■2 街と、その不確かな壁
街には四季があった。ラジオの放送局があり図書館があり、小規模ながら動物園もあった。
街の外れにはすべての世帯の食卓をまかなえるだけの大きな農園があったし、各種の工場も未だ機能していた。
実りを与えてくれる手つかずの自然と、いくつかの支流に分派する清く美しい流れがあった。
しかし出口はどこにもなかった。
街は周囲を高い壁に囲まれているわけでもなければ、深い谷や険しい山々に遮られているわけでもなかった。絶海の孤島に浮かんでいるわけでもない。
しかしそれでも街は完全に閉ざされた場所だった。
ここという明確な境界すら存在しないままに、街はただそれだけで完結していた。
時刻表のないバス亭と車輌の交通を失ったロータリー。
そんな一対の空虚さに寄り添うようにして、広場は市街図の中央にある。あたりには三階や四階建ての中層建築がひしめくように並び立ち、広場を取り囲むようにぐるりとその周囲を取り囲んでいる。
街並みの密集をよそ事のようにぽっかりと静かに、広場には聖域然とした絶対性が漂っている。
園内は中央に向かって小さな丘を形作っており、その頂上部にはこの場所を『聖域』たらしめている絞首台が据え置かれている。
絞首台は宗教の失われたこの街において最も強烈に人々の思いを引き寄せるものだった。その思念は信仰さながらに、あらゆる疑心をはねのけて決して揺らがない。
入口も出口もないこの街にあって、絞首台の存在はまさしく人々の救いだ。袋小路ですらないある淀みの中に投げ込まれていながら、それでも人々がそれぞれの人生を投げ出さずにいられるのは、最終的にはこの絞首台があればこそなのだといえた。
街の人々の意識の底には、幼い頃から絞首台の存在が強く焼き付けられている。『ご自由にお使いください』という、世代を重ねて変わらない文言とともに。
絞首台が罪人の処刑に使われることはない。絞首台は、ただ自殺のためにのみ用いられる。
自ら死を希望する者の命をすみやかに終わらせる、それだけの為に。
――生きるのに嫌気がさしてすべてを投げ出してしまいたくなったら。
――その時はあの絞首台で自分にケリを付ければいい。
そうした考え方は、しかし精神の逃げ場としてはこの上なく有効に作用した。死に至る絶望や苦悩から、人々を遠ざけていた。
絞首台が人心にゆとりを与え、街に調和と平穏を生み出していた。程度の差や多少の例外はあれど、街の人々は基本的には誠実で博愛的な気質を備えている。
たとえ誰にも優しく出来ない者がいようとも、誰からも優しくされない者は街には一人もいない。
街は救われている。絞首台によって。
しかし、それでもより決定的で完全な形での救済を必要とする者には。
もちろん、絞首台はいつでも望む時にそれを与えてくれる。