一話
風の強い日だった。
激しくうねる緑の波の間にポツンと、真っ黒な塊が在った。
遠く、青く霞む雄大な山々を背景に、見渡す限り広がる草原の中。それは、まるで波間にあってびくともしない巌のようだった。
「なんだてめーは!」
僕の腕を引いていた男が、口角から泡を飛ばしながら威嚇している。耳元で怒鳴られて、殴られた頭の痛みがぶり返してくる。どうしようもなく顔を顰めてしまう。
耳鳴りの中、聞こえにくいはずの僕の耳はその声を聞いた。
「まほうつかい……ブシン」
第一章 弟子入り
一話 出会い
「お、捕れてる」
その日、僕達は山に仕掛けた罠を巡回していた。
猟師の子として生まれた僕は、幼い頃から父と母の手伝いをして育ってきた。
僕の一家は山の麓に住んでいる。獲物をとっては近くのスタナ村に行って、毛皮や肉を必要なものと交換し細々と生計を立てる日々。
スタナ村は、テンタン山脈の裾野に広がるサナサン草原の中にある。街道からも外れたところで、都や他の町村から訪れる者はめったにいない。
若者達は都を夢見ては、村の暮らしへの不満を口にする。都会に出て行きたいと、そればかりだ。
でも僕は、豊かな自然の恵みで朴訥な暮らしをしているその村が好きだった。
村に行くときは必ず父についていった。値段の交渉をじっと聞いて、口を出しては怒られた。村の子供達にちょっかいをかけては喧嘩したり、遊んだりしたものだった。
村には一人、年が近く仲の良い友達がいた。セツという女の子で、村長の娘だ。
いつも猟師の生活をうらやましがっては、狩りについてきたがった。平凡な毎日なんてつまらないというのが口癖になりつつあるみたいだ。
口を尖らせて、村の若者と同じような不満をいう様子が、僕にはおかしかった。
実際にはセツがうらやましがるように、気楽に狩りをしては自由に暮らしているというわけではない。
たった三人の猟師一家の穫れる獲物はたかが知れている。
危険な大型の動物でも、巣の位置が分かれば、冬篭もりを狙って獲ったりすることもある。でも、巣穴を見つけるような幸運に恵まれることはほとんどない。
獲物の大半は罠にかかった小動物が占める。偶然落下死した動物を食べたりすることもあるけど、血抜きせずに時間が経った肉は極めて不味い。その肉はまるで、獣臭を煮詰めた毛皮が喉を通って行くように思えるほどひどい味がする。そんな肉の味は本当なら知りたくもなかったところだ。でも、飢えというありがたくない究極のスパイスがあれば、そんな肉だってご馳走に感じるものだ。
穫れない時は穫れない。
自然の恵みを当てにして生きている以上避けられないことだけど、飢えるのは本当に怖いことだ。いつも優しい父や母でさえ、飢えの前では人が変わったように必死になる。
そんな話をしたところで、夢見るセツにはあまり分からないみたいだった。だから、約束していた。十四の年を迎えたら、一度だけ罠猟に連れて行ってあげる、と。
「うわあ! 獲れてる! 死んでる!?」
先ほどまで肩で息をしていたセツも、罠にかかった獲物を見て興奮したように声をあげる。
外れ続きで、ようやく七つ目の罠に獲物を見つけることができた。しばらくは暴れていたのだろう。下草が乱れ、罠にかかった足は千切れそうなほど傷んでいる。ぐったりとして動かず、虚ろな目をして、微かに呼吸をしている。
「……ちょっと可哀想だね」
喜んだかと思うと、今度は肩を落としてひどく悄気げている。獲物の死に際に立ち会ってショックを受けているのだろう。
「だから言っただろ、セツが思っているように気楽なだけの暮らしじゃないって。獲物だって生き物なんだ。罠にかければ獲物は死ぬ。可哀想だからって油断したら、草食動物にだって殺されることもあるんだよ」
「だって……」
言葉に詰まったセツの目にはすでに一杯の涙が溜まっている。
「でもね、だからこそきちんと、命に無駄のないようにするんだ。肉は食べて、毛皮は鞣して使う。脂は燃料にもなるし、料理にも使える」
静かに泣き始めたセツを慰めるように言う。
「獲り過ぎたら山の神様は怒って、もう僕達に獲物を与えてくださらなくなる。必要な分だけ獲って、無駄なく使えば翌年も山の神様はお恵みを与えてくださる。僕は父にそう教わったよ」
実は僕自身は、この考え方はちょっと人間に都合が良すぎやしないかとも疑っていた。
だけど、動物同士にだって食う、食われるの関係はある。それでもいなくならないってことは、本当にそうなっているのかもしれないと思うこともあった。
「さ、肉が臭くならない内に血抜きしよう。解体は僕がやる。セツも少し手伝ってね」
落ち着くのをしばらく待った後で僕はそう声をかけた。
解体のために木々の間にある少し開けた場所に向かったところで、僕は遠くに長くたなびく黒い煙を見た。
「あの場所って……」
セツと僕が見つめる先にあったのはスタナ村だった。
取り乱したセツを宥めた僕は、一緒に村の近くまで来ていた。
勝手知ったる村だけに、近づくにつれ、手に取るようにおかしいことが分かる。怒号と泣き叫ぶ声、バチバチと家が燃え、木が熱で弾ける音。
近くの岩陰からセツと二人でそっと村の入り口の様子を伺う。
重いものが激しくぶつかるような音と共に、近くの家の扉から転がり出てきた男がいた。苦しそうな様子でどうにか立ち上がったが、後から出てきた男に手に持った何かで腹部を殴りつけられると液体を吐いてぐったりとうごかなくなってしまった。
倒れた男の半分閉じた瞳が僕を見ていた。
父だった。
自分のものとは思えない凄まじい絶叫が自然に喉から迸った。気がつけば、父を殺した男が、目の前に写っていた。
僕は、驚愕に目を見開いた男にがむしゃらに殴りかかった。
「うううっ……」
目が覚めた時、猛烈な頭痛と耳鳴りにおそわれていた。左目のあたりが熱を持って、細かく痙攣しているのがわかる。眼球は幸いにして無事なのか、うっすらと物の輪郭は見えている。
薄暗い家の木の床に直に転がされていた。
手足は縛られ動けず、口には布が詰め込まれ、満足に声を出すこともできない。
不安になりあたりを見回すと、同じように縛られ、転がされているセツがすぐ傍にいた。今は眠っているようだ。涙を流した跡はあるものの、どこにも怪我をした様子はない。そのことに少しだけ心がほぐれた。
そうだ、父は……。
「うあああああ!」
先ほどの光景が瞼に甦り、たまらず絶叫した。身体に感じている苦痛で全ての記憶を消してしまいたかった。
悲しみと苦痛にのたうち回っていると、木の扉が開き、重い足音が入ってきた。
「お。起きてやがるなクソガキ」
声の主はその姿をわざと見せつけるように僕の視界に回り込み、上から見下ろしていた。
「あーあーあー、鼻っ柱折られたぐらいで商品をこんなにしちまってよお」
僕の顔をしげしげと見つめながら男は嘆息していた。血走り、ギロギロとよく動く不気味な目をしている。話すたびに汚く伸びた口ひげの中から獣のような悪臭が漂ってくる。
「なんだ、震えてるのか? 心配しなくても男になんざ興味はねぇよ。俺以外のやつなら知らねぇけどよ。今回はそっちの娘っ子しか売りにださねぇさ」
「ううっ!」
セツを売りにだすという言葉に僕は衝撃を受けた。その間にも、男は品物を確かめるように僕の体を触っている。
「細っこい体だなあ。これじゃあもう少し太らせねえと売れねえな……」
体を這い回る指から逃れようと必死で身を捻るが、縛られた身ではその抵抗も空しいものだった。だが、あるところで男の指が唐突に止まった。一瞬目を見開いたかと思うと、口元が歪んで笑みを形作った。
「おめえ、坊主みてえな形をしてるが女か」
「……」
「ふうん……、これはこれは」
男は僕の頤を無造作につかむと、僕の顔を改めて舐め回すように見ている。
しばらくして、男はのっそりと立ち上がると、僕とセツの足を縛っていた荒縄を解いた。
「おい、起きろ」
男がセツを揺すっていた。
「ん……」
セツは目を覚ますと、男の顔を見て悲鳴をあげようとした。口に詰められた布のせいで声にならない声になっているが、細く高い息を振り絞り続けている。
「めんどくせえな……。おい! 静かにしねえとひでえ目にあわせるぞ!」
低い声で脅しつけながらセツの肩を掴んで揺さぶると、震えあがったセツはぼろぼろと涙をこぼしながらも静かになった。
「二人とも立て。ついてこい」
扉を開けて、男は顎をしゃくりながら僕たちに命じた。表に出ると村長のほかに大人の男達が縛られ、薄汚れた男達に跪かされていた。その傍では若い女性ばかりが荒縄で数珠つなぎにされている。その中には父もいた。
「おおーふん!」
死んだとばかり思っていたが、痛めつけられただけのようだ。
そうなると、父を殺されたと勘違いして怒りに我を忘れて、賊に殴り掛かったのは失敗だった。セツと一緒に隠れたままでいればセツも巻き込むことはなかっただろう。
「セツ……! お願いします! 娘だけは、娘だけはどうか……!」
セツの姿を見た村長が必死に男に懇願している。
男は村長の言葉などまるで聞こえていないかのように宣言した。
「いいか、これからは俺たちがこの村を自由にする。お前たちが逆らえば……人質は死ぬ」
「そんな……!」
一方的な宣言に、皆がざわつく。
「どこかにタレこもうなんて思うんじゃねえぞ。怪しい動きがあれば一人残らず縊り殺すからな。俺たちがいつ来てもいいように女と食い物は常に用意しておけよ」
男はそう言い放つと僕とセツの腕を掴んで歩き始めた。他の賊が数珠つなぎにした女性達を引っ張っている。すすり泣く声があちらこちらから上がっていた。
僕の心を絶望が支配していた。
「誰か来るぞ!」
村を出てしばらく経った頃、大草原の中を小突かれながら進んでいたときだった。何かを見つけた賊が騒ぎ始めた。
僕の霞む目には大きな岩のような黒い塊がすーっと近づいてきているように見えた。
「なんだてめーは!」
耳元で汚い髭の男が怒鳴った。
吐き気と頭痛と耳鳴りがひどいところに耳元で怒鳴られた僕は、苦痛に顔をゆがめてしまう。どこか遠くでうわん、うわんという音がずっと鳴っている。
「まほうつかい……ブシン」
耳鳴りのやまない僕の耳になぜか、その声ははっきりと聞こえた。遠雷のように低く深い響きの声だった。
「スタナ村はこの先か?」
この状況を目の当たりにしてなお、何事もないかのようにその黒い岩は聞いた。
「……そうだがよ、おめえ村に何の用だ?」
賊を代表して汚い口ひげの男が答える。声や身構えに警戒感をあらわにしている。
「近くにチネリ草が自生していると聞いてな。ところで……」
村の近くにたくさん生えている草の名前を口にした黒い岩は、訝しげに言った。
「なぜ女子供を縄で連れていくのだ」
「やれっ!」
黒い岩が疑問を口にした瞬間、汚い口ひげの男が鋭く襲撃の合図を叫んだ。
その次の瞬間から何が起こったのかは、霞む目と朦朧とした頭ではほとんどわからなかった。分かったのは、恐ろしい程の風圧が何度か顔に吹き付け、腹に響くような強烈な地響きと打撲音の後、族がすべて打倒され、あたりが静まり返ったことだけだった。
長く伸びた草原の草がざあざあと風に吹かれる音だけがその場を支配していた。
「大丈夫か」
目の前の黒い岩に聞かれて、僕は気を失った。