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ご当地ヒーローであるところの俺が悪の秘密結社の女幹部と同棲してることが幼馴染のお姉さんにバレて超修羅場なんだが

悪の組織に生まれたならば、夢はでっかく世界征服ッ!

 だが、千里の道も一歩から、ローマは一日にしてならず、石の上にも三年という先人の偉大な言葉もある。まずは地固め日本征服ッ!

 いや、まだ慎重でもいいかもしれないッ! ここは手堅く県内征服ッ! いや、市街征服ッ! ここは地道に行こう、町内征服ッ! 


第一話 町内特警ジークス


「を~ほっほっほっほッ! 愚民ども、畏怖しッ! 恐怖しッ! 慄きなさいッ!」

 高笑いがビルの谷間に木霊していた。その言葉通り、街をゆく人々は顔に恐怖の色を貼り付けたまま蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑っている。あちこちには火の手が上がり、異様な雰囲気を醸し出すコマンドスーツに身を包んだ男たちが奇声を張り上げ威嚇を続けていた。

「このキャナルがッ! 秘密結社ビオロがッ! この天神町を征服して差し上げますわッ! ありがたく思いなさいッ!」

 タカアシガニのような八本足を生やしたメカの上で、小生意気な顔が踊った。向日葵色の髪は太陽の光を浴びて燦々と輝き、藍色の瞳は、快活そうなやたらに可愛らしい表情を際立たせている。小柄な身体には、レオタードにも似たぴっちりとしたVラインの眩しいコマンドスーツ。高笑いが響く度に、頭頂にゆわいたちょんまげと、年齢に似付かわしくない胸が揺れ続けていた。

「ん~、このキャナルが支配する街には、まだまだ花火が足りませんわねぇ。バーサイド、やっちゃいなさいッ!」

 キャナルが手に握った鞭を振るった。光り輝く鞭は複雑な軌跡を描き粒子を放つ。ビーム・ビュートと呼ばれるキャナル専用の武器だ。キャナルの声に応えるようにバーサイドの、鋼鉄の身体が震えた。その八本の脚はまるで生きているかのように禍々しく蠢く。

『ヴおォォォンッ!』

 けたたましい機械音と共に、脚部に装着されたランチャーからミサイルが覗く。小型ではあるが、辺りから立ち上る猛火猛煙を見ればどれだけの威力があるのか、一目瞭然だ。

「ミサイル、発射ぁッ!」

 口元から覗く八重歯が凶悪に光った。まるでお気に入りの玩具を与えられたかのようにはしゃぎ回るキャナル。自分が何をしているのか、理解しているのだろうか。その屈託の無い笑顔に一切の躊躇いを見ることは出来無い。

 ミサイルが火炎を吹き、爆煙が蛇がのた打ち回るような軌道を描く。キャナルが眼を瞑り身構えた。着弾まで僅かな時間も残されていない。刹那の後には轟音とともに豪炎が上がる、はずだった。

「なんですってぇッ!」

「これ以上の狼藉は許さん、秘密結社ビオロッ!」

 ミサイルは、全てその男の前で無残な姿を晒していた。一本はひん曲がり、一本は地面にぶっ刺さり、もうその紅い華を咲かせることは二度と無いだろう。

「いつもいつもいいとこで邪魔をしてくれますわね、鳥飼輝国ッ……!」

 キャナルの顔が憎しみに歪んだ。眼の前にいるのは憎き敵。そう、悪の秘密結社の敵と言えば、正義の味方と相場は決まっている。そう、罵倒してもし足りない、あの男がッ……!

 やや伸びた黒髪。その太い眉は力強い表情を殊更強調している。髪の毛と同じ色の瞳は一点、敵だけを見据え一ミリも揺らぐことはない。だが、これは、これは鳥飼輝国の真の姿ではないッ!

「爆解ッ!」

 輝国がその拳を天に掲げる。赤煙に覆われていた空に全てを飲み込んでしまいそうなほどの大穴が開き、眩い閃光が矢のように大地目掛けて降り注ぐ。その光の一粒一粒が輝国の身体に纏わり付き、形を創ってゆく。

「町内特警ジークスッ!」

 閃光が掻き消え、キャナルの視力が戻った時、そこにいたのは漆黒のバイザーに光と同じ色の、眩く輝くオペレーションスーツ。神々しくすらあるその姿、まさに威風堂々ッ!

 町内特警ジークスがオペレーションスーツを爆解するタイムは、わずか0.05秒に過ぎない。では爆解プロセスをもう一度見てみよう。

 輝国の要請を受けたリバレ円盤は特殊軽合金バリニュウムを光送する。バリニュウムは輝国の体温に反応して、形状記憶作用で強化服形態をとるのだ。

「そんなこけおどしッ! 行きなさいッ、ビオロ兵たちッ!」

 ジークスの華麗なる登場にただ呆然と立ち尽くすだけだった黒いコマンドスーツ、ビオロ兵だったが、キャナルの檄を受けてわらわらとジークスへ躙り寄る。のったりとした挙動から知能は高くないように見えるが、命令を聞き分ける程度の判断力は有しているらしい。

「いくら数があろうとッ!」

 ジークスが吠えた。その迫力にビオロ兵たちも思わずたじろいでしまう。だが、それも一瞬のこと。キャナルに対する忠誠心の方が勝っていたらしい。その黒い身体を妖しくくねらせ、次々とジークス目掛けて飛び掛ってゆく。

「ジークス・グラビトン・パンチッ!」

 最初の犠牲になったのは勇敢にも飛び込んだ一体のビオロ兵だった。振り被った鋼鉄の拳は龍がうねるような螺旋を描き哀れなビオロ兵の腹を強かに打つ。いや、打つと言うのが生易しいと思えるほどの轟音が鳴り響いていた。

「ギギィィィッ!」

 百メートルはぶっ飛んだだろうか。ビオロ兵は瓦礫と化したビルへ横向きにクレーターを抉りめり込んでしまう。声にもならない呻きを上げ、ビオロ兵はそのまま二度と動くことは無かった。

「さぁさぁッ! 次はどいつだッ!」

「ギッ……」

「ギギィ……」

 意気揚々とジークスは高らかに吠えるが、それとは対称的なのがビオロ兵たちだ。仲間の無残な有様を見れば仕方のないことだろう。ビオロ兵同士で目を見合わせ、キャナルに許しを請う眼差しを向ける他無かった。

「ちぃぃッ……! どいつもこいつも役立たずですわねッ! 良いですわッ! 御笠、出なさいッ!」

「ぎぃぃぃちょんッ!」

 分厚いコンクリートの地面を割り、そのヒビ割れから現れたのは真っ赤な化け物としか言いようのないシルエットだった。ギョロリ、とした目は左右自在にグリグリと動き、その身体は硬質の甲羅で覆われていた。直立不動するザリガニ。それがジークスが持った最初の印象だった。

「怪人か、ちょっとはホネが有りそうだなッ!」

 気迫と共に駆け出すジークス。その一足が大地を蹴る度に瓦礫が飛び土煙が舞う。風を切り、旋風を生み出す。その力強い足取り、敵う敵など存在しないかに思えた。だが、しかしッ!

「なにぃッ!?」

「ぎ~ちょんちょんちょんちょんッ!」

 今度は御笠の高笑いが響く番だった。交差したハサミは堅牢な盾と化し、ジークス渾身のグラビトン・パンチは阻まれてしまう。吹っ飛ばすどころか、ヒビ一つ入れることが出来ない。その硬さ、ダイヤモンドを遥かに凌ぐ。

「を~ほっほっほっほっほっのっほッ! 御笠はロブスターをベースとし、その装甲は三十六層マクロファイバーッ! 貴方程度のへなちょこパンチじゃかすり傷ひとつ付けることも出来ませんわッ!」

 キャナルがまるで我が手柄のように笑う。悪の秘密結社ビオロの尖兵としてこの天神町に遣わされてからというもの、このジークスには幾度と無く辛酸を嘗めさせられてきた。その鬱憤を晴らせるというのだ、笑いが止まるはずもない。

「喰らうぎっちょ~んッ!」

 生臭い息と共に気迫を吐き出す三笠。御笠は交差したハサミを滑らせ、ジークスの横っ面を殴り付ける。ただそれだけの行為だが、強化された筋力と強固な甲羅、シンプルな攻撃故にその効果は絶大だった。

「ぐうッ!」

 全身の骨がバラバラになりそうな程の衝撃に弾き飛ばされたジークスだが、無様に地を舐めるような真似はしなかった。ダメージを負いながらも辛うじて受け身を取りそのまま立ち上がる。

「さすがは怪人といったところか、その名は伊達ではないようだな。だが、これならばどうだッ! グラビ・ブレイドぉッ!」

 左の甲から柄を引き抜くと眩く輝く粒子が収束し刃を構成する。刃はその存在を主張するかのように閃光を撒き散らしていた。

「ッちぇりやぁぁぁッ!」

 右薙に一閃。金属と金属が擦れる不愉快な音が瓦礫の街に反響する。全体重を乗せた一撃、角度も、振りも、握りも完璧、のはずだった。

「ぎ~ちょっんちょんちょんちょんッ! そんなナマクラで俺様の甲羅をどうこうしようなんておこがましいにもほどがあるぎっちょんッ!」

「くッ……」

 これ以上懐にいれば再び痛烈な一打を喰らうことは必至。ジークスは飛び退き僅かに距離を取る。だが、決して逃げる為に退いたのではない。弱き者を護る剣である町内特警ジークスにとって、活路無き逃走は許されない。

「もう一度だッ!」

「何度やっても同じだぎっちょ~んッ!」

 もはや、勝利を確信した笑いを隠そうともしない御笠。だが、ジークスは百戦錬磨の戦士だ。ずっと、独りでこの町を護り続けてきた。日常に戦いを置き続けてきた。ジークスの鍛え抜いた身体は、窮地に追い込まれれば勝つ為に最善の手段を迷い無く選び抜く。

「でりゃぁぁぁッ!」

 左下から斜めに太刀筋が走る。無理な体勢から放ったからか、その威力は先程に較べて余りにも弱々しい。だが、この音はどうだ。チェーンソーを聳える巨木にあてがったときと寸分違わぬ音。

「そんなナマクラ、何度喰らっても……ぎっちょん!?」

 御笠の眼は動揺を隠し切れずにギョロギョロと忙しなく動き続ける。自身を守る最強の盾、そして敵を貫く最強の矛だったハズのハサミは遥か上空に飛ばされてしまっていた。

 確かに、ジークスの武装では最強のグラビ・ブレードを持ってしてもこのハサミを傷付けることは出来なかっただろう。だが、洞察力溢れるその眼は、御笠の弱い部分、関節の繋ぎ目を確実に捉えていた。

「キャナルさまぁ……」

 最大の武器であるハサミを失った御笠は二歩、三歩と後ろに下がるとキャナルに、捨てられ段ボール箱の中で雨に濡れ震える仔犬のような視線を投げかけるしか出来なかった。

「下がりなさいッ! まったくどいつもこいつも役立たずばかりッ……! 良いですわッ! このキャナル自ら相手をして差し上げますわッ!」

 眼を血走らせ、口角泡を飛ばすキャナル。先程まで勝利に手が届きかけていたのだ、この怒りも当然だろう。しかし、その激情とは真逆の行為をジークスは、いや輝国はやってのけていた。

「俺は女に振り上げる拳を持ち合わせていない」

 身体に装着されていたオペレーションスーツは再び粒子へと戻り、輝国の顔が剥き出しとなる。キャナルに爽やかな笑顔を向けると、そのまま踵を返した。

「ちょちょちょ、ちょっと待ちなさいッ!」

 真っ赤になって大声を張り上げるキャナル。それもそのはず、これまでの人生はビオロの幹部となる為だけに費やされ、女の子扱いなどされたことは無かった。それを、敵であるヒーローに女と名指しされるなどと、全く持って初めての体験だった。

「今度はもうちょっとロマンティックな場所で会いたいもんだな」

 戦っていたときとは裏腹な涼やかな声。輝国はひらひらと右手を振るとそのまま黒煙の踊る瓦礫の山へと消えて行った。後に残されたのは、ビオロ兵と、御笠と、そしてバーサイドの上に立ち尽くすキャナルだった。

「鳥飼輝国ッ……!」

 その顔から赤みが抜けることはなかった。語気だけは偽りの憎しみで覆っても、裏にある熱い想い……それだけは隠すことが出来なかった。

 だが、そんな初めての感情もそう長くは続かなかった。

 けたたましいサイレンと共に、赤い光がキャナルたちを覆う。これだけの騒ぎを起こしたのだ、警察が何時までも無視をしているはずがない。

「ちぃッ……」

 キャナルは忌々しげに舌打ちをした。ビオロ脅威の科学力をもってすれば地域の警察を蹴散らすなど造作も無いことだ。だが、ジークスによってその戦力を半減させられた今、事を構えるのは上策ではない。

「みなさん、引き上げますわよッ!」

 キャナルの声と共に、全員の姿が闇に溶けるようにして消えていった。遅れて到着した警察たちはただ瓦礫の山を眺める他無かった。

                   ・

「ん、む……」

 激しく屋根を打つ雨音に、輝国は眼を覚ましていた。開ききっていない目で時計を見るとまだ午前三時。僅かな時間しか眠れなかったらしい。

 輝国は雨が好きだった。この、ボロアパートの部屋で音を出すものといえば僅かな家電のみ。独りで住むこの部屋には余りに寂しすぎる。だが、雨の音はそんな寂しさを僅かでも慰めてくれていた。

「ん……?」

 しばし、雨音に耳を傾けていた輝国だが、僅かに異音を聞き取っていた。最初はまだ寝ぼけているのかと思ったがどうやらそうでは無いらしい。何か、ごそごそと小動物が這い寄るような音が階下から響いている。

「なんだぁ……?」

 確かに雨は好きだが濡れるのは好きではない。この土砂降りの中、外に出るのは躊躇われたが、どうやら好奇心の方が勝ったようだ。輝国は布団から身を起こすとそのままドアノブへと手を掛ける。

「猫、か……?」

 暗闇に二つの輝きが灯っていた。激しい雨足にも負けない白い身体が頼りなさ気にふらつく。初めは猫かと思ったが余りにも大きさが違う。輝国は、この弱々しくもまだ力を失わない瞳に確かに見覚えが有った。

「キャナルッ! なんでこんなとこにッ!」

 考えるより先に、言葉よりも先に身体が動いていた。輝国は傘を差すのも忘れて階段を駆け降りる。気が付いたときには道路にうずくまるその小さな身体を抱きかかえていた。

「あ……鳥飼輝国……? どうして……」

「そりゃあこっちのセリフだよ。取り敢えず中に入りな」

 小さな身体が雨に濡れカタカタと震えていた。それを止める為に、僅かでも自分の体温を与える為に、輝国は強くキャナルを抱き締めていた。触れ合う肌が余りにも冷たい。いったいどれだけ濡れていたというのか。

「ま、小さいお部屋ですこと……」

「嫌味を言える元気くらいはあるみたいだな」

「あいたっ! なにするんです、もふっ!」

 キャナルを布団に放り投げた輝国は間髪入れずにタオルを投げつける。キャナルは何やらぶつぶつと文句を言っているようだったが、ひとまずは輝国の言う通りに頭を拭いていた。

「着替えがなぁ。悪いが男物しか無いんだ。これで我慢してくれ」

「ん、まぁしょうがありませんわね」

 綺麗に身体を拭き終わったキャナルは輝国から男物のYシャツ受け取る。だが、そのまま動こうとはしない。暗闇に、赤い顔がやけに目立っていた。

「あの……」

「ん、なんだ?」

「あの……恥ずかしいから向こう向いててください……」

「ん、ああっ! そうだなっ!」

 輝国は大慌てで後ろを向いた。まだ小さいとはいえ、キャナルは女の子だ。男の目の前で着替えられるはずもない。

 ぎゅっ……ぎゅっ……と衣擦れの音だけが六畳の部屋を占領する。スーツに水を吸っているからか、脱ぐのに手間取ってしまうらしい。その焦らすような時間、女性経験の乏しい輝国にとっては刺激の強過ぎる甘美なひとときだった。

「ん、終わりましたわ。もうこっち向いても大丈夫ですわよ」

「おお。お? おお……」

 輝国はそれ以上の言葉を失ってしまったかのようだった。濡れた金髪に男物のYシャツ。余りにも凶悪なコーディネートだ。袖が余っているところなんか、これでもか、というほどにあざとさにあふれている。

「どうしたんですの? 変な鳥飼輝国ですわね」

 キャナルは自分の魅力に気付いていないのだろう。だが、その可憐な一挙一動は輝国の眼を掴まえて離すことは無かった。髪を掻き上げる仕草も、頬を撫でる仕草も、全てが輝国の心を奪ってしまっていた。

「なんでもねえよっ! それより、ほら、食えよ。晩の残りだけどな。温まるぜ」

 照国がちゃぶ台の上に置いたのは、ほかほかと湯気を立てるシチューだった。鶏肉と、根菜と、牛乳の香りが混ざり合い、なんとも食欲をそそる。

「あ、でも、その……」

 キャナルはなんだか遠慮しているようだった。しかし、身体は正直なもので、くうっ、という可愛らしい音を立ててお腹の虫が騒ぎ出す。

「うぅ……」

 俯いたまま顔を真っ赤にするキャナル。幼いとはいえ女であることに変わりはない。男に聞かれて気持ちの良いことではない。

「腹減ってんだろ。食えよ」

 輝国はにッ、と笑ってキャナルにスプーンを握らせた。別に気を使っている訳ではない。この無遠慮さというか、開けっ放しというか、そういうところが輝国の美点であり、欠点でもあった。だが、今のキャナルにとって、その開けっ放しな物言いは救いにも等しかった。

「そ、それじゃいただきますっ……!」

 キャナルはスプーンにシチューを掬うとそのまま一直線に小さなお口へと運ぶ。味わうヒマもないまま次を掬う。高飛車な言動が目立つキャナルにしては余りにもお下品。だが、そうせずにはいられなかった。レトルトを温めなおしただけのシチューだが、今のキャナルにとってはこれ以上無い御馳走だった。

「ふぅ……」

 皿を空にしたところで、ようやく一心地付いたのだろう。安堵の溜息をひとつ。雨に濡れ青ざめていた顔には幾分か赤みが差していた。

「落ち着いたか」

「ええ、ごちそうさまでした……」

「よかったらでいいんだが、なんでこんな夜中にあんなとこにいたか話してくれないか?」

「う……」

 キャナルは思わず言い淀んだ。此処で初めて、自分が敵の腹の中にいることに気付く。優しくしてもらったとはいえ、自分はビオロの幹部。鳥飼輝国は正義のヒーローであることに変わりはない。

「言いたくなかったら別に言わなくてもいいんだが」

「あ……いや……その……お家賃を滞納して……本部からの仕送りが途絶えてて……」

「家賃? 滞納?」

「ええ。それで追い出されてしまったんですの」

「なんだ……そんなことかよ……」

 キャナルの話を聞いて輝国の表情が緩んだ。夜中に少女が雨の中に一人。何か良からぬ犯罪にでも巻き込まれたのではないかと心配していた。

「そんなことってッ! 暖かいベッドもッ! 美味しい食事もッ! きれいなお洋服もッ! 全部全部無くしてしまったんですのよッ!」

「暖かいベッドも、美味しい食事も、きれいなお洋服もここには無いが、いたけりゃいたいだけいればいい」

「え……」

 それは、今迄に掛けられたこともない優しい言葉だった。何故、この男の口からはこんな言葉が次々と出てくるのだろうか。今までに覚えたことの無い感情。だが、決して不愉快ではない。

「いや、嫌ならいいんだが」

「い、いえ……あの、他に行くところもありませんし……」

「なら決まりだな」

「はい……」

 複雑な表情を浮かべたままのキャナル。敵に情けを掛けられるなどもっての他だ。だが、他にどうしろというのだろうか。不安は、今だって心に巣食っている。今のキャナルは、母猫とはぐれた仔猫と同じだ。

「遠慮するなよ。あ、布団はひとつしかないから、そっちで寝てくれ。俺は床で寝るから」

「でも、悪いですわ」

「女の子を床で寝させるなんて真似は出来ねえよ」

「いえ、一緒に寝ればいいんですわ」

「なッ……!?」

 一瞬、輝国の顔が、身体が、そして心が強張った。例え年端も行かない少女相手とはいえ、女性と同衾するなどと、母親に抱かれて眠った幼子の頃から一度足りともしたことが無い。

「い、あ……」

「何遠慮してるんですの? ほらほら」

「う、あ……」

 キャナルに一切の他意は無かった。ただ単に子供らしい善意で一緒に寝ようと言っているだけだ。だが、その無垢過ぎる純心は輝国にとって劇薬以外の何物でもない。心臓が、早鐘を撃つ。

「一緒に寝たほうがあったかいですわよ」

「え、あ……」

 キャナルが輝国の腕を引いた。そのまま力無く布団へと倒れこむ。向かい合ったまま、1つの布団に二つの身体……。

「うふふ。ほらあったかい」

「お、ああ……」

 十五センチ先には、濡れた髪が、大きな瞳が、赤い唇が、確実にそこにある。今迄に戦うことしか知らなかった二人だ。こうまでもまじまじとお互いの顔を見ることなど一度も無かった。

 かわいい……。それが、輝国がキャナルに今持っている感情だった。秘密結社ビオロの幹部としての高慢さは影を潜め、傍らで丸まっている小さな身体を見れば、父性というか、庇護欲が掻き立てられても仕方の無いことだろう。

「おやすみっ!」

 突如として胸に湧いた淡い想いを見透かされるのを恐れたのか、輝国はわざと寝返りを打ち反対を向いた。だが、背中に感じるやわらかく暖かな気配に、容易に眠りに就くことは出来なかった。

                   ・

「ん……う……」

 二度目の目覚めは、薄っぺらいカーテンから差し込む朝の陽によってもたらされていた。輝国は身体を起こすと頭を二度、三度と振り目を覚ます。

「あれ……」

 横で寝ていたはずの、キャナルの姿は影も形も無い。あれは夢だったのだろうか。そうだ、敵の幹部と同じ部屋で寝るなんて、そんなことがあるハズがない。

「いや……」

 輝国は布団に手を這わせた。自分のものではないぬくもり。そして、部屋に漂う、洋菓子にも似た甘い香り。そう、確かにキャナルは此処で寝ていたのだ。

「どこ行っちまったのかな……行くあてが無いって、自分で言ってたのに……」

 何故だろう。可愛がっていた仔猫を失ったような、心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。だが、これで良かったのかも知れない。再び出会うことがあれば、二人は敵同士でしかない。余計な情など戦いの邪魔になるだけだ。

「ん……?」

 そこまで思考を巡らせた輝国だったが、ある異変が起きていることに気付く。鼻腔をくすぐるのはキャナルの残り香ではない。もっと食欲を刺激するというか、日本人の遺伝子を呼び覚ます匂いだった。

「ん、ようやく起きたんですのね。正義の味方がずいぶんとお寝坊ですこと」

 昨夜と変わらず、ぶかぶかの、男物のYシャツに身を包んだキャナルだった。その姿を見て、輝国の胸に安堵の感情が生まれる。

「泊めてもらったお礼ですわ」

 ちゃぶ台の上には既に慎ましやかな朝餉が並んでいた。油揚げの浮いた味噌汁、匂いの正体はこれだ。そして焼鮭に味海苔。そして何よりもぴかぴかつややかな山盛りのご飯だ。これ無くして何故朝飯と言うことが出来るだろうか。いや、出来無い。

「どうぞ、召し上がって下さいましっ!」

 満面の笑みで勧められているのだ、此処で食べねば男が廃る。輝国は勢い良く両手を合わせた。

「頂きますッ!」

 輝国はまず味噌汁をすすった。味噌の甘さ、芳ばしさが口いっぱいに広がる。出汁の効き具合も十二分だ。

「旨いな」

「ふふん、悪の秘密結社の幹部として当然の嗜みですわ」

 理屈は良く解らないが兎に角凄い自信だった。だが、この味を見ればその自信も納得出来るというものだ。

「いや、ほんと旨いよ。こんな旨い米食ったの久し振りだ」

 口の中に白米を放り込む度に口の中でさらりと解け、その粒を噛み締めるれば甘みが迸る。米を洗い炊いただけだというのに、フランス料理のフルコースにも匹敵する御馳走に仕上げていた。

「ほら、おべんと付いてますわ。もっと落ち着いて食べなさい」

「あ、はい……」

 キャナルは身を乗り出すと輝国の口の端に付いた米粒を摘みそのまま自分の舌でぺろりと舐めた。それだけでも、十分に刺激的な行為なのだが、輝国の眼は違う場所に向けられていた。Yシャツから覗く肌色。身を乗り出しているものだから眼の前にはその色だけがいっぱいに広がる。小さな身体に似合わないまろやかな曲線が輝国の眼を釘付けにしていた。

「お、おお……」

「どうしたんですの? ぼけっとして」

「なんでもないっ! なんでもないよっ!」

 邪な考えを知られる訳にはいかないと、誤魔化す為に猛烈な勢いで白米を掻っ込む輝国。その様子を見てキャナルは満足気な笑みを浮かべていた。食べっぷりの良い男は何時だって女のハートを掴む。

「ふう、ごちそうさま。本当に旨かった」

 思いがけないお返しに輝国ははち切れそうな腹を撫でた。だが、疑問がひとつ。

「これ、どうやって用意したの? しばらく米も買ってなかったんだけど」

 輝国の言う通りだった。一人暮らしである輝国にとって、自炊というのは手間以外の何物でもない。ここしばらくはコンロに火を付けることも無かったはずだ。

「ああ、それならそこのお財布からちょこっとお借りして」

「え」

 輝国は大慌てで枕元に置かれた財布を開いた。中に有るのは数枚の小銭だけ。まだ僅かに残っていた夏目漱石も何処かに旅立ってしまっていた。

「てめえ……あと半月どうやって過ごせっていうんだよ……!」

「え、たったあれだけで半月もやりくりする気でしたのっ!」

「やっぱり出てけッ! この貧乏神ッ!」

「いやですわっ! いたいだけいていいって言ったのは貴方ですわよっ!」

 追い掛ける輝国。逃げるキャナル、ドタバタと近所迷惑な騒音が響き渡る。六畳の部屋に激しい埃が舞い散り、朝日を跳ね返しキラキラと輝いていた。こうして、正義と悪、奇妙な共同生活が始まったのである。


第二話 火炎の邂逅


「いらっしゃいませぇ~ですわっ!」

 清潔なフロアにビー玉を鼻の奥で転がしているようなころころとした声が鳴り響いていた。キャナルが着ているのは男物のYシャツではなく、白のシャツに赤いスカート。

 喧騒。ひしめく人々。僅かに漂う油の臭い。此処は天神町にある某有名ハンバーガーショップだ。

「なかなか、様になってるじゃないか」

「ふふん、当然ですわッ!」

 厨房の奥から感心したような声が聞こえた。キャナルと同じようにショップの制服を着ているのは輝国だった。

 正義のヒーローとて霞を食って生きている訳ではない。生きる為にはなにはともあれ、先立つ物が必要となる。普段はパトロールやトレーニングの合間を縫ってアルバイトに精を出していたが、雀の涙のバイト代もキャナルがやらかした今朝の散財で消え去ってしまった。

 一緒に暮らし始めたあの日、薄暗い部屋で家計簿とにらめっこをしていた輝国だったが、先に自分も働きたいと言ったのはキャナルだった。キャナルはキャナルなりに責任を感じていたらしい。

 かくして、輝国が働いている場所のひとつであるこのハンバーガーショップで研修をすることになったのだが、輝国の心配を他所になかなかどうして孫にも衣装というか、危なげの無い様子だった。

「輝国君の連れてきた子、最初はどうかなって思ったけどなかなかやるじゃない。今日の売上、倍になってるよ」

「お役に立てて何よりです」

 輝国に声を掛けた中年男性は、この店の店長だった。禿げ上がった頭を撫で満足そうに頷く。初めはキャナルの幼さに面食らったものだが、この売上を見れば顔が綻ぶのも仕方のないことだろう。

「さ、もうお昼だ。客も多くなる。レジを見てやってくれ」

「了解しましたっ!」

 これは、店長の心配りだった。普段なら四角四面に業務をこなす輝国だったが、今日はキャナルが気になって仕方ないのか、いつもならやらないような小さなミスを幾つもしでかしていた。

「くっく……」

 脱兎の如く走り出す輝国を見て店長は苦笑を漏らさざるを得なかった。クソ真面目が服を着ているような輝国があんな小さな少女に振り回されている。デコボコなカップルが見妙に微笑ましかった。

 しかし、レジで繰り広げられている光景はそんな生易しいものではなかった。

「クソアマッ! このキャナルのイモが食えないっていうんですのッ!」

「イモ嫌いだっつってんだろ、このドチビがッ!」

 その有り様を見て、輝国は一瞬凍り付いてしまった。レジ台の上にはいきり立って客の襟首を掴むキャナルと、こめかみに青筋を浮かび上がらせ唾を飛ばす客。二人の姿は、まさに動物奇想天外としか言いようが無かった。

「なぁにやってんだ、キャナルッ! お客さんを離せッ!」

「だって、だってこの女がキャナルのイモを食えないってッ……!」

 兎にも角にも、キャナルをレジ台から引き摺り下ろす輝国。暴れ馬にそうするように、どうどうと取り敢えず気分を落ち着かせる。

「お客さんも、どうかそこから降りて下さいッ……ん?」

「なによなによッ! 私が悪いって言うのッ……ん?」

 輝国と客の、視線と視線が交錯する。客は何事も無かったかのようにレジ台から降り、髪をとき、衣服を整える。こそこそとメイク直しまでしている始末だ。深呼吸をひとつ、そこでようやく輝国に向き合った。

「あら、輝国ちゃん」

 長く絹のように艶やかな髪を後ろで纏め、腰のあたりでふりふりと揺らしている。真ん丸な瞳、ふっくらとした唇。穏やかそうな顔立ちだが、その裏に激しい激情を隠しているのはキャナルとやりあっていたことから明白だ。

「輝国ちゃん、じゃないよ。何しに来たのさ、瑞魚(みな)さん」

「あら、公務の合間に一人でお昼を食べるのも許されないのかしら」

 そう言うと瑞魚はくすり、と笑った。万人を惹き付ける愛らしい微笑み。だが、全ての人をそうさせていた訳ではないらしい。レジの向こう側で烈火の如く嫉妬の感情を燃やす少女が一人。

「輝国ッ! そいつなんなんですのッ!」

 キンキンとする金切り声で怒鳴りつけてもなお、その怒りが収まることは無い。ぎりぎりと歯軋りと止めないキャナル。輝国と瑞魚、二人の間に流れるやわらかな空気を敏感に感じ取っていたらしい。

「なんなんですのって、お前、自分の住んでる町の町長くらい知っとけよ」

「ふんッ! いずれこの町はわたくしのモノになるというのに、そんな小物知ってる訳ないですわッ!」

「なあんですってッ!」

 まさに一触即発、キャナルと瑞魚、二人の相性は水と油そのものらしい。バチバチと目に見えてしまうかと錯覚する程の火花が飛び散る。輝国はその迫力にただ手をこまねいて見ている他無かった。

「私はねッ! ハンバーガーを食べたかっただけなのッ! パサパサのバンズにそれなりのパティッ! それにシェイクがあれば最高だわッ! なのになんでッ! こんな小娘にここまで虚仮にされなきゃいけないのかしらッ!」

「何を言うんですのッ! ハンバーガーの付け合せと言えばフライドポテトッ! 賞味期限は揚げてから僅か数分ッ! そんな儚いうたかたの料理を理解出来ない無知女に食わせるハンバーガーはありませんわッ!」

「ムキーッ!」

「うがーッ!」

 再び掴み合いになるのは時間の問題だった。だが、それを遮る制服が一つ。禿げ上がった頭にでっぷりとした腹。明らかに輝国ではない。

「これはこれは町長っ! ご贔屓に頂いてありがとうございますっ! こちら、ご注文のハンバーガーとシェイクでございますっ!」

 満面の笑みをその顔に貼り付け、ハンバーガーとシェイクの入った袋を瑞魚の手に握らせる店長。長く務めているだけあってトラブルの対応には定評が有る。店の為とあらば、土下座だって待った無しだろう。

「ん、まぁ出して貰えれば文句はありません」

 まだ言い足りない顔の瑞魚だったが、社会人として、この町を統べる長としてこれ以上暴れるのは許されることではないと、そう悟っていた。

「べぇーッだッ! 二度と来んなですわッ!」

 可愛い舌を精一杯伸ばして最大限の敵対心をアピールするキャナル。だが、これもまたショップの店員として許される行為ではない。

「キャナル君ッ! 今日はもう良いから頭冷やして来なさいッ! 輝国君外に連れてってッ! はいこれ今日の分ッ!」

「は、はい……」

 力無く給料袋を受け取る輝国。店長がトラブル解決に導き出したのは、トラブルの元凶を叩き出す、という結論だった。

                   ・

「おっちんぎん~おっちんぎん~」

 軽妙なテンポが響く。上機嫌な様子で藍色の給料袋を眺めるのはキャナルだった。今迄に働いて対価を受け取ったことなど無かったのだろう。その小さな身体は労働の喜びに震えていた。

「全く、のんきなもんだよ……」

 輝国は深い溜息を付いた。白い椅子の背もたれに身体を預ける。此処はハンバーガーショップの入っているショッピングモール。同じように店を構えるカフェの屋外席だった。

「クビ……クビか……クビだろうな……」

 幾つか掛け持ちしているバイト先のひとつとはいえ、その収入は安定して大きい。それを潰されたとなればジリ貧必至だ。

「ところで」

「ん? なんだよ」

 キャナルの語気が緩んだものから厳しいものへと変わった。咎めるような口調。まるで、自分がハンバーガーショップから追い出されたことなど忘れてしまっているかのようだった。

「あの女、いったいどういう関係ですの」

「む……」

 真っ直ぐと見詰めるキャナルの瞳に、揺らぎなど一切見て取ることは出来無かった。嘘や誤魔化しは簡単に見抜かれてしまうだろう。いや、それ以前に、真摯な乙女に対して嘘や誤魔化しで返答するということは最大限の侮辱だ。高潔な魂を持つ輝国に出来るハズもない。

「幼馴染だよ」

 決して嘘ではない。輝国にとって、瑞魚は近所に住む年上のお姉さんで幼い頃から何かと世話になり続けていた。だが、抱いている感情はそれだけではない。それを、キャナルは嫌というほどに感じていた。

「ただの幼馴染にしては随分とデレデレしてましたわねぇ」

「ぐ……」

 キャナルの鋭い視線が輝国を刺す。確かにキャナルの言う通りだった。輝国は瑞魚に幼馴染以上の感情を持っている。瑞魚が史上最年少の町長に当選したときも、何処か遠くへ行ってしまったようで寂しさすら感じていた。

「そんなことよりも、だ。その給料好きに使っていいぜ。せっかくここまで出てきたんだし」

「え……」

 キャナルにとってその言葉は意外なものだった。数時間の労働で貰った僅かなお賃金。当然、輝国に渡し家計の足しにしてもらおうと思っていた。それが、輝国の生活費を使い切った自分の責任だと考えていた。

「初めての給料は親になんか買ってやるってのが相場なんだが、あんまり入ってないからな。好きに使いなよ」

 立ち上がった輝国はぽんぽん、とキャナルの頭を撫でた。慈しむようなその手付き。胸にちくりとした感覚。だが、決して不愉快ではない。これを恋と理解するのに、キャナルはまだ幼な過ぎた。

「それじゃ、お洋服買いたい……」

 着の身着のまままでアジトから追い出されたキャナルだ。持っている服といえば例のコマンドスーツくらいなものだ。洋服が欲しい。年頃の少女としては当然の欲求といえる。

「じゃあ古着屋行くか。今日貰った分じゃ大したものは買えないだろうしな」

「うんっ! 行きますわよっ!」

 そうすることが当然のように、キャナルは輝国の手を繋いだ。思いも寄らない行為に一瞬輝国はたじろいでしまうがその暖かい掌に心まで包み込まれてしまうような感覚を覚える。

 遠目に見れば、恋人同士とは言わないまでも、仲の良い兄妹にはみえる。だが、そんな微笑ましい二人を見て歯噛みをする乙女が一人。

「手をつないだのなんて、小学校の低学年からずっとしたことないのにッ……!」

 辺りを燃やし尽くしてしまうような嫉妬の炎を燃やして、植え込みの影から二人を見ていたのは、公務もそっちのけな町長、瑞魚だった。

「ちくしょう……ちくしょう……!」

 眼に涙を浮かべながらハンバーガーを頬張る瑞魚。さも偶然を装っていたが、ハンバーガーショップに行ったのも輝国の顔を見る為だった。そう、瑞魚もまた輝国に幼馴染以上の感情を持っている。それに気付いていないのは当の輝国だけだ。

「これ以上の不純異性交友、絶対に許すまじッ!」

 こそこそと隠れるようにして二人を尾行する瑞魚。とても町民には見せられない姿だが、形振り構っている場合ではなかった。

                   ・

「ねぇ、輝国。こんなに似合うと思いませんか?」

 キャナルが広げて見せたのは真っ赤なプリントシャツだった。けばけばしい色の洋服が所狭しと並ぶ。此処はショッピングモールにある古着屋だ。

「うーん。俺はもうちょっと薄い色のがいいと思うけどなぁ。これなんかどうだ?」

 輝国が選んだのは清楚なデザインの、白のブラウスだった。子供向けのデザインながらも所々に金の刺繍が入っており、優雅な雰囲気さえ漂わせる。この古着屋で見つけたにしては掘り出し物だろう。

「輝国が選んでくれたのなら、それにしますわ」

 キャナルはブラウスを受け取ると自分の肩幅に合わせた。鮮やかな金髪に白が良く映える。まるで、キャナルの為にあるような服だった。

「いいのか?」

「ええ、最初から決めてましたの。輝国が決めて頂いたものを買おうって」

「キャナル……ならこのエロ下着をッ!」

「調子に乗るんじゃないんですわよッ! このド変態ッ!」

「えぴゅッ!」

 キャナルの脚が強かに輝国を蹴り上げていた。自らに課す過酷なトレーニングで輝国の身体は頑強に鍛えられていたが、どんなに鍛錬を積もうとも鍛えられない場所がある。それが眼球と性器だ。とくに後者は男にとって最大のウィークポイントと言っても過言ではない。

「それじゃ、着替えてきますわ。いつまでもこのかっこじゃ締まりませんものね」

 制服の端を摘むと、悶絶する輝国を他所に、キャナルはなんだか楽しそうに試着室まで走っていった。いや、楽しそうではない、楽しいのだ。まだ自覚は無いが、好いた相手と一緒に買物をする。ただそれだけのことなにこんなにも胸が踊るものなのか。

「お、おお……いってらっしゃい……」

 しゃがみ込んでいた輝国はなんとか中腰になりトントンと腰を叩く。軽口とスケベ心の代償には余りに大きかった。

「私なんて飴玉一個買ってもらったことないのに……!」

 この店に、客は輝国とキャナル以外にいないかに思われた。だが、それは正しい認識ではない。キャナルに対する呪詛を放つ口。それは動くハズの無いマネキンから発せられていた。

「ぐぬぬ……ぐぬぬ……」

 そう、店内に並ぶマネキンの一台、これこそ瑞魚の変装した姿だった。輝国にもキャナルにもバレないように完全に気配を消している。凄まじい技術だった。

「輝国ーっ! どう? 似合いますか?」

「おおっ!」

 その姿をひと目見るなり、輝国は思わず声を上げてしまった。先程渡した白のブラウスに黄色のフレアスカート。それに縞々のニーソックス。このままパーティに出られそうなおめかしだった。

「か……」

「か?」

「可愛いッ! 可愛過ぎるッ! このブラウスの純白ッ! 幼さの中に何処か色気を感じさせ、綻ぶ蕾を思わせるッ! そしてこのスカートッ! 覗く脚とニーソが眩し過ぎるぅぅぅッ!」

「あら……そんなに褒められると恥ずかしいですわ……」

 オーバーヒートする輝国にキャナルも満更ではない様子だった。恥ずかし気にくねくねと身体を捩らせるその姿も高ポイントだ。

「悔しいッ……あんなに褒められたことないのにッ!」

 流れる血涙。全身から迸る嫉妬。例え身体を微塵も動かしていなくともその気配に輝国とキャナルは気付かざるを得なかった。

「瑞魚さんッ! こんなとこでなにやってんですかッ!」

「わ、私はただのマネキンです……」

「いや、気付かないのもどうかしてるとおもうけどさ、ほんとなにやってんだよ」

「だって、こんな楽しそうな輝国ちゃん見るの久し振りで……悔しくって……」

「う……」

 輝国は気付いた。瑞魚の眼に涙が滲んでいることを。そして、その涙を流させたのが自分であることも。

「いや、あのさ……」

 女の涙ほどバツの悪いものはない。それが、姉のように、母のように接してきた幼馴染なら尚更だ。デートとも言えない幼い逢瀬とはいえ、キャナルとの二人っきりの時間を楽しんでいたのも事実だ。それが、輝国の胸を締め付けていた。

「ちょっと輝国ッ! マネキンの真似なんかしてる変態女の相手なんかしてないで、さっさと帰りますわよッ!」

 キャナルが輝国の腕にその手を回した。自分の明確な敵にとって、何が一番効果の有る武器であるのか、幼くとも本能で知っていた。

「このガキッ!」

 瑞魚が飛び掛ろうとしたそのときだった。その手はキャナルを掴む事無く虚しく宙を切る。そのとき起こった異変に完全に出鼻をくじかれていた。

「これはッ!」

 まず、輝国が身構えた。モールにはけたたましいサイレンが鳴り響いている。店の外に出れば、サイレンの意味が一目瞭然だった。

「火事かッ……!」

 古着店から五十メートルほど隔てた先の店舗からは白煙が上がり続けている。その中からは蛇の舌のようにちろちろと炎が伸びる。

「キャナル、お前ッ……!」

 今、この町内で狼藉を働くモノと言えば、キャナルが幹部を務める秘密結社ビオロしか思い付かない。今日、笑顔をくれ続けたキャナルを疑いたくはない。だが、しかし……。

「輝国のアホぉッ!」

 キャナルは輝国を突き飛ばし店の外へ跳び出た。悔しかった。輝国に信じてもらえなかったことが。あんなに楽しかった今日という日が、輝国の一言で全て灰色になってしまう。

「キャナル・バトルチェンジッ!」

 着ていた洋服が白色に輝く粒子へと変わり、キャナルの身体は閃光に包まれる。瞬きをするよりも短い時間。瞬間、刹那という言葉が相応しい。キャナルの身体はコマンドスーツを身に纏ったものへと変わる。

「行きますわよッ!」

 キャナルは誤解を解く為の言葉を持たなかった。行動こそが、何よりも自分の潔白を証明するのだと解っていた。そして、それは輝国の心に、鐘を鳴らしたかのように響いていた。

「すまなかったキャナルッ! 爆解ッ!」

 右手を天に掲げると、輝国の身体は金色の粒子に包まれる。町内特警ジークス。鳥飼輝国もう一つの姿へと変わる。

「いや、ほんと、申し訳ないというかなんというか……」

「いいからッ! とっとと火を消しますわよッ!」

「すまんッ……!」

「……貸し一つですわ。ここに美味しい甘味屋さんがありますの」

「俺は豆かんが好きなんだ」

「貴方の好みは聞いてませんわッ! 行きますわよッ!」

「応ッ!」

 同時に地を蹴る二人。走る、というよりも飛ぶと表現した方が正しいだろう。器用に人の波を掻き分け店舗の前へと着地する。

「ッ……!」

 古着屋の前で息を飲んだのは瑞魚だった。自分は、無力だ。町長なんて肩書きを持っていても、好きな男の力になることすら出来無い。

「嫉妬……? こんなときに嫉妬しているというの……?」

 そう、瑞魚の胸に有るのは明確な嫉妬だった。ジークスと、輝国と共に駆ける少女。私は、何時まで経っても横に立つことすら出来ないッ……!

「みんなッ! 早く逃げろッ!」

 そんな瑞魚の想いなど知る由も無いジークスは逃げ惑う人々を巧みに誘導してゆく。大方の人数を捌くのにそう時間は掛からなかった。だが、しかし。

「どうしましたの、輝国ッ!」

「中から声が聴こえる……まだ逃げ遅れた人がいるッ!」

 ジークスの聴力は三キロ先に落ちた針の音すら聞き分けるほどだ。例え炎が爆音を撒き散らそうとも、このような至近距離で聞き間違いをするはずがない。

「わかりましたわッ! 御笠ッ! 出て来なさいッ!」

「ぎぃ~ちょんッ! お呼びですか、キャナルさまッ!」

 このモールには客を楽しませるために小さな運河が作られている。その一本から水飛沫を上げて跳び出したのは、ロブスター怪人、御笠だった。

「御笠ッ! 入り口の火を消して下さいましッ!」

「お安いご用でぎっちょんッ!」

 御笠は二本のハサミを燃え盛る炎へと向けた。開いたハサミから放たれた砲弾。それは人の頭ほどもある水の塊だった。

「ぎ~ちょっちょちょちょッ!」

 次々と発射される水弾。だが、これだけの水量を持ってしても炎の勢いは僅かにしか緩まない。だが、ジークスにとってはこの僅かな緩みで十分だった。

「いよしッ!」

「輝国ッ! わたくしもッ!」

「お前、そんな剥き出しの足で炎の中に入るつもりかよ」

「あ……」

「大丈夫だ、必ず帰るッ!」

「必ずですわよッ!」

 ジークスは一度だけキャナルを見た。金色に輝く仮面の奥に、ジークスの、輝国の笑顔が見えた気がした。信じるに値する、力強い笑顔だった。

「待ってろよ、生きてろよッ!」

 ジークスは炎に覆われた入り口へと体当たりをぶちかます。築材が崩れ身体に直撃する。業火がその身を焦がす。だが、そのようなことを意に介している場合ではない。助けを求める人がいるのなら、ジークスはその歩みを止めることはない。だが、マスクの下のその顔に苦渋が満ちる。

「五分がいいところか……!」

 バリニュウムの装甲を持ってしても、その熱は抑えようがない。如何に堅固なオペレーションスーツを装着しようとも、中身はただの人間。高温に晒されれば確実に死が訪れる。ジークスでもそうなのだ、逃げ遅れた人なら尚更だ。もう、時間は無い。

「おい、どこだッ!」

 集音システムを最大限まで上げるが、商品が、壁が燃える音に阻まれ助けを呼ぶ声を聞き取ることは出来ない。いや、あるいは、もう……。

「そんなことあってたまるかッ!」

 ジークスは火の着いた商品の山を掻き分ける。ぬいぐるみや男子向けの玩具が音を立て散らばる。どうやら玩具店であったらしい。ならば、逃げ遅れたのは子供ということになる。

「くッ……!」

 ジークスの脳裏に焦りが襲う。五分、というのは逃げ遅れた人が成人である場合の話だ。もし子供であるならば、その半分、いやそれだけ持つかどうか。時間は、もう残されていない。

「聞こえるかッ! 聞こえるなら返事をしろッ!」

 叫ぶ声もただ虚しく炎に掻き消されるだけだった。僅かな呻きすらも聞くことが出来ない。ジークスの胸が絶望感に占領される、まさにその時だった。

「ええ、聞こえていますよ」

 ジークスの背筋に冷たいものが走った。この熱気の真っ只中にいるにも関わらず、だ。その声、子供が放てるようなものではない。南極に素っ裸で放り込まれたような錯覚に襲われる。

「何者だぁッ!」

 大声を張り上げるジークス。だがそれは、威嚇でも自分を鼓舞する為でもない、ただ恐怖を誤魔化す為の行為だった。たった一言。しかし、その一言がジークスの足裏を地面に縫い付けていた。

「探しものはこれでしょう?」

 炎の中から現れたのは、その色にも負けない朱色のコマンドスーツを身に纏った男だった。だが、ジークスにはそれを見る時間さえ与えられなかった。

「てめぇッ!」

 その男が無造作に何かを放り投げる。小さな影が炎の上に踊る。そう、あの時聞こえた声の主、逃げ遅れた子供だった。

 ジークスの装甲は、今や熱せられたフライパンに等しい。このまま抱き留めれば、子供は大火傷を負ってしまうだろう。

「大丈夫かッ!」

 選択肢は無かった。いや、そのようなことを考えることすらしなかった。輝国はオペレーションスーツを解除するとそのまま子供を受け止めていた。

「うん、命に別状は無いようだな……」

 呼吸と脈を確認し輝国は安堵の笑みを漏らした。足元を炎に覆われているにも関わらず、だ。自分よりも幼子を優先する、それが輝国が輝国たる所以だった。

「直ぐ気絶したのが良かったようですねぇ。煙も吸っていないようです」

「随分と他人事だなぁ? てめぇがやったくせによッ!」

 赤いコマンドスーツに似合わない冷徹な声に、輝国の怒りは爆発寸前だった。恐怖よりも先に、こんな幼い子を危険な目に会わせたこの男が何よりも許せなかった。

「さぁて、私がやったという証拠が何処にあるんですかね? 出せるものなら出してご覧なさい、さぁ、お早くッ!」

「ぐッ……」

 輝国は言い淀むしか無かった。確かに証拠は無い。だが、自分が入るよりも前にここにいたのだ。状況で考えるのならコイツが犯人でなくて誰が犯人というのか。

「こほっこほっ!」

「……ッ! 大丈夫かッ!」

 胸の中で気を失ったままの子供が弱々しく咳き込む。これ以上、炎の中にいることは危険に他ならない。子供だけではない、オペレーションスーツを解除した輝国にとっても、だ。

「おやおや、早く出ないと危険がクライシスですねぇ」

「言われなくても解ってるよッ!」

「フ……威勢が良いですね。そうそう、キャナルのこと、よろしくお願いしますよ」

「なッ……! キャナルのことを知っている……キサマ、ビオロかッ!」

「フフ、どうでしょう。そんなことよりも早く脱出しないと。二人仲良くローストビーフですよ?」

 天井は崩れ落ち、周りへと落ち続けている。炎は既に輝国の腰辺りにまで迫っていた。熱が、輝国の身体を苛む。時間が残されていないことは明白。幼い生命を此処で絶やす訳にはいかない。

「私がいると、逃げるに逃げれないようですねぇ。そんなに怖がること無いのに」

「なんだとッ……!」

「いいんですよ。それでは、さようなら」

 炎の赤と、スーツの朱が同じ色へと変わる。輝国が瞬きをした次の瞬間にはもうその姿は存在していなかった。狐につままれた気分というのはこういうことを言うのだろうか。

「俺は、俺は安心しているというのか……!」

 糸のように張り詰めた緊張感から解き放たれたとき、輝国の胸に訪れたのは安堵という感情だった。だが、戦いが日常である輝国にとって、それは敗北以外のなにものでもない。

「ん、う……」

 輝国を現実へと引き戻したのはその声だった。子供が苦悶の息を漏らす。いくら煙を吸ってはいないとはいえ、この熱は確実に生命を蝕んでゆく。長居をする訳にはいかない。

「輝国ッ! いつまでそこにいるつもりですのッ!」

「ぎ~っちょっちょっちょっちょっちょッ!」

 キャナルの声と共に水弾が飛んだ。火の手が弱まり僅かに退路が開ける。この機を逃せば、もう生命を永らえることは無いだろう。

「大丈夫だッ! 子供は助けたッ!」

 これ以上、一ミリたりとも子供に傷を付ける訳にはいかない。自分の身体で包むようにして輝国は走り出す。落ちる瓦礫も迫る炎も、もはや輝国を止めることは出来なかった。

「輝国ッ!」

「キャナルッ!」

 伸びる手を必死で掴んだ。次の瞬間には、禍々しい炎の赤ではない、ぱぁっとしたやわらかな陽射しが輝国を包む。

「間一髪、ってとこだったな……」

 その顔に、ようやく笑顔が戻る。輝国が言い終わる前に店舗はガラガラと音を立てて崩れ落ちていた。見守っていた観衆から大きな歓声が上がる。輝国の胸に、ようやく本物の安堵が訪れていた。

「あああ、弥生ちゃんッ! 弥生ちゃんッ!」

 きっと母親だろう。髪を振り乱した女性が輝国の抱いた子供をひったくるようにして奪う。女性はそのまましゃがみこむと子供に顔を埋め嗚咽を漏らす。

「救護が来ます。安心して下さい」

 輝国は母親に笑顔を向けていた。爛れた肌を見れば立っているのもやっとだというのが一目瞭然だというのに。キャナルはその姿を見て胸に込み上げる熱いものを感じていた。

「輝国ッ!」

 それは、輝国にも、そしてキャナルにとっても意外な行為だった。だが、そうすることが正しいことであると女の本能が告げていた。輝国の首っ玉に齧りついたキャナルは、さくらんぼのような唇を、愛しい男の唇へと重ねていた。

「む、むぐッ!」

 相手が例え美少女だったとしても、何の前触れも無く、いきなりキスをされれば吃驚仰天以外に何をすればいいというのか。経験がほぼ皆無の輝国は、気の利いた言葉を言えるはずもなく、ただ目を白黒させる他無かった。

「輝国、大好きっ!」

 茫然自失な輝国を他所に、キャナルは顔という顔に口吻を繰り返す。興奮しているのは何も二人だけではない。子供の救出を見守っていた観衆は今や単なる出歯亀に変わり、無責任な野次を飛ばし続けていた。

「な、な、なッ……!」

 ただ一人、その興奮に混じれない者がいた。野次馬に混じり、二人を、いや輝国を見守っていた瑞魚だった。戸惑いながらもだらしなく緩む輝国の顔をこれ以上見ることは出来なかった。これだけ周りに人がいるというのに、自分はただ一人なのだと、嫌でも感じざるを得なかった。


第三話 超々武装ミーナ


「それでは、鳥飼輝国、並びにキャナルに感謝状を贈ります」

 目に痛い程のフラッシュが雨霰のように輝国、キャナル、そして瑞魚へと降り注いだ。三人を取り囲むのはカメラを構えた無数の報道陣。此処は、天神町の町役場、その町長室だった。

 マスコミの前で醜態を晒す訳にはいかない。瑞魚は作り物の笑顔を貼り付けキャナルへと感謝状を渡す。だが、キャナルから見ればその手に憎しみが込められていることは明白だった。

「ま、お腹の足しにもなりませんけど、くれるというなら貰ってやりますわっ!」

 高飛車な態度を崩さず、ぶん取るようにして感謝状を受け取るキャナル。瑞魚の笑顔が引き攣るのが何よりも楽しい。

 恋する乙女の御業か、輝国とキスをしたときから、キャナルの神経は鋭く研ぎ澄まされていた。瑞魚が輝国に対して良からぬ感情を持っていることも手に取るように解る。だからこそ、どうすれば瑞魚を挑発出来るか、それも理解していた。

「おいキャナル。行儀良くしろよ」

「あんっ、輝国がそういうならそうしますわっ!」

 仔猫が母親にそうするように、輝国へとじゃれつくキャナル。マスコミにとっては恰好のシャッターチャンスだが、瑞魚にとっては到底許せるものではない。

「このガキッ! いい加減離れなさいよッ!」

「い~やですわッ! あっかんべ~ッ!」

「ムキーッ! 輝国ちゃん、なんとか言いなさいッ!」

「いや、まぁ……」

 歯切れの悪い輝国。瑞魚と目を合わすことすらはばかられる。なぜ輝国とキャナルの二人が町長室まで呼び出されることになったのか、話は今日の朝、あの火災があった翌日まで逆上る。

                   ・

「それではいただきますですわっ!」

「ん、いただきます……」

 昨日に引き続き、輝国宅の卓袱台にはバランスの取れた朝餉が並んでいた。湯気を立てる朝餉に笑顔の美少女。長いこと独り暮らしをしていた輝国にとっては夢の様な光景だが、それでもその表情は晴れやかとは言い難いものだった。

「あの……何か粗相でもありましたか……?」

「いや、そうじゃない……」

 輝国の表情が晴れないのはキャナルのせいではない。脳裏に浮かぶのは、炎の中で出会ったあの男のマスク。もしあの男がビオロの関係者ならば、これ以上キャナルをそこに置いておくわけにはいかない。

「なぁ、キャナル」

「なんですの?」

「ビオロの幹部なんかやめてよ、俺と一緒に暮らさないか?」

「え……」

 その言葉は、キャナルにとっては生涯に一度の聖なる言葉に等しかった。ならば、それに相応しい態度を取るべきだと理解していた。箸を卓袱台に置き背筋を伸ばし真っ直ぐに輝国の眼を見据える。

「お前をさ、これ以上危険な目に合わせたくないんだよ」

「輝国」

「ん?」

 キャナルには何よりも嬉しい輝国の言葉だった。でも、だからこそ言わなければならないことがある。この障害を乗り越えなければ二人に幸せは訪れない。それは痛いほどに解っていた。

「貴方はなんでこの町を護るんですの?」

「そりゃあ、護る力を持っているから。力を持っている者の義務だよ」

「それだけですの?」

「この町はさ、俺の親父とお袋のが暮らして、俺が生まれた町なんだよ。親父からジークスを受け継いだ俺は、絶対にこの町を護らないといけない。ジークスも、この町も絆なんだ」

「わたくしも、同じですわ。この町を征服することはビオロとの絆。いえ、絆よりも強い約束……」

「キャナル……」

 その言葉には深く強い意思がハッキリと見て取れた。必ずこの町を征服するという決意。何者も、動かすことの出来無い深く強い決意……。

「わたくしたちが正義と悪に別れる以上、結ばれることは決して無い……だから……」

「だから?」

「輝国がビオロに入ればいいんですわっ!」

「いいッ!?」

 キャナルはナイスアイデアと言わんばかりに手のひらを合わせた。正義と悪で有るが故に結ばれないのならば、輝国が悪に染まればいい。キャナルらしい我侭で大胆な発想だった。

「そうすれば、お父様だって結婚許してくれますわっ!」

「結婚ってッ! まだキスしかしてないのにッ!」

「あら、それ以上をお望みかしら? 輝国はせっかちですわねぇ……」

「うわぁッ! 脱ぐな脱ぐなッ!」

 キャナルはブラウスのボタンをひとつづつ外してゆく。その指先の動きすらが官能的で、輝国は形だけの抵抗をするものの身動き一つ取ることが出来無い。その視線すら釘付け、動かすことが出来無い。

「大丈夫、痛くしませんから……」

「う、ぐ、う……」

 ブラウスがはらり、とはだけ、丸みを帯びた肩と、子供らしいブラが覗く。眼に映るのは白一色、まだ幼い身体。輝国の胸に沸くのは罪悪感と背徳感。だが、心臓はその鼓動を早め、股間は本能に正直に熱く硬く変化してゆく。

「……おまッ! まだ子供だろッ! 百歩譲ってキスまでは許すッ! でもそれ以上はダメ絶対ッ!」

「あら、わたくしもう始まってますのよ……」

「は、始まってるって何がッ……!」

「せ、い、り☆」

「せいり、って生理ッ!?」

「もう輝国の子供を産む準備万端ですわっ! さぁっ!」

「さぁじゃねえよぉッ!」

 にじり寄るキャナルに後退る輝国。だが、六畳の部屋で何時までも逃げられる訳が無い。あっという間に背中が冷たい壁に当たる。眼前には上気したキャナルの紅顔。その熱が、その息遣いが、匂いが、これでもかというくらいに直接に伝わる。

「輝国はわたくしのこと、好き? イエスかはいで答えてくださいまし」

「肯定しか選択肢がないじゃないかッ!」

「いいからッ! わたくしのことどう思ってるんですのッ!」

「う、む……」

 輝国の、キャナルに対する想い。それはこの二日間で形成されたものではない。初めて二人が出会ったのは三ヶ月前のことだ。その出会いは最悪だった。町内を守護する者、正義のヒーローと、悪の秘密結社の幹部。どちらかが倒れるまで戦う、そう宿命付けられていたハズだった。

 だが、戦闘メカ・バーサイドに乗り現れた少女を見たそのとき、輝国の胸は何故か不意にときめいていた。可愛い……それがキャナルに対する偽らざる感情。だが、自分とこの少女は敵同士。戦う度にそのときめいた胸を痛めていた。

 どうしようもなく惹かれてしまう自分がいる。だが、逢瀬を重ねるには町内征服の作戦を遂行しようとするキャナルを待つ他に手立てはない。次第に、ビオロの活動を楽しみに待つという、正義の味方として矛盾した感情を持つ自分に気が付いていた。

 そんなキャナルがアジトを家賃滞納で追い出され、このアパートに転がり込んで来た。輝国にとっては千載一遇の好機に他ならない。

「好き……だよ……」

「じゃあ何も問題ありませんわねっ! 後は、輝国がビオロに入るだけですわっ!」

「そうは言うがな、キャナル……」

「たったそれだけのことですわよ。たったそれだけのことで、わたくしの身体を好きに出来るんですのよ……」

「ぐッ……」

 その幼い容姿に似合わない、妖艶な瞳が輝国を苛む。ただ一言、ただ一言だ。ビオロに忠誠を誓うと言えば良い。そうすれば、この歪んだ欲望を全てぶちまける事が出来る。何を迷うことがあるだろうか。

「ビ、ビオロに……」

「ん、ふ……」

 快楽への過剰な欲求に輝国の脳はもう考えることを放棄してしまっていた。欲望の赴くままにその豊かな丘陵へと手を伸ばす。キャナルの口から甘やかな吐息が漏れる。思った以上であったブラの硬さに阻まれてその柔さを確かめることは出来無いが、その行為自体が輝国の興奮を極限まで押し上げていた。

「ちゅーせいを……」

「ちゅーせいを……?」

 キャナルの顔がそこまで迫っている。その言葉を今か今かと待ち構えている。最後の一言、誓うとさえ言ってしまえばそれは叶う。二人の、純心な想い。邪で、淫らな、純心な想い。

 だが、その想いは交錯することは無かった。

「こぉぉぉらぁぁぁッ! 子供相手にナニやってんのよぉぉぉッ!」

「うおわぁッ!」

 突然の闖入者に輝国のプライベートな部分もすっかり縮こまってしまう。扉を蹴破り、ずかずかと部屋の中へと無遠慮に踏み込んで来たのは、紺色のスーツに身を包んだ女性、瑞魚だった。

「あら、愛し合う二人の褥に踏み込むなんて、ずいぶんと無粋ですわねぇ」

 正しく、これが修羅場と言うのだろう。衣服を整えながら敵意を隠さない瞳で瑞魚を睨み付けるキャナル。あと僅かで想いは遂げられるはずだったのに。強い苛立ちを嫌味に変えて遠慮無くぶつける。

「ナニ言ってんのよッ! 不純異性交遊だわッ! 条例違反だわッ!」

「ふんッ! おばさんは他人の色事にクビ突っ込む前に自分の売れ残りを心配したらどうですのッ!」

「ムキーッ! 誰がおばさんよッ! 輝国ちゃんッ! なんか言ってやってッ!」

「輝国、こんな不法侵入女とっとと追い出して、続きをしましょう……」

「あ、う……」

 キャナルと瑞魚、二人の美女に挟まれ腕の引っ張り合いが始まる。平時であるならばとてつもなく羨ましい事態であるが、端的に表すならこれは修羅場。こんな経験今迄に無かった輝国は眼を白黒とさせるしかない。

「と、ところで瑞魚さん……どうしてわざわざウチまで来たの?」

「理由が無きゃ来ちゃいけないってのッ! 輝国ちゃんにとって私ってそんなどうでもいい存在だったのッ! 若い子がいれば私なんてもう用済みなのねッ!」

「そんなこと言ってないよッ!」

「わざわざ迎えに来たのに、この仕打よッ!」

「だからなんで来たんだよ。説明しなきゃ何もわかんないよ」

「あ、まぁ、そうね……」

 僅かに落ち着きを取り戻した瑞魚は、次第に町長としての顔に戻る。そう、今日このアパートに来たのは痴話喧嘩を繰り広げる為ではない。

「こほん。鳥飼輝国さん。キャナルさん。前日のショッピングモールでの救助活動を評価し、感謝状を贈ることを町議会で決定しました」

「感謝状、ですか」

 意外な瑞魚の言葉に輝国の表情が緩んだ。ビオロが天神町に狙いを付ける以前も人知れずこの町の平和を護ってきた。誰に褒められることも無く、ただ一人でずっと。だが、それで良いと思っていた。この町で平和に暮らす人々の笑顔こそが最大の賛辞であると、そう思っていた。

「そうですか……」

 思いもよらぬ形で訪れた感謝の証。輝国の胸には熱いモノが込み上げてくる。深い闇に光が差し込んだ気分だった。見てくれる人が確かにそこにいる。ただそれが嬉しかった。

「ずいぶんと嬉しそうですわね」

 キャナルは可愛らしくふくらませた頬を輝国へと向ける。乙女の可憐な抵抗だった。想い人が、自分よりも、この女が持ってきた感謝状とやらに心を奪われていることが何よりも許せなかった。

「キャナルさん。本来、この町を狙う悪の秘密結社の幹部であるあなたに感謝状は不適当なのですが……議会で決まったことなのでお渡しします。是非町役場までお越し下さい」

「ふんッ! わたくし、くれるというなら病気以外はもらう主義なんですわッ! 喜んで行って差し上げますわよ」

 眼を合わさず、そっぽを向いたまま淡々と棒読みする瑞魚。だが、その涼しげな仮面の裏には激しい嫉妬が渦を巻いている。キャナルは未だ消えることのない苛立ちをぶつけるかのように、今にも噛みつかんばかりの勢いだ。

「それでは、表に車を用意してあります」

 かくして、輝国とキャナルの二人は町役場に招かれる次第になった、という訳である。

                   ・

「まぁまぁまぁまぁ二人とも、写真撮られてるし……」

 輝国は慌てて二人の間に割って入った。キャナルと瑞魚、その相性は水と油、犬と猿、酸素系漂白剤に塩素系洗剤、そんな例えが生易しく思えるほど劣悪なものだった。だが、その一番の要因が他ならぬ自分であることに気付けるほど、輝国の経験は豊富ではなかった。

「輝国ッ! 貰ってしまえばもうこんな犬小屋に要はありませんわッ! とっとと帰りますわよッ!」

 キャナルは鼻息も荒らく踵を返すと足を踏み鳴らすようにして町長室から出る。まるで、これ以上瑞魚と同じ空気を吸いたくないと言っているようだった。いや、実際にそう思っていたことだろう。その背中が如実に物語っている。

「キャナルッ! ちょっと待てよッ!」

 追い掛けようとする輝国だったが、思わぬ足止めを食らうこととなる。その腕を掴んだのは他でもない、瑞魚だった。

「瑞魚さん……」

 輝国は瑞魚に明白な負い目を感じていた。幼馴染以上の感情を抱いているにも関わらず、キャナルとあんなことをしようとしてしまった。その真っ直ぐな視線に、汚れている自分を糾弾されているようで思わず背けてしまう。

「輝国ちゃん。どうしてあなたは戦うの?」

「え……なんか朝も同じこと聞かれたような気がするな」

「いいから、真面目に答えて」

 報道陣に聞かれないために声量は絞ってあるが、有無を言わさない強い語気だった。輝国は一瞬で悟る。これに応えないのは瑞魚に対する冒涜でしか無いと。

「親父やお袋の暮らした町、俺を育ててくれた町を護りたいからだよ」

「輝国ちゃん、私はね、私はあなたを護りたいの」

「え……」

「あなたを護りたかったからこの町の町長になったの。町長にさえなりさえすれば、警察の予算だって増やせる。きっとあなたの戦いを止めることが出来る。そう思ったわ。でも、あなたの戦いが絶えることは無かったわ……」

「瑞魚さん……」

「でも、これからは違うわ。必ずあなたを護ってみせる……」

 町長とはいえ、瑞魚は特別な力を持たない普通の人間でしかない。それを、ジークスとしての力を持つ輝国を護ると言ってのけた。決して言葉のあやではない。明々たる決意が、そこには存在していた。

「どういう……」

 だが、その言葉の全てが瑞魚に届くことは無かった。扉は閉められ、冷たい断絶だけが背中に感じる。まるで、その存在全てを否定されたかのように瑞魚の姿も、気配すらも感じることが出来なくなってしまっていた。

「瑞魚さん……」

 どういう意図を持って瑞魚があんなことを言ったのか、輝国には理解し兼ねることであった。だが、ただ此処で呆けている訳にはいかない。キャナルの姿はもう何処にも見えなくなってしまっていた。

「おい、キャナルっ! ったく、どこ行っちまったんだか……」

 輝国は町長室のある三階から、そのまま一直線に一階ロビーまで降りる。見渡すがキャナルの姿は此処にも無い。昼時で人がごった返しているが、その鮮やかな金髪を見間違えるはずもない。と、なればもう外に出て行ったとしか考えられない。

「む……」

 強い紫外線が輝国の網膜を焼く。空には雲のひとつも無く、ただただ蒼天が何処までも果てし無く続いている。探すまでもなかった。その蒼に映える金色。ふくれっ面の少女がそこにいた。

「遅いですわッ! まったく何をやってらしたのかしらッ!」

 キャナルはそれが当然の権利であるかのように輝国を叱り付けた。流れる汗や、絶え絶えな息を見れば走って来てくれたのだと解っている。だが、そんなことはキャナルにとって当たり前のことだ。

「ああ、すまんすまん」

「まったく……」

 屈託の無い笑顔で頭をぽりぽりと掻く輝国を見て毒気を抜かれたキャナルはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 僅かな沈黙。だが、この沈黙こそが幸せそのものなのであるとキャナルは幼いながらに理解していた。おだやかな風が、やわらかな陽射しが二人を包む。だが、そんな沈黙も無粋な電子音に掻き消されてしまった。

「あら、お邪魔虫はどこのどなたかしらッ!」

 キャナルは思いっきり悪態を付きながらポケットから小型タブレットを取り出した。だが、その悪態も一瞬のこと。低い呻き。表示されている顔を見るなり、手から落としそうになってしまう。

「お父様……」

 父親と話すだけの為にそうする必要があるのか輝国には解らなかったが、キャナルは大きな深呼吸をひとつ。意を決するようにしてタブレットの画面を押す。

『うぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ! キャナルッ! 元気にしておったかぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!』

「ひあぁッ! お父様ッ! そんな大声出さなくても聞こえますわッ!」

 思わずタブレットを耳から離すキャナル。それでも構わず叫び続ける父親の叫び声は輝国の鼓膜を苛むほど並外れたものだった。画面に映る髭面そのままに、豪放磊落な性格のようだ。

『いやキャナル、お前が父を恨むのも解る。このイムズが作戦に戸惑っていたばかりに活動資金を送れず……さぞ、辛い暮らしをしていることだろう』

「いえ、お父様、心配ありませんわ。親切な方に助けて頂いています」

 キャナルはちらり、と輝国を見た。僅かにはにかむその顔には幸せが満ち溢れている。愛する男と一つ屋根の下で共に暮らしている。まだ二日間ののことだが、そんな幸せに酔いしれていた。だが、画面の中のイムズはそんなことお構い無しだ。

『うむ、それでな。これはいったいどういうことだ?』

「げ」

 キャナルの口から飛び出た言葉は、とてもその容姿には似合わない間の抜けたものだった。イムズが取り出したのは、天神町の広報誌。一面のカラー記事には堂々と、輝国とキャナルが口吻を交わす写真が掲載されていた。

『お前も恋を知る歳だろう。そこはとやかく言うつもりは無い。だが、この男は、我らがビオロの邪魔をちまちまとしてくれる町内特警ジークスであるというではないかッ! いったい、どういうつもりだ、キャナルッ!』

 余りの音声にタブレットのスピーカーが焼き切れてしまうかと思えるほどだった。モニターの奥で口角泡を飛ばし、マグマのように真っ赤になった顔に血管を浮き上がらせるイムズに、嘘や誤魔化しは通じないだろう。

「こ、こ、こ、これは……これは、町内特警ジークスが、我がビオロの軍門に降った証ですわッ!」

「すわッ!?」

 素っ頓狂な声を上げる輝国。だが、それとは対称的な表情なのがイムズだ。咄嗟に付いた嘘にしては上出来だったのだろう。イムズの厳つい顔はみるみると毒が抜けたように緩んでゆく。ぱあっ、とラフレシアが開いたような顔がモニターいっぱいに広がっていた。

『ふむッ! それはなんとも僥倖ッ! でかしたぞキャナルッ! ジークスさえいなければ、そのような小さな町、今日にも征服出来ようッ!』

「いえ、まぁ、準備もありますし……今日明日という訳には……」

『おお、キャナルよッ! なんと心優しい子だッ! この父が来るまで待ってくれるというのだなッ! わかったぞ、今直ぐにそちらに向かうッ!』

 最後の最後まで大音量のイムズだった。一方的に通話を切り、ようやくその嵐は過ぎ去る。だが、それはより巨大な嵐の前触れに過ぎないと、輝国もキャナルも理解していた。

「おいキャナルッ! どうしてくれんだッ!」

「だってだって、この場はああ言うしかありませんでしたわッ!」

「いつ、どこで、俺がビオロの軍門に降ったっていうんだよッ!」

「今朝ッ! 今朝ですわッ! おっぱいもまれてしまいましたわッ! わたくし、まだこどもなのに……」

 都合の良いときだけ子供になってしまうキャナルだが、それ故に効果は抜群だった。上目遣いに潤んだ瞳。あの感触が蘇り、輝国の胸には、再び歪んだ欲望がふつふつと沸き上がる。ビオロの軍門に降った訳ではない。だが、キャナルの軍門には降ってしまったらしい。

「キャナル、ちょっと待ってろ」

「へ?」

 返事を聞くよりも前に輝国は踵を返し町役場へと戻っていった。待つこと十分、キャナルが見た輝国の顔は、今迄に見たことが無いものへと変わっていた。一週間を迎えた便秘の朝、ようやくお通じが来たような、そんなスッキリした表情へと変わっていた。

「輝国ッ! ずるいですわッ!」

「さぁ、なんのことだか」

 その立ち振舞いが余りに涼やか過ぎて、まだ知識の乏しいキャナルにすら輝国が何をやってきたか明々白々だった。男が人間に戻る時間。欲望を全て洗い流した末に訪れる、賢者の時間だった。

「ふんッ! 毎朝誘惑して差し上げますわッ!」

「毎朝するから大丈夫だッ!」

「くだらないことを……とにかく、ひとまずはお父様をどうにかするのが先決ですわ……」

「どうする、ってどうする?」

「大丈夫、わたくしに良い考えがありますわっ!」

                   ・

「うおおおおおおおおおッ! キャナルッ! 会いたかったぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」

「いやん、お父様、お髭がくすぐったいですわっ!」

 キャナルを抱き締める、熊のようにずんぐりむっくりとした男。毛髪か、眉毛か区別の付かない毛の奥には、ダイヤモンドのように爛々とした眼が輝いている。身体には、輝国やキャナルのものと比べれば幾分か旧式のプロテクター。体毛と同じ黒色が圧倒的な威圧感を放っている。

「それにしても狭いな……日本には犬小屋しか無いのか」

 確かに、イムズの巨体はこのアパートには狭すぎた。頭と天井が擦れてしまうほどだ。だが、無遠慮なイムズの言葉は、少なからず輝国の神経を逆撫でする。だが、ここでブチキレてしまえば計画の全てはおじゃんになる。

 仮に、輝国が、ジークスがビオロの軍門に降っておらず、正義の味方のままならイムズはキャナルを引き離し、天神町への侵略を自ら行おうとするだろう。だが、もし、ジークスが伴侶となっていたらどうだろうか。若夫婦にこの町を任せてきっと帰ってくれるに違いない。キャナルはそう見通していた。

「お義父さん、お初にお目にかかります……ジークスこと、鳥飼輝国と申します……」

 全てを飲み込んで、輝国は深々と頭を下げた。輝国だって、こんなところでキャナルと別れるのは不本意以外の何物でもない。今日、この場だけでも誤魔化さえば、敵同士とはいえ、離れ離れになるようなことはない。

「うむ。婿殿、と呼ぶべきかな……」

 豪快とか野太いとか無骨とか、如何にもそんな言葉が似合いそうなイムズだったが、輝国と向き合ったとき、初めてその表情に影が差した。まだ幼い娘が男と共に暮らしている。その事実をどう受け止めていいのか。まだ割り切れていないようだった。

「何時から、一緒に暮らしておるのだ?」

「あ、それは二日前から、痛えッ!」

 輝国が飛び上がった。イムズからは何が起こっているのか全く見えないが、輝国の背には真っ赤なミミズ腫れがのた打ち回っていた。キャナルがそっと隠したのは黒いグリップ。ビーム・ビュートで強かに背を打ち付けていたのだ。

「ええ、お父様っ! 一ヶ月前から一緒に暮らしてるんですわっ!」

 痛みに悶絶する輝国を他所に、キャナルはいけしゃあしゃあと口から出任せを吐く。だが、嘘を誤魔化す笑顔ばかりが眼に入り、イムズには畳の上を転がる輝国など眼中に無いようだった。

「ふむ……それでなんで一緒に……」

「それは、家賃払えないで追い出された、もぐぅッ!」

 再び、真実をそのままに話そうとした輝国をビーム・ビュートが打ち付ける。もはや声が出ることも無い。エビのように仰け反るしか出来ない。輝国はただ痛みという大嵐が過ぎ去るのを伏せて待つ他無かった。

「それは、輝国がわたくしの美貌にめろめろで……三百六十五日、二十四時間、いつも一緒にいたいっていうから……」

 キャナルの舌は、まさに舌好調といった様相を呈していた。次から次へと有ることな無いことポンポンと飛び出す。頬を紅く染め身体をくねらすキャナルを見て、イムズの溜息をは留まるところを知らなかった。

「解った。お前の気持ちは良く解った。もう父が何を言っても聞かんだろう……お前は小さい頃から言い出したら聞かない子だった……」

 今もまだ小さい、と言おうとした輝国の背中を三度、閃光が襲う。にこにこと、お上品に口へと手を添えるキャナル。幼くとも、かかあ天下の素養十分だった。

(良しッ! ですわッ!)

 キャナルは心の中でガッツポーズを取った。輝国とキャナル、二人の間にある障壁が全て取り払われた訳ではない。だが、此処でイムズが納得して帰ってくれるなら、取り敢えず、当面の問題は先送り出来たことになる。

「ときに、婿殿よ」

「は、はい……」

 辛うじて身体を起こした輝国だったが、直ぐにまた地面に這いつくばりたいという感覚に襲われる。自分を見据えるイムズの視線に、完全に射竦められてしまっていた。蛇に睨まれた蛙というのはまさにこのことを言うのだろう。

「七兆二十一億、これがどういう数字か解るか?」

「いえ……?」

「この町を征服する為に費やした額、平たく言うなら、婿殿に倒された怪人やビオロ兵に掛けた金だ」

「ぐッ……」

 思わず言葉に詰まる輝国。それもそのはず。見たことも聞いたことも無い数字が目の前で踊っているのだ。最低賃金で糊口を凌ぐ輝国にとっては毒物以外の何物でもない。

「これを取り戻すには、婿殿にはやってもらわねばならんことがある」

「それは……?」

「無論、町内征服よッ!」

                   ・

「聞こえるかぁッ! ワシがビオロの大幹部、イムズだッ!」

 スピーカーも使わないのにこの大音量だ。町役場前の広場に地響きにも似たイムズの怒声が轟いている。声を出す、ただそれだけのことであるのに、ビルは震え窓ガラスは粉々に飛び散る。人間兵器、まさにそう呼ぶのが相応しい。

「おい、キャナル。いったいどうしてくれんだよ……!」

「どうしてくれてんだよ、と言われましても……」

 ヒソヒソと、小声で談を交わす輝国とキャナル。その後ろには、群れを成す怪人とビオロ兵。殺気立ち、物々しい雰囲気。一触即発、戦争状態にあると言っても過言では無いだろう。

 イムズがこの天神町に訪れたのは、娘とその婿を見る為だけではなかった。町内特警ジークスの存在で、遅々として進まなかった町内征服、それを一挙に自らの手で成し遂げようというのだ。最大の障害であったジークスが、我が手にあるのならこれ以上の好機は無い。イムズは八重歯と呼ぶには余りに凶悪な犬歯を剥き出しにしていた。

「下品な声を出さなくても、十分に聞こえています」

 町役場から颯爽と現れたのはこの町の町長、瑞魚だった。怯えなど微塵も感じさせない、堂々とした足取りでイムズの前に立つ。肉食動物が獲物を狙うような視線で、その巨体を一瞥すると一度だけ咳払いをした。

「ふむ、征服が進まぬのも当然だ。若いがこの町を背負うという気概に満ち溢れておるわ」

「お世辞は結構です。この町が欲しいのでしたら、三ヶ月後にある町長選に立候補して下さい。選挙は、皆に平等です」

「ふむ、悪くない申し出だが、わざわざ帰化をせんといかんのでな。煩わしい手続きは苦手だ」

 二人とも、笑みを浮かべ和やかな雑談を交わしているようにも見える。だが、輝国には見えていた。二人の間に交差する殺気を。それは、日本刀よりも鋭い切れ味で、ヘビー級ボクサーのパンチよりも重い打撃で、お互いを苛む。

「交渉決裂、ですね。暴力に訴えるのは好きではないのですが」

「町長如きが何が出来る?」

「そうですね、好きな人を護るくらいは――――」

 その言葉はバンカーバスターを打ち込まれたかのように、輝国の心を抉っていた。きっと、おそらく、瑞魚の言う好きな人というのは自分のことだろう。決して自意識過剰なのではない。残酷な運命と言おうか、悲劇的と言おうか、まさにロミオとジュリエット、敵と味方に別れたこのとき、初めて二人の想いは通じ合ったのだ。

「瑞魚さんッ……!」

「心配しないで、輝国ちゃん。あなたは洗脳されているだけなの。私が、きっと元に戻してあげる……」

「うッ……!」

 戦慄。それ以外に表現しようの無いざわめきが輝国の神経を駆け巡る。瑞魚の眼は得体の知れない何かに取り憑かれているようにしか見えなかった。

「そんな小娘のこと、輝国ちゃんが好きになる訳ないもんね……輝国ちゃんは私のことを、私だけのことを……」

 瑞魚にとって、想い人が自分以外の女と、それもこんな小さな子と暮らしているなど、許し難いことだった。その辛い現実を否定する為には、輝国が、悪の女幹部に洗脳されていると、そう帰結することに何の不思議も無かった。

「今直ぐ、解放してあげるッ!」

「うおッ!」

 その気迫に、輝国は思わず後退りしてしまった。いや、気迫だけで、これまで幾多の戦いを繰り広げてきた歴戦の勇士である輝国を圧倒することは出来無い。気迫だけではない何かが、瑞魚の周りに渦巻いていた。

「瞬烈ッ!」

 つむじ風、いや、天にも昇ろうかという竜巻が瑞魚を巻き込む。傍から見れば自殺行為以外の何物でもない。だが、それは違う。旋風の渦には大気を斬り裂く奔流の他に、明確な意思がそこに存在していた。

「超々武装、ミーナッ!」

 真紅のヘルメットに黒色のバイザー。纏めていた髪はヘルメットの縁からはためき、マントのように広がる。唇は外気に露出しておりヘルメットにも負けない赤を自己主張する。その肉体にはピッタリとしたスーツを纏い、熟れた魅力をこれでもかと放っている。

「超々武装ミーナ、だと……!」

「そうよ、これが、これこそが輝国ちゃんを護る為の力ッ!」

「おかしいよッ! こんなのおかしいですよ、瑞魚さんッ!」

「何も、心配することは無いのよ……昔みたいに、お姉ちゃんが助けてあげる……」

「そんなことじゃないッ! いい歳してるくせにそんな破廉恥な恰好してッ! 恥ずかしくないのかよッ!」

「な、なんですってぇッ!」

 ヘルメット越しにもあからさまであるほど、ミーナの頬は紅潮してしまっていた。元々、他人の前に出ることも得意ではないし、海水浴に行くのをはばかられるほど肌の露出だって苦手だ。それを、ただ輝国の為にこんな恰好をしているというのに、当の本人に破廉恥などと言われてはたまったものではない。

「なんでそんなこと言われなきゃいけないのよッ! この恰好だって、その……小娘を真似して……輝国ちゃんはそういうのが好きだと思ったからッ……!」

 ミーナはその腕で露わになった胸の谷間と切れ上がった股間を隠す。仮面の下がどんな顔になっているか想像するまでもない。その羞恥に塗れた仕草が余計に卑猥で、輝国は眼を逸らす以外に何も出来なかった。

「何年増見て赤くなってんですのよ」

「いぎぃッ!」

 もはや伝統芸と言っても過言では無いだろう。ビーム・ビュートは輝国の尻を狙い澄まし、強かに打つ。空気の破裂する音と激烈な痛みが同時に襲いそのままうずくまってしまう。

「輝国ちゃん、そんなこと言うのも、そのクソチビに洗脳されてるからよ……洗脳は、している怪人を倒せば解ける……これはもはや常識ッ!」

 じゃれ合っている(ように見える)輝国とキャナルを見てミーナに再びおかしなスイッチが入る。石畳を蹴り、一迅の熱風と化したミーナは虚を突きイムズの脇をすり抜ける。狙うは、ただ一人……!

「やらせるかよぉッ!」

「な、なんでッ!?」

 ミーナには理解出来無い行動だった。金色の粒子が空気を染める。振り被った手刀はやわらかな肉を裂くのではなく、堅い装甲に阻まれていた。

「瑞魚さんでも、やっていいことと悪いことがあるッ!」

「くッ……このッ……!」

 ミーナは手刀を引き抜こうとするが、ギチギチと嫌な音を奏でるだけで、一ミリも動かすことは出来無い。装甲と装甲が擦れる度に金と赤の粒子が交じり合い鮮やかなコントラストを作り上げる。

「なんでッ! 邪魔するのッ!」

「こんな子供に手ぇ上げるのが、町長のやることかよッ!」

「子供でも、ビオロには違いないわッ!」

「それは、言い訳だろッ! 生命を奪って良い理屈が何処にあるかッ!」

「あなたをッ! あなたを護るた為なのッ!」

「それに、そのスーツ、どっから手に入れたッ!」

「……ッ!」

 間近で見れば見間違えることは無い。瑞魚が纏う超々武装ミーナの装甲、女性的なデザインになってはいるが、あの火災の日、あの男が装着していたスーツに類似点が多過ぎる。偶然では済ませないレベルだ。

「あなたには関係の無いことよッ!」

「関係無いことは無いッ!」

「無いったら無いッ!」

 他を寄せ付けない凄まじい気迫が二人の間を占領する。キャナルも、怪人も、ビオロ兵も、全ての人々が皆がその圧力に飲まれ動くことが出来無かった。だが、一人だけが違っていた。

「笑止ッ! 戦いの中で戦いを忘れるとはなッ!」

 イムズだけが止まった時の中で戦うことを選んでいた。石畳を踏み砕きながらその巨体に似合わぬ俊敏さでミーナへと迫る。唸りを上げる剛拳。喰らえば、コマンドスーツごと肉体を粉々に砕くだろう。

「もらったぁッ!」

「ひッ……!」

 戦士にはあるまじきことだが、ミーナはイムズの姿から眼を背けてしまっていた。無理もない、つい昨日までただの町長でしかなかったのだ。刹那の後には確実な死が迫る。その恐怖から逃れる為に眼を瞑る。誰が責めることが出来るだろうか。

「えッ……!」

 金属を砕く轟音が鳴り響いていた。それは、ミーナを冥府へと導く死神の笑い声だったはず。だが、違う。自分は生きている。ならば、何故……。

「輝国ちゃんッ!」

「へへッ……おおー痛え……」

 信じたくはなかった。怖々と眼を開ける。だが、そこにあったのはその信じたくない事実、どうしようもない現実だった。ジークスの神々しささえ感じる装甲は見る影も無く、全身に蜘蛛の巣のようなヒビが入り乱れていた。

「ぐおふッ!」

 先程の音にも負けない呻きだった。マスクに出来たヒビから噴火のように鮮血が吹き出し、次いでボディからも同様に。地面を紅く染めるほどの流血。それが、死に至る量であることは素人であるミーナにも明白だった。

「輝国ッ! 輝国ッ!」

 予想だにしない事態に、全く動けないミーナを他所に、キャナルはジークスの元へと駆け寄る。為す術無く倒れるジークスを優しく、慈しむように抱きとめる。だが、その背を見て絶望を多分に含んだ悲鳴を上げる。父の、イムズの渾身の一撃が炸裂したのだ。背中にはヒビ割れと言うのが生易しく思えるほどの大穴が開いてしまっていた。

「卑劣なッ! 婿殿を盾にするなどとッ!」

「あなたが先にやったんでしょうッ!」

「ええい、問答無用ッ! やれいッ! ビオロ兵どもッ!」

 逆上したイムズは激情のままに、ビオロ兵たちへと攻撃の合図を出す。次から次へと起こる理解の範囲を超えた事態に呆然とするしかなかったビオロ兵も、イムズの檄に、瞬時に戦闘体勢へと変わる。

「あんたたちの相手をしている場合じゃないのよッ! 早く輝国ちゃんを病院に連れて行かないとッ!」

 飛び掛ったビオロ兵の一体をミーナの廻し蹴りが弾き飛ばした。そのキレはジークスに勝るとも劣らない。その勢いのままに、横にいたビオロ兵へと裏拳をぶちかます。その攻撃、全てに輝国を救うという強い意思が見て取れた。

「けど、確かに多勢に無勢ね……!」

「当然よッ! 超々武装ミーナッ! お前を倒し、この町は頂いてゆくッ!」

「そうはさせないッ! この町も、輝国ちゃんもッ! 私のものよッ!」

「ならばこの圧倒的な数の差、どう覆すッ!」

「この町を護るのは私だけじゃないッ! 天神守護隊(アーク・ガーディアンズ)ッ!」

 ミーナが指を鳴らす。空間が捻じ曲げられたように歪んでいた。地面には一メートルほどの複雑な幾何学模様が幾つも浮かび上がり、そこから光が重なるようにしてシルエットが浮かび上がる。

「空間転移だとッ!? ビオロでも持ち合わせない技術だというのにッ!」

 驚愕の声を上げるイムズ。だが、悠長に思考を巡らせている暇など無かった。迷彩色のミーナ。それがイムズが持った第一印象だった。よりミリタリー調に武装が強化された天神守護隊は軽々とビオロ兵を蹴散らし、イムズの喉元まで迫る。

「キャナルッ! 婿殿を連れて逃げろッ!」

「そんなこと言ったってッ!」

 イムズは瞬時に理解していた。天神守護隊とビオロの間に圧倒的な兵力の差があるということを。事実、天神守護隊が現れてから僅か一分。もうビオロ兵と怪人の半分は倒されていた。そんな戦いに、愛する娘を巻き込む訳にはいかない。

「いいから逃げるのだッ! 御笠ッ! 連れてゆけッ!」

「ぎっちょんッ!」

 キャナルの足元にあるマンホールの蓋が外れた。中から巨大なロブスターが顔を出す。ビオロの怪人、御笠だった。

「こっちだぎっちょんッ!」

「いやッ! お父様ッ!」

 キャナルはまるで駄々っ子のように、その場を動こうともしない。だが、こうしているうちにもビオロは天神守護隊に押され、その数を減らしてゆく。壊滅するのも、時間の問題だろう。

「キャナル、生きろ……!」

「ッ……!」

 ありったけの豪力で纏わり付いていた天神守護隊を振り払うイムズ。その拳を、優しく、しかし力強くキャナルの鳩尾に突き入れていた。

「婿殿、どうかキャナルを……!」

 失血により動けない輝国と、気を失ったキャナルはそのまま御笠のハサミによりマンホールへと引きずり込まれる。

 薄れゆく意識の中で最後に輝国が見たのは、自分の父親の顔に良く似た、イムズの笑顔だった。


第四話 民主主義という名の欺瞞


「あ痛ててて……」

「輝国ッ! まだ無理しちゃいけませんわ……!」

 身体を起こそうとした輝国をキャナルがたしなめる。身体中に包帯を巻いてはいるが、此処はとても病院の清潔なベッドの上とは言い難い。スプリングの馬鹿になった廃品寸前のソファーの上に輝国は寝かされていた。

「食料持ってきたぎっちょ~ん」

 ドブの臭いすら漂わせ、御笠が部屋に戻ってきた。いや、部屋と言うにもおこがましい。此処は、下水道を改造して設置したビオロの隠れ家の一つである。

「また、コンビニのおにぎりですのね……」

 文句を言いながらも、一番高いイクラの手巻きおにぎりを取るキャナル。此処まで落ちぶれても我侭っぷりは健在だった。

「はい、輝国も、あーん」

「あーん……」

 キャナルはさもそれが当然であるかのように、食べかけのおにぎりを輝国の口まで近付ける。輝国も、言い返すことは無駄だと解っている。そのまま黙って咀嚼するだけだった。

「それで、上の様子はどうだ?」

 輝国たちが地下に逃れてからもう一週間になる。輝国が意識を取り戻したのは、つい昨日のことだ。死んでもおかしくはない大怪我だったが、イムズとの約束と、キャナルの献身的な看病が功を奏していた。

「ビオロ狩りが始まってるぎっちょん……もう、ビオロ兵と連絡を取ることも出来無いぎっちょん……食料だって……」

 御笠が眼を伏せた。このおにぎりを手に入れるのだって、天神守護隊に追い回されて、命からがら此処まで持ってきたのだ。たかだかおにぎり数個を手に入れるために生命を賭けなければいけない。それほどまでに天神守護隊によるビオロ狩りは熾烈を極めていた。

「お父様は……?」

 聞きたくはないことだった。だが、イムズの娘として聞かない訳にはいかない。自分は、イムズのたった一人の娘なのだ。自分が聞かなくて誰が聞くというのだ。一字一句聞き漏らすまいと、ぐっと瞳に力を入れて御笠を見据える。

「イムズ様は……奮闘も虚しく……捕まったぎっちょん……」

「そう……ですの……」

 キャナルには父の無念が痛いほど解っていた。武人としての誇りを持ち、ビオロの大幹部として幾つもの都市を制圧してきた父が、こんな小さな町の町長に捕らえられたというのだ。これを屈辱と言わずしてなんと言おう。

「戦おう」

 その言葉は、キャナルにとって意外なものだった。立ち上がろうとしたその足を思いがけずくじかれてしまう。自分が言おうとした言葉を、そっくりそのまま輝国の口から放たれたのだから、驚いて当然だ。

「あら、正義の味方にしては過激な言動ですわね」

「何も、ドンパチやらかそうってんじゃないぜ。俺は、もう、戦えないし」

 あくまであっけらかんと言ってのけた輝国だったが、それはこの町を護ってきた正義の味方としては死刑宣告に等しい。全身の骨は砕け、もうオペレーションスーツに耐えることは出来無いだろう。いや、それ以前に、そのオペレーションスーツが機能を停止していた。

「輝国……ごめんなさい……」

「なッ! 泣くなよ、キャナルッ! 何もお前が悪い訳じゃないんだし……」

 大きな瞳いっぱいに涙を溜めるキャナルの頭を輝国はそっと抱き締めた。だが、この何気ない行為すらも常人には耐え難い痛みを伴う。だが、その責め苦に耐えてでも、輝国はキャナルの頭を抱きたかった。この少女を慰めたかった。

「ん……それで、どう戦うんですの?」

 ようやく嗚咽の収まったキャナルが輝国の胸の中でその顔を見上げる。きゅん、と胸が切なくなる。頼もしい笑顔がそこにはあった。その力を失おうとも、決して変わることの無い、力強い笑顔。

「俺たちには、大きな力がある」

「そりゃあ、ビオロの科学力は世界一ですけれど……」

「いや、そんな力じゃない。国から与えられた平等な力」

「それって……」

「瑞魚さんも言ってただろ、選挙だよ」

                   ・

「たのもうッ! ですわッ!」

 意気揚々と町役場の自動ドアを開けたのはキャナルだった。職員や、手続きに訪れていた町民の視線が一挙に集まる。当然だろう、一週間前には大立ち回りを演じた当の本人が、悪びれもせずに現れたのだ。

「おい、キャナル。ちょっと待ってくれよ」

 やや遅れて、輝国が町役場に足を踏み入れた。キャナルを見たときよりも激しい電流が、フロアにいるものたちへと走る。一週間前の、天神守護隊とビオロの激突から、テレビも、新聞も、週刊誌も、あらゆるメディアがある見出しを煽っていた。ジークスの反乱、と。

 そして、そのジークスがビオロの幹部と共に再び町役場に現れた。この町の守護者である町内特警ジークスが、ビオロの手先になったという噂は本当だったのだ。落胆が、フロアを支配する。

「ふん、堂々としたものね」

 ハイヒールの音を響かせ、階段から降りて来たのは瑞魚だった。その敵意は一週間前と全く変わっていない。それはキャナルも同じだ。一触即発、不穏な空気がフロアを包む。

「そう何度も足を運びたくはたかったんですけどねぇ」

「本来なら、この場で逮捕です。ですが、輝国ちゃんを治療してくれたお礼です。このまま町外から退去するなら、不問にします」

「ずいぶんと一方的なお申し出で、ありがたくて涙が出そうですわ」

 キャナルは不敵な笑みを浮かべたまま瑞魚を一瞥する。一時間前のキャナルなら掴みかかっていたところだろう。だが、今は違う。キャナルには、暴力以外に戦う術を既に得ている。

「今日は、これを叩き付けようと思いまして」

 キャナルが瑞魚に突き付けたのは、一束の書類だった。これが、これこそが、ビオロのコマンドスーツに優るとも劣らない新たなる力。

「これはッ……立候補の届出ッ!?」

「ええ、町長選に立候補しようと思いまして」

「そんな、馬鹿なことがッ……!」

「この町、あなたのおもちゃにするにはは過ぎたものですわよ」

 ふふん、とキャナルは鼻で笑う。瑞魚が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているのが面白くて仕方が無いらしい。だが、それも束の間のことだった。我を失ったように、高笑いを上げる瑞魚。幾つもの瞳がその身を突き刺そうとも構わず笑い続ける。

「残念ねッ! 立候補するにはこの国の、国籍が必要だわッ! あなた、どう見ても日本人じゃないでしょうッ!」

「いいえ、今日から日本人ですわ」

「な、にぃッ!?」

「ほら、婚姻届」

「なによ、これぇッ!」

 瑞魚はキャナルが得意気にひらひらとさせる書類をひったくる。それには一番見たくない文字が並んでいた。婚姻届という青い印字の下には、キャナルの名前と、そして輝国の名が記されていた。

「輝国ちゃんッ! これってどういうことッ!」

「すまん、瑞魚さん……見ての通りだ」

「ふっふん、輝国は、わたくしを生涯の伴侶に選んだのですわッ! ま、当然の選択ですけどッ!」

 キャナルは誇らし気に左の薬指に光る指輪を瑞魚に見せ付ける。そう、一生に一度しか渡されることのない、聖なる約束の証。リングには小さな宝石が一つ、付けられているだけだが、キャナルにとっては、世界に一つだけの貴い宝物だった。

「私だって、私だって指輪の一個や二個くらいッ!」

 瑞魚がポケットから取り出したのは、一個の指輪だった。キャナルが付けている指輪より大きな赤い宝石が付いてはいるが、その安っぽい光、イミテーションであることは明らかだった。

「なんですの、そんな紛い物。そんなもの何の自慢にもなりませんわよッ!」

 此処がチャンスと、一気呵成に責め立てるキャナル。だが、後ろに立っていた輝国はそれどころでは無かった。血の気がさぁっ、と引いていく感覚。全身の体温がみるみる下がり、脂汗が滲み出る。

「これはね、私がまだ小さかったころ、輝国ちゃんに買ってもらったものなの……」

 まだ胸はちっちゃいですわ、というキャナルの罵倒を黙殺する瑞魚。その脳裏には、幼い頃の美しい思い出がありありと蘇っていた。

                   ・

「輝国ちゃんッ! 走ると危ないよッ!」

「えへへっ! 大丈夫だよっ!」

 長いはずの、夏の太陽はもうとっくの昔に西の地平線へと沈んでしまっている。だが、この明るさはどうだ。宝石箱をぶちまけたような、赤青黄色の電球が色とりどりに暗闇を照らす。

「まったく、もう」

 お姉さんぶって腰に手など当てているが、瑞魚の胸も、輝国と同じように踊っていた。この日の為に用意したピンク色の浴衣がそうさせるのだろうか。さすがに、お面や金魚すくいに心奪われる年齢ではないが、焼きそばやたこ焼き、普段食卓に上がっても見向きもしない食べ物がどうしようもなく魅力的に見えてしまう。

「瑞魚ねえちゃんッ! かき氷もあるッ! チョコバナナもッ! あああ、りんご飴だってッ! いったいどうしたらいいんだッ!」

 道の真ん中で水色の浴衣をふりふりさせて悶える輝国。手に握り締めているのは五百円硬貨ただ一枚。何を買えばいいのか、苦しいながらも楽しい悩みの時間だ。

「あ、輝国ちゃん、見てみてっ!」

「ん?」

 瑞魚が眼を輝かせながら指を差したのは、如何にも女の子が好みそうな雑貨が所狭しと並べられた露店だった。ファンシーな文具、キュッチュなマスコット、そして何よりも瑞魚の眼を引いたのは綺麗な箱に並べられた指輪だった。

「きれいー……」

 瑞魚の瞳がうるる、と濡れる。まだ小学生とはいえ、指輪に光る指輪は乙女にとって永遠の夢だ。まだ小さい背を精一杯のばして釘付けになってしまう。

「お、おじょうちゃん、お目が高いねぇっ! この指輪はそんじょそこらにあるもんじゃないよっ!」

 とても、この雑貨屋の主人には相応しくない厳ついニーサンが捲し立てる。白色灯を浴びて安っぽく光る指輪にそんな価値が無いことも瑞魚には解っている。それでも、欲しいものは欲しい。

「えー、どのゆびわー……げッ!」

 露店を覗き込んだ輝国の目玉が飛び出した。付けられている値札は、五百円。そう、輝国が握り締めているのも、五百円だった。

「うぐぐ……」

 輝国は悩んでいた。まだこの世に生を受けてから僅か数年しか経っていないが、その中でも一番悩んでいた。五百円あればたこ焼きが食える、ヨーヨーが釣れる、射撃だって出来る。輝国の思考回路はショート寸前だった。

「おっちゃんッ! そのゆびわかったッ!」

 輝国の中で、瑞魚の笑顔が乗った天秤が完全に傾いていた。縁日のご馳走やおもちゃよりも、瑞魚の笑顔を独占したいと、そう結論していた。

「お、にいちゃんアツアツだねえっ!」

「はい、お金ッ! 瑞魚ねえちゃん、行こうッ!」

「あ、うんっ!」

 囃し立てるニーサンの声も、生温かい目で見詰める衆目も幼い輝国に耐えられるものではなかった。瑞魚の手を引き参道を走り抜ける。運動会のときだって、こんなに早くは走れなかったはずだ。

「はぁ、はぁ……」

 石の階段を少し上がったところに、神社の境内は有った。外の喧騒が嘘のように静まり返っている。輝国と瑞魚、二人の他には誰もいない。

「輝国ちゃん、ちょっと待ってて」

「え、うん……」

 からんころんと下駄の音を響かせ瑞魚は再び参道へと戻る。三分もしないうちに戻ってきた瑞魚の手に有ったのは、ほかほかと湯気を立てるたこ焼きだった。

「ほら、食べよっ!」

「うん……」

「あ~ん」

「あ~ん……」

 瑞魚は爪楊枝に刺したたこ焼きを輝国の口元まで運ぶ。甲斐甲斐しく手まで添える始末だ。輝国は、こういう瑞魚の子供扱いがもう嬉しくない年齢に差し掛かっていた。だが、何故か素直に池の鯉のように口を開けてしまう。得体の知れないむず痒さが胸をくすぐる。

「そうだ、これ……」

「あ、ほんとうに、いいの?」

「うん……」

「わぁ……」

 瑞魚は左の薬指に輝国から受け取った指輪をそっとはめた。その意味を完全に理解している訳ではない。けれど、この指輪がこの世に於ける何よりも大切な約束なのだと、乙女の本能で感じ取っていた。

「ありがとうっ! 輝国ちゃんっ!」

 大輪の花火にも負けない笑顔がそこには有った。そうだ、この笑顔だ。この笑顔が見たかったんだ……。

「瑞魚ねえちゃん、おっきくなったら……ボクとけっこん、してください……!」

 輝国もまた、幼いながらも男として今何を言うべきか感じ取っていた。子供同士の他愛も無い、ごっこ遊びの誓いでしか無い。だが、今の二人にはそれが何よりも貴い。

「しあわせにしてねっ!」

「うぷっ!」

 感極まって、輝国の頭を抱き締める瑞魚。このころはまだ、瑞魚のほうが大きかったから胸元に顔を押し付ける形となってしまう。まだ二次性徴も始まっていない少女だ。胸の膨らみなど有ろうはずもない。だが、その温度と鼓動が輝国の、まだ未熟な男を熱くしていた。

「ぜったいに、しあわせにするよ……!」

 その言葉は半分正しく、半分間違っていた。もう既に、瑞魚の心は、幸せに満たされていたのだから……。

                   ・

「と、言う訳で私が最初にプロポーズされたのよッ! 結婚する権利は私にあるわッ!」

「何言ってますのよッ! だいたい、その話も胡散臭くって眉唾モノですわッ!」

「そんなことないわッ! 事実よッ! ねぇ、輝国ちゃんッ!」

「どうなんですのッ! 輝国ッ!」

「あ……いや……その……」

 二人の怒れる乙女に詰め寄られ、タジタジとするしかない輝国。だが、何か言わなければ此処で確実に生命を落とす。そう本能で理解していた。

「その指輪をあげたのは、本当だよ……」

 つい一週間前まで町を護るヒーローだった輝国に、嘘という選択は許されない。ありのままに、真実を話す他無かった。

「ほらッ! 本当なのよッ! だから輝国ちゃんとは私が結婚するのッ!」

 意気揚々と勝ち誇った表情を向ける瑞魚。一瞬、たじろぐキャナルだが、此処で負ける訳にはいかない。左の薬指に光る指輪が、輝国に対する思いが、恋する乙女の原動力となる。

「そんな約束、もう時効ですわッ! 輝国の妻となるべきは、このわたくしッ!」

 そうだ。自分にはこの指輪も、輝国が書いてくれた婚姻届もある。幼い日の思い出が、約束がなんだというのだ。そんなものは生ゴミと一緒に水曜の夜に出してしまえ。今日、この日に、神聖な誓いを交わしたのは自分なのだッ!

「あら、いったいどんなプロポーズをしてもらったってのかしらッ! 私には、輝国ちゃんとの十年以上の歴史があるのよッ!」

「ふふん、聞いてお漏らししても、知りませんわよ?」

 鬼気迫る勢いの瑞魚だが、キャナルは高慢な表情で形の良い鼻を鳴らすだけだ。女は今を生きる生き物である。歴史よりも、今。過去よりも、未来よりも、今。輝国と並んで立つ現実こそが至高だった。

「あれは今朝のことですわ……どこかの腐れ年増のせいで身体ひとつ動かせない可哀想な輝国……男としての欲求は溜まるばかり……だから、わたくしは……」

『ナニやったんだぁぁぁッ!』

 ぽっ、と頬を染めるキャナルに、輝国と瑞魚の怒声がが重なった。輝国の顔は真っ青、瑞魚の顔は対称的に真っ赤っ赤だった。

「輝国ちゃんッ! あなたこんな小さな子にナニやってッ!」

「してないッ! してないしてないしてないッ!」

 涙を滝のように流し、鼻水やよだれまでも撒き散らして輝国の襟首を掴み頭をブンブンと振り回す瑞魚。その輝国も必死だ。激しくシェイクされる脳みそを辛うじて繋ぎ止めてなんとか弁明を肺から絞り出す。だが、その二人を他所にキャナルは甘い寝物語を紡ぎ続ける。

「そそり立つ……逞しい輝国自身……わたくしが触れるのを今か、今かと待ち構えて……先っちょからは朝露のような雫が……」

 その語り口が、余りに妖艶で。その仕草が余りに扇情的で。フロアにいる男全ての胸と股間を熱くする。ただ、一人以外は。

「だああッ! やってもらったのは身体拭いただけだろうがぁぁぁッ!」

「あら、背中を拭くのも、あのその……あそこを拭くのも一緒ですわ……」

「違うッ! 全然違うッ!」

 輝国は頭を抱えたまま崩れ落ちる。これまでの、正義の味方としてのイメージはもはや地まで堕ちたと言っても過言ではない。きっと、明日の低俗なゴシップ地方紙には、元正義の味方、年端もいかない少女と御乱交ッ! なんて見出しが踊るのだ。

「なんで……なんでそんな……私なんか、一度も……一度もないのにッ……!」

 頭を抱える輝国を他所に、瑞魚は血反吐を吐くような慟哭を絞り出していた。瑞魚の人生は、輝国の為だけにあったと言っても決して間違いではない。ジークスという危険を少しでも軽減する為に町長にまでなり、天神守護隊まで設立した。挙句、その指揮官として超々武装ミーナという官製ヒーローにまでなったのだ。それが、こんな小娘に……!

「あらあら、もしかしておばさま、まだしたことないとか? バージン拗らせると後始末が大変ですわねぇっ!」

 さも愉快そうにケラケラと笑い声を上げるキャナル。無論、今迄の艶話はみんな創作だ。だが、瑞魚がこれ以上無いほどダメージを受けるならばこんなに気持ちの良いことはない。

「絶対にッ……! 許さないッ……!」

 気流が渦を巻いた。受付に置いてあった真っさらな書類も、そして、瑞魚の瞳を濡らしていた涙も渦に巻き込まれ塵と消える。その激流にフロアにいた人々は伏せることしか出来ない。それは、輝国とキャナルも例外ではなかった。

「超々武装、ミーナッ……!」

 その瞳の色に躊躇いは無かった。今の瑞魚、いやミーナは女の持つ激情にただ身を任せているだけだ。町民が見ていようと、愛する男が見ていようと、もはや大した障害ではない。

 バイザーがキャナルを捉える。まさにそのときだった。

「いけませんねぇ、為政者が振りかざして良いのは、暴力ではなく権力のハズですよ」

 時が、止まったような錯覚に襲われる。姿に見覚えは無い。だが、その声は忘れようとも忘れられない。たった一度、ほんの僅かな時間しか相見えたことは無いはずなのに、どうしてこうも神経が逆立つのか。

「ようやくお出ましかよ……」

「おや、お会いするのは初めてかと存じますが」

 その男はいけしゃあしゃあと言ってのける。だが、黒縁眼鏡の奥に光る眼、輝国には忘れようとも忘れられないモノだった。黒いスーツをたなびかせ、能面のような顔に掛けられた眼鏡を中指で押し上げる。その仕草全てが輝国の神経を逆撫でしていた。

「申し遅れました。私、瑞魚町長の秘書をやっております、光ヶ丘と申します。以後、お見知り置きを」

「残念だけど、これは受け取れないな」

 光ヶ丘は、あくまでにこやかな笑顔を浮かべたまま名刺を差し出す。だが、輝国はそれを受け取るなり折り畳んでポケットの中に仕舞い込んだ。これは、相手に対する最大級の侮辱、明確な敵愾心の発露だった。

「輝国ちゃんッ! それは余りにも失礼でしょッ!」

 ミーナが咎めるが、輝国は内から湧き出る敵意を隠そうとも収めようともしなかった。いや、むしろ何倍にも、何十倍にも膨らましていた。瑞魚が、光ヶ丘の側に立っていることが何よりも許せなかった。

「わざわざおいでなすったんだ……潰すッ!」

 輝国は松葉杖を投げ捨て両腕を構える。だが、その脚元は小刻みに震え、余りにも頼りない。当然のことだった。意識は戻ったとはいえ、全身の骨折が一週間やそこらで完治するはずもない。輝国は、今尚全身を蝕む激痛と戦っているのだ。

「やめておきなさい。折角拾った生命です。粗末にするものではありませんよ」

「うるせぇッ!」

 薄ら笑いを浮かべたままの光ヶ丘に、輝国は痛みも忘れて食って掛かる。何故こうも心がざわめくのか。明確な理由は無い。だが、この町を護ってきた正義のヒーローとしての直感が、コイツは敵だと、そう教えていた。

「頚椎損傷、胸椎粉砕骨折、及び髄液の洩れ。腰椎、並びに骨盤複雑骨折、左右大腿骨単純骨折、発音と輪郭から察するに、奥歯の二本は噛み砕いているようですね。それに全身の裂傷。生きているのが不思議なくらいです」

 今迄と変わることの無い薄ら笑い。だが、その瞳の奥に底知れない加虐心が覗く。光ヶ丘は人差し指で輝国の右肩を軽く突いた。ほんのそれだけ。ただそれだけのことだった。

「ぐあああああああああッ!」

 その痛みに輝国は崩れ落ちることすら出来なかった。その一点を突かれただけで、全身の筋肉が、神経が声にならない悲鳴を上げる。表皮からはじっとりと、ねっとりとした不快な汗が吹き出す。

「ほら、戦えるような身体じゃないんですよ。御自愛なさい」

 輝国の苦しむ姿を見ても、光ヶ丘は薄っすらとした微笑を崩すことは無かった。まるで何事も無かったかのように、あくまでも淡々とした口調で言葉を続ける。

「婚姻届と立候補届は受け取っておきます」

「光ヶ丘さん、そんなッ! こんな小さい子に立候補させるつもりですかッ!」

 事態の移り変わりにただ呆然とするしかないキャナルの持つ書類を光ヶ丘はわざとらしく仰々しく丁寧な仕草で受け取る。だが、それに異を唱えたのはミーナだった。

「……瑞魚さん。年齢による差別を無くすと、条例を制定したのはあなたのはずです。町長自らそれを否定するおつもりですか?」

「う……」

 表情も、口調も、これまでに無いほどやわらかなものだった。だが、口答えを許さない、圧倒的な何かを感じ取ってミーナは一歩、後退りする。

「そ、そうでした……」

「物分かりが良いことは美徳ですよ」

 百点を取った子供を褒めるような、光ヶ丘の表情だった。だが、その圧倒的な圧力になんら変わりは無い。キャナルは二人の様子を見てカタカタと震えていた。それを見た光ヶ丘はキャナルへと視線を向ける。

「ではキャナルさん、輝国君のこと、頼みましたよ」

「な、なんでわたくしの名前を」

「ん? ああ、婚姻届に書いてましたよ」

 嘘だ。光ヶ丘は書類に目を通してなどいなかった。確実に自分の事を知っている。だが、その事実を追求することが出来無い。胸に生まれた恐怖。今なら輝国の気持ちが良く解る。キャナルもまた、本能で光ヶ丘が敵だと理解していた。

「それでは、お互いに健闘しましょう」

 不穏。それ以外に言い表すことが出来無い空気だった。光ヶ丘はそれを知ってか知らずか、軽やかににこやかに踵を返す。ミーナもまた、心配そうな表情で二度三度と輝国を見るが、これ以上光ヶ丘に逆らう胆力は持ち合わせていないらしい。その背中について行く。

「いったい、どうなってんですの……」

 光ヶ丘とミーナ、二人の姿が見えなくなってからようやくキャナルは口を開くことが出来た。この戦い、一筋縄ではいかないという畏れにも似た予感だけが、その胸を占領していた。

「キャナル……一段落付いたんなら肩貸してくんねえか……?」

「あ、すっかり忘れてましたわ」

                   ・

「ううーん、やっぱり厳しいか」

 無作法にも、寝っ転がって新聞を読んでいるのは輝国だ。此処は暗くジメジメとした下水道の隠れ家ではない。汚いことには変わりは無いが、勝手知ったる輝国のアパートだった。

 輝国が読む新聞の一面にはセンセーショナルな見出しと数字が踊る。読み進める度に、溜息が止まらなかった。

「あら、お行儀の悪い。正義の味方が泣きますわよ」

「この記事読んでりゃ横にもなりたくな……ってなんだその格好はッ!」

「あら、新妻の定番コスチュームって、この新聞に載ってましたわ」

「なんでも鵜呑みにすんじゃないッ!」

 輝国は顔を真っ赤にして怒鳴り立てる。無理も無いことだった。キャナルが着ているのは、ピンクのフリフリが可愛いエプロン。それだけなら、別に目くじらを立てる必要も無い。いや、むしろそれだけしか付けていないから問題なのだ。

「ほら、どう? 似合うかしら?」

「やめろッ! それ以上は危険だッ!」

 キャナルがエプロンの裾を少々捲るだけで陶器にも似た真っ白い素肌が露わになる。本当に、エプロンしか付けていないのだから当たり前だ。口先だけは声を荒げている輝国だが、その邪な視線はエプロンと素肌の境目に釘付けになってしまっている。

「もう、裸エプロンは男の夢って書いてましたのに……輝国のいけずぅ……」

「解ったッ! 解ったから無駄に動くなッ! じっとしてろッ!」

「はいはい、わかりましたわ。で、何が厳しいんですの?」

「ん、これだよ」

 輝国は読んでいた新聞をキャナルに渡す。一面の見出しには、市長選意外な新人が立候補! とでかでかと書かれていた。だが、キャナルの目を引いたのはその記事では無かったらしい。

「あの人気アイドルが、某男優とお泊りデートですってよっ! まったく、この国のモラルはどうなってしまったのかしらっ!」

「その記事じゃねえッ! だいたいモラルがどうかなってんのはお前の恰好だろがッ! 選挙の記事だよッ!」

「え? なになに……現職町長支持率七十%超え……あの女のことですわね。まぁ、この町の愚民どもには丁度良い町長ですわ」

「続きだ、続きを読んでみろ」

「挑戦の新人、支持率ニ%。お~ほっほっほっほッ! とんだおマヌケもいたものですわねッ! 消費税よりも低いですわッ!」

「お前だ」

「え」

「その新人、お前だ」

「なあんですってッ!」

 キャナルは今一度、まじまじと新聞を上から下まで眼を通す。確かに、見るも無残な数字の横には自分の顔写真が載っていた。わなわなと身体が震える。ふつふつと怒りが沸き立つ。

「なんで、なんでこんなにこのキャナルさまの支持率が低いんですのよッ!」

「そりゃお前、今までこの町を征服しようとしてた連中が、選挙だなんて支持される訳ないだろ」

「そ、それはそうかもしれませんけれど……」

 キャナルは悔しそうに歯噛みした。例え相手が、選挙では圧倒的有利と言われる現職であろうとも、この眉目秀麗、頭脳明晰、欠点と云えば、欠点が無いのが欠点だろう。こんな為政者として、いや支配者として相応しい人間は他にはいない。だが、この数字は紛れも無い事実だ。有権者が余りに愚民過ぎた。そう思うしか無かった。だが、事実は事実。この逆境をひっくり返す、起死回生の策を果たしてこの男は持ち合わせているというのか。

「輝国、どうやったら勝てますの……?」

「ビラ配ったり、街頭演説したり、ドブ板周りってのもあるな。とにかく、こんだけ差が付いてるんだ、あと二週間、動けるだけ動くしかない」

「それで、勝てますの……?」

「男は度胸、何でも試してみるもんさ」

「わたくしは女なんですけど……まぁいいですわ……むふ」

「むふ、ってお前……」

「なんでも試してみるもんなですのねっ!」

「うわおッ! 何やってんだッ!」

 キャナルの濡れた眼が怪しく光る。次の瞬間にはエプロンをぱたぱたとはためかせながら輝国に飛び掛かる、いや、襲い掛かる。避ける訳にもいかない輝国は、そのままキャナルを抱き留める形となってしまう。

「せっかく結婚したんですもの。夫婦なら普通にすることですわ☆」

「結婚て……選挙に出る為に籍入れただけだろがッ……ん?」

 そこまで言って輝国はキャナルの身体から力が抜けていることに気が付いた。幼い身体が小刻みに震えている。胸元には熱い雫が弾ける。嗚咽だった。

「お式も無し……新婚旅行も無し……籍を入れただけの結婚……そんなのって……そんなのって……」

「キャナル……」

 悪の組織に属するとはいえ、キャナルも乙女だ。純白のウエディングドレスに対する想いは人並みに持っていた。それが、如何に仇敵を打倒する為とはいえ、形だけの結婚などと、余りにも悲しすぎるではないか。

「わたくしは、証が欲しい……こんな指輪じゃない……輝国との証が……」

「いいのか……俺は正義のヒーローだぜ……?」

「だから、いいんですわ……」

 こんなに熱く、こんなに優しく、こんなにも愛おしい気持ちになったのは初めてだった。瑞魚に対しても、此処までの感情を抱いたことは無かった。もはや、考える必要も無い。何をすればいいのか、身体が、本能が教えていた。

「キャナルっ……!」

「あっ……輝国っ……」

 強く、強く抱き締める。自分の、キャナルに対する愛を確かめる為に、この愛を、確実にキャナルに伝える為に。

「んっ……」

 もう、言葉は要らない。鼓動が、重なる。体温が、重なる。触れ合う身体すらが邪魔に想える。もっと、重なりたい。もっと、溶けたい。もっと……もっともっと……原始の欲求だけがそこにはあった。

 だが、その想いが伝わることは無かった。

「チラシ配ってきたぎっちょ~ん……ってナニやってるぎっちょんッ!」

 ボロアパートの薄扉を開けた無粋な赤い影。ロブスター怪人御笠だった。選挙活動の一貫としてチラシを配り、帰ってきたところだったのだが、タイミング良くというか悪くというか、こんなところに踏み込んでしまった、という訳だ。

「な、な、な、なんにもしてねぇッ!」

 輝国は大慌てで手を振るが、それをじとっ、とした眼で睨み付けるのはキャナルだ。その鋭い眼光、歴戦の勇士すらも射竦める。

「な、ん、に、も、してないですってぇッ! さんざん期待させておいて、それは無いんじゃないですのッ!」

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろッ!」

 痴話喧嘩を始める輝国とキャナルを他所に、御笠はすっかり落ち着きを取り戻していた。ビオロの幹部も、この町を護る正義のヒーローも、この有り様だ。自分がしっかりしなければならない。そんな強い想いが御笠を突き動かしていた。

「今のキャナルさまと、ジークスに遊んでいるヒマはあるのかぎっちょんッ!」

「う……」

「ぐ……」

 御笠の思わぬ叱責に輝国もキャナルも黙るしか無い。思わず居すくまって正座などしてしまう。当のキャナルなど、裸エプロンだ。居心地悪そうに裾なんかをくりくりと弄っている。

「キャナルさまはとりあえず着替えてぎっちょん。演説の場所を押さえたぎっちょん」

「はい、わかりましたわっ! キャナル・バトルチェンジッ!」

 取り敢えず、この場から逃げられるならなんでもいい。すっくと立ち上がったキャナルの身体は光の粒子に包まれ、次の瞬間にはコマンドスーツが装着されていた。

「これで演説か」

「なに、ご不満ですの?」

「いや、中々似合ってると思ってな」

「ま……」

 輝国が、このコマンドスーツを褒めるのは初めてのことだった。このコマンドスーツに身を包むキャナルはあくまでも敵。それを褒める訳にはいかなかった。だが、今は違う。今は同じ目的を共にする仲間、いや夫婦だ。

「準備は、万端だな」

「あの男の鼻っ柱、へし折って差し上げますわ……」

 くっくっく……と不敵な笑みを漏らすキャナル。闘志に満ち満ちた凶悪な顔貌へと変わる。親であるイムズにはこれっぽちも似ていないはずなのに、表情だけはそっくりだった。

「光ヶ丘、か……」

「ねぇ、輝国。ほんとうに、あの男、関係無いんですの?」

「そりゃあこっちのセリフだぜ。ビオロの関係じゃないのか?」

「ビオロの大幹部はお父様。それ以下にわたくしを含めて数名の幹部がいますけど、あんな男見たことも聞いたこともありませんわ」

「ふむ、そうか……」

「あの火事で、輝国が見たっていうスーツの男と、同じ人なんですの?」

「ああ、多分な。それに、あのスーツに似た超々武装ミーナ、そして天神守護隊。関係が無い方がおかしい」

「なら、それで決まりじゃないですの」

「けど、お前の名前、知ってたんだぜ」

「この世に生きとし生ける者として、キャナルの名を知るのは義務ですわっ!」

 キャナルはドンッ! と有る胸を殊更に張る。だが、それが不安や恐怖を隠す為の誤魔化しでしかないことを輝国は見抜いていた。しかし、だからこそ口に出すことは無かった。

「そうだな、その名前、この町にも知らしめないとなッ!」

「モチのロン、ですわッ!」

                   ・

「あらあらあらあら、結構愚民どもが集まってるじゃないですのっ!」

 歓喜の声を上げるキャナル。駅前には、平日だというのに多くの人々、キャナルの言うところの愚民どもが集まっている。面積の割に人口の少ない天神町だが、それでも昼時には喧しいくらいの賑わいを見せていた。

「むっふっふ……それじゃあ始めますわよッ! バーサイドッ!」

 キャナルが高らかに指を鳴らすと、上空から巨大な鉄の塊としか形容の仕様の無い物体が風を押し潰し、けたたましい金属音を掻き鳴らして広場へと落下する。八つの鋭利な脚が煉瓦を敷き詰めた地面を抉り、めり込んでいた。太陽の光を跳ね返し、ボディが黒光りする。キャナル専用の戦闘メカ、バーサイドだ。

「それじゃ、やりますわよッ!」

 キャナルは軽やかな足取りでバーサイドの上に登る。同年代の少女と比べても小柄なキャナルだが、全長三メートルを超えるバーサイドに乗れば自分よりも背の高いものは存在しない。そして、この景色はどうだ。愚民どもが池で餌を待つ鯉のようにぽかんと口を開けてただ言葉を待っている。こんなに清々しい気分は他では味わえない……!

「お聞きなさいッ! 愚民どもぉッ!」

「なぬッ!?」

 その第一声を聞いて、輝国は思わずズッコケそうになってしまう。普段から毒舌というか、歯に衣着せない言動は良く知ったところだが、まさかこの演説でやってしまうなど……。

 呆然としているのは広場に集まる聴衆も同じだった。あの、悪の秘密結社ビオロの幹部が町長選に立候補をしているのだ。向けられている視線は敵意ではなく、むしろ好奇心に近いものがあったのだが、今はただ冷たい視線がキャナルを突き刺す。だが、そんなことを気にするような、軟弱な心臓など持ち合わせていないようだった。

「いいですのッ! わたくしがこの町を支配した暁には、この町に生きる、全てのもの、全てを忠実なビオロの下僕にして差し上げますわッ! 大人も子供も、おねーさんもッ!」

 輝国は頭を抱えたままもう動くことは出来なかった。だが、キャナルの名調子は留まるところを知らない。

「いいですのッ! ビオロに仕えることは何よりの幸せッ! ビオロの思想は究極にして至高ッ! この世はビオロの為にあるッ!」

 もうダメだ。絶望だ。絶望しか無い。選挙で負けて、キャナルと共にこの町を追い出される。キャナルはうらぶれた場末のバーの雇われママとなり、輝国はうだつの上がらないヒモとしてその日暮し。あ、それもいいかな……なんて妄想が頭をぐるぐると回っていた、そのときだった。

『うおおおおおおおおッ!』

 それは大歓声だった。キャナルは気を良くして手なんかひらひらと振っている。この光景は、輝国にとって到底信じられないものだった。バーサイドの周りに集まった群衆が万雷の拍手を送り続けている。

「下僕ども、ありがとうですわッ!」

 満面の笑みを惜しまず振り撒くキャナル。だが、全ての観衆が拍手を送っている訳ではない。バーサイドの周りを取り囲む男たち。バンダナ、リュックサック、指貫グローブ、チェックのシャツ、色褪せたジーンズ。カタギの雰囲気で無いことは明白だ。

「なるほど、な……」

 エキサイトする人々を見て輝国は納得していた。悪の秘密結社の幹部であるキャナルであるが、その幼い可憐な容姿で、大人のお友達に絶大な人気を有しているのだ。と、思考を巡らせたところで、その親玉はキャナルと結婚までしてしまった自分なのだと、少々うんざりした気分になる。だが、そんな最悪な気分も、そう長続きはしなかった。

「いやいや、素晴らしい演説でしたっ!」

 突然、時が止まったかのような錯覚に襲われる。広場に存在する音は、今迄の割れるような拍手とは違う、乾いた拍手だけ。ビビッドな色彩のワゴンから顔を出すのは、忘れようも無いその顔、光ヶ丘だった。

「ご高説賜り、真に感謝しております。ですが、そろそろ場所を譲って頂けませんか?」

「むッ……」

 キャナルは不服そうに小さく声を漏らす。バカ丁寧な言葉遣いがやけに癇に障った。だが、順番は順番だ。敵の演説を聴いて野次を飛ばすのもいいだろう。バーサイドから大人しく降りる。

「はい、キャナル候補、ありがとうございます。それでは町長、お願いしますよ」

「はい……」

 助手席から踵の低いヒールが姿を表す。ド派手なキャナルとは真逆な黒の一般的なスーツ。現町長、瑞魚だった。瑞魚が広場に降り立つと共に、歓声と拍手が巻き起こる。キャナルのときとは、音量も、空気も、まるで違う。これが、現職ということだ。

「……こほん」

 大人びた容姿に似合わない可愛らしい咳払いをひとつ。小さな、消え入りそうな程に小さな咳払いでしかなかったが、それを合図に一斉に歓声も、拍手も消えてしまう。瑞魚の声を、今か今かと待ちわびているかのようだった。

「なんですの……これ……」

 キャナルはそれ以上何も言えなかった。自分のときとはまるで違う。嵐の前の静けさとでも言うべきか。不気味な、しかし、今迄に無い熱気が広場を支配する。

「ん……?」

 だが、僅かな異変に気付いたのは、民衆からやや離れたところから瑞魚を見ていた輝国だった。幼い頃からずっと、瑞魚の顔を見てきたから解る。この熱気にも関わらず、瑞魚の笑顔には生気を感じることが出来無い。初めて町長に当選したときはこんな顔はしていなかったはずだ。まるで、何かに操られているような……。

 だが、そんな輝国の疑念を他所に、瑞魚は演説を始める。

「私が町長に就任してから四年間、この町の人口は十%上昇しました。これは、この天神町がどの町よりも住みよい町であるということに他ありません。お年寄りも、子供も、暮らしやすい町……」

 そこまで言って、瑞魚の身体が僅かによろけた。世界が歪むような目眩。激しい嘔吐感すら覚える。瑞魚が膝を付かなかったのは、町長としての使命感か、それとも――――。

「大人も、子供も、年齢なんか関係無く……女も、男も……性別なんか関係無く……違う……そんなのはただの偽善……人間は違いが有って当然なのに……」

 白かった顔は更に血の気を無くし、骸骨の白にも等しい色と変わってしまっていた。紡ぐ言葉は最初と終わりでオセロの表と裏ほどに違う。苦悶の表情で吐き出す言葉。いったい、どちらが瑞魚の本心なのだろうか。

「ふむ、これはいけませんね」

 普段は表情を崩すことの無い光ヶ丘だが、今回ばかりは苦虫を噛み潰したような顔に変わっていた。だが、それも数秒のこと。直ぐに何時もの、作り物の笑顔を貼り付け瑞魚を隠すようにワゴンの中へと押し込む。

「わたしは……わたしは……」

 何かに、何者かに抗うかのように何事か呟く瑞魚だったが、光ヶ丘はそれを黙殺しワゴンの助手席へと座らせる。

「みなさん、町長は少々具合が悪いようです。最後まで演説をお聞かせすることが出来ませんで、真に申し訳ありません。どうか、瑞魚町長の応援をよろしくお願い致します!」

 光ヶ丘はそれだけ言い残すとワゴンを走らせ瑞魚と共に広場から消えていった。後に残された観衆はただ唖然とするだけだったが、一人、また一人と広場から立ち去ってゆく。つい十分前の喧騒が嘘のようだった。輝国とキャナルだけが、広場に立ち尽くす。

「いったい、どうしたっていうんですの……?」

「解らねえ……だが、ヤツが何かしているってことだけは確かだ……」

 輝国はまだ痛む拳を握り締めた。全身の神経を苛む激痛が、本当の、戦いを予感させていた。


最終話 この町の明日のために


「ふむ……」

 今や、クーデル選挙事務所と化したアパートの一室で、眉間に皺を寄せているのは輝国だった。広げた新聞の向こうでよくもまあ酸素が続くものだなと感心するほど溜息を付き続けている。

「てっるくにっ! わたくしの支持率どうなってますの……って六%ッ!? 喉が涸れるほど演説してッ! 手が腫れるほど握手してッ! たったの六%ッ!?」

「前のニ%から三倍になってるぜ。赤い大佐もびっくりだ」

「あの女は九十%に上がってるじゃないですのッ! いったいどうやって勝つってんですのッ!」

 顔を真っ赤にして唾を飛ばすキャナル。輝国は咄嗟に顔を新聞で覆った。無数の染みが文字を滲ませる。そう、輝国の頭脳は、この残酷な数字を前にしても冷静そのものだった。

「敵失を待つしかない」

「敵失……?」

「古今東西、何処の国を見ても、政治家を追い詰めるのは一つしか無い。スキャンダル、だよ」

「スキャンダル……? スチュワーデスのぱんつ被ったり、おしっこ飲んだり……」

「どわッ! それ以上言わなくていいッ! つか、ろくでもないことばっか知ってんだな……」

「で、スキャンダルはいいんですけど、どうしますの? あの女と光ヶ丘って男の濡れ場でも激写しますの? 喜んでお手伝いしますけれど」

「み、瑞魚さんはそんなことしないしッ!」

 輝国は、先程とは打って変わって、真っ青になって卓袱台を叩き付ける。だが、脳裏にこびり付いた最悪な妄想は払うことは出来なかった。瑞魚と光ヶ丘、豪華なホテルの一室で、キングサイズのベットに……。

「わたくしに良い考えがありますわッ!」

「でも、キャナル……」

「デモもストもありませんわッ! 行きますわよッ!」

                   ・

「しっかし、相変わらず慣れないな……」

 鼻を突く異臭。膝に纏わり付く汚水。薄暗い空間に灯る蛍光灯がやけに目障りだった。此処は天神町の地下下水道だ。

「つい二週間前までココにいたんじゃないですの。何を言ってるんですかしら」

「そうは言うがな、キャナル……あんときは非常時だったからな」

「ビオロが誇る、地下工作に生命を助けられたんですのよ、感謝しなさい」

「そりゃあ、感謝してるが……それにしても、この下水道はすげえな……」

「当然ですわッ! 町を征服するにはまず地下からッ! この町を完全網羅した下水道から行けないところはありませんわッ! 下水を制するものは地上を制するッ!」

「まぁ、正義のヒーローとして手放しには喜べんが……今回は助けられたな」

 輝国は素直に感心してみせる。キャナルの言う通りだった。天神町の地下を流れる下水道はビオロの手により、蜘蛛の巣のように細微に拡大されていた。仮に、この下水道を使い一斉蜂起されていたなら、町の要所を抑えられ一挙に占領されていたことは間違いないだろう。

「お父様がああいう性格でしたからね。結局この下水道は使われませんでしたけど。工作こそ侵略の華だというのに……!」

 キャナルはこの、自慢の地下下水道を使えなかったことが不満だったようだ。ぶつぶつと文句を垂れながら前へ前へと進む。輝国は肯定も否定もせず、曖昧に相槌を打つだけだった。

「さ、着きましたわ」

 キャナルが足を止めた。眼の前にあるのはコンクリートの壁に刺さった鉄の梯子。上にはマンホールが見える。僅かに寒気が走った。輝国には、地獄の底の釜にしか見えなかった。

「この上が、町役場か」

 輝国は深い溜息を付いた。善良な市民であるならば午前八時半から午後五時までの間、出入り自由であるはずなのに、どうしてこんな、犯罪者紛いの真似をしなければならないのだろうか。

「なにぐずぐずしてるんですのッ! 早く行きますわよッ!」

 キャナルはもう梯子を半分ほど登っていた。形の良い尻が感情に合わせてぷりぷりと揺れている。思わず手を伸ばしそうになるが、此処はぐっと我慢をする。この戦いが終わったら思う存分撫でてやろう。

「よっ、と……」

 キャナルが重いマンホールの蓋をどける。そこは一面のタイル貼り。独特のアンモニア臭が鼻腔を刺激する。町役場のトイレだった。

「ほら、輝国」

「ああ、すまん」

 キャナルの手を取り、トイレへと上がる輝国。だが、妙な違和感を覚える。普段、見慣れたトイレではない。何かが違う……そう、男子用の小便器が一切存在していないのだ。

「ここ、女子トイレじゃねえかッ!」

 上擦った声を出す輝国。女子トイレは、女風呂に次いで男子禁制のアンタッチャブルゾーンだ。そんなことくらい、輝国も理解している。

「しッ! 大きな声を出すんじゃないですわよッ!」

 キャナルは慌てて輝国の口を塞いだ。此処で誰かに見つかっては元も子も無い。だが、キャナルの不安は取り越し苦労では終わらなかったようだ。

「誰かいるのッ!?」

 個室の中から甲高い金切り声が響く。職員か、町民か、どちらかは解らないが、今はそんなこと些細な問題ではない。女子トイレに男がいる。それだけで迷惑防止条例違反でしょっぴくことが出来るのだ。

「言わんこっちゃないッ! 輝国、肩車ッ!」

「かたぐるまぁ?」

「いいから早くなさいッ!」

「お、おう……!」

 言われるままに輝国はしゃがみ込んだ。キャナルは迷うこと無く輝国の肩へと跨る。天井まで手が届くほどの高さとなっていた。

(おおっ!)

 キャナルの太ももが、キャナルの尻がダイレクトに輝国の肌に触れる。なめらかな肌触り。幼くやわい肉の奥にはまだ青い硬さを感じることが出来る。だが、そんな不埒な妄想に耽っている場合ではなさそうだ。

「ココをこうすれば……ほらッ!」

 天井をなにやらゴソゴソとやっていたキャナルが歓喜の声を上げた。天板が外れ、暗闇がこちらに覗いている。人一人くらいなら通ることが出来そうだ。

「輝国、早くッ!」

「お、おうッ……!」

 輝国の肩を足場にキャナルは器用に天井裏へと登る。輝国も同じように、差し伸べられた手を掴みキャナルの元まで這い上がる。

「さ、行きますわよ」

「うむ……」

 這い上がったのはいいものの、輝国は立ち上がることが出来無かった。もう少し高さがあると思っていたが、四つん這いでも頭が擦れるほどだった。生温い風が頬を撫でる。天井裏というよりも、排気ダクトと言う方が正しいだろう。

「しかし、随分と狭いな……」

 二歩、三歩と歩を進めるうちに眼が暗闇に慣れる。眼に映るのは四方を覆う幾本ものパイプ。触れてみると、僅かな振動。何かが絶え間なく流れているのが解る。

「キャナル、行く先は解ってるんだろうな?」

 上に行っているのか、下に行ってるのか、曲がりくねったダクトの中では判別するのも容易ではない。自分が何処にいるのか、そんなことすら解らなくなってしまう。十分も経った頃だろうか、いくらなんでも狭い役場の中だ、そんなに時間が掛かるはずも無い。不審に思った輝国がキャナルに尋ねる。だが、返事は無い。

「おい、キャナル?」

「……」

「まさか、迷ったんじゃないだろうな?」

「だって、だってしょうがないじゃないですのッ! 前に調べたときから全然変わってるんですのよッ!」

「変わってるって、お前ッ! そんな簡単に建物が変わったりするものかよッ!」

「そんなこと言ったって、変わってるものは変わってるんだからしょうがないですわッ!」

「何時調べたんだよッ!」

「一ヶ月前ですわッ!」

「一ヶ月前か……」

 一ヶ月前。輝国の胸にある考えが過る。浮かぶのはあの顔。そう、あの火事であの男と遭遇した時期と、ぴたりと符合する。

「とにかく出口を探そう。出なきゃ話にならん」

「ええ、そうしましょうっ!」

 迷子の責任から逃れることの出来たキャナルは嬉しそうな声を上げて前へ前へと進む。だが、それも五分ほどのこと。突然立ち止まったキャナルはもじもじと内股を閉じ、縮こまらせた身体をくねくねとさせる。

「どうした、キャナル? 出口が見つかったか?」

「えっと……あの……その……」

「なんだよ、歯切れの悪い」

「お……」

「お?」

「おしっこ出ちゃいそうですわッ!」

「なぬッ!?」

 キャナルは輝国の方へと振り返ると、ふみぃ、と情けない泣き声を一つ上げる。その瞳にはじんわりと涙が滲んでいた。ぷるぷると震える頬、食いしばった口元を見ればもう限界が近いというとが明らかだ。

「なんで家でしてこなかったんだよッ!」

「だってだってッ! こんなに時間かかるって思わなかったんですものッ……うっ」

 大声を張り上げたせいか、下腹部に力が入り膀胱を圧迫してしまったようだ。ただでさえ色白なキャナルの肌はみるみる赤みを失い、脂汗が全身から滲み出る。もう、一秒足りとも我慢することは出来無い。大惨事が、頭を掠める。

「俺たちが潜入したという証拠を残す訳にはいかないからな……しょうがない、俺の口の中にするんだッ!」

「この腐れド変態ッ!」

「あびゅッ!」

 キャナルのハイヒールが輝国の顔面を強かに踏み付けていた。如何に、結婚した相手とはいえ、いや、だからこそ、自分の排泄するところを、しかも、口の中になどと、到底許されることではなかった。

「うッ……!」

 今の蹴りでとうとう限界が訪れたのだろう。キャナルはうずくまり腹を抱えたまま動かなくなる。もはや、苦悶の息を漏らすことも無い。いや、漏れるのは別の何かだ。

「冗談だよ、隙間があるからここにしちまえよ」

「うう……」

 輝国が指差した先のパイプには僅かに亀裂が入っている。そこに流し込めば、溢れることもないだろう。キャナルはそれを数秒間眺め、考えあぐねる。だが、選択の余地など残されていないはずだ。

「輝国、耳を塞いでくださまし……」

「おう、解った」

 人前で排泄するだけでも想像を絶する羞恥であるのに、それを、愛する人に聞かれるなどと、恥ずかしさで心臓が止まってしまっても不思議ではない。

「輝国、塞ぎました?」

「おう、塞いだ塞いだ」

「聞こえてるじゃないですのッ! 漏れるから早くッ!」

「はい、はい」

「向こう向いてッ!」

 今度こそ輝国は耳を手のひらでしっかりと塞ぐ。身体を器用に翻し視線も明後日の方向へ向ける。もう衣擦れの音すら聞こえない。こっそり聴いてみたい衝動に駆られるが、バレれば半殺しでは済まないだろう。ぐっと我慢する。

 十秒、二十秒、どれだけの時間が経っただろうか。暗闇の中ではどうしても時間の感覚が狂ってしまう。不謹慎なことだが、この待つ、という時間が輝国にとっては妙に楽しいものだと感じてしまっていた。

「む……?」

 長い。それにしても長過ぎる。輝国は男のことしか解らないが、それでも三十秒もあれば全てを出しきってしまうだろう。もしや、それ以上のことをしてしまっているのではないか……などとくだらないことを考えている、そのときだった。

「お、ま、た、せっ☆」

「うひょおッ!」

 輝国は、敵地の真っ只中にいることも忘れて素っ頓狂な声を上げてしまう。耳元に生暖かい吐息。だが、決して不快ではない。形の良いキャナルの唇から吹き掛けられていた。

「お前なぁ……」

「むふふ、興奮しました?」

「しねーよッ!」

 否定する輝国だったが、暗闇を照らすほどに真っ赤になった顔を見れば、その否定も全く無意味な行為となってしまっていた。

「おら、終わったんなら早く行けッ! 早くッ!」

「はいはい☆」

 輝国を手球に取ってなんとも嬉しそうなキャナルだった。だが、直ぐにその無邪気な表情は姿を消し、真っ直ぐな瞳で輝国を見据える。

「なんだ……?」

「帰ってきたら、続きをしたいですわ……」

「ああ、帰ったらな」

「ん……」

 ぶっきら棒な物言いだが、その奥に深く、暖かい優しさが秘められていることを、キャナルはもう知り尽くしていた。言葉と同様にぶっきら棒な唇がキャナルの頬へと触れる。

「もう、こっちでもいいんですのに……!」

 キャナルはぷうっ、と桜の花びらの色をした頬を可愛らしくふくらませていた。人差し指で自分の唇をとんとんと叩く。前にもしたことがあるのだから、今更照れなくていいのに、と輝国を咎める視線を向ける。

「帰ってきたら、続きをしよう」

「ほんとに……?」

「ああ、俺が嘘付いたことが有るかよ」

「ありませんけど……」

 キャナルは何やら哀しいような、怒ったような、複雑な表情をしていた。言うべきか、言うまいか、悩みに悩んで、ようやく一言を口にすることが出来た。

「輝国は……あの女のこと、好きなんですの……?」

「んなッ!? こんなときに聞くかよ……」

「こんなときだから、聞きたいんですわッ!」

 有無を言わさない勢いのキャナルだった。その瞳も、口調も、真剣そのもの。嘘で誤魔化すのはキャナルに対して最大の侮辱に等しいと、輝国は理解していた。

「好きだよ」

「どうして、好きになったんですの?」

「そんなことまで、聞くか?」

「いいからッ! お答えなさいッ!」

 キャナルは怒ったような嬉しいような、そんな表情で輝国の真ん前まで詰め寄る。幼くとも乙女、恋話なんてのは芋蛸南京長話にも匹敵するほどの大好物だ。

「どうして、って言われてもなぁ……ちっちゃい頃からずっと一緒だったし……ハッキリと自分の気持ちに気付いたのはつい最近のことだし……」

「ずっと、一緒にいたんですのね……」

 キャナルの大きな胸がちくり、と痛んだ。町役場で瑞魚から、縁日の話を聞かされてからずっと疼いていた痛みだ。輝国と瑞魚の間には長い歴史が存在している。だが、キャナルとの間にはほんの僅かな時間が有るだけだ。最後には、ずっと一緒にいた瑞魚を選んでしまうのではないか。そんな不安を抱き続けていた。

「わたくしと、あの女……どっちを選ぶつもりですの……?」

「え……」

 肺の底から絞り出したのかと思うような、か細い声だった。よっぽどの想いだったのだろう。キャナルは、膝小僧の上で小さな手をきゅっと握る。当然だ、愛する人に拒絶されるかもしれない、そういう問だったのだから。

「キャナル、愛してる」

「輝国ッ……!」

 ここが狭い排気ダクトでなければ飛び付いて抱き着いていたところだろう。だが、キャナルは気付いていない。輝国は、愛している、と言っただけでどちらも選んでいないということを。

「さ、とにかく前に進もう。どこかに出るかも知れない」

「ええっ!」

 だが、輝国の言葉は千の、いや万の、いや億の援軍に等しい。前へ、前へとダクトを進むキャナル。それを見て輝国の胸はノコギリで斬り裂かれたかのような痛みに襲われる。だが、今はそんなことを言ってる場合ではない。愛する人の為に、愛する人を利用する……だが、そんな矛盾を肯定しなければ、瑞魚を取り戻すことは出来無い。

「輝国ッ! ここなら通れそうですわッ!」

 キャナルが声を上げた。そこ光が漏れ出しているのが輝国からでも解る。周囲を廻るパイプが歪み一人くらいが通れる隙間が出来ていた。

「人気は無いみたい……降りてみますわ」

「おい、ちょっと待てよ」

「だいじょぶだいじょぶ、お任せなさいってっ!」

 輝国の制止も無視して、キャナルはするり、と足から下のフロアへと降りる。だが、僅かな瞬間すらも挟むこと無く、その異変は訪れていた。

「なに……これ……」

「キャナルッ!」

 戸惑いと、恐怖に満ちたキャナルの声が聞こえてくる。その声に、輝国はキャナルの危機を敏感に察知していた。戸惑うこと無く隙間をくぐる。だが、そこにあったのは、輝国から言葉を奪うほどに、奇想天外な光景だった。

「な……なんだ、こりゃあ……」

 そのフロアをずらりと取り囲むガラスの筒。何処から放たれているのか解らない光を浴びて不気味に輝いている。だが、驚くべきところはそこではない。人一人が入りそうなガラスの筒、まさにその中には生命という言葉からは程遠く思える無機質な緑色の液体と共に、人間が入っていた。

「いったい、どういうことですの……」

 キャナルはそれ以上何も言うことが出来無かった。ガラス管の中で生気を無くしたように漂う人々の顔。キャナルはそれを良く知っていた。毎朝、鏡の前でみるその顔。どうして見間違えなどするものか、そう、それは紛れも無く、自分の顔だった。

「これは……」

 キャナルの顔だけでは無い。ずらりと敷き詰められたガラス管の中に有るのは、輝国、瑞魚、そしてイムズの顔までがある。その有り得ない有り様に、輝国もキャナルも軽い目眩を覚えていた。

「輝国、いったいどうなってますのッ……!」

 キャナルは激しい口調で輝国に言葉をぶつけていた。答えが帰ってくるなんて思ってもいない。ただ、苛立ちをぶつけたいだけだった。だが、当の輝国はガラス管の前に釘付けになったまま、何事か呟いているだけだった。

「ほお……ふむ……」

「ちょっと、輝国。ナニやってんですの?」

「うーむ……こんなんなってるのか……」

 輝国はキャナルと瑞魚が並んで入っているガラス管の前で身動ぎ一つすることは無かった。緑色の液体に満たされてはいるが、濁りなどは存在しておらず中は丸見えとなっていた。つまり……。

「ナニしっかり観察してんですのよッ!」

「びるごッ!」

 キャナルの廻し蹴りを後頭部に受けガラス管に顔から突っ込んだ輝国はヒキガエルが潰れたような声を出し、そのまま沈黙する。キャナルの怒りはそれでも収まらないようだった。自分とは違うと頭では理解していても、鏡で映したかのように自分とそっくりな存在をまじまじと見られては年頃の少女に耐えられるはずもない。

「見たいのなら、わたくしのを見ればいいじゃないですのッ!」

 激情のままにコマンドスーツの裾に手を掛けるキャナル。瑞々しい柔肌が露わになり、脱げかけた生地がなんとも言えず扇情的だ。だが、今の輝国に劣情を催している余裕は無い。

「わぁッ! 脱ぐな脱ぐなッ! てゆーか、むしろ見てたのは瑞魚さんで……」

「こんのッ! バカッ!」

 踵の高いヒールで、これでもか、これでもかとありったけの力で輝国の踵を踏み付けるキャナル。自分の裸を見られたことよりも、こともあろうに瑞魚の裸をじっくりと眺めていたことが何よりも許せなかった。

「ゴメンッ! もうしないッ! 許してッ!」

「帰ったら、駅前のレストランでディナーッ! これで許してあげますわッ!」

「解ったッ! だからもう踏まないでッ!」

 輝国との、食事の約束を取り付けてようやくその足を止めるキャナル。一方的な暴力によるストレスの発散で一応、落ち着きを取り戻したようだ。

「ふーっ……ううん?」

「どうした、キャナル?」

 人心地付いたのが深い溜息を付いたキャナルだが、視線がある一点で止まる。はしたないことだが、輝国に似た一体が入ったガラス管の、しかも股間の部分をじっと凝視している。

「おいッ! どこ見てんだよッ!」

「いえ、決してどこをどう攻めたら昇天しちゃうのかとか、そんな不埒な思いは一切無く、これ、輝国に似てるけど、違う人ですわ」

「違う人?」

「ええ。あの女やお父様は解りませんけど、ここに並んでるわたくしの身体、これは紛れもなくわたくしの身体ですわ。どうやったかは解りませんけど、わたくしのコピーであることは間違いありませんわ。ほら、ココのホクロ」

 キャナル胸元にあるホクロを指差す。確かに、ガラス管の中に浮いている他のキャナルの身体にも同じようにホクロが有る。

「でも、輝国だけはその、なんというか……細部が違いますの……中に入ってるのはみんな一緒なんですけれど……」

 顔をトマトのように真っ赤にしながら、しかしジェスチャーまで交えて丁寧に説明するキャナル。だが、その言葉に、輝国に一抹の疑問が生まれる。

「なんで、俺の形を知ってんだよ」

「それは……輝国の看病をしてるあいだ、しょうがなく見ちゃったんですわ☆」

「しょうがなくじゃねえよッ! 何勝手に見てんだよッ!」

「そんなこと言ったって、寝たきりの輝国の身体を拭かない訳にもいかないし……不可抗力ですわっ☆」

「ああ……なんてこった……」

 そうではないかと、予感はしていた。だが、意識の底に封じ込めてきた。結婚したとはいえ、まだ年端の行かない少女に大事なところをまざまざと見られたのだ、男としてこれほどの屈辱は無い。

「とにかく、輝国だけ、なんか違ってるんですのよ」

「もぉいいよ……ソコの違いなんてよ……」

 今の輝国にとって、股間の違いなどもはや大した問題ではなかった。ただ羞恥心だけが心をこれでもかと苛んでいた。

「しかし、改めて見ると気分が悪くなりそうですわね……」

 キャナルは今一度、緑の液体に満たされたガラス管を見渡す。いったい何処まで続いてるのか、何処まで広がっているのか検討も付かない。

「とにかく、先に進んでみないことには、何も解んねえな」

 気を取り直して立ち上がった輝国は奥の方向を指差す。ガラス管の幅は徐々にその広さを潜め、通路のようになっていた。後ろには道は無い。進む意外に選択肢は残されていないだろう。

「まったく、とんだ潜入になってしまいましたわね」

「ああ、だが、これでハッキリしたよ。敵は、光ヶ丘だ」

 輝国は、鋭い視線でガラス管を睨み付けた。自分に、キャナルに、瑞魚に、イムズ。これだけの人数が揃っているというのに、あの男だけが、光ヶ丘だけがいない。

「この、美の象徴とも言うべきキャナルさまの人形を作るなんて、全く許せませんわねッ! ギッタギタのボッコボコにして差し上げますわッ!」

 キャナルは自分に気合を入れるかのように手のひらを拳で叩いた。戦いの予感が嫌でも神経を熱く、全身を沸騰させる。身体がぷるぷると震えていた。だが、恐怖に寄るものではない、決戦に期待する武者震いだ。

「おう、キャナルッ!」

 キャナルを追って輝国も駆け出す。何処までも続くかに思われたガラス管の通路だったが、唐突にその終わりを告げる。数十メートル先ではガラス管が途切れ、焼け付くような光だけが溢れ出している。

「突っ込むぞ、キャナルッ!」

「ええ、輝国ッ!」

 光の回廊を潜り抜ける輝国とキャナル。余りの光量に視力が戻るまでに、数秒の時間を要していた。視界がハッキリとしたとき、そこにあったモノは――――。

「……ッ!」

 輝国は一瞬、言葉に詰まっていた。一面、金属か、それとも石属であるのか判別の付かない壁で覆われていた。しかも、タイルが敷き詰められている訳ではない。上下四方、全てが一枚で構成されているようだった。

 だが、輝国の言葉を奪ったのはそんな光景ではない。フロアの中央には今迄のガラス管どころではない、巨大な透明の円柱と、その中にはミーナに変身した瑞魚。そして、向かいに立つのは、どうしてその顔を忘れるだろうか。そう、光ヶ丘だった。

「瑞魚さん、平和とはどういうことですか?」

 輝国とキャナルの侵入にまだ気が付いていないのか、光ヶ丘は円柱の中のミーナに語り掛けていた。赤子をあやすような優しい口調だったが、温かい雰囲気などとは程遠い、何処か寒々しい、空虚な空気がフロアを支配する。

「平和……皆が平等であること……」

「その通りです! して、平等とは?」

「男も……女も……老いも……若きも……皆等しい暮らしを……違う……こんなのは偽善……」

 緑色の液体に浸かったミーナは瞑っていた眼を更に強く閉じる。眉間に寄った皺、食い縛った口元、苦痛の表情であることは明白だった。そして、輝国はそんな瑞魚の顔を黙って見ていられるほど、人間が出来てはいなかった。

「こんのやろぉぉぉぉぉぉッ!」

「なッ!」

 光ヶ丘にとって、それは余りに唐突な衝撃だった。頬をぶち抜く拳、為す術も無く光ヶ丘はガラスの円柱へとぶっ飛ばされる。だが、輝国はもう、それを見てはいなかった。円柱へと駆け寄り、幾度も拳を撃ち付け、その名を呼び続けていた。

「瑞魚さんッ! 瑞魚さんッ! クソッ……!」

 だが、鍛え抜いた輝国の拳でも、その分厚いガラスの壁をぶち破ることは出来無かった。虚しく、ドンドンと不快な音を周囲に撒き散らすだけだった。

「あなた如きの力でどうにかなるとは思いませんが……私のお人形に触るのは止してもらいましょうかッ……!」

 呼吸が止まる。輝国の襟首を万力のような怪力が締め付けていた。ジークスに爆解していないとはいえ、輝国の全力を食らったはずの光ヶ丘は涼しい顔で輝国を吊るし上げる。そのまま後方へ無造作に放り投げられた輝国は、出入り口、キャナルのいる場所でようやくその勢いは止まる。とても、生身の人間とは思えない剛力だ。

「ぐッ……くそッ……!」

「輝国ッ!」

 強かに床へと打ち付けられた輝国は激痛に顔を歪めるが、それでもなお、立ち上がろうとする。瑞魚を救うことが出来るのは自分しかいない、強い決意だけが輝国を突き動かしていた。

「人形風情が、造物主に敵うと思っているのですか?」

 輝国から殴られたダメージなど、まるで存在していないかのように光ヶ丘は悠々と言葉を吐き出す。だが、その言葉の意味は、輝国とキャナルにとって理解不能なものだった。

「造物主、だと……?」

「ええ、読んで字の通りの意味ですよ」

「いったい、どういう意味ですのッ!」

 ヒステリックにキャナルが叫んだ。これまでに何を見てきたかを考えれば聞かなくても意味は解っていた。それでも叫ばざるを得なかった。認めたくは無かった。その事実を。

「此処に辿り着くまでに見てきたでしょう。ケースに浮かんだ幾つもの、あなたたちの身体を。全ては私のお人形。あなたたちも、そのうちの一体に過ぎないのです」

「そんな、嘘ですわッ! わたくしには、お父様と一緒に過ごした記憶も、何もかも覚えていますわッ!」

「それは、私が植え付けた偽の記憶です。良い物を見せて差し上げましょう」

 光ヶ丘がパチン、と指を鳴らした。その音すら挑発しているようで、輝国の感に触る。だが、そんな輝国の悪感情は他所に事態は予想もしない方向へとどんどん進んでゆく。

『キャナル一号。出力、戦闘力共に必要要件を満たすも、感情回路に難有り。廃棄』

『キャナル二号。感情アクセラレーターの暴走。廃棄』

『キャナル三号……』

「もうやめてぇッ!」

 悲痛な叫びを上げたキャナルは耳を塞ぎそのまま力無くへたり込んでしまう。自分が自分である証明、それが根底から否定されてしまったのだ。まだ年端も行かない少女に耐えられるものではない。

「おや、まだまだこれからですよ? キャナル六五七三号、あなたが完成するまでには、長い長い物語があったのです……!」

「いやッ! いやッ! やめてぇッ!」

 髪を振り乱し全身で拒絶を現すキャナルを見て、光ヶ丘の顔に浮かんだのは、紛れも無く喜悦の表情だった。哀しみに、苦痛に歪むキャナルの顔が、キャナルの涙が、何よりもご馳走だということを隠そうともしていなかった。

「御託はたくさんだッ! 瑞魚さんを返してもらうッ!」

「返してもらう? これは異なことを仰る」

 これ以上、こんな陳腐な戯言を聞いているほど輝国はお人好しではない。床をありったけの力で蹴り、光ヶ丘へと殴り掛かる。だが、的確に頬を捉えた初弾が嘘のように簡単に捌かれてゆく。右を打てば左に逸らされ、左に打てば右に逸らされる。糠に釘、暖簾に腕押し、まるで幽霊でも相手にしているかのような錯覚に襲われる。

「そう焦ることもないでしょう。そうですね、久しぶりに此処まで辿り着いたのです。ご褒美に昔話でも聞かせてあげましょう」

「ふざけるなッ! 何が昔話だッ!」

「まぁまぁ、そう仰らずに」

 憤怒に身を任せた輝国の廻し蹴りは、軽々と光ヶ丘に受け止められてしまう。丸太程度なら圧し折ってしまうほどの蹴りを、だ。その右足を掴んだままの光ヶ丘は、どうにか引き抜こうとする輝国などその場にいないかのように話を続ける。

「あれはずっと昔……まだ人間が可愛らしいお猿さんだったくらいずっと昔の話です。一つの流れ星がこの地球に降り立ちました。遠い銀河の死にかけた星から辿り着いた宇宙の孤児、それが流れ星の正体でした。永い、永い旅路で生き残ったのは一人の男だけ。孤独を癒そうにも、周りにいるのはお猿さんばかり。言葉が通じるはずもありません。そこで男は、お猿さんをちょっぴり弄って、自分に少しでも近付けるよう進化を促しました」

「それが……人類の誕生って訳ですの? 馬鹿馬鹿しいッ!」

「まぁまぁ、お聞きなさい。知恵という最大の武器を手に入れたお猿さんは物凄い勢いで増え、あっという間に地球の支配者となりました。しかし、お猿さんを我が子のように可愛がっていたその男は更なる進化を求めました。お猿さんの攻撃的本能を刺激し、次のステップへ進める。その為に用意したのが……」

「戦争だとでもいうのかッ!」

「その通りっ! 感の良い子は好きですよ、輝国君。あるときは中国で、あるときはヨーロッパで、そしてこの日本で、戦いの火種を撒き続けました。そして、ようやくお猿さんがある程度の水準まで達したとき、男はあることを思い付きました。自分が今は亡き故郷の技術を持たせてみたらどうか、と」

「ジークスも……ビオロの技術も……お前によってもたらされたとでもいうのかッ!」

「イグザクトリーッ! 現在の技術水準を遥かに超えたオペレーションスーツッ! DNA操作によって生まれたビオロの怪人ッ! そして、それらを操るは私の最高傑作、人造人間たちッ!」

「そんな……そんな……」

 顔面蒼白のまま、焦点の定まらない虚ろな眼でキャナルは呪いの言葉を吐くしかなかった。自分が今迄してきたことは何だったのだろうか。町内征服も、この輝国に対する想いまでも、この男に作られた紛い物だというのか……!

「だぁぁぁまれぇぇぇッ!」

「むぅッ……!」

 輝国の咆哮が、いや慟哭がフロアに鳴り響いていた。怒りの感情のままに掴まれていた足を引き抜き、そのままの勢いに光ヶ丘のみぞおちを蹴り上げる。光ヶ丘にとって、意外なことだったらしい、珍しく驚きの表情を浮かべたまま、数メートル後退する。

「ほう……万が一、万が一を考えてこの私には届かないスペックにしていたのですが、少々計算が甘かったようですね。次の改良課題、ですね」

 だが、光ヶ丘は満足そうに腹を撫でるだけだ。今迄の攻撃と変わらず、大したダメージは与えられていない。

「この俺の魂はッ! キャナルへの想いはッ! 瑞魚さんへの想いはッ! 俺だけのものだぁッ!」

 輝国は右手を天に掲げた。例え、この力が、この仇敵に与えられたものだとしても、これまで幾多もの戦いを潜り抜けてきた相棒。それを信じなくて何を信じるというのか。

「爆解ッ!」

 金の粒子が輝国を包み、次の瞬間には金色の甲冑、ジークスへと爆解する。だが、その姿は、かつてとは余りに違う、余りに痛々しい。

「戦う前から満身創痍、といったところですか」

 光ヶ丘が嫌味な苦笑を漏らす。だが、その言葉通りだった。神々しいまでの金色を放っていたジークスの装甲は、イムズの一撃を受けたときのまま、亀裂が全身を覆っていた。

「キサマを倒すだけなら、これで十分だッ……!」

 だが、その威勢も言葉だけだ。既に輝国の息遣いは絶え絶えになってしまっている。あのときの傷はまだ癒えていない。いや、癒えるはずもない致命傷、忍耐不可能な苦痛。今、輝国を立たせているのは、光ヶ丘に対する憎悪、それだけだ。

「グラビ・ブレイドぉッ!」

 左手の甲から引き抜いた柄を中心に粒子が収束する。グラビ・ブレイド、ジークス最強の武器だ。戦いの端から、グラビ・ブレイドを使わなければならない。その理由はジークス自身が一番良く知っていた。

「持ち得る中、最強の武器で早期に決着を付ける。、確かに今の身体では考え得る限り最良の判断でしょう。だが、しかしッ!」

 不敵な笑み。光ヶ丘は左手を虚空に掲げる。何かを解き放つかのように、その掌を広げた。そして、叫ぶ。

「爆縮ッ!」

 光ヶ丘を中心に紅い粒子がとぐろを巻く。その姿は、まさに地獄の業火にその身を焚かれる咎人そのもの。だが、その顔だけが違う。光ヶ丘が浮かべている表情は土壇場のそれではない。弱者をいたぶる、冥府の鬼そのものだ。

「煉獄炎装コアッ!」

 紅蓮のボディ、漆黒のバイザー。そう、あの火災で輝国が見たコマンドスーツと寸分違わぬ姿。あのときと同じように、眼の前に立ちはだかる。

「やっぱりな、お前だったかッ!」

 激痛を堪え、グラビ・ブレードを振りかざす。装甲の奥で筋肉が膨れ上がり、右腕が剣先と一体になる感覚。気力がこれでもかと充実していた。不屈の精神を持つ輝国にとっては、コアの言葉など、詐欺師の戯言に過ぎない。

「私の可愛いお猿さんを眼の前で死なせるのは忍びなかったのですよ、本来なら、私たちの出会いはもっと先のはずだったのですが」

「ごちゃごちゃうるせえッ!」

 真っ向から一直線に伸びる入魂の太刀筋がコアの脳天を狙う。手応え、有り。だが、ジークスの戦闘態勢は解かれていない。真っ二つにされているはずのコアはそこにはおらず、グラビ・ブレードがミーナの眠るガラス管に僅かなヒビを入れているだけだった。

「今の貴方では、それが精一杯のようですね。先代はもうちょっとやりましたよ?」

「このぉッ!」

 確かにそこにいたはずのコアの声は、輝国の後ろから発せられていた。ジークスの高性能バイザーでも捉えられないほどの超スピードで背後に廻り込んでいたのだ。ジークスはその姿を確かめること無く、グラビ・ブレードを後ろに振るう。銀色の旋風がコアの鼻先を掠めるが、それだけ。今度は手応えすら感じることが出来無い。

「先代だの、なんだの、いったいどういう意味だよッ!」

「ふふふ……知りたいですか?」

 ジークスとは逆に、右手から柄を引き抜くコア。血の色よりも深いドス黒い色の刃が構成される。グラビ・ブレードとその刃を交える度、銀と、朱の粒子が空気に弾け、混ざり、溶けていった。

「え……?」

 コアへと食って掛かるジークス。キャナルはその変化に気付いていた。コアの言葉に耳を貸さず戦い続けていたジークスが、自分から問い掛けているのだ。

「あ……!」

 コアと刃を交えるジークスのバイザーがこちらに向いた気がした。いや、確実にこちらを見ている。戦いの最中に余所見をするなど、戦士として有るまじき行為。一歩間違えれば死に至る。そんな危険を犯してまでキャナルに何かを伝えようとしているのだ。

 コクリ、とジークスが僅かに頷く。次いで視線を向けたのは、ヒビが入ったガラス管。そう、中にいる瑞魚を救ってくれと、そう頼んでいるのだ。

(輝国が、わたくしにお願いしている……!)

 耐え切れない真実に折れてしまったキャナルの心だったが、愛する輝国が、自分にお願いをしている。ならばそれに応えたい。乙女の純情が、キャナルの折れた心を日本刀のように真っ直ぐと打ち直していた。

(今が、チャンスッ……! ですわッ!)

 おそらくは、そうなるように誘導していたのだろう。ジークスはコアの振りかざす刃を受けながらガラス管の反対側まで廻る。分厚いガラスと緑色の液体に阻まれ、ジークスとコアからはその姿を見ることは出来無いだろう。

「ビーム・ビュートッ!」

 緑色の粒子が蛇がのたうつようにしなり、唸りを上げる。手首を軽く翻すと、やや膨らんだ先端が空気を弾き、心地良い音を響かせる。キャナルは、ガラス管の中に浮かぶミーナを見据えた。鼻持ちならない女だが、助けるのは輝国の為だと自分を言い聞かせる。

「無事で助けろとは一言も言われてませんからねッ! ちぇりゃぁッ!」

 その細い身体からは考えられないほどの勢いで、キャナルの右手から放たれたビーム・ビュートは蛇のように、いや、龍が天へ昇るかの如き螺旋を描き、ガラス管を撃ち付ける。その威力に、キャナルは実感する。ああ、やっぱり自分はただの人間ではない、あの男によって造られた人造人間なのだと。

「それッ! それッ! それぇッ!」

 だが、悲観に暮れることは後でも出来る。今はただ、この忌々しい女を、いやガラス管をぶち抜くだけだ。だが、鉄板程度なら軽々と穴を開けるビーム・ビュートを持ってしても、このガラス管に新たな傷を付けることは出来無かった。

「これも、そういう技術で出来てるんでしょうね……」

 キャナルの予想は間違ってはいなかった。このガラス管に限らず、このフロアにある物質全てが、地球の科学力を遥かに超えた超科学で構成されている。同じ超科学で造られているとはいえ、ビーム・ビュートはキャナル用にデチューンされたものだ。このままでは、どうしようも無い。

「輝国ッ……!」

 キャナルは、向こう側で戦うジークスに視線を向けた。だが、眼に映るのは緑の液体ばかり。ただ、鍔迫り合いの音が聞こえるだけだ。そう、輝国もまだ戦っている。既に限界を幾つも超えている輝国が戦っているのだ。どうして諦めることが出来ようか。

「でぇりゃあッ!」

 ガラスの向こう側で、ジークスとコアの戦いもまた加熱の一途を辿っていた。魂と魂の削り合い、血で血を洗う熱戦。だが、どちらが生命を落としてもおかしくない攻防であるにも関わらず、コアは飄々と言葉を続けていた。まるで、それが目的であるかのように。いや、事実、それが目的だったのだろう。その口調には、歓喜としか言い表すことの出来無い感情が込められていた。

「いいですかッ! ジークスとビオロが戦ったのは、これが初めてではないのですッ!」

「そりゃそうだろうッ! もう何ヶ月かやりあってるぜッ!」

「そういうことではないのですッ! あなたの前、ジークス四六六五号と、キャナル六五七三号ッ! そしてその前もッ! さらにその前もッ! あなたたちは戦い続けて来たのですッ!」

「何の為にそんなことをッ!」

「暇潰し、ですよ」

「暇潰し、だと……?」

「ええ、暇潰しです。永久に等しい生命を与えられた、私の、唯一の愉しみなのです。ある者は正義の為に戦い、あるものは欲望の為に、そしてまたある者は民草の為に……けれども、ある時、天から神が降臨なさるのです。そして、仰るのですッ! お前たちは私の掌の上で踊っていただけなのだとッ! そのときの絶望に塗れた顔ッ! 丁度今のあなたたちと同じ顔ですッ! それが堪らなく快感んんんんんんッ!」

 バイザーとマスクに阻まれ、その表情を見ることは出来無いが、その奇声から察するにほぼイキかけていたのは間違い無いだろう。だが、その顔を見なくても解ることがある。コイツは造物主なんかではない。ただの下衆野郎だ。瑞魚を助ける為の、時間稼ぎのつもりだったが、輝国の怒りは、もはや爆発寸前だった。

「ぶっ飛ばすッ! うおおおおおおッ!」

「くっく……今迄のジークスとはひと味もふた味も違うようですねッ! しかし、それが良いッ! 希望が大きければ大きいほど、絶望は深いッ!」

「ぐうッ!」

 一気呵成に攻め立てるジークスだが、その圧倒的な力を前に弾き飛ばされてしまう。気力だけは十分だ。だが、それに身体が追い付かない。片膝を付きグラビ・ブレードを杖になんとか身体を支えるので精一杯だ。もう、時間は無い。悟られないように、ガラス管へと眼を向ける。

「くッ……このッ……!」

 幾度も、幾度もビーム・ビュートを振るうキャナル。だが、虚しく音を立てるだけでガラス管は微動だにしない。その鍔迫りの音から、ジークスと、コアの戦いに終わりが近付いていることが解る。それまでに、なんとかしなければならない。だが、どうやって……?

「外から衝撃ではダメ……ならば内側から……!」

 ガラス管にそっと手を触れるキャナル。言った通り、内側からの衝撃ならば、この分厚いガラスをぶち破ることが出来るかも知れない。だが、これだけの衝撃を与えても中に浮かぶミーナが眼を覚ます気配は一向に見られない。

「ミーナ……いや、瑞魚……聞いてくださいまし……」

 キャナルは初めて瑞魚の名前を呼んだ。ガラス管の前にしゃがみ込み、そっと額をくっつける。火照った身体に、冷たいガラスが気持ち良かった。

「輝国は、輝国は今戦っていますわ……悔しいけれど、わたくしの為ではなく、あなたの為に……」

 聞こえていようが、聞こえてまいが、キャナルにはどちらでもいいことだった。もうそれ以外に方法は無い。だから、それをするしか無い。気位の高いキャナルが、頭を下げ、懇願している。輝国への愛だけが、そうさせていた。

「だから、眼を覚まして……あなたの力で、この戒めを破って……輝国の為にッ……!」

 ぴくり、とミーナの眉が動く。だが、俯いたままのキャナルはその異変に気付くことは無い。

「お願いしますわ、瑞魚ッ! 戦ってくださいましッ!」

「はあああああああああッ!」

 緑色の液体には無数の気泡が生まれ、ガラス管を満たす。小さな泡はやがて重なり、合わさり、やがて巨大な一つとなってガラス管を圧迫していた。亀裂が広がり、蜘蛛の巣のように全体を覆う。透明だったはずのガラス管は、もはやヒビ割れで中を伺うことは出来ない。

「はあッ!」

 次の瞬間、ガラス管は粉々に砕け、天井から降り注ぐ人工的な光を幾多もの矢のように撒き散らしていた。詰まっていた液体は津波のように溢れ出し、床をしとどに濡らす。

「なにぃッ!?」

 ジークスのグラビ・ブレードを受け止めていたコアは、それまでの余裕も、傲慢も見せることも出来ずに、間抜けにも驚愕の声を上げる。眼の前に起こっている光景。その全てが理解不能だった。

「そんな馬鹿なぁッ! このコアの洗脳は完璧だったはずッ! 私の合図が無ければ眼を覚ますはずも無いッ! 何故、何故だッ!」

 コアはまるで駄々っ子のように地団駄を踏む。いや、まさに駄々っ子そのものだった。お気に入りの玩具を取り上げられて癇癪を起こす、我侭で、小さな幼子。ジークスにはもうそうとしか見えていなかった。

「よくもこんなとこに閉じ込めてくれましたね、光ヶ丘さん、いや、コアッ……!」

「何故だッ! 何故目覚めることが出来たッ!?」

「神様気取りのあなたには解らないでしょうね……私を目覚めさせたもの……それは、愛の力よッ!」

「愛、だと……? 理解不能、理解不能だッ!」

「だから、言ったでしょうッ! あなたには理解出来無い、ってッ!」

 ミーナのマスクから覗く紅い唇が歪んだ。ガラス管の中で、虚ろな意識のまま光ヶ丘の話は耳に入っていた。自分の運命を操り人形のように弄んだ光ヶ丘を許すことは決して出来無い。

「おや……あなたまで私に逆らうつもりですか……誰のお陰で町長になれたか、もうお忘れでしょうか?」

「それも、光ヶ丘さんが何かしたんでしょうッ!」

「くっく……気付かなければ、この箱庭で、終りが来るまで幸せでいられたものを……」

「そんな幸せ真っ平御免だわッ! 輝国ちゃんッ! それに、そこのちっこいのッ!」

 ガラス管が有った場所から飛び立つミーナ。空中で華麗に一回転を決め、ジークスの元まで降り立つ。その姿、まるで永遠の輝きを持つ鳳凰そのものだった。

「ちょっとッ! 誰がちっこいのですのよッ!」

 ジークスとミーナの間に割って入るキャナル。輝国の想いがどうあれ、今の妻は自分であるという自負がある。飢えた猫科の獣同様に牙を剝き、ジークスの腕に自分の腕を絡める。

「ありがとう、キャナルちゃん……」

「へ……?」

「二度は言わないわ。あなたのお陰で、助かった」

「あら、そう素直にされると、こっちもちょっと心の準備というものが……」

「それと、謝らないといけないことがあるの」

「なんですの?」

「あなたと輝国ちゃんの婚姻届、あれ受理してないから」

「なッ……なんてことしてんですのぉぉぉッ!」

 キャナルは精一杯爪先で立ってミーナの首根っこを掴み頭を揺さぶるが、当のミーナは、してやったりとした顔でへらへらとしているだけだ。

「二人とも、お喋りをしてる場合じゃないぞ……!」

 キャナルとミーナの小競り合いを他所に、ジークスだけがコアを見据えていた。次の一瞬には勝負が決まる。そんな、触れれば爆発しそうな空気が、ジークスとコアの間には流れていた。

「そんなことはどうでもいいんですわッ! わたくしと、この女と、いったいどっちを選ぶつもりですのッ!」

「当然私よねッ! 私を選べば、この町の支配者にだってしてあげるわッ!」

「わたくしを選べば、なんでもして差し上げますわッ! 輝国のしたいこと、なんだってッ!」

「わ、私だってッ!」

 戦いの場であることも忘れて、キャナルとミーナはジークスの眼の前まで詰め寄る。この町の運命を左右する戦いよりも、自分の恋の方が大事。乙女にとってはそれが当たり前のことだった。

「ど……」

「ど?」

「どっちもッ! どっちも幸せにしてみせるッ!」

『なあんですってぇッ!』

 キャナルとミーナ、二人の口は開いたまま塞がることは無かった。どっちも、なんて答え、誰が予想しただろうか。二股、浮気、二重婚、二人を相手にするということは、こういうイメージの悪い単語が何処までも付いて回るということだ。

「ぷっ……あはははっ!」

「ふふふっ、あははっ!」

 だが、それでも真顔のジークスを見てキャナルとミーナは思わず吹き出してしまう。二人とも選ぶ、二人とも幸せにする。如何にも輝国らしい答えではないか。

「そんな選択をしたのは、あなたが初めてですよ、ジークス四六六五号……気に入らない……私が用意した答えを選ばないなどと……」

 コアが肺腑の底から絞り出す言葉は、もはや呪詛そのものに変わっていた。人形を愛でる感情は、もう其処には無い。飼い犬に手を噛まれたという、逆恨みとも言うべき悪意だけが確かに存在していた。

「俺は、キサマの玩具ではないッ! それは、キャナルも、瑞魚さんも一緒だッ!」

「ならばッ! ならばそれを証明してみなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!」

「言われるまでもないッ! 行くぞッ! キャナルッ! 瑞魚さんッ!」

「ええッ! やりますわよッ!」

「輝国ちゃん、合わせるわッ!」

 コアが床を蹴る。空気を斬り裂き、鋭い直線を描きジークスたちを狙う。その空気越しにすら伝わる、明確な殺意。遊ぶ余裕など一切感じられない。振りかざした赤刃、喰らえば確実な死が訪れる。だが、三人の力ならば、打ち砕けぬものなど何も無いッ!

「ジークス・ブレイクアウトぉッ!」

「ビーム・ビュートぉッ!」

「ミーナ・エクセレントぉッ!」

 ジークス、キャナル、ミーナから放たれた三つの軌跡は、重なり、一つの力となり、コアを迎え撃つ。それはまさに、奇跡だった。その力は、造物主のそれをを遥かに上回り、邪な存在を打ち砕いていた。

「ま……まさか……そんな馬鹿な……」

 液体で気泡を押し潰したような聞き取り辛い声。コアはまだ生きていた。失った身体の半分からは金属の破片が、見たことも無い機械の部品が剥き出しになり、弱々しく火花を散らしている。

「ロボット……? 身体を機械にしてまで、生きたかったというの……?」

 ミーナは憐れんだ視線をその鉄屑に向けていた。意のままに、人の生命を、この町を、操り続けていた神とも言うべき存在の末路。だが、それにしても無残ではないか。光ヶ丘と過ごした数年間が、瑞魚の脳裏を過ぎっていた。

「ふ……ふふ……あなたに同情されるなど……夢にも思わなかったですよ……」

 光ヶ丘は、半分砕けたコアのマスクから、冷たい微笑をミーナへ向ける。おぞましいことに、その笑顔は今迄と全く変わらない、人を見下した笑顔だった。

「何調子に乗ってやがる。もう終わりだよ、光ヶ丘」

 ジークスの爆解を解除した輝国だ。全身の傷跡は再び裂け、真っ赤な鮮血が流れ出している。だが、それでも輝国は一ミリ足りとももよろめくことなく堂々と足を踏ん張っている。それが、勝者としての勤めだと、そう理解していた。

「くっくっく……あーっはっはっはっはっはッ!」

 三人の背筋がつららでも突っ込まれたかのように凍り付いた。光ヶ丘の、狂ったような高笑い。その異音、身体を砕かれ、死を目前にした者が出せるような音には到底思えなかった。

「どうです、楽しんで頂けましたかッ! この光ヶ丘一世一代のショーをッ!」

「なッ……! ショーだとッ!? 負け惜しみをッ!」

「くっく…これを見てもまだ負け惜しみだと言えますか……!」

 欠けたバイザーの奥に、光ヶ丘の瞳が怪しく光った。鈍く、薄気味の悪い唸るような音がフロアを揺るがす。まだ、この後に及んで何があるというのか。だが、得体の知れない恐怖だけが解る。輝国の身体から、一気に血の気が失せ、生まれたての子鹿のように震えていた。

「な……!?」

 輝国は、驚きの色を隠せなかった。何も無かったはずの空間が渦を描くように歪み、その中から現れたのは、今迄戦っていた相手、ほんの数分前に倒したはずの姿だった。しかも、一人だけではない。フロアのあちこちが歪む。そして、その数だけ……。

『何事にも、バックアップは用意しておくものです……! まぁ、まさか一体とはいえ倒されるとは思いもしませんでしたが。いやいや、褒めて差し上げますよッ……!』

 無数のコアが一斉に口を開いた。その重なる音と、有り得ない光景に輝国たち三人は脳が掻き回されるような感覚に襲われる。なんとか立っているのがやっとだ。だが、その脚元も激しい絶望に揺さぶられる。たった一体倒すだけであれだけの死力を尽くしたというのに、これだけの数を相手に出来るというのだろうか。

『声も出ませんかぁッ! そう、これですッ! この顔ですッ! 希望から絶望のドン底に叩き落されたこのかおおおおおおおおお』

 思わず、輝国たち三人は顔を見合わせた。あれだけ意気揚々と口角泡を飛ばしていたコアたちは、まるで電池が切れ掛けた玩具のようにガタガタと痙攣するだけだ。それも、此処にいる全てが、だ。

『ききききおく回路に異常……デンシ的なあくせせせすではナイ……ブツリ的欠損……三.五ぱーせんとのえんぶん濃度ガ配線ヲふしょく……』

 ガタガタと、三人には理解し難い言葉を白煙と共に吐き続ける光ヶ丘の群れ。糸が切れた操り人形のように頼り無くふらふらと彷徨う。

『コノ、まちやくばノ地下ハ、全てガこのワタシのばっくあっぷねっとわーくにナッテイル……ナニをシタのだ……きさまラぁ……!』

「何をした、って言われましても……あ、おしっこ?」

 キャナルの頭上にピコン、と電球が輝いていた。塩分濃度三.五%という言葉には覚えがある。自らの身体から排泄する水分、汗、もしくは、そうおしっこだ!

「をーほっほっほっほっほッ! キャナルさまの華麗な頭脳プレー、奇跡の逆転劇ですわッ!」

「お前、そんなこと夢にも思ってなかっただろ」

「をーほっほっほっほっほッ!」

 輝国のツッコミを無視して高笑いを続けるキャナル。だが、何時までも笑っていられる訳ではなかった。コアたちが現れたときとは確実に異なる振動が、フロアを襲う。

『フ……ハハ……コノワタシが、タカガ尿ニやぶれるだとととととと……ダガただデハ死ナン……キサマらも道連レだだだだだだ』

 コアの呻きとともに、天井が崩れ落ちる。このまま手をこまねいていれば、数分後には確実にぺしゃんこになってしまうだろう。だが、どうやって逃げる……?

『無駄ダぁッ! コノママ、醜ク潰レ死ヌがイイイイイイイイイッ……!』

 天井の破片が、フロアに降り注ぎもはや動くことも叶わないコアたちを圧し潰してゆく。全身機械のコアがああなら、生身の輝国たちはひとたまりも無いだろう。

「輝国、どうしますのッ!」

 ヒステリックに叫んだのはキャナルだ。やっとの思いでコアを倒した。だが、その華々しい戦果も今や無に還ろうとしている。そして何よりも、一度も想い人に抱かれずに死んでなるものか。

「俺に良い考えがある」

 豪雨のように頭上を襲う瓦礫を躱し、フロアの中央まで躍り出たのは輝国だ。掌を天に掲げる。これは、爆解のポーズだ。だが、今更ジークスになったところでどうなるというのか。

『無駄、無駄デス……! アナタタチは、コノママ死ヌノを待ツダケデススススッ!』

 瓦礫の隙間から顔を出すのは、輝国たちが倒した最初の一体だった。もう瓦礫なのか、光ヶ丘なのか解らないほど原型を留めてはいない。それでも尚、輝国たちへ呪いの言葉をぶつけ続ける。見上げた根性だと、輝国は妙に感心していた。いや、この吐き気を催すような執念こそが光ヶ丘のコアそのものなのだろう。

「無駄かどうかは、やってみなきゃ解んねえッ! 爆解ッ!」

 輝国の身体を中心に、金色の粒子が空気を染めてゆく。本来なら、このままジークスの装甲を形創ってゆくはずだった。だが、粒子はその奔流を留めることなく、むしろその激しさを増してゆく。

「まさか、暴走……!?」

 ミーナの言う通りだった。金の粒子は今や天まで伸びる一本の柱となり、眩い閃光を撒き散らしてゆく。ミーナはその姿に見とれてしまっていた。光ヶ丘なんかよりも、百万倍神様みたいだと、そういう想いに捕らわれていた。

「おおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 裂帛の気迫。輝国の咆哮と共に、粒子は天井をぶち抜き、文字通り天を貫いていた。空の蒼と金の柱が交じり合い、神々しさすら感じるコントラストを天空に描いていた。

「キャナルッ! 瑞魚さんッ! 俺が道を作っているうちに早く逃げろッ!」

 身体から放たれていた粒子は天まで続く道となる。だが、輝国が力を失った瞬間に、その道も消えてしまうだろう。粒子の暴走は、肉体に大きな負担が掛かる。今にも止まってしまいそうな荒い呼吸。もう、輝国は立っているのがやっとだった。即ち、この道が存在出来る時間も、あと僅かということだ。

「でもッ……!」

 キャナルは輝国の手を握ろうとした。だが、それは叶わない。輝国は無情にもその手を払いのけていた。

「良いから、逃げろ」

「でもでもッ!」

「デモも実演も無い。早く行ってくれ。レディーファーストだ」

「都合の良い時だけレディー扱いしてッ!」

 輝国の胸に、キャナルが顔を押し付けようとした、そのときだった。キャナルの震える身体を制する、美しささえ感じるその毅然とした顔、ミーナだった。

「行きましょう、キャナルちゃん」

「でもッ!」

「私は、輝国ちゃんを信じてる。だから、あなたも……!」

「う……」

 キャナルは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で輝国を見上げた。其処には、何時もと変わらぬ、優しい笑顔があった。キャナルを不安にさせない為の笑顔であるということは解っている。だからこそ、行かなくてはならない。

「必ず、生きて帰ってきて……」

「俺が、今までに嘘付いたことがあるかよ」

「ありませんわ……」

 後ろ髪を引かれるような想いで、キャナルは輝国から一歩離れる。この一歩が、この僅かな距離が今生の別れとなる断絶になってしまうかも知れない。そんな、張り裂けそうな予感が胸をズタズタにしていた。

「瑞魚さん、キャナルを頼みます」

「こんなときに、他の女の子こと、頼むのね」

「ごめん」

「いいわ。年下の犠牲になるのは、いつもお姉さんの仕事だもの」

 瑞魚だってキャナルと一緒だった。みっともなく鼻水を垂らして輝国に縋り付きたかった。だが、それは出来無い。私は、輝国のお姉さんだから……。

「信じてる……待ってるから……!」

「ああ」

 キャナルの手を引き、ミーナは光の道へと飛び込む。内臓がひっくり返りそうになるほどの浮揚感。次の瞬間には地上に弾き飛ばされるだろう。

「輝国ッ……」

 キャナルは叫んだ。そうするしか無かった。今更この言葉が届くとも思えない。それでも叫びたかった。別れの時間が余りに短すぎて、顔を見ることすら出来無かった。でも、それでも何時もの笑みを浮かべていたと、そう信じたかった。

「上手く、上がれたみたいだな……」

 輝国の膝が砕けた。弱々しく、その場にへたり込んでしまう。もう、身体を支えることすら出来無かった。脈拍が、心臓の鼓動が弱くなるのと同じように、粒子もその光を弱める。それは、生命そのものとでも言うべき瞬きだった。

「ここまでか……」

 粒子が空気に溶け完全に消えると同時に、天井は崩壊し、その穴も瓦礫が重なり塞がってしまう。もう脱出することは叶わない。数時間か、いや数分後には確実な死が訪れる。

「クク……ひーろー気取リデ生命ヲ捨テルか……」

「心中の相手には不満かもしんねーけどよ、まぁ、納得してくれ」

「カ……カカ……ソノ必要ハ無イイイイイイッ!」

 光ヶ丘の眼がめまぐるしく拡大収縮を繰り返す。いったい何処にそんな力が残されていたのか、頭だけになりながらも、その歯を剥き出しにし、輝国の首筋、頸動脈を狙う。

「オ前ノ身体ヲ奪ッテ、コノ私ハモウ一度復活スルウウウウウウッ!」

 迫り来る光ヶ丘。だが、輝国は動こうともしない。いや、動けないと言った方が正しいかもしれない。その表情は、落ち着いた、というか、澄み切ったものとなっていた。

「そう来ることは解ってたぜ……」

「ナ……ニィッ……!」

 薄暗い隙間に、一筋の閃光が輝く。ざくり、と小気味の良い音。輝国は左手に隠し持っていた瓦礫の、鋭利な先端で光ヶ丘の頭部を突き刺していた。

「離セッ……! ソウダ、コの町ヲ半分ヤろウッ! 永遠ノ生命デモいイッ!」

 ガチガチと壊れかけた口を動かし続け、命乞いをする光ヶ丘。だが、輝国は答えようとはしない。いや、答えることが出来無い。

「コイつ……まサカ……」

 そのまさかだった。輝国にもう生命の輝きは残されていない。最後に残された力、いや、想いだけが光ヶ丘の頭を戒めていた。

「いや、そうはさせないさ」

 此処には、もう輝国の身体と機能を停止しかけた光ヶ丘しか存在していないハズだった。だが、其処にいたのは、僅かな光しか無くとも、間違えようの無いシルエット。ジークスと寸分違わぬ姿をした、何者かだった。

「キさマ……そウカ……私モ、キさまニ踊ラされテいたダケか……」

「すまんな、お前と話をしている時間は無い」

「コ……ココ……じーくすよんせんろっぴゃくろくじゅうよんゴウ……ゴウッ!」

 そのジークスは、まだ何事か喋ろうとしていた光ヶ丘の頭を、無造作に放り投げた。瓦礫に激突し、破片を撒き散らす。もう、何か言葉を発することは無いだろう。

「輝国、聞こえるか。そうか、聞こえないか。ならば、ぬうんッ!」

「がふッ!」

 ジークスは振りかぶった拳で思いっ切り輝国の、胸の辺りを殴っていた。乱雑にしか見えないその拳は確実に急所を捉えていたらしい。完全に止まっていたはずの心臓が動き出す。輝国の口から、呼吸が漏れ出していた。

「いきなりなにしやがるッ! 危うく三途の川を渡るとこだったぞッ!」

「半分渡りかけてたのを引き戻してやったんだよ」

「その声……まさか」

「ああ」

 爆解を解除するもう一人のジークス。其処にあったのは、輝国にとって懐かしい顔。輝国に二十ばかり年齢を重ねたような精悍な顔付き。目元や、口元に寄る皺すらも頼もしく思えた。

「父さん……!」

「大きくなったな、輝国……」

「でも、なんでこんなとこにッ!」

「いいか、良く聞け。私がジークス四六六四号であることは間違い無い。だが、お前はジークス四六六五号ではない」

「え……」

「お前は、私と母さんが愛し合い、生まれた子供だ。だからこそ、コアの弄ぶ輪廻の輪から外れ、ヤツを打ち倒すことが出来た。」

「そうだったのか……」

「輝国、こんなお遊びに最後まで付き合う必要は無い。逃げるぞ」

「でも、どうやって……?」

 もはや、輝国にジークスとしての力は残されていない。潜入したダクトも、もう潰れているだろう。逃げ場など、何処にあるのか。

「私の、ジークスの力をやろう」

「でも、父さんは……」

「心配するな。ヒーロは死なん」

「ははっ!」

「はっはっはっ!」

 二人の笑い声が木霊した。有無を言わせない説得力が、その笑顔には有った。

                   ・

「輝国……」

「輝国ちゃん……」

 瓦礫の山と化した町役場の側で、天に祈りを捧げるのは二人の乙女。キャナルと瑞魚だった。光ヶ丘によって造られた地下は崩壊し、地盤沈下のようになってしまっていた。怪我人が出なかったのが、何よりも幸いだった。だが、誰よりも大切な一人が、残されたままになっている。

「帰ってこなかったら、ひどいんだから……!」

 ぎゅっと、その瞳を瞑る瑞魚。もう、涙は流れない。信じているから、愛する男を信じているから。きっと何時もの笑顔で颯爽と戻って来てくれることを。

「輝国……約束ですわよ……」

 想いだけではどうしようも無いかも知れない。祈るだけでは届かないかも知れない。だが、今のキャナルにはそうするしかなかった。今一度、強くその手を握る。そのときだった。

「たぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 光の柱が天を突く。その姿、まさに輝く翼をはためかせる天使。人々はその名を知っていた。正義を護るヒーロー。この町の守護者。誇り高き戦士。人々はその名を呼ぶ。町内特警ジークスとッ!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 結構シリアスなのに、作品全体のテンションが高めで良い感じ。楽しい面白さでした! [気になる点] 造物主が弱くないですか!?すげーの出て来たあ!と思ったらほぼ不戦勝って、しかも勝因おしっこ…
[一言] を~ほっほっほっほッ お〜ほっほっほっほッじゃないすか?
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