V 「琥珀色の境界線に咲いた桜」
四月の風は、街中に桜の花吹雪を散らし、石畳を薄紅色に染めている。
私は、三年間使い古したビジネスバッグをぎゅっと握りしめ、少し急ぎ足で路地裏の角を曲がった。
『Bitter & Bloom』───少し先に見える真鍮の看板は、前より少しだけ色を深めて私を待っている。扉を開けると、カランコロンとあの日と同じ乾いた音が響く。
「いらっしゃい。……おや、今日は少し早いですね、咲楽さん」
カウンターの奥、糊のきいた白いシャツに紺色のエプロン。眼鏡の奥で少しだけ目を細めて笑う蓮見さんは、あの頃よりも少しだけ目尻の皺が増えた気がするけれど、その穏やかな空気はちっとも変わっていない。
「仕事が早く片付いたんです。今日は『試食係』の招集がかかってましたよね?」
私がいつものカウンターの隅に座ると、蓮見さんは「ええ、準備はできていますよ」と、いたずらっぽく微笑んだ。
社会人三年目になった私は、もう研修のミスで泣き言を言う新人ではなくなっていた。理不尽なことに小さくため息をつくことはあっても、それを飲み込んで、自分なりの「Bloom」を見つけられる程度には、この世界の苦味に慣れてきていた。
私が席に座るとすぐに、蓮見さんが丁寧に豆を挽きはじめた。けれど、今日店内に漂っているのは、コーヒーの重厚な苦味だけではなかった。ふわりと鼻をくすぐる、春の陽だまりのような甘酸っぱい香りが店内にかすかに漂っている。
「これ、新作ですか? すごく……優しい匂い」
「ええ。三年前、君に食べてもらった試作品の『完成版』です」
差し出されたのは、クリスタルグラスに層を成した『桜とエチオピアのカフェ・ジュレ』。
透き通った琥珀色のゼリーの上に、淡いピンク色のムースが重なり、仕上げに塩漬けの桜の花びらが一ひら、静かに浮かんでいる。
「今の君なら、この繊細なバランスがわかるはずだ」
「ふふっ……そんな事言われると緊張しちゃいますね……じゃ、いただきます」
私はわざとらしく姿勢を正し、銀色の柄の少し長いスプーンで一口すくって喉を通した。
エチオピア産の豆が持つシトラスのような爽やかな苦味と、桜の奥ゆかしい甘み。そこに微かな塩気が重なり、鼻から抜ける香りは、まるで卒業式の日に見たあの桜並木のようだった。
「……おいしい。苦いだけじゃなくて、こんなに透明な味がするなんて」
「今の咲楽さんみたいでしょう?」
蓮見さんは、カウンターに片肘をついて私を見つめた。その視線は、かつての「保護者」のそれではなく、対等な一人の女性に向ける、熱を持ったものに変わっている。
「社会に出て、揉まれて、それでも自分を見失わずに磨き続けた。今の君には、この凛とした甘さがよく似合う」
胸の奥が、トクンと跳ねる。彼がこんなことを言うなんて。
私はグラスを置き、まっすぐに彼を見つめ返した。
「蓮見さん。私、あの夜の約束……一度も忘れたことはありません」
店内に、二人だけの静寂が流れる。
窓の外では桜が舞い、ガラスを音もなく叩いている。
蓮見さんはゆっくりと立ち上がり、カウンター越しに私の手に、自分の大きな掌を重ねた。
「知っていますよ。君がここに来るたび、少しずつ大人びていく顔を見ていましたから。……正直に言うと、君が外の世界で誰かを見つけてしまうんじゃないかと、私の方が焦っていたくらいです」
「えっ、蓮見さんが? 嘘だ、いつもあんなに余裕たっぷりだったのに」
「大人のフリをするのも、楽じゃないんですよ。……特に、君の前では」
彼は照れくさそうに笑うと、ポケットから小さな、白い小箱を取り出した。
それをカウンターの上、私と彼のちょうど真ん中に置く。
「咲楽さん。君が社会という荒波を泳ぎきって、それでも私のコーヒーを一番に求めてくれた。その事実に、私はもう、我慢の限界です」
小箱の中には、桜の花びらを象ったピンクゴールドのリングが光っていた。
「新作の『おまけ』ではありません。本編の、始まりです。……私の隣を、一緒に歩いてくれませんか? もう、試食係としてではなく、人生のパートナーとして」
視界が、一気に滲んだ。
私は溢れそうになる涙を堪えて、自分ができる最高の笑顔で彼の手を握り返した。
「……はい。喜んで。その代わり、これからも新作は私が一番に食べますからね?」
「ふふ、もちろんです。一生分の『甘さ』を約束しましょう」
窓の外で、満開の桜が風に舞っている今日。
甘くて苦い、琥珀色の香りに包まれたこの愛しい場所で、私たちはついに、新しい季節の一歩を踏み出した。




