■3 もしも土曜が晴れならば
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広場に隣接した道路を横切ったところに古ぼけた四階建てのアパートがある。
その三階、階段側から数えて三つ目がカッコーの部屋だった。
道路側に面する西向きの窓からは真っ直ぐに絞首台を見下ろすことが出来る。居間は寝室を兼ねトイレは各階ごとの共有だったが、カッコーにとってそうした問題はどうでもよかった。
彼にとっての重要事は窓の外にしかなかったのだから。
カッコーがこの部屋に移り住んだのは弟が死んだ翌週のことだった。
弟がそれを切り出した時の台詞を、彼は一字一句として違わずに思い出すことが出来る。
冬のはじめの木曜日の夜、動物園で最後のゾウが死んだ次の日だった。
「今度の土曜日がもしも晴れだったらね」と弟は言った。「その日に死んじゃおうと思ってるんだ」
夕食後の居間で、まるではじめての恋人が出来たことを報告するときのように少しだけはにかみながら、弟はいともあっさりとそう切り出した。
その表情に苦悩や悲嘆の陰は皆無で、口調はむしろ弾んですらいた。
弟が何を言ったのか、カッコーはしばらく理解することが出来なかった。
彼はただ漠然と「こいつは今なにか普通でないことを言ったな」とだけ思いながら、テーブルの反対側に座る弟をぼんやりと眺めていた。弟の発した言葉の意味を飲み下すには少なくない時間が要された。
そしてその内容を正確に理解したとき、彼は身体を内側から揺さぶられるような感覚に陥った。
「……お前が?」と、カッコーは呆然と問い返した。「死ぬって、お前が?」
「そう、僕が」弟はやはり気負いなく答えた。そして少しだけ笑いながら、「今みたいな言い方で、僕以外の誰を指すっていうのさ」とおかしそうに言い加えた。
頭の芯からまぶたのほうにかけてなにか重い物が押し出されてくる感触をカッコーは覚えた。息の吸い方と吐き方がわからなくなり、正しい呼吸が刻めなくなった。
彼の脳裡にはすでに絞首台の印象があった。ここまでいわれてそこに考えの行き着かぬ者は街には一人としていない。
しかしそれでも、カッコーはこれまでの人生で最大の驚きを覚えていた。
絞首台の理念はもちろん知っていたし、実際にそれを使う者がいるということも話には聞いていた。だがそんなのは所詮他人事、自分たち兄弟には関係のないことだと、カッコーは心のどこかでそう決めつけて疑わなかったのだ。
彼は常から「死ぬ気になれば大抵のことはなんとかなる」と考えていたし、そしてそう信じている自分以上に、この朗らかな弟が自ら命を絶とうとするような状況は想像にも遠いものと、考えるまでもなく信じていた。
子供の頃に両親が揃って死んでしまってから(両親の死は自殺ではなく、工場火災に巻き込まれての至極『まっとう』な事故死だった)彼と弟は互いに支え合って生きてきた。
実直な兄と明るく素直な弟に周囲の大人たちはみな親身に接してくれた。工場側の支払う少なくない額の保証金もたすけとなって、孤児という言葉につきまとう悲惨さとはほとんど無縁のまま二人は成長し、それぞれに気に入った仕事を見つけることも出来た。
だから、いまさら、なんで死のうなんて考えるんだ?
カッコーは弟が死を望む理由を知ろうとした。ともかく、それを知らなければ何もはじまらないと彼は考えた。震える声でたどたどしく言葉を紡ぎ、彼は懸命にそれを問うた。
そうした兄の様子に、弟は少しだけ困ったような色を笑顔の中に浮かべて答えた。
「なんて言ったらいいかわからないけど、でもそれはもうどうでもいいことなんだ」
「どうでもいい?」
「そう、どうでもいい」弟はもう一度言った。「どうでもいいって言っても、別にやけっぱちで言ってるわけじゃないよ。もちろんなにかの比喩とかそういうややこしいことでもない」
理由なんてもう本当にどうでもいいんだよ、と弟は言い切った。
もちろん、カッコーはその返答に納得しなかった。彼はなおも問い続けた。
仕事や人間関係に問題が? それとも健康、病気にでもなったのか。金で済ませられることならばどうとでもなる。一人で背負いきれない責任があるなら俺が一緒に背負ってやる。
それとも、まさか俺が、この俺が原因のことで、お前は?
一言ごとに声音が引きつっていくのをカッコーは自覚した。
しかしそれとは対称的に、彼の弟はどこまでも落ち着いた物腰を崩すことなく、そして自分が死のうとする理由を明かしてくれることもなかった。
唯一「俺のせいなのか?」という兄の台詞は即座に否定したものの、あとはただ黙って首を振るか、「どうだっていいんだ」と苦笑混じりに繰り返すばかりだった。
「兄さんにはすごく申し訳ないと思う。でもね、もう決めたんだ」
ごめんね、と彼は謝った。その声音はやはり柔らかくて、安らかさすら感じさせた。しかし同時に、そこには有無を言わさぬような決心の強さも感じ取れた。
カッコーは絶望の手触りを知った。俺がもう何を言ったところで、お前は決意を変えたりはしないんだろうな、と彼は思った。
死は生きるのと等しく誰しもが有する権利であると街では考えられている。その権利を奪うことはたとえ肉親といえど出来ない。
長い沈黙のうちにそれを受け入れると、彼は一度だけ深く息を吸って吐き、弟を見据えた。
それから、涙がこぼれそうになるのをどうにか堪えて能う限りの強さを込めて言った。
「……なら、最後になにか、俺にしてほしいことは、あるか?」
なんだってしてやるぞ、とカッコーは続けた。声が震えるのはどうしても抑えきれなかった。
兄の示した理解とこの申し出に、弟はこの夜はじめて目を瞠った。
驚いて自分を見つめる弟にカッコーは黙ったまま頷いて見せた。それが彼の限界だった。本当は笑いかけてやりたかった。しかし頷く以上のなにかをすれば涙がこぼれてしまうのがわかっていた。
「……本当に?」少し考えたあとで弟は言った。「本当になんでもいいの?」
いまさら何を遠慮してやがるんだ、とカッコーは言いたかった。しかし言葉を発することは出来ず、やはり彼は黙したままただ頷いた。
弟はしばらくのあいだ口をつぐみ、なにやら考えを廻らせていた。
それから、やはりどこか遠慮がちに「ええと、それなら」と切り出した。
「もしダメだっていうなら、それならそれで全然構わないんだけど」
カッコーは黙ってその先を待っていた。ダメなんていうかバカ野郎、と彼は思っていた。
一呼吸分の間をおいて「もしも兄さんがいいっていうなら」と弟は続けた。
「もし兄さんがいいなら……そしたら、兄さんの手で僕をあの絞首台に吊ってくれないかな?」
カッコーは再び目を瞠った。弟はここに来てひどく真剣な眼差しをしていた。