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日本書紀本文神話を愉しむ  作者: 村咲 春帆
正史篇
7/19

『続日本紀』

続日本紀(しょくにほんぎ)菅野真道(すがののまみち)ら』


 延暦一六(七九七)年二月二十一日(平安時代・桓武天皇の頃)成立。


 石川名足(いしかわのなたり)淡海三船(おうみのみふね)らが光仁天皇(=白壁王。志貴皇子第六子)に命じられて着手するも纏めきれず、最終的には桓武天皇(白壁王第一子)の命により、菅野真道(すがののまみち)(百済系渡来氏族)・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)(南家・藤原武智麻呂の孫)らが中心となって編纂した勅撰史書。六国史の第二にあたる。全四十巻。漢文表記の編年体で、文武天皇から在位中の桓武天皇の時代までの九代九十五年間を扱う。


 勅命で取り組んだ事業だったにもかかわらず、成立過程がぐだぐだだったため、前半と後半と最後半の三つに分かれる。前半は文武天皇から孝謙天皇の時代までの全二十巻。後半は淳仁天皇から光仁天皇の時代までの全二十巻。結局後半部は全十四巻に圧縮され、さらには在位中の桓武天皇の時代・全六巻が最後半に加えられて全四十巻、三度目の正直で完成した。在位中の天皇の治世を歴史扱いして記述する、という荒業を駆使したため、当然のことながら政治的配慮が激しくなされ、一部内容は掲載と削除を繰り返した。最終的に削除された内容は『日本紀略(にほんきりゃく)』に記された。



 国史なのに『日本書紀』に負けず劣らずぐだぐだな『続日本紀』。

『日本書紀』成立絡みでセットで取り上げられる割に、単品では『日本書紀』ほどには光の当たらない地味な二代目『続日本紀』。

 日本史の研究史料を集成するのが目的の『国史大系』を除いてしまうと、日本の古典「文学」を対象とした全集で『続日本紀』が含まれているのは『新日本古典文学大系(岩波書店)』のみというところからも、その地味さ、影の薄さは伝わってくるかも知れません。

 やっぱりライバルがいないから? 『続古事記(しょくこじき)』とかあったらそりゃあもう注目を集めまくっていたはず。残念。――本当のところは恐らく、かなり簡素な箇条書きが大勢を占めているせいで、直接有機的に読んだり、種本にしたりするには相当の高度な技術や知識を要求されるせいかと思われます(『続日本紀』を有機的に楽しむにあたっては『平城京全史解読-正史・続日本紀が語る意外な史実/大角修(学研新書)』なども参照されたし)。



 さて。

『続日本紀』の中で『日本書紀』絡みの記事といえば、上記でもちらりと触れましたが、『日本書紀』成立に関する養老四年(七二〇年)五月二十一日の記述(巻八)。


 これに先立って、一品舍人親王は勅命を承り、日本紀を編修していた。ここに至って功績を成し遂げ、奏上した。紀三十巻、系図一巻。


 ちなみに原文は以下のとおり。

「先是、一品舍人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻、系図一巻」


 神代巻を書いたと目されるミカタ氏についての記事も、「山田史三方(二箇所)」と「山田史御方(五箇所)」という表記の違いはあるものの、計七箇所アリ。すべてが業績を称えられて何かが下賜されたとか冠位が上がったとか、そういうネタのみですが。

 色々と頑張り屋さんだったのか、はたまたすべて『日本書紀』絡みだったのか? 気になるところです。

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