ただの後輩だったはずなのに……彼女はもう遠慮しないらしい
初めて現代恋愛を書いてみました!
これまで女主人公ばかり書いてきた作者ですが、今回はなんと初の男主人公です(笑)
普段とはかなり違う作品になりましたが、楽しんでいただけたら嬉しいです!
「高瀬、お前、三枝さんと付き合ってるって本当?」
「は?」
「だから、三枝美月さん。お前の後輩」
「いや、誰のことかは分かってる。なんで俺と三枝が付き合ってることになってんだよ」
昼休みの休憩スペースで、同期の佐伯から突然そんなことを聞かれた。
冗談かと思ったが、佐伯の顔を見る限り、どうやら本気で聞いているらしい。
「だってお前ら、いつも一緒にいるじゃん」
「いつもってほどじゃないだろ」
そう返すと、佐伯は呆れたような顔をして、指を一本立てた。
「昼飯」
「行くな」
「帰り」
「時間が合えばな」
俺が答えるたびに、佐伯の指が一本ずつ増えていく。
「休日」
「出かけたことはある」
「二人で?」
「二人で」
「映画」
「行ったな」
そこで佐伯が黙った。
なぜか、勝ち誇ったような顔で俺を見る。
「それで付き合ってないの?」
「付き合ってないけど」
「いやいや、それは無理があるだろ」
「何が?」
佐伯は立てた指を俺の方へ向けた。
「二人で飯食って、帰って、休日にも会って、映画まで行ってるんだぞ?」
「それが何か?」
「それを世間ではデートって言うんだよ!」
なるほど。
どうやら佐伯の中では、そこまで揃えば付き合っていることになるらしい。
「じゃあ、俺はお前とも付き合ってることになるが?」
「…………は?」
佐伯が固まった。
今度はこちらから、指を一本立てる。
「飯」
「……行くな」
「帰り」
「まあ、たまに」
「休日」
「何回か遊んでるな」
「映画」
「……行ったことあるな」
全部同じじゃないか。
俺は佐伯をじっと見た。
「同じことを俺はお前ともしているが?」
「…………」
「よく考えてみろ」
佐伯はしばらく黙っていたが、やがて勢いよく首を横に振った。
「いや、待て! なんかおかしい!」
「何がおかしいんだよ」
「三枝さんと俺を同じ枠に入れるな!」
「お前が言い出した条件だろ」
飯へ行く。
一緒に帰る。
休日に遊ぶ。
映画を見る。
佐伯とも普通にやっていることだ。
「そうだけど、そうじゃない!」
「じゃあ何が違うんだよ」
「性別!」
なるほど。
そこが問題らしい。
「じゃあ、異性の友人と同じことをしたら付き合ってることになるのか?」
「そういう話じゃなくてだな……」
「お前の話をまとめるとそうなるだろ」
年齢や性別が違ったところで、友人なら一緒に飯くらい食うし、映画くらい見るだろう。
それだけで付き合っていることになるなら、世の中の男女はずいぶん簡単に恋人になれるらしい。
佐伯は何か言い返そうとして口を開き、そのまま止まった。
「あ、ちょうどいいところに」
佐伯が俺の後ろへ目を向けた。
振り返ると、飲み物を買って戻ってきた三枝美月がこちらへ歩いてきていた。
二十三歳、入社二年目。
俺からすれば、仕事でもプライベートでもそれなりに付き合いの長い、仲のいい後輩だ。
「本人に聞けば分かるだろ」
「お前、本当に聞くの?」
何を驚いているんだ。
「三枝」
「はい?」
呼び止められた三枝が足を止める。
「俺たち付き合ってないよな?」
「……はい?」
一瞬、三枝が固まった。
そりゃそうだ。
いきなりこんなことを聞かれれば、誰だってそうなる。
「なんか俺たちが付き合ってるって噂があるらしくてさ」
「ああ……」
三枝は納得したように小さく頷いた。
それから俺と佐伯を交互に見て、ほんの少しだけ間を置く。
「付き合ってませんね」
「ほらな!」
俺はすぐに佐伯を見る。
本人がそう言っているのだから、これで決着だろう。
ところが佐伯は納得するどころか、眉間を押さえていた。
「じゃあ、私、先に戻りますね」
「おう」
三枝は軽く頭を下げると、飲み物を手に休憩スペースを出ていった。
その姿が見えなくなったところで、佐伯が改めて俺を見る。
「いや、本人が言うなら付き合ってないんだろうけどさ」
「最初からそう言ってるだろ」
「それにしては距離近すぎない?」
「そうか?」
まだ言うのか。
「休日まで二人で出かける後輩が他にいるのか?」
「……いないけど」
「映画まで二人で行く後輩は?」
「いないな」
そこまで答えると、佐伯は俺をじっと見た。
「じゃあ普通じゃないだろ」
「仲がよければ、それくらいあるだろ」
そう返したものの、今度はさっきの佐伯との比較とは少し違うことに気づいた。
佐伯とは同期で、もう何年も付き合いがある。
三枝は二つ年下の後輩だ。
休日に二人で出かける女性の後輩は、三枝だけ。
二人で映画へ行く女性の後輩も、三枝だけ。
今まで、そんなことをわざわざ考えたことはなかった。
俺にとっては、ただ仲のいい後輩と出かけていただけなのだから。
◇
翌日の昼休み。
時計が十二時を回ったところで、俺はいつものように席を立った。
少し離れた席では、三枝がパソコンを閉じている。
「三枝、昼――」
声をかけようとして、止まった。
『それにしては距離近すぎない?』
昨日の佐伯の言葉が頭をよぎる。
別に俺は気にしない。
付き合っていないのだから、何を言われたところで事実ではない。
でも、三枝は違う。
好きでもない男と付き合っているなんて噂され続けたら、さすがに迷惑だろう。
それに、俺は三枝に彼氏がいるのかどうかすら知らない。
もし彼氏がいるなら、なおさら面倒なことになる。
「先輩?」
「ん?」
「今、呼びました?」
「ああ……いや、何でもない」
三枝は少し不思議そうな顔をした。
「そうですか」
それ以上は聞いてこなかった。
結局その日、俺は一人で昼飯を食べた。
次の日も同じだった。
退勤時間が重なった日も、いつもなら声をかけていた。
『三枝、一緒に帰るか』
それだけのことだ。
駅まで同じ方向なのだから、わざわざ別々に歩く必要もない。
けれど、その言葉も飲み込んだ。
「お疲れさまでした」
「おう、お疲れ」
三枝はそれだけ言って、一人で会社を出ていく。
今までなら俺が声をかけていたのだから、当然といえば当然だった。
それでも、その背中を見送っていると、いつもより妙に距離があるように感じた。
◇
そんな状態のまま、金曜日になった。
退勤前、俺はスマートフォンを手にして少し迷った。
三枝とは、明日出かける約束をしている。
先週、俺が見つけた店の話をしたところ、三枝が興味を示したので、そのまま一緒に行くことになった。
もちろん、あの噂が出る前の話だ。
しばらく考えた末、俺は三枝へメッセージを送った。
『明日の予定なんだけど、どうする?』
少しして返信が来た。
『どうする、とは?』
文章だけなのに、なんとなく圧を感じる。
『この前の噂もあるし、気になるなら別の日でもいいかなと思って』
今度は、少し間が空いた。
『先輩は行きたくないんですか?』
思わず画面を見つめる。
俺が?
『いや、俺は行きたいけど』
送信すると、すぐに既読がついた。
『じゃあ行きます』
なんだ。
それなら問題ないじゃないか。
◇
翌日。
待ち合わせ場所へ着くと、三枝はすでに来ていた。
俺を見つけた瞬間、三枝の顔がぱっと明るくなる。
さっきまで静かに立っていたのが嘘みたいに表情を綻ばせ、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「先輩、おはようございます!」
声までいつもより弾んでいる。
「お、おはよう。悪い、待った?」
「いえ! 私も今来たところです」
そう答える三枝は、どういうわけかまだ嬉しそうに笑っていた。
よほど今日の予定を楽しみにしていたらしい。
普段会社で見る姿とは、かなり雰囲気が違っている。
きれいに整えられた髪に、淡い色のブラウスと、それに合わせたスカート。
小さなアクセサリーやバッグまで、全体の雰囲気がきれいに揃っていた。
たぶん、こういうのを見れば何か分かるやつには分かるんだろう。
残念ながら、俺にはそのあたりのことはよく分からない。
「その服、初めて見るな」
「……覚えてるんですか?」
三枝の表情が、さらに明るくなった。
ほんの少し頬まで赤くなっている。
「そりゃ会社でそんな服着てないだろ」
その瞬間、三枝の笑顔が止まった。
さっきまであれだけ嬉しそうだった口元が、分かりやすいくらい下がっていく。
「…………」
「……そういう意味じゃないんですけど」
「?」
三枝は俺の顔を数秒見つめたあと、がっくりと肩を落とした。
「……何でもありません」
「なんだよ」
「何でもありません」
なぜか二回言われた。
そのまま二人で目的の店へ向かう。
俺がネットで見つけた洋食店で、前に三枝が好きだと言っていた料理が評判らしい。
「先輩、こういう店よく見つけますよね」
「たまたま見つけたんだよ。三枝、こういうの好きそうだなと思って」
「……そうですか」
三枝がこちらを見た。
「なんだよ」
「何でもありません」
今日はやけに「何でもありません」が多い。
席についてメニューを開く。
「これ結構辛いらしいから、お前はやめた方がいいかもな」
三枝がメニューから顔を上げた。
「私、辛いの苦手って言いましたっけ?」
「言ってただろ」
「いつです?」
「去年の歓迎会じゃなかったか?」
三枝がじっと俺を見る。
「一年以上前ですよ?」
「そうだっけ?」
「……そういうところなんですよね」
「何が?」
三枝は何か言いかけてから、小さく息を吐いた。
「何でもありません」
まただ。
結局、三枝は俺が勧めた料理を注文した。
食事を終えた後は、近くの家電量販店へ向かった。
三枝が少し前から、自宅で使っているノートパソコンを買い替えたいと言っていたからだ。
「これなんかどうです?」
三枝が一台の薄型ノートパソコンを指さす。
確かに軽いし、持ち歩くには便利そうだった。
「軽いな。でも、お前にはこっちの方がいいんじゃないか」
「こっちですか?」
俺は三枝が見ていた機種ではなく、その隣に置かれていたモデルを指さした。
「家の机、そんなに広くないって言ってただろ。だから大きすぎるのはやめた方がいい」
「それはそうなんですけど、こっちの方が薄くて軽いですよ?」
「持ち歩くなら軽い方が楽だけど、その薄さだとちょっと気になるな」
「何がです?」
俺は展示されている薄型のノートパソコンを横から見る。
「お前、電車で持ち歩くことあるだろ」
「ありますね」
「満員電車に乗ったとき、リュックに入れた状態で押されたら、その薄さだと強度的にちょっと怖くないか?」
三枝が一瞬黙った。
「……そこまで考えます?」
「高い買い物だろ。壊れたら嫌じゃん」
「そうですけど……」
三枝は俺が勧めた方のパソコンへ視線を戻す。
「こっちなら少し重くなるけど、持ち歩けないほどじゃないし、サイズもお前の机なら問題ないと思う」
「……先輩」
「ん?」
「私の家の机の大きさだけじゃなくて、普段どうやって持ち歩いてるかまで覚えてたんですか?」
「前にリュックに入れて持ってきたことあっただろ」
三枝が黙った。
「どうした?」
「……何でもありません」
まただ。
結局、その日は買わずに候補だけ決めた。
店を出て時計を見る。
まだ夕方には少し早い。
「まだ時間あるな」
「そうですね」
「映画でも見る?」
三枝が足を止めた。
「どうした?」
「……いいんですか?」
「何が?」
「先輩、この前の噂を気にしてたんですよね?」
それと映画に何の関係があるんだ。
「そうだけど?」
俺が首を傾げると、三枝はしばらく俺の顔を見ていた。
「……いえ。行きます」
「おう」
ちょうど上映時間の合う作品を探し、そのまま映画館へ入った。
◇
映画を見終えた頃には、外も暗くなり始めていた。
駅へ向かって歩いていると、それまで普通に話していた三枝がふいに口を閉ざした。
「先輩」
「ん?」
「最近、私のこと避けてましたよね?」
突然の言葉に、足が止まりそうになる。
「避けてないって」
「お昼に誘ってくれなくなりました」
「それは……」
「帰る時間が同じでも、一緒に帰ろうって言わなくなりました」
そこまで気づいていたのか。
「やっぱり、この前の噂が原因ですか?」
誤魔化しても仕方ない。
「まあ……そうだな」
三枝の視線が少し下がった。
「俺は別にいいんだけどさ」
「……はい」
「お前が困るだろ」
三枝が顔を上げる。
「私が?」
「そりゃそうだろ。好きでもない男と付き合ってるとか言われたら嫌だろうし……彼氏がいたら、そっちにも悪いだろ」
三枝が黙った。
数秒。
思っていたより長い沈黙だった。
「……彼氏はいませんよ」
「そうなの?」
「はい。それに――」
三枝がまっすぐ俺を見る。
「私、先輩のこと、好きとも好きじゃないとも言ってませんよね?」
「え?」
「私が言ったのは、付き合ってないってことだけです」
確かにそうだ。
あのとき三枝が言ったのは、それだけだった。
「付き合ってませんよ。今も」
「……いや、待って」
さすがに何かがおかしい。
「じゃあ、それってどういう意味?」
三枝が黙った。
さっきまで俺をまっすぐ見ていた視線が、ふっと横へ逃げる。
「三枝?」
「……こんなふうに言いたくなかったんですけど」
「何を?」
三枝は少しだけ俯いた。
「もっとちゃんと……可愛く告白したかったんです」
「…………は?」
思考が止まった。
三枝の頬が、見る間に赤くなっていく。
「だから、本当はこんな流れで言うつもりじゃなかったんです」
「ちょっと待て」
「待ちません」
「いや、俺が追いついてない」
三枝は赤くなったまま、少しだけ唇を尖らせた。
「知りません。先輩が変なこと言うからです」
「俺のせい!?」
「そうです」
納得できない。
というか、それ以前に今の言葉の方が問題だ。
告白。
確かに三枝は、そう言った。
三枝は一度小さく息を吸うと、改めて俺を見る。
「……好きです」
「…………」
「先輩のこと、ずっと好きでした」
「…………」
何も返せなかった。
言葉の意味は分かる。
分かるのに、それが三枝の口から俺に向けて出てきた言葉だということだけが、どうしても頭の中で繋がらない。
「……え?」
「だから、好きなんです。先輩のことが」
「いや……ちょっと待って」
思わず片手を上げる。
「え、本当に?」
三枝の眉がわずかに下がった。
「こんなことで嘘つきませんよ」
「いや、そうじゃなくて……」
何を言えばいいのか分からない。
昨日までどころか、ついさっきまで、三枝が俺をそんなふうに見ている可能性なんて考えたこともなかった。
「……ごめん。ちょっと混乱してる」
「……はい」
「だって、お前……」
そこで言葉が止まる。
思い返してみても、それらしいことを言われた記憶はない。
むしろ、だからこそ余計に分からなかった。
「……いつから?」
「一年半くらい前からです」
「一年半!?」
三枝が慌てて周囲を見回した。
「だから、大きな声出さないでください!」
「いや、だって一年半って……」
「私だって、もっといい雰囲気で言いたかったんですからね!」
「……悪い」
三枝はまだ赤い顔のまま、少しだけ頬を膨らませた。
「本当ですよ」
一年半。
それだけ前なら、三枝がまだ新人だった頃だ。
「……なんで俺?」
「覚えてません?」
「何を?」
三枝は少しだけ表情を和らげた。
「私が新人の頃、大きなミスをしたことです」
言われて、ようやく思い出した。
◇
その日、三枝は一人で残業していた。
処理を間違えた資料を、最初から修正していたのだ。
俺は三枝の教育担当ではなかった。
だから本来なら、声をかける必要もなかった。
ただ、帰ろうとしたときに、一人で大量の資料と格闘している三枝が目に入った。
「まだ終わらないの?」
「……はい」
「どれくらい残ってる?」
「大丈夫です。私のミスなので」
そう言って三枝は、俺から資料を隠すように抱え込んだ。
「見せて」
「でも、高瀬さんには関係ありません」
「うん」
三枝が困ったように俺を見た。
「じゃあ、どうして?」
「一人でやるより二人の方が早いだろ」
そう答えた。
ただ、それだけだった。
二人で作業を終えた後、三枝は何度も謝ってきた。
「本当にすみませんでした」
「もういいって」
「でも、私のせいで高瀬さんまでこんな時間に……」
今にもまた謝りそうな三枝へ、俺は苦笑した。
「新人が一回ミスしたくらいで会社は潰れない」
確か、そんなことも言った。
◇
「……あれ?」
「はい」
「それで?」
「それで、です」
三枝が少し呆れたように笑う。
「あの後も、私が困ってるといつも助けてくれました」
「それくらいするだろ」
「体調が悪いときも、誰より先に気づいてくれました」
「顔色悪かったからな」
三枝は一つずつ確かめるように続ける。
「仕事が上手くいったときは、私がやったことだって上司に言ってくれました」
「お前がやったんだから当然だろ」
「なのに失敗したときだけは、一緒に謝ってくれました」
三枝がまっすぐ俺を見る。
「そういうところが好きなんです」
「……普通じゃない?」
三枝は一瞬だけ目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「そういうところもです」
なんだそれ。
褒められているのかどうかも分からない。
ただ、正面から好きだと言われた後だからか、さっきまでなら何でもなかった言葉まで妙に意識してしまう。
「でも俺、お前に期待させるようなことした?」
「してません」
「だよな」
そこは即答だった。
少し安心する。
「先輩は、そういう意味で私に何かしたことはないです」
「じゃあ、なんで一年半も……」
三枝は少しだけ視線を落とした。
「だから言わなかったんですよ」
「え?」
「先輩後輩のままでいられなくなるのが嫌だったので」
そこで三枝は一度言葉を切った。
「先輩を困らせたくなかったですし、嫌われるのも嫌でしたから」
最後だけ、少し声が小さくなった。
「……先輩」
「何?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「いいけど」
三枝が何か考えるように眉を寄せた。
「私たちが会社の外で会うときって、どっちから誘ってます?」
「え?」
質問の意味が分からず、聞き返した。
三枝は答えを待っている。
仕方なく記憶を辿る。
少し前に二人で行った新しい店。
『三枝、こういうの好きだろ。今度行ってみるか?』
俺だ。
パソコンを買い替えたいと聞いたとき。
『じゃあ見てやるよ』
俺だ。
以前映画へ行ったときも、俺から誘った。
休日に買い物へ行ったときもそうだ。
帰る時間が重なれば、
『駅まで一緒に帰るか』
と言うのも――俺だ。
そして今日。
そもそも今日の予定を作ったのも俺だ。
食事の後に買い物へ行ったのも俺から。
映画へ誘ったのも俺。
「…………あれ?」
三枝が静かに言う。
「私、先輩を一度も誘ったことありませんよ」
「…………」
そんな馬鹿な。
いや、思い返してみても、一つも出てこない。
「本当に?」
「本当です」
「一回くらいあるだろ」
「ありません」
三枝は迷うことなく言い切った。
「飯とか」
「先輩からです」
「映画」
「先輩です」
「買い物」
「先輩です」
そこまで並べられたところで、俺は今日のことを思い出した。
「……今日」
「先輩ですね」
全部俺じゃないか。
「でも、お前も普通に来てただろ」
「好きな人から誘われて断る理由があります?」
「…………ないな」
「ありません」
そう言われると何も返せない。
それどころか、別の疑問が浮かんできた。
俺はなぜ、そんなに三枝を誘っていたんだ。
新しい店を見つければ、三枝が好きそうだと思った。
映画の話をすれば、三枝も興味を持ちそうだと思った。
パソコンを買うと聞けば、俺の方が詳しいから付き合おうと思った。
全部、それだけのつもりだった。
――本当に?
ふと、昼休みに佐伯へ言ったことを思い出した。
『同じことを俺はお前ともしているが?』
同じ。
そう思っていた。
でも佐伯が好きな料理を、一年以上前の会話から覚えていただろうか。
佐伯の家の机がどれくらいの大きさなのかなんて、そもそも知らない。
佐伯が普段どんな鞄でパソコンを持ち歩いているのかなんて、考えたことすらない。
それなのに三枝がリュックへ入れて持ち歩いていたことは、なぜか覚えていた。
本当に、同じなのか?
「先輩」
「……何」
三枝が俺を見つめる。
「私、本当にただの後輩ですか?」
「…………」
ただの後輩。
昨日までなら、そう答えていたはずだ。
でも今は、その一言が出てこない。
それが恋愛感情なのかと聞かれれば、分からない。
昨日まで考えたことすらなかったのだから、今ここで答えなんて出せるはずもない。
「……分からん」
三枝が目を瞬く。
「悪い」
「なんで謝るんです?」
「いや、好きだって言われて、分からんはないだろ」
三枝は少し驚いたように俺を見た。
「私はてっきり、ただの後輩だって即答されると思ってました」
「…………」
しばらく俺の顔を見ていた三枝の口元が、少しだけ緩んだ。
「じゃあ、いいです」
「何が?」
「可能性はあるって分かったので」
嫌な予感がした。
「待て」
「はい?」
「なんか今、お前の中で話進んでない?」
「進みました」
やっぱり進んでいた。
「進めるなよ!」
「どうしてです?」
「俺まだ何も分かってないって言っただろ」
「はい。だから、可能性があるんですよね?」
駄目だ。
なんか急に強くなったぞ、こいつ。
「今までは、先輩後輩の関係を壊したくなかったんです」
三枝の声から、さっきまでの照れが少しだけ消える。
「先輩に嫌われたくなかったですし、職場で困らせたくもありませんでした」
「うん」
「だから、自分から誘わないようにしてました」
「……そこまで?」
三枝は小さく頷いた。
「好きな人と二人で出かけるんですよ? 私から誘ったら、期待しちゃうじゃないですか」
「でも、もう好きなのはバレました」
「まあ……そうだな」
「先輩も、私がただの後輩なのか分からないんですよね?」
「それは……そう言ったけど」
三枝が一歩、俺との距離を縮めた。
「先輩」
「何?」
「私、もう遠慮しませんから」
「…………何を?」
三枝が笑う。
「全部です」
「全部!?」
思わず声が裏返った。
だが三枝は、それ以上何も説明しなかった。
ただ妙に楽しそうに笑いながら、駅へ向かって歩き始める。
俺も慌ててその後を追った。
その途中、頭の中では一つの言葉が何度も繰り返されていた。
一年半。
ということは、あの映画のときも、買い物へ行ったときも、二人で飯を食っていたときも。
こいつはずっと、俺のことが好きだったのか。
「……先輩?」
「何でもない」
「そうですか」
三枝がちらりと俺を見る。
その口元が、わずかに緩んだ。
「なんで笑ってんの?」
「別に?」
「絶対なんかあるだろ」
「ありませんよ」
そう言いながらも、三枝は明らかに笑っていた。
そして少しだけ歩調を緩めると、俺の隣へ並ぶ。
「でも――」
三枝が俺の顔を覗き込んだ。
「これからは、もっと私のこと意識してくださいね?」
「…………」
何も返せなかった。
そんな俺を見て、三枝は満足そうに目を細める。
さっきまで告白するだけで真っ赤になっていたくせに、今度はどこか小悪魔めいた笑みを浮かべていた。
「先輩?」
「……お前、本当に遠慮しないつもりだな」
「はい」
三枝は楽しそうに笑う。
「もう言っちゃいましたから」
どうやら俺は、とんでもないものの遠慮を外してしまったらしい。
◇
翌朝。
会社の入口をくぐったところで、俺は少し緊張していた。
昨日の今日だ。
三枝とどう接すればいいのか、まだ自分の中で整理できていない。
おまけに別れ際、あいつはとんでもないことまで言っていた。
『これからは、もっと私のこと意識してくださいね?』
思い出しただけで、昨日までとは勝手が違う。
ところが。
「先輩、おはようございます」
「……おはよう」
いつもどおりだった。
拍子抜けするくらい普通だ。
昨日の話なんてなかったかのように、三枝はいつもの表情をしている。
なんだ。
別にそこまで意識する必要も――。
「はい」
目の前に缶コーヒーが差し出された。
「何これ?」
「先輩の好きなやつです」
「それは見れば分かる。なんで?」
三枝がにっこり笑った。
「好きな人に買ってきたかったので」
「…………三枝」
「はい?」
「会社」
「知ってますよ?」
思わず周囲を見回す。
「昨日までのお前どこ行った!?」
「昨日言ったじゃないですか」
「何を?」
三枝は何でもないことのように答える。
「もう遠慮しないって」
そうだった。
確かに言っていた。
しかも、もっと意識しろとまで言われた。
でも、まさか翌朝から実行するとは思わないだろ。
「先輩、顔赤いですよ」
「誰のせいだよ」
「私ですか?」
「他に誰がいる」
三枝の口元が、昨日と同じように緩む。
「そうですか」
嬉しそうに笑っている。
絶対に分かってやっている。
そう思った直後だった。
三枝がすっと俺との距離を縮める。
そして周囲には聞こえないくらいの声で、耳元へ甘い吐息を落とした。
「――ちゃんと、意識してますか?」
「っ……!」
反射的に一歩下がった。
さっきまで熱かった顔が、一気に耳まで熱くなったのが自分でも分かる。
「お、お前……!」
三枝はそんな俺を見上げた。
一瞬だけ目を丸くしたあと、その顔に満足そうな笑みが広がっていく。
「ふふっ」
「笑うな!」
「だって、先輩が思ったより可愛い反応するから」
昨日まで、こんなことを言うやつだったか?
いや、違う。
昨日まで言わなかっただけなのか。
三枝は俺の真っ赤になった顔をもう一度眺めると、満足そうに小さく頷いた。
「ごちそうさまです」
そして俺の横を通り過ぎる瞬間、わざわざ振り返る。
「せ・ん・ぱ・い!」
「三枝っ!」
三枝は楽しそうに笑いながら、そのまま自分の席へ向かっていった。
俺だけが、その場に取り残される。
――駄目だ。
こいつ、本当に遠慮を全部捨てやがった。
◇
そして昼休み。
十二時になった直後、三枝が俺の席までやってきた。
「先輩」
「……何?」
「お昼行きましょう」
一瞬、返事が遅れた。
昨日までなら、俺が誘っていた。
三枝から誘われた記憶は、一度もない。
だから、その一言だけで妙に意識してしまう。
「お前、本当に遠慮なくなったな」
「はい」
「少しくらい残しておいてもいいんだぞ?」
「嫌です」
即答だった。
「即答かよ」
そんなやり取りをしていると、近くにいた佐伯がこちらを見た。
そして、ものすごく面白そうな顔をする。
「なあ、高瀬」
「なんだよ」
「結局、付き合ったの?」
「付き合ってない!」
即答した。
すると三枝も素直に頷く。
「はい」
「ほらな」
俺がそう言いかけた、その直後だった。
三枝が一拍置いて付け加える。
「まだ」
「三枝!?」
三枝は何事もなかったように歩き出す。
「先輩、行きますよ」
「お前、ちょっと待て!」
三枝は楽しそうに笑いながら先に歩いていく。
俺は周囲から向けられる視線に頭を抱えながら、その後を追った。
昨日まで、三枝美月はただの後輩だった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
どうやら彼女の方は、最初から違ったらしい。
そして今日からは――もう遠慮もしないらしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった」と思っていただけましたら、ブックマーク・★評価・リアクション・一言感想のどれか一つでもいただけると、とても励みになります。
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https://ncode.syosetu.com/n2116mx/
よろしければこちらもお読みいただけると嬉しいです!
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




