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日本書紀本文神話を愉しむ  作者: 村咲 春帆
正史篇
8/19

『日本後紀』

日本後紀(にほんこうき)藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)ら』


 承和七年(八四〇年)十二月九日(平安時代・仁明天皇の頃)成立。


 藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)(式家・藤原百川の長男)らが嵯峨天皇に命じられて着手するも終わらず、仁明天皇の時代まで編纂され続けた勅撰史書。六国史の第三にあたる。全四十巻(現存十巻)。漢文表記の編年体で、桓武天皇の途中から淳和天皇の時代までの四代四十二年間を扱う。


 嵯峨・淳和・仁明の三代、二十一年にわたる大事業となった割に、十五世紀には全四十巻中三十巻散逸で散逸率七十五パーセント(ちなみに桓武天皇は全十三巻中九巻散逸で散逸率七十パーセント、平城天皇は全四巻中二巻散逸で散逸率五十パーセント、嵯峨天皇は全七巻中三散逸で散逸率四十三パーセント、淳和天皇に至っては全十六巻中十六巻散逸で散逸率百パーセント)というかなり惨憺たる結果となっているが、原典主義の六国史の分類書『類聚国史(るいじゅこくし)菅原道真(すがわらのみちざね)編』を筆頭に、記事の簡略化はあるものの一応は六国史の通史書である『日本紀略』などの存在によってどうにか原文はある程度までは復元されている。



 国史なのにさっくり散逸しちゃった『日本後紀』。

 桓武天皇を論破してライフワーク(蝦夷平定・平安京建築)を放棄させた男・藤原緒嗣を屋台骨に、ブレない硬派な三代目『日本後紀』。

 初代『日本書紀』のありすぎる存在感はさすがに別格と言わざるを得ないにしても、原本の七十五パーセントを散逸という読ませる気のなさ(?)がどうにも足を引っ張ったのか、日本史の研究史料を集成するのが目的の『国史大系』はさておき、日本の古典「文学」を対象とした全集には『日本後紀』は「お呼びでない」というところからも、地味な二代目『続日本紀』を超えるひっそり感は伝わってくるかも知れません。



 さて。

『日本後紀』の中で『日本書紀』絡みの記事といえば、『日本書紀』の講書や研究を目的とした宮中行事「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」に関する記述、「弘仁三年(八一二年)六月二日(巻二十二)」の条(嵯峨天皇の御代)。――ちなみに、「延暦十六年(七九七年)二月十七日(巻五)」の条(桓武天皇の御代)に登場する「(せん)日本紀(にほんぎ)(しょ)」なる臨時のお役所は『続日本紀』編修のためのものなのだとか。


 この日、まず参議で従四位下(四位の下の下)の紀広浜(きのひろはま)、陰陽頭で正五位下(五位の上の下)の阿倍真勝(あべのまかつ)ら十数名が命じられて『日本紀』を読んだ。散位(さんに)(≒無職)で従五位下(五位の下の下)の多人長(おおのひとなが)が講書を執り行った。


 ちなみに原文は以下のとおり。

「是日、始令參議從四位下紀朝臣廣濱、陰陽頭正五位下阿倍朝臣眞勝等十餘人讀日本紀。散位從五位下多朝臣人長執講」


 多人長(おおのひとなが)と言えば、『古事記』で知られる太安万侶(おおのやすまろ)(人長は「太朝臣安麻呂」と書いていますが)の子孫としても有名です。ちなみにこの弘仁三年の日本紀講筵に際して人長によって講義用に書かれた覚書が、いわゆる『「日本紀(にほんぎ)日本書紀(にほんしょき)私記(しき)(甲本)』。俗に『弘仁私記(こうにんしき)』と呼ばれるものです。

 ……この俗称にピンと来た方、そうです、「(序文の中で)日本史上初めて『古事記』に言及した」という紹介をされがちなアレです。『弘仁私記』が何の本なのかは知らなくても序文の存在だけは知っている――下手をしたら単なる序の部分だということは知らなくて、『弘仁私記序文』=『弘仁私記』という理解をしている人の方が多いかもしれない、何なら『弘仁私記序』という本が存在していると勘違いしている人もいるかも知れない――というアレです。


 ここで着目していただきたいのが、本文中でわが国最古(平安時代)の日本紀講筵に関わったとされる方々の身分です。


 そもそも。

 学校の国語か古典の授業辺りで「殿上人(てんじょうびと)」だの「地下人(じげびと)」だのといった単語を耳にしたことがおありかとは思います。

 当時は、「天皇さん家(=内裏)」の「リビング(=清涼殿)」横の「VIPルーム(=殿上間てんじょうのま)」に入れるか入れないかで貴族の中でも線引きがされていました。入れる人達が「殿上人」、入れずに地べた(と言っても白い玉砂利の上)に座らされる人達が「地下人」です。

 これには一応、線引きがありまして。

 とりあえず、「位階(いかい)」と呼ばれた貴族内ランキングで五位以上(蔵人は特別に六位あれば可)であること。

 『枕草子』の中で清少納言が普通の「人」の数に入れているのが、まさにこの五位以上。それ以下は貴族社会では人間扱いされていなかったと言っても過言ではない、ということになります。


 翻ってわが国最古(平安時代)の日本紀講筵に関わったという方々の位階(ランキング)はいかがでしょう?


 従四位下(四位の下の下)に正五位下(五位の上の下)に従五位下(五位の下の下)…?

 初代講師の多人長に至っては、「従五位下(五位の下の下)」であるうえに「散位(さんに)≒ニート」ですからね。

「首の皮一枚でかろうじて貴族に踏みとどまってはいるものの、就活が上手くいかずにニートになっちゃった」状態です。


 そんな人達が十数人で学ぶ『日本書紀』って…?


 いやいやいや、身分の低い人達にも日本の歴史を学ばせようという国家プロジェクトなんだよ!

 ――などと援護したくなるところですが。


 これを『史記』・『漢書』・『後漢書』、いわゆる「中国三史」を学ぶ層と比較してしまうと、扱いの差は歴然。

 始まりは「奈良時代」から、初代講師は「右大臣・吉備真備」、生徒は「孝謙天皇」を筆頭に、「大学寮(要は国家公務員養成機関)の学生(後の官吏候補生)」四百人です。


 いくら「唐風謳歌時代」の話とは言え、どんだけ冷遇されてんだよ『日本書紀』。

 ――いや待てよ? 一族の覚書にかろうじて名前がちらりと出てくるだけで大騒ぎ、読んでいる層さえ不明の『古事記』よりはまだマシか…?

 


 とにもかくにも。

 『日本後紀』以降の六国史と『日本書紀』の関係性となると、「日本紀講筵」に関する記事に絞られてしまうのは淋しいことです。時代が下ってもいつまでもいつまでも「『日本書紀』がー」と言っているのもどうかという気もしますけどね(自戒?)。

読み直してみたら、『日本書紀』の享受層について触れていなかったので、その点、加筆修正いたしました(ざっくり900字くらい)。

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