三話
――ぼんやりとした薄明かりの中で、辺りを忙しく動きまわる人々の気配がする。全身が熱を持ち、暑くてたまらない。右手に僕以外の体温を感じた。
ああ、ひどく喉が渇いた。
「……ず」
水と言おうとしたが、乾燥しきって張り付いた僕の喉からは、僅かに擦過音が漏れただけだった。
「……ず! ……ね!」
水面の中で音を聞くように、ぼんやりとした響きの中で、聞き慣れた高い声が聞こえた気がした。
それから少しして、僕の唇に湿った柔らかい布が押し当てられた。押し付けられたそれから、冷たい癒やしが僕の喉に滑り込んできた。
貪るように飲んだ後、また僕は眠りに落ちた。
目が覚めた時、僕はセツの寝台の上にいた。
「あ、起きた! マーリ! 」
ぼやける視界のなかに、見慣れた顔があった。セツだ。
「おばちゃーん! お母さーん!」
殴られた目のところはまだ少し痛むけど、セツの大声に引き起こされる頭痛はほとんどなかった。
木の廊下をあわただしく向かってくる足音がきこえた。不規則な足音達が、部屋に入ってきた。上体をおこして、セツと一緒に戸口に目を向けた。
「あんたは! 無茶して!」
開口一番にそう言うと、それ以上の言葉は咄嗟に出てこないのか、目の下に濃い隈を作った母が駆け寄って来て僕に飛びついた。その後ろからは一度は死んだと勘違いした僕の父と、セツのお母さんが付いてきていた。
「ごめん、心配かけて」
僕をきつく抱きしめている母にそう言った。目の前には、僕にも受け継がれた、年を感じさせない艶やかで癖のついた黒髪。黒いうねりの間から見える耳は陶器のように白く、つるっとしていてどこか現実感が欠如している。ベット際には微笑みを浮かべた父も立っていた。
「父さん、死んだかと思ったよ」
僕は、冗談めかして軽い調子で言った。
「だいぶ傷めつけられたけどな。仮に死んだって、娘に仇をとってもらおうなんて思わないさ。もう二度と無茶なことはしないでくれよ」
僕の飛ばした軽口をまるでひょいと躱して、打ち返すように返答した。僕と父の口調はどこか似ている。
少し嬉しそうに、そして少し所在なさ気にベッド際に佇んでいる父は、狩猟を生業にしているだけあって、どこか隙のない立ち方に見える。一見ひょろっとしているように見えるが、その足腰の強靭さは僕がよく知っている。村のおばちゃん達の言葉を借りるなら、父は凛々しい二枚目の顔立ちをしているらしい。確かにやたらにおばちゃん達に話しかけられているのを見かけることがあった。自分が両親のどちらに似ているかという話になると、僕は父に似ていると言われていた。
セツは常日頃、僕の顔をしげしげと眺めては、「マーリが男だったら、話は簡単だったのに!」と言っては、村の男の子達を眺めて嘆息していた。知らないところで嘆かれている村の男の子達にあんまりな言い草だったし、僕が男だったとしても、選ぶ権利はあると思う。
思考がとりとめもない方に引きずられているのに気付いた。まだ本調子ではないみたいだ。肝心なことを聞かないと。
「村はどうなったの?」
僕がここで寝ているということは、最悪の事態は免れたと考えて良さそうだった。それでも、詳細を知りたくて父に聞いた。
「ブシンさんが賊を全て倒してくれたお陰で、全員を生け捕りにすることができた。父さんやマーリを含めて何人かの怪我人が出たけど被害はそれだけで済んだ。本当に幸いなことだ」
父の詳しい話によると、賊は隣の帝国から逃げ出してきた脱走兵だったらしい。賊が地理に疎かったお陰で、村が近隣の都市からどれくらいの距離にあるかを知らなかったようだ。すぐに応援を呼ばれる可能性を視野に入れての行動だったため、女はアジトに連れ帰ってからどうこうしようと目論んでいたらしい。それが良い方にはたらいた。連れ帰る途中で、職能者組合から派遣されたブシンという魔法使いに遭遇し、その場で全員倒されてしまったという。
「ブシン?僕が最後に見た黒い岩みたいなのがそうだったのかな」
僕がそう言うと、複雑そうな顔で父が言った。
「黒い岩って……。まぁそう見えるけど。仮にも村とマーリを救ってくれた恩人なんだ。どんなに見た目が怖くても感謝しなきゃいけないぞ。どんなに見た目が怖くてもな」
「なんで二回言ったのさ」
「そりゃ見た目は怖いからさ。実際に話してみると実直そうな人だったぞ」
感心したような様子でブシンという魔法使いのことを話す父に母が横から言った。
「あなた、最初ブシンさんと話した時声が震えてたじゃない」
「余計なことをいうなよ。それに、震えてたのは俺だけじゃない」
その後さらに詳細に話を聞いたところ、賊を倒した直後は、村の女性達もブシンの正体がわからず、見た目も相まって皆怯えていたという。怯える女性達を前にして、困ったように男も黙り込んでしまった。そのまま沈黙の時間がしばらく過ぎていき、何も行動を起こさない男に対して、恐る恐る村の女性の一人が話しかけた。男の口数は少なかったが、話していく内に職能者組合から派遣されたと分かり、ようやく誤解が解けていったという。
「お前も助けてもらったんだ。ブシンさんは賊の引き渡しがあって、何日か村に滞在するそうだから、起きられるようになったらお礼を言いに行きなさい」
そういって、父達は部屋を出て行った。
父の背中を複雑な気持ちで見送った後、僕は再びベッドに寝転んだ。先ほどまで部屋の中に何人もいたせいか、まだそこに気配が残っていた。宙に舞う細かい糸のようなほこりが、淡く柔らかに差し込む午後の日差しの通り道を作っている。細かい埃のように微かに残る記憶が、父の話した詳細という光の通り道を作ったせいか、頭を黒い岩の残像が繰り返し駆け巡っていた。
「魔法使いブシンか……どんな人かな」
いつの間にか薄暗くなっていた部屋に、僕の呟きが吸い込まれていった。
「……」
「……」
僕とその男の二度目の出会いは、沈黙から始まった。
父に言われた通り、僕を助けてくれた魔法使いにお礼を言いに来た。
その魔法使いはチネリ草を取りに、群生地に行ったという。居場所を尋ねた僕に、村長がそう教えてくれた。その場にいたセツも、僕に付いて来ると騒いだので、二人で村はずれのチネリ草の群生地に向かった。
そこは、静かな湿地だった。細い葉がなよやかに垂れる樹木に辺りを囲まれており、遠くに雄大なテンタン山脈を望む美しい場所だった。
チネリ草は湿地に生える植物だ。根には傷に対する有効な薬効がさまざまあり、村の貴重な現金収入源の一つとなっている。泥の中に根を張る植生から、汚れた植物であるという見方もあり、街ではあまり好まれないという。素晴らしい薬効にも関わらず、あまり高値がつかないのはその風評のせいなのだろう。僕は、可愛らしい小さな白い花を咲かせるチネリ草が好きだった。
そんな緑にぱっと散らしたような白い点の絨毯の中に、その男は立っていた。両手でそっと持った木の杖を、水平にして肩の高さに掲げている。ピタリとその姿勢で止まっていた。昨日と違い、今日は風のない日だった。まるで時間が止まっているかのようなその光景は近寄りがたく、僕とセツは少し離れたとこから息を呑んで見つめていた。隣から聞こえる、かすかにセツが身じろぎする音だけが時間の流れを感じさせた。
次の瞬間、ふっと風を感じたと思ったら、静止したままに見える男の周りに、緑と白の大驟雨が降っていた。とても美しい光景だった。宙に舞う大量のチネリ草だと気づいたのは、それが地面に落ちてからだった。初めてはっきりと目にした魔法に胸が激しく高鳴っていた。
最初から、僕とセツには気づいていたのだろう。チネリ草を拾い集めた男は、大きな束を両手に抱えて、唖然としている僕達の方へやってきた。
「……」
「……」
佇む僕達を無視するわけでもなく、男は僕達の目の前で止まった。さっき見た現実離れした光景が僕達から言葉を奪い去っていた。目が合ってもお互いに一言も発さない時間が流れた。どれくらい経っただろうか、沈黙に耐えかねたのか、セツが僕を肘でつついて小声で言った。
「ねえ、教えてあげたほうがいいかな?」
その声が聞こえたのだろう、男の表情がわずかに変化した。次の僕らの言葉を待っているのか、黙ったままだ。
「あの……」
セツは、少し躊躇ってから言った。
「チネリ草の薬効成分は、根っこの部分だよ?」
「……」
セツの言葉を聞いて、くわっと目を見開いたまま、男は固まった。先ほどまでとは明らかに違う、気まずい沈黙の川が、僕らの間に横たわっていた。少しして、男がゆっくりと動いた。両手に持っていた草を地面に置いて言った。
「やってしまった……。根っこだと……聞いてないぞ」
低音の弦楽器のように深いその声は、発言の情けなさとは関係なく、僕には心地よく響いた。しかし、本人の落胆は深いらしく地面に手をついたまま固まっていた。
「おじさん、元気だしなよ。私達を助けてくれたお礼に、根っこ掘るの手伝ってあげるよ」
怖いもの知らずのセツが、おばちゃん達がやるような気軽な仕草で男の肩を叩いて慰めている。
「それにしてもさっきのやつ、すごかったなー! あれが魔法? 初めて見た!」
一瞬でチネリ草を刈り取った際のことを言っているのだろう。僕もあの光景には心を奪われた。まだ鼓動の高鳴りは収まっていない。
「そうだ、風魔法だ」
男は表情こそ変わらないものの、少し嬉しそうな声音で答えた。
「……ぼ、僕も初めて魔法を見ました。すごいものですね」
実際には最初に助けてもらった時に魔法で賊を倒しているはずなので、二度目のはずだ。だけど、はっきりと目にしたのは今回が初めてだった。素直に賞賛の言葉が出た。褒められて満更でもなさそうな顔をした男は、のっそりと立ち上がった。はじめて僕の顔をまじまじと見つめて、何かに気づいたようだった。
「そうか。ひどい痣だが……、もう体の具合はいいのか」
僕の痣に目をやると、気遣わしげに言った。
「おかげさまでなんとか。視界は少し狭くなってますけど、腫れが引けば元通りになるそうです」
男は黙って頷いた。
「僕達を助けて下さってありがとうございました」
「ありがとね!」
セツも僕に倣って言った。ようやく目的だったお礼の言葉を口にすることができた。
「さーて、じゃあ根っこ掘らなきゃね!」
セツの一言でやるべきことを思い出した。それから僕たちは、泥の中から根っこを掘り出す作業に没頭した。
切断されたチネリ草の根っこは、あまりにも大量にあった。三人で作業はしていたけど、ブシンさんの働きはすさまじかった。泥濘に足を取られながら四苦八苦している僕とセツを尻目に、まるで硬い地面の上を動くようにすいすい移動しては、目にも留まらぬ早業で根っこを掘り起こしていった。手伝うつもりでいたけれど、結局ほとんどの根っこをブシンさんが掘り出していた。ただ、やはり加減を知らないのか、気づいた時には大量の根っこが掘り起こされた後だった。とても一人で運べるような量ではなかった。
人手を借りて村に運びこんだものの、大量の根っこをどうやって街まで持ち帰るかにブシンさんは頭を悩ませているようだった。結局、村長の好意で荷車とそれを引く家畜を貸し出すことになった。そして、御者として僕の父が街までついていくことになった。
僕は、どうしても付いて行きたかった。実は誰にも話したことはなかったけど、僕は魔法使いというものに非常に強い憧れを抱いていた。こんな田舎では、魔法使いに会えることなどほとんどなかった。だから、魔法使いと身近に接することのできるこの機会を絶対に逃したくなかった。
魔法使いに憧れるきっかけとなったのは、僕が未だに大切に持っている絵本だった。『ほんとうのまほうつかい』というその本を、僕は何度も何度も繰り返し読んでいた。あまりにも読み込んだせいで、セリフを暗唱するどころか、一頁ごとにどの絵とセリフが描いてあるかまではっきりと思い出せるほどだ。子供向けの絵本だったので、最近は読んでいることをばれないようにしていた。でも、十四になった今でも時折読んでいた。誰でも知っているような有名な話だったけど、ハッピーエンドじゃないその物語は、あまり子供には好かれていないみたいだった。少なくともセツは子供の頃から、『ほんとうのまほうつかい』は悲しい話で好きじゃなかったと言っていた。でも僕は、その悲しい物語の魔法使いが大好きだった。
だから、僕は久しぶりに父にわがままを言った。僕も街まで一緒に付いて行きたい、と。