聖女悪魔パロ
聖堂は、祈りのために冷えていた。夜の石床は昼に浴びた熱をとうに失い、膝をついたままのツキの体温を、ゆっくりと奪っていく。祭壇の奥では細い灯火が揺れていた。街のための火。人々がそう呼び、ツキもそう呼んできたもの。誰かの不安が少しでも和らぐなら、ここにあるべきだと思っていた。祈りは、続いていた。喉が乾いても、指先が白く冷えても、胸の奥がひどく空いても、祈るべき言葉はまだ残っている。
けれど、その夜は、背後から靴音がした。人の歩き方ではなかった。あまりにも静かで、あまりにも迷いがなく、聖堂の石に触れるたび、音そのものがこちらへ跪いているようだった。ツキは祈りの言葉を止めた。止めてはいけない、と思った。だが、止まった。肩越しに振り返るより早く、黒い気配がすぐ後ろに立つ。
「在りもしない神に祈っているのもかわいらしいが……ほら、こちらを向け」
声は低かった。命令の形をしているのに、どこか甘く、ひどく腹を立てているようでもあった。ツキはゆっくり振り向いた。金色の目があった。暗い聖堂の中で、灯火よりも冷たく、月よりも近い色。悪魔だ、と理解するより早く、その口元を見ていた。整った唇が、こちらを嘲るようにわずかに歪む。
「……!」
「ああ、お前の目は、いい。だが、見窄らしい服、粗末な教会、お前を閉じ込めるためだけにある教義……こんなところに膝をついて、四肢が腐り落ちるまで祈るつもりか?」
「……あの」
「殉じる愚者から全てを奪うモノが信じるに値すると、なぜ思う? あれはただの簒奪者だ」
ツキは言葉を探した。悪魔にどう答えるべきか、教えはなかった。悪魔を拒めとも、逃げろとも、殺せとも、救えとも、書かれていなかった。ただ、ささいな個人のことに耽ってはならない、とだけ教えられていた。ならば、この悪魔が自分を必要としているなら、話を聞くべきなのだろうか。そう考えて、唇が震える。
「……ありがとう。多分、あなたは、わたしのことが心配なんでしょうけど……大丈夫です。祈りの場所はまだあります。ちゃんと祈り続けて、これからもあかりはともされています」
「祈りの火。お前以外には大層便利だったんだろうな。お前は帰る家も取り上げられたくせに」
「ああ、ご存知なんですね。でも、あそこにはほとんど使っていませんでしたし、家はそこまで重要ではありません。必要なものは、必要な人にわたるものです」
「ふうん」
悪魔は笑った。楽しげではなかった。笑う形を取ることで、怒りの刃先を少し鈍らせているようだった。ツキはそれを見上げる。見上げてしまう。目を見なければならないと思うのに、また唇へ視線が落ちた。悪魔はそれを見逃さなかった。
「ご立派なことだ。目の前にいるのが悪魔だともわからない聖職者がいるとも思えないが。それとも、その目は私の口元以外見えていないのか? 目を見るのが怖いわけではないだろう?」
「……すみません、わかっています。でも、悪魔に対する行動を決める教えは、ありません。わたしにとっては、わたしが助けになるべき他の人たちとかわりはありません。本にはただ、もたらされる個人の、ささいなことに、耽るなというだけで……だから、あなたが悪魔でも、もし助けが必要なら」
「ハハ……助けか」
悪魔は身を屈めた。黒い衣の裾が石床に触れる。ツキの祈りの手に、長い指が伸びる。触れられるのかと思った瞬間、指先は顎の下へ回り、軽く持ち上げられた。強くはなかった。けれど、拒めるほど弱くもなかった。
「全く呆れる。相手を悪魔だと認識しても逃げることすらできない教えに、一体なんの意味があるのかも考えたことがないとはな。だが、魂は変わらずにいいにおいだ……全く、以前のまま」
「……? あなたは、何に怒っているんですか? あの、本当に、わたしを必要としていると思うんです。話を」
「ああ、確かにお前を必要としている。だが、お前も私を必要としている」
近い。吐息が触れた。ツキは息を止めた。止めてから、それが祈りの姿勢ではないことに気づく。体が勝手に強張っている。怖いのかと考えたが、そうではない気がした。悪魔の指が、顎から頬へ移る。親指が、下唇を撫でた。
「こんなに美味しそうな身体で、愉しんだことがないとはかわいそうに。ただここに保持するための無垢を、一体何年強いられた? 私が欲望というものを、罪の甘さをもう一度、最初から丁寧に教えてやる」
「……わたしに、そのような欲はありません」
「“欲はありません”。ハハ……その目で?」
ツキは目を伏せた。見透かされるのが苦しいのではなかった。見透かされるほど自分に何かがあることの方が、ひどく落ち着かなかった。欲。そう呼ばれるものは、灯火へ焚べてはいけないものだと思っていた。個人のことに耽ってはならない。身体のことに耽ってはならない。呼吸や空腹や眠気のような、取るに足らないものへ戻ってはならない。そうして、祈ることができる。
「私の女をつまらない燭台にしたあの愚か者たちへの罰は、もう与えてきた。後は、お前を私のものに戻すだけだ。ヒトの形へ。欲望を自覚する、あるべき姿へ」
「なんのことだか、わかりません。わたしはここで祈らなくては。みんなのための灯火を」
「魂を芯に燃える炎は、さぞよく街を照らしたことだろう……ああ、本当に腹立たしい。だがもう一人残らず、罰を与えた。だから、残りはお前だけだ」
「あなたは、なにを」
「だから、もう、お前を燃やす必要はない」
その言葉だけは、妙に優しかった。ツキは顔を上げた。悪魔の目に、怒りの底でひどく深い疲れがある。長い時間探して、長い時間憎んで、やっと見つけたものを前にして、それでも声を荒らげないようにしている顔だった。
「大丈夫、お前は強欲だ。すぐに、元に戻れる。もちろん、お前にも多少の罰は受けてもらうつもりだが……まずは、私の元に帰るだけでいい。ここに来るまではもっと強引に進めるつもりだったが、ハハ、ああ、一目見た時にわかっていた。お前が変わらずに私のことを愛しているようだから、多少気分が良くなった」
「愛……?」
「選ばせてやる。私のところに帰るか、私に奪われるか」
「ちょっと、あなたが、なにをいっているのか」
「その目はなんだ?」
悪魔の親指が、今度こそツキの唇に触れた。ほんの少し押されただけで、息が乱れる。ツキは身を引こうとして、膝が石床についていることを思い出した。逃げる教えはない。助けを求める教えもない。ただ、祈ることだけがある。けれど祈りの言葉は、舌の上でほどけていた。
「振り向いてからずっと、私の唇がやけに気になって話に集中できていないみたいだな? “聖女さま”はお可愛らしい」
「……っ」
「唾棄すべきゴミをその舌に乗せて咥え込んできたことも、うっかり許しそうになってしまう。キスしてさしあげよう」
「……!」
返事をする前に、口づけられた。冷たいと思っていた唇は熱かった。熱いのに、奥底だけがひやりと澄んでいて、灯火とは違う温度でツキを覆った。逃げるつもりはなかった。受け入れるつもりもなかった。けれど、悪魔の片手が後頭部に回り、もう片方の手が祈りで固まった指をほどくように握ると、ツキの体は、自分でも知らないほど素直に息を吐いた。
「ん、……ふ」
短い息が漏れた。自分のものとは思えない。悪魔はそれを聞いて、喉の奥で笑った。ひどく満足げで、ひどく腹立たしげな笑いだった。唇が離れて、また重なる。今度は角度を変えられた。ツキは目を閉じる。閉じてはいけないと思った。祈りの火を見なければならない。火が消えないように、火が揺れないように、火が自分の代わりに街を照らせるように。だが瞼の裏では、金色の目だけが残っていた。
「……は、……っ」
「なに、私の労力は気にしなくていい」
悪魔は唇のすぐそばで囁いた。声が濡れているように聞こえて、ツキは肩を跳ねさせた。
「悦楽の味をもう一度教え込むのも愉しいものだ。だから、お前は身体を渡すだけでいい。ほら、もう一度」
もう一度、と言われて、ツキは拒まなかった。拒めなかったのではない。拒み方を知らなかったのでもない。ただ、体のどこかがそれを待っていた。待っていたことに気づくのが、怖かった。悪魔は丁寧だった。丁寧で、遠慮がなかった。唇を塞ぎ、息を奪い、返そうとした祈りの言葉をすべて熱へ変えていく。ツキは手を上げかけて、行き場をなくし、悪魔の袖を掴んだ。掴んでから、ああ、と小さく思う。これは祈りではない。
長い口づけの後、ようやく解放された時、ツキは荒く息をしていた。胸が上下する。聖女の衣は何も乱れていないはずなのに、ひどく乱されたような気がした。口元が熱い。舌の奥に、まだ知らない甘さが残っている。ツキは両手を胸元に引き寄せ、目を伏せた。
「……汚れるわけには、いかないのです」
声が震えた。耳まで熱い。自分が何を守ろうとしているのか、少しだけわからなかった。灯火。街。祈り。教え。清らかさ。それらを並べようとするたび、悪魔の口づけが思い出される。ツキは唇を噛みそうになって、やめた。噛めば、そこにも感覚が生まれる気がした。
悪魔はしばらく黙っていた。黙って、ツキの赤くなった耳を見ていた。やがて、低く、圧のある声で言う。
「汚れてしまえ」
「……」
「自然なものは全て、程度はどうあれ汚いものだ。出産を見たことはあるか? もっとも神秘的と呼ばれる誕生の瞬間に、糞尿があることは珍しくもない。構造上、当たり前のことだ」
「……やめて」
「なぜ? 生き物の話だ。お前が祈りで遠ざけられてきた、命の話だろう」
ナザリは、悪魔は、ツキの顎から手を離した。だが離れたのは手だけで、声は逃がしてくれなかった。聖堂の壁に反響せず、まっすぐ体の奥へ落ちてくる。
「綺麗に、丁寧に、磨くというのは、つまりは傷つけることに他ならない。消毒液こそが毒だ。全てを焚べて清潔にする炎は、やがてお前の魂から肉を奪い、穢れなき純白の骨にしてしまう」
「……」
「骨は清潔だろうな。燃え残りもしないほど磨かれ、肉も唾液も汗も欲もない。誰にも迷惑をかけず、誰の手も汚さず、ただ白く、軽く、何も求めない。それを尊いと教えられたお前は、さぞ扱いやすかっただろう」
ツキは息を呑んだ。骨。白い骨。自分がそうなっているところを想像しようとして、うまくできなかった。祈り続けた先に、何があるのか考えたことはなかった。ただ、灯火が続くならよかった。街が明るいならよかった。誰かが迷わずに帰れるならよかった。自分の肉がなくなることと、街の灯りが続くことは、同じ場所に並べてはいけない気がした。けれど、悪魔は並べた。
「……わたしは」
「私はお前をもう一度、ひどく汚してしまいたい」
その言葉は、祈りを止める鐘のようだった。ツキは顔を上げた。ナザリは笑っていなかった。微笑みの形をした怒りも、嘲りも、その瞬間だけ消えていた。ただ、あまりにも強くこちらを見ている。逃がすつもりがない目だった。逃げてほしくない目でもあった。
「生きているなら汚れる。息をすれば喉が湿る。食べれば腹が動く。眠れば汗をかく。欲しがれば顔が赤くなる。痛めば泣く。嬉しければ声が漏れる。お前の教義は、それらをささいなことと呼んだのか? ならば、ささいなことこそがお前の命だ」
「……でも」
「でも?」
「わたしは、聖女だから」
「聖女。便利な名だ。人間を燃料にする時、呼び名が美しいと罪悪感が減る」
「そうじゃ、ありません」
「そうだ。お前がどう思っていようと、そう使われている」
ナザリは身を屈め、ツキの耳元へ口を寄せた。さっきよりも近い。声が、皮膚の上を這うように低くなる。
「先程のキスは気に入っていただけたかな? 聖女さま」
「……っ」
「答えろ。祈りの言葉よりは短いだろう?」
「……わかりません」
「嘘が下手だな」
「わからないんです。本当に……。こんなこと、知らないから」
「なら、覚えればいい」
悪魔の指が、ツキの頬に触れる。今度は持ち上げるためではなく、熱を確かめるように撫でた。その手つきがひどく優しくて、ツキはかえって動けなくなった。
「お前は汚れていい。いや、汚れろ。膝の泥も、口の熱も、乱れた息も、欲も、恥も、全てお前のものだ。誰かの灯火にくれてやるな」
「……そんなことを言われても」
「わからないか?」
「……わかりません」
「それでもいい。わかるまで教える」
ナザリの親指が、ツキの下唇をまた押した。先ほどの口づけの名残がそこにあるようで、ツキは息を止める。悪魔はその反応を見て、ようやく楽しげに目を細めた。
「さて、まずは喉まで垂れるほど、お前の口を愉しもうか」
「な、……」
「怖いなら祈ればいい。私はその祈りごと、お前を汚す」
「……それは、だめです」
「なぜ?」
「祈りは、みんなのためのものです」
「なら、お前のためのものを今から作る」
ツキは何かを言おうとした。言わなければならないと思った。ここにいるべきだと、祈らなければならないと、灯火を消してはならないと。だが、ナザリの手が頬から後頭部へ回り、もう片方の手が床についていたツキの指を包むと、その言葉はどれも口から出なかった。
「もう一度だ」
「……」
「拒むなら今言え。私は聞いてやる」
聞くと言われて、ツキは困った。拒む理由は、いくつもあるはずだった。聖女だから。汚れてはいけないから。祈りの途中だから。悪魔だから。知らないから。けれど、そのどれもが、自分の体からは少し遠いところにあった。近いのは、まだ熱い唇と、喉の奥の乾きと、もう一度触れられたらどうなるのか知りたいという、言葉にしたくない気持ちだった。
「……拒まないのか」
「……わかりません」
「なら、わかるまで続ける」
また口づけられた。今度はツキも目を閉じた。祈るようにではない。逃げるようにでもない。ただ、視界を閉じると、体の感覚が逃げずに残った。唇が塞がれ、息が混ざり、舌先が熱を知る。ツキは悪魔の袖を掴む。掴んだ手に力が入る。ナザリはそれを許した。許した上で、もっと深く奪う。灯火が揺れている気がした。けれど、それは見えなかった。
聖堂は静かだった。祈りのための静けさではなく、誰にも邪魔されないための静けさだった。悪魔は聖女を抱え込むようにして、何度も口づけた。ツキはそのたび、知らない息の仕方を覚えた。清らかでいることより、息をすることの方がずっと難しく、ずっと切実だった。唇が離れるたび、声にならない息が漏れる。ナザリはそれを聞いて、満足そうに、しかしまだ怒ったまま囁いた。
「そうだ。生き物の声だ」
「……や、……そんな」
「恥ずかしいか?」
「……はい」
「ああ、よかった。恥は肉に属する。お前にはまだ肉がある」
ツキの目に涙が滲んだ。悲しいのではない。痛いのでもない。ただ、何かが戻ってきてしまう気がした。祈りの言葉よりも前にあったもの。空腹。眠気。熱。肌の下を流れる血。誰かに見られると耳が赤くなること。唇を奪われると息が乱れること。自分の中にも欲があるかもしれないという、ひどく恐ろしい事実。
「……わたし、汚れたら」
「汚れたら?」
「灯火に、なれないかもしれません」
「ならなくていい」
即答だった。
「お前は灯火ではない。芯でもない。供物でもない。清潔な骨になるための材料でもない。お前は、私のものだ」
「……あなたのもの」
「ああ。最初からそうだった。忘れているだけだ」
「……わかりません」
「それも教えるとも」
ナザリは、赤くなったツキの耳に唇を寄せた。触れるか触れないかの距離で、低く笑う。
「まずは、汚れることを覚えろ。次に、欲しがることを覚えろ。それから、奪われたものを奪い返すことを覚えろ。お前の祈りはその後だ」
「祈っても、いいんですか」
「真にお前のために祈るならな」
「……それは」
「難しいか?」
「……はい」
「なら、私が先に祈ってやる」
ツキは驚いて顔を上げた。悪魔が祈るという言葉は、ひどく歪で、ひどく不遜で、なぜか胸の奥を掴んだ。ナザリは皮肉げに口元を歪める。
「お前がもう二度と、誰かの火にされないように。お前が腹を空かせ、眠り、笑い、恥じ、欲しがり、私に腹を立てるように。お前が清らかな骨になる前に、何度でも肉へ戻るように」
「……それは、祈りじゃ」
「呪いでもいいだろう」
ナザリはツキの唇に、軽く触れるだけの口づけを落とした。
「お前に呪いの方が効くのなら、呪う」
ツキは答えられなかった。答えられないまま、また目を伏せる。灯火はまだ燃えていた。けれど、それが少し遠く見えた。代わりに、目の前の悪魔の息と、手の熱と、自分の唇の感覚が、信じられないほど近かった。
「……ナザリ」
なぜその名を知っていたのか、ツキにはわからなかった。けれど呼んだ。呼ぶと、悪魔の目がわずかに見開かれた。怒りが揺れ、甘さが滲み、苦しそうな歓喜が一瞬だけ覗く。
「……ああ」
ナザリは笑った。今度は、本当に少しだけ嬉しそうだった。
「よくできた。では、もう一度だ。聖女さま」
「……まだ、するんですか」
「汚れるには足りない」
ツキは抗議しようとして、できなかった。ナザリの口づけが降りてくる。灯火がまた揺れた。今度はそれを見なかった。自分の息が、乱れる音を聞いていた。自分がまだ生きていて、まだ肉を持っていて、まだ骨になっていないことを、悪魔の唇で思い出していた。




