のあと、ハイエットの存在を示すものは、無秩序に動き回る奴の”城”と、その周りでチョロチョロ動き回る連中だけというじゃないか。
しかも力を示しているのは、そこの”ハミルトン”と”クライン”って野郎だけだ。
だが、それがこのザマ、動きも反応も素人丸出しときてる。
つまり、こいつらはハイエットの”威光”を笠に着てるだけの、弱者にしか手を出せねえ連中なんだよ」
その言葉にケルファが愕然となる。
心のどこかで”そんな訳ない”という叫びが聞こえるが、現に目の前の、あのずっと恐ろしかったハミルトンは本物のプロ相手に手も足も出ず、鎖の内側でプルプルと震えるしか出来ないでいるのも事実だ。
「じゃ、じゃあハイエットはどこに?」
「大方、”スティナ会戦”で死んだか、その時の傷で死んだか。
少なくとも今残っているのは、”災害城”とその”寄生虫”だけ。
いや、そもそもハイエット自体がアルバレスの”でっち上げ”かもしれん」
冒険者の男が鎖を手繰って徐々にハミルトンとの距離を縮めながらそう答える。
だが、
「”でっち上げ”・・・?」
「ああそうだ、アルバレスが”レンガの勇者”と戦って負けた? そんな馬鹿なことがあるわけが無いだろ。
それに、なんでハイエットは直接対決以降鳴りを潜めたんだ?
そして、こいつらの存在で一番得をしたのは?
それはマグヌスとの国境線が半分以下になり、ハイエット対策の名目で、紛糾していた”勇者増強問題”を解決したアルバレスだ。
つまり”ハイエット”はアルバレスの”自作自演の危機”というわけさ」
「そんな・・・」
ケルファは足元が崩れ去るような感覚と、言い様の無い安心感が同時に渦巻くのを感じていた。
まさか、自分達があれ程恐れたハイエットがただの”作り話”だったなんて・・・
「このまま”刈り取る”ぞ! 気を抜くな!」
冒険者の男が仲間にそう指示を飛ばし、攻撃魔法の要となる剣を抜いてゆっくりと赤黒の猿人に詰め寄った。
「へっ、ハミルトンさんよ。 あんたにゃ、恨みはないが、俺達の”栄光”の最初の一歩になってもらうぜ」
男はそう言いながら、全身に複数の魔法陣を展開し、掲げた剣が光を放ちながら・・・
「” ー 全てはうたかたの気の迷い、気をつけなさい、どちらを見ても、映るは虚像 ー ”」
突然、全てが入れ替わった。
鎖でグルグル巻にされていた筈のハミルトンが、驚いた事にいつの間にかその戒めを解かれて冒険者達の中心で何事も無いように佇み。
反対に周りにいた冒険者達の方が彼等の鎖にがんじがらめになっているではないか。
ケルファが咄嗟に横を見るとファルタも鎖に巻かれていた。
騒ぎを聞きつけた住民が家の戸から顔を出しこちらを覗い、ハミルトンの姿を見て恐れるように少し引っ込める。
ハミルトンは、そんな住民達を無視して冒険者の男に近寄ると、鎖で縛られてプルプルと震える男の顔を、その長い腕で軽く撫でた。
「なかなかの捕縛魔法でしたよ、羽虫でも3人がかりとなればかなりのものだ。 相当訓練したのでしょう。
”黒金の短剣”でしたか。 フリッガで活躍中の冒険者と聞く、よく、海も協会の垣根も越えて来られましたね」
ハミルトンはそう言うと、指をパチンと鳴らした。
その瞬間、冒険者達を縛る鎖が赤黒く変色し、更に強固な物に変わる。
「”ウェンスティ様”や”ブラン様”程ではありませんが私も”概念魔法”を嗜んでおりまして、誠に勝手ながらあなた方の魔法を上書きさせていただきました」
ハミルトンはそんな口だけの詫びを冒険者達に入れると、急に興味をなくしたかのようにケルファの方を向いた。
「ところでケルファさん、あなたは彼等とは無関係なのですよね」
「は・・・はい! そうです!」
ケルファがハミルトンの言葉に縋るように飛びついた。
実際に勝手に巻き込まれただけだし、なんの罪悪感もない。
だが、
「では、そちらの御人を集力してしまってもよろしいですね?」
「え?」
ケルファはハミルトンの視線を追って横を見るとそこには冒険者達と同様、赤黒い鎖でがんじがらめの従兄弟の姿が。
「他の方は、”主柱”方が”実験”に欲しがると思われますが、そちらの方はそれ程の価値が無いのでここで、この村の分と一緒に”集力”してしまおうかと」
「ま・・・」
待ってくれ、という言葉をケルファは寸前で止める。
ファルタが絶望に満ちた目でこちらを見た。
ケルファが心の中で詫びる。
だが、村を・・・家族を天秤には乗せられない。
「それでは・・・ ー 集え・・・ ー」
次の瞬間、ファルタの目の色が”絶望”から”苦痛”に変わった。
皮膚の”キメ”がぼやけ始め、肌色の霧がその周りに現れる。
まるでファルタが空気に溶けていくようだ。
「 ー ”ハイエットの柱”が一人・・・”ハミルトン”が主に代わって、権能を行使する。
意思を捨てよ、全ての幻想を捨てよ、これは死ではない、万物の唯一の真理へと戻り、やがて全てを支える”煉瓦”となってハイエットの”礎”となるのだ ー 」
ハミルトンが、まるで葬送の様な調子で祝詞を読み上げ、それに操られるようにファルタの体が溶けて砕かれていき、砕けた先から魔力へ変換されていく。
と、同時に倉庫の中の物たちも同様に消え始めた。
その間、ファルタは痛みに呻くように震え続け、縛られて口が開かないことで出口を失った悲鳴が笛のように響き、倉庫の隣の柵の中の動物たちが発する断末魔が嵐のように巻き上がる。
ケルファが口を必死に抑えてその光景を見ていた。
いつの間にかファルタの表面が溶け尽くし、その内側の肉や血が砕け始めたせいで周囲の”霧”は赤く染まり、それに伴ってファルタからもれる苦悶の声がどんどん大きくなっていた。
己が”集力”される苦痛は、”痛み”などという次元ではない。
ファルタは今、その存在ごとバラバラに分解されて魔力に変換されているのだ。
だがそれも呼吸器官が消失したところで、突然事切れたように悲鳴が消えた。
そしてファルタの”集力”が終わると、その場に魔力の鎖だけがドサリと崩れ落ちる。
彼の存在を匂わせるものはもう何も残っていない。
集められていた他の物も・・・
ガランとした倉庫が嫌に広く感じる。
まるで最初から何もなかったかのように。
だが、たしかにそれらが存在された証拠として、溶けて変換された魔力は依然として宙を舞いながらハミルトンの足元に流れ着いて形を取り始め、最後に3つの黒い”煉瓦”となって現れた。
ハミルトンはその足元の煉瓦を1つ拾うと、その出来を確かめるように掲げて色んな角度から見る。
「あー、”あの方”の分はこの村の”集力”分に加算しておきますね。 今年は不作なので大変でしょうから。
その辺は私が上手いこと処理しておきます」
そう言いながら愛おしげに”煉瓦”を擦るハミルトンは、まるで気の利く商人の様な口調でそんな事を言ってのけ、その不気味さと従兄弟のあまりに酷い死に様にケルファは言葉を失うしかない。
だが”村長”という責任が、彼の口を突き動かす。
「こ、こいつらは、ウチの村とは関係ない・・・。 そこのところ、ハイエット様にはくれぐれもよろしくお伝え下さい」
ケルファは、そう言うと必死に縋るようにハミルトンを見つめた。
「ええ勿論、そのつもりだと先程言いましたよ。
我々も、いたずらに”領民”を削りたくはない」
ハミルトンの言葉にケルファは安堵すると同時に、心の中で愛する妻と娘の名前を何度も呼んで従兄弟を見捨てた罪悪感を塗りつぶそうとする。
これで良いのだと。
ファルタはこの村を危険に晒したのだと。
だが、その願いは最悪の形で裏切られることになった。
不意に、ハミルトンがどこか空中を見つめてブツブツと呟き始めたのだ。
「・・・・ええ、ですからジャック様のおっしゃっていた”侵入者”かと・・・かなりの強さでしたので・・・はい・・・そのように・・・ゼルタ村が関与したとは考えにくいかと・・・おそらく私の”集力”周期を知って来たのでは・・・はい・・・ええ、ウェンスティ様は気に入らないでしょうね・・・はい」
どうやらどこかと通信しているらしい。
半年ごとにふらっとやってきては”集力”していくだけだったので、ケルファは始めて見た光景にそれが何かについては分かっていなかった。
なにより、あれだけ雲の上の強者と思っていたハミルトンがこれ程下手にでるなんて、相手はハミルトンが時々口にする”我が君”という奴だろうか?
その時、ケルファの頭の中に冒険者の男が言った言葉が流れた。
”ハイエットなんていねえんだよ”
ハミルトンの言う”我が君”というのは、本当に存在するのだろうか?
だがその瞬間・・・まるでケルファの頭の中を読んだかのように、ハミルトンが突然弾かれたようにケルファを見つめた。
「えっと・・・ちょっとそれは・・・」
ハミルトンが通話先の相手に口籠る。
何を言われたのか、ケルファはとりあえずそれが”良くないこと”だと直感し、足の中から力が抜けていくのを感じた。
「いえ・・・そのようなことをすれば今回と同様の事が更に・・・今回の事も恐らく前期の”集力”が原因だと考えられますし・・・あぁ・・”それでいい”、と・・・そうですか・・・」
そう言いながら、ハミルトンが申し訳無さそうにケルファを見てくる。
やめてくれ、そんな目で見ないでくれ・・・
「いえ・・・意見するなど滅相もございません・・・はい・・・わかりました」
ハミルトンはそう言うと、虚空に向けていた顔を戻して通話を打ち切った。
「ふぅ・・・ああ・・・残念ですよケルファさん。 本当に残念です」
ハミルトンがそう言うと、彼の体からスウッと音を立てるように冷たい空気が持ち上がった。
「・・・西の”半分”と、東の”半分”、どちらかお選びください」
そして冷酷な”選択”をケルファに突きつける。
「どういうことですか!? 関係ないって!」
「ええ、ですが、今後のためにも”見せしめ”が必要と判断されました。 したがってこの村の半分を”集力”します。
東か・・・西か」
ハミルトンがそう言いながら、強い眼差しで見てきた。
ケルファは堪らずに倉庫を飛び出してハミルトンに駆け寄り、その赤黒い服に縋り付く。
「待ってください!」
ケルファは必死に叫んだ。
だがいくら服を引っ張っても、小さな猿の体はピクリともしない。
「では西を・・・」
「!? 待って! 東を!」
西側には家族がいる!
そう思ったケルファは咄嗟にそう叫んだ。
だがそれを見たハミルトンの表情が、軽蔑したように顰められる。
「ああ・・・なんと醜い」
その瞬間・・・ゼルタ村の西半分がぼやけた。
「 ー 集え・・・ ー 」
「やめてくれえええ!!!!」
ケルファがハミルトンの口を塞ごうと手を伸ばす。
だがそれも、ハミルトンがその異様に長い腕を一振りするだけで崩れ去る。
地べたを無様に転がりながらケルファが村の西側を見ると、見慣れた景色が溶けていくところが見え、その次の瞬間、まるで地獄の底のような悲鳴がゼルタ村を包み込んだ。
溶け出した住民達が、己の死の苦しみに気づいたのだ。
そしてその中には・・・
「あ・・・ああ・・・」
ケルファの目の前、ほんの20ブルほど先の村の中心から西側が全て溶け始め、魔力に変換された色とりどりの霧が虚空に向かって浮かび始める。
ケルファの直ぐ側で一際大きな悲鳴が上がってそちらを見れば、村の中心より西側に下半身だけあった女が、溶けていく自分の足を手で抑えながら、血圧を保持できなくなって腰から飛び出した血の海に沈んでいた。
ハミルトンがそんな地獄の悲鳴を背景に”祝詞”を読んでいる。
その姿は、完全に死神そのもの・・・いや、”起源記”に描かれた死神だってここまで禍々しくはない。
人も物も、土地も空気も関係なく、文字通り村の半分の全てが溶け出し、魔力に変換されていく。
悲鳴すらも。
現れた魔力は村の上空を埋め尽くすほど大量で、それらが纏まりながらのたうつ様は鳥の群れのようにも見える。
だがその群れは、次第に只の流れとなり、支えを失い沈んでいく村の西側からは悲鳴が消えた。
村人達が、消えていく自分の村の前で立ち尽くす。
あっという間に、ケルファの目の前のケルファの家のあった村の西側が消え去り。
その代わりに深い深い谷底が見えてきた。
土地の土ごと魔力に変換された後に出現したのは、定規で線を引いたように真っ直ぐな辺で構成される、四角形の巨大な”跡”だ。
ケルファが這うようにして、”谷の縁”へ近づく。
そこが先程まで村の中心であったことなど感じさせぬほどに、谷の中には何もない。
横を見れば、境界線上には”一部だけ”持っていかれた人や物が並び、中途半端に構造を失った家屋が次々に谷の中に崩れていく光景が広がっていた。
「・・・・も・・・ああ・・・」
ケルファの口から、理解を拒否した問いの声が虚しく漏れる。
そのすぐ後ろでは、ハミルトンが新たに足元に積み上がった煉瓦の山を丁寧に揃えて数を数えていた。
「ふむ、流石に村を半分”集力”すれば結構な数になりますね。 これならば新たに”柱”を立てても問題なさそうだ」
ハミルトンの、あまりにも他人事なその声を聞いた瞬間、ケルファの体がようやく事態を飲み込んでガクガクと震え始めた。
「おや? どうされました?」
ハミルトンがケルファの様子に不思議そうに問うてくる。
するとケルファは、ハミルトンの足元の”煉瓦の山”を指差した。
「い・・・家が・・・モニカ・・・娘が・・・」
それを聞いたハミルトンが少しだけ首を傾げ、すぐに何かを察したような表情を作って煉瓦の山を見下ろした。
「あー・・・そうですか・・・」
そう言うと、今度は彼の赤黒い服の皺を伸ばし、姿勢を正して苦笑いを浮かべたのだ。
「それはご愁傷様ですね」
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唐突に村の半分を失ったゼルタ村では、その混乱が一定の収束を迎えるまで数日を要した。
いつの間にか、まるで住民達が過去を避けるように村の人口密度が東にずれ、”傷跡”の見えぬ丘の下に即席の居を構える者も少なくない。
生き残った者でさえ、殆どが何かを失っていた。
家ならまだいい。
数日の捜索の末、家族を失った事を結論づけたケルファは、街外れのボロ小屋の中で他の家を失った者達と悲嘆にくれていた。
偶然”集力範囲”から漏れて生き残った者もいるが、ケルファの娘と妻はいくら探しても見つからなかったのだ。
「せっかく・・・6年も生きたのに」
ケルファが発作の様に娘の事を思い出し、その悲しみが涙となって溢れ出る。
毎日毎日、衰弱と戦いこの歳まで生きてきて、最後は家畜よりも適当なその場の判断で、よりによって最も苦しい死に方で死んでしまったのだ。
そんなことって・・・
彼女の・・・モニカの人生は一体何だったというのか。
ケルファは、最後にモニカが感じたであろう苦痛と恐怖を想像すると、それだけで目の前が真っ白になった。
だがそんな時間はそう長くは続かない。
突然、小屋の扉が開けられ、両手に持った杖に体重をかけながら包帯だらけの男が入ってきた。
「・・・クレル? 何してる、寝てなきゃだめじゃないか!」
ケルファがなけなしの”村長の責任感”から、彼を咎めた。
クレルの家は、街の中心線上にあり半分だけ”集力”され、崩れた家の下敷きになって重症を追っていたのだ。
だが・・・
「寝てなどいられねえ・・・」
そう言うと、クレルは杖を思いっきり動かしてケルファの元に詰め寄った。
「俺は死んだことにしてくれ・・・この村を出る」
ケルファはその言葉に大きく驚き、同時に当惑した。
「そんな足でどこへ行く」
「人を集める」
「馬鹿なことを言うな、あれを見ただろ!」
ケルファがそう言いながら、村の中心だった場所を指差した。
するとそれに釣られてクレルの顔もそちらへ向く。
ゼルタ村がなぜこんな目にあったのかは、村民全員がケルファの口から聞いていた。
それなのに・・・
だがクレルは炎の様に輝く瞳でもってケルファを見返してくる。
その目がファルタと同じ物だと気づいて、ケルファは大いに慄く。
「見たさ・・・目の前で、家半分と妻と3人の子供が砕けて飲まれた。 残ったのはこれだけだ」
クレルそう言って見せたのは、4歳くらいの子供の・・・千切れた”腕”だった。
それを見た瞬間、ケルファの脳裏に在りし日のモニカの笑顔が鮮烈に浮かぶ。
「・・・悪いがあんたにはもう従わねえ・・・奴ら、俺から取り上げられる物を全部奪い切ったんだ。 もう誰にも頭を下げる理由はない」
「待てクレル、どうやってハイエットの領域を抜ける気だ?
奴ら俺達の大体の位置を把握してるんだぞ?
だいたい人を集めるって言っても、あんな化け物に勝てる訳ないだろ」
ケルファが必死に説得を試みる。
だがクレルは首を振る。
「いくつか”抜け道”を知っている。
俺を誰だと思ってる、”ハイエットの領域”の中と外で何度も取引を成立させた男だぞ。
それに人の心配はいらない。 ”北のモニカ”や”黄金のガブリエラ”はハイエット以上って話だ。
世界は広い、他にもまだそういう奴がいるかも知れない。
今回は駄目だったが、徒党を組んでる奴なら確率も上がるだろうし・・・いや、別にいなくてもいい」
クレルはそう言いながら、自暴自棄気味に笑った。
その目から涙が一筋こぼれ落ちる。
「例え勝てなくてもいい、とにかく大陸中から腕に覚えのあるやつを送り込んでやる。
・・・いや海の向こうからだって。
強いやつがいれば、騙してでも連れてきて。
なーに、ハイエットの領域に放り込んでさえしまえば、後は戦うしかないさ。
一晩だって奴らを安心させてやるもんか、一人でも多く、あの柱共を道連れにしてやるんだ」
そしてそう言いながら、もう傷み始めている”彼の子供の腕”を大切そうに抱きしめる。
クレルの言葉は、例えようの無い程の悲しみと憎しみに満ちていて、それを見たケルファは止めることはもう出来ないと悟る。
彼はただ、単なる礼儀として挨拶しに来ただけなのだと。
小屋にいた他の者達もそう思った。
いや・・・むしろクレルに同調する者の方が多いくらいだ。
その場の全員が、かつてない程に”ハイエット”に対する憎悪をつのらせていた。
・
・
道に向こうに消えていくクレルの背を見ながら、ケルファはなんとも言えない感覚に襲われていた。
クレルの傷は深く心身共に完治にはまだ遠い。
いくら旅慣れている彼でも、”ハイエットの領域”の外へ辿り着く可能性は低いだろう。
だからこそ友人として無事を祈りつつも、もし無事だった場合にやってくるであろう”混乱”を想像すると、そう願う事すら後ろめたかった。
だが、彼がどんな”災厄”を持ち込もうとも、もう失う物がない事にケルファも気づいて、またどっと悲壮感が押し寄せてくる。
クレルとケルファは変わらない。
ただ、ケルファには”村長”という責任が残っているだけなのだ。
友だった者の背中を見ながらケルファは、心の中で必死に天に向かって祈った。
娘と同じ名前を持つ顔も知らぬ少女よ・・・
どうか・・・・
どうか・・・・
どうか、”ここ”には来ないでください。
”娘の希望”だったあなたまで死ぬようなことがあれば、私は・・・・
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この世界に広がる”力の格差”は絶大で絶望的だ。
無力な者が何万人集まろうとも、強き者1人に負けることだって珍しくはない。
だが忘れてはならない。
たとえ敵わなくとも・・・・弱者の火は決して、それを許してはいないのだと。