もしかして、わたくしがサルトル?
「哲学って何ぞや」
すべては、その一言から始まった。
いや。
本当はもっと前から始まっていたのかもしれない。
「哲学とは、簡単に言えば『当たり前だと思っていることを、本当にそうなのかと疑うこと』ですわ」
「ほう」
「たとえば、善とは何か。悪とは何か。人間とは何か。自分とは何か」
「なるほど」
男は腕を組んだ。
そして、三秒ほど考えた。
「もしかして、わたくしがサルトル?」
「違いますわ!!!」
女の怒声が部屋に響いた。
「ジャン=ポール・サルトル! フランスの哲学者! あなたではありませんわ!」
「でも、わたくしも人間の選択について考えておりますわ」
「だから何ですの!」
「イケメンですし」
「サルトル関係ねえですわ!!!」
男は不満そうに頬を膨らませた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
世界は赤い。
部屋の中には二人しかいない。
――はずだった。
「ところで」
男が言った。
「わたくし、霊を呼べますの」
「はい?」
「降霊術ですわ」
「急にジャンル変えるな!!!」
女が机を叩く。
「さっきまで哲学の話してましたでしょう!?」
「哲学も霊も似たようなものでしょう」
「全国の哲学者と霊媒師に謝れ!!!」
「では、呼びますわ」
「聞け!!!」
男は目を閉じた。
両手を広げる。
「来たれ……」
「やめなさいって」
「ジャン=ポール……」
「まさか」
「サルトル!!!」
しーん。
何も起きない。
「…………」
「…………」
「来ませんわね」
「来るわけないでしょう」
「照れ屋さん」
「死者に何を求めてるんですの!」
その瞬間だった。
カタン。
二人同時に振り返る。
机の上に置かれていたペンが、床へ落ちていた。
「…………」
「…………」
男の口角が上がった。
「来ましたわ」
「偶然です」
「サルトル先生ですわ!」
「ペン一本で断定するな!」
カタン。
今度は本が落ちた。
「…………」
「…………」
電気が消えた。
「…………」
「ブレーカーですわ」
「あなたが現実的になるな!!!」
暗闇。
そして――。
『違う』
声がした。
二人は固まった。
「……今」
「聞こえましたわね」
『違う』
再び声。
男は震えながら尋ねる。
「サ、サルトル先生……?」
『違う』
「では、あなたは……」
『お前だ』
「はい?」
沈黙。
『お前が、サルトルだ』
「…………」
「…………」
男はゆっくり女を見る。
女も男を見る。
男は自分の両手を見た。
「もしかして……」
「やめろ」
「わたくしが……」
「言うな」
「サルトル?」
「だから違いますわ!!!」
電気がついた。
男が消えていた。
「……え?」
椅子だけが残されている。
「ちょっと」
返事はない。
「どこ行ったんですの?」
静寂。
女は立ち上がった。
そして気づく。
机の上に、一冊の本が置かれている。
さっきまではなかった。
恐る恐る開く。
一ページ目。
そこには、一文だけ書かれていた。
『人間は、自らの選択によって自らを作る』
「…………」
女は息を呑んだ。
まさか。
本当に。
あの男は――。
「にししし」
背後から声がした。
「!?」
振り返る。
男がクローゼットから顔を出していた。
「これが狙いでしたわ」
「お前えええええええ!!!」
女は本を投げつけた。
「痛っ!」
「何なんですの! 電気まで消して! 本まで用意して!」
「壮大な伏線回収ですわ」
「何の伏線ですの!」
男は床に落ちた本を拾う。
そして、不敵に笑った。
「わたくしがサルトルではないという伏線」
「最初から分かっとるわ!!!」
「にししし」
「その笑い方やめろ!」
二人の声が部屋に響く。
くだらない夜だった。
哲学とは何か。
人間とは何か。
自分とは何か。
結局、答えなんて出なかった。
ただ一つ分かったことがある。
人間には、自分の行動を選ぶ自由がある。
そしてこの男は、その自由を――
全力でくだらないことに使った。
「なあ」
「今度は何ですの」
「でもさ」
男は少しだけ笑った。
「くだらないことを選べるのも、人間なんじゃない?」
女は黙った。
数秒考える。
「…………」
「…………」
「ちょっといいこと言ったみたいな顔するなあ!」
「にししし」
その夜。
二人が部屋を出たあと。
誰もいないはずの机から、
カタン。
ペンが一本、落ちた。
――完――




