表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

Ⅲ「春の夜風の中で」



 三月の夜風は、昼間の暖かさを嘘のように奪い去っていく。



「一本だけ、種類を違えて植えられた早咲きの桜があるから、見に行きませんか?」



 その日、私は研修での作業が長引き、『Bitter & Bloom』を訪れたのは閉店まであと少し、という時間帯だった。そこで少し遅い夕食を食べていたところ、蓮見さんに「今日はもう遅いので、駅まで送りましょう」と言われ、一緒に歩いていた時に立ち寄ったのが、街外れの小さな公園だった。


「……綺麗ですね」


 見上げた先、夜空の深い紺色に、淡い薄紅色の花びらが浮かび上がっている。満月が真上にあり、その青白い光が桜を透かして、まるで花自体が発光しているように見えた。


「ええ。この木だけは、いつも我慢できずに早く咲いてしまうんです。せっかちというか、情熱的というか」


 隣に立つ蓮見さんの声が、夜の静寂に溶け込む。いつものエプロンを脱ぎ、濃紺のコートを羽織った彼は、店内にいる時よりもずっと大人びて見えた。


 十歳の差。私がようやく大人への階段を上り始めたばかりだというのに、彼は違う世界の住人のように感じる。


「……咲楽さん?」


 名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。見上げると、眼鏡の奥の優しい瞳が私を映していた。


「どうかしましたか? 寒かったなら、無理に連れて来たりしてすみません」


「いえ、違います。……ただ、あまりに綺麗で」


「……そうですか」





 嘘だ。


 本当は、桜なんてどうでもよかった。


 月の光を浴びる彼の横顔が。

 その穏やかな声が。

 隣に並んでいるこの距離が。


 ただ愛おしくて、苦しい。



 二人の砂利を踏む音だけが響く中、私の右手は、コートのポケットの中で何度も握ったり開いたりを繰り返していた。


(今、言わなきゃ)


 明日になったら、また私は「ただの試食係」に戻ってしまう。誰にでも優しい彼の一部として、その他大勢の客の一人として、笑っていなければならなくなる。




 そんなのは、多分、耐えられない。




 私は、無意識に手を伸ばした。

 彼の、がっしりとした肘のあたりを、ぎゅっと掴む。


「蓮見さん」


 歩みが止まる。

 蓮見さんは驚いたように足を止め、私の手と、私の顔を交互に見た。


 掴んだ指先に、彼の体温が伝わってくる。コート越しでもわかる確かな鼓動が、私の頬を熱くする。


「……咲楽、さん?」


 彼の声から、いつもの余裕が消えた。


 私の瞳には、もう隠しきれない熱が宿っていたはずだ。口を開けば、せき止めていた想いが溢れ出してしまうだろう。





「好きです」

「特別になりたい」

「私だけを見て」





 喉の奥まで出かかった言葉たちが、心臓の鼓動に合わせて暴れている。




 けれど。


 至近距離で見つめ合った蓮見さんの瞳の中に、一瞬だけ、戸惑いの色が過ったのを私は見逃さなかった。




(……言っちゃだめだ)




 もし今、この手を離さずに想いを告げたら。


 蓮見さんはきっと、困ったように眉を下げて、優しく、残酷に微笑むだろう。


「ありがとう。でも、困ったな」と。


 それは、明日から、私はあの琥珀色の空間に居場所を失うことになるかもしれない。私はそれが、何よりも怖かった。


「……あ、えと」


 私は慌てて、掴んでいた肘を離した。指先に残る温もりを振り払うように、一歩後ろに下がる。


「ごめんなさい……。石に躓いて、足がよろけてしまって」


 精一杯の、下手な嘘。

 自分の声が震えているのがわかった。

 下を向くと、地面に落ちた桜の花びらが、月の光に照らされて冷たく光っている。


「……そうですか。怪我はありませんか?」


 蓮見さんの声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。


 けれど、そこにはどこか、安堵したような、あるいは微かな寂しさを孕んだような響きがあった。


「はい。大丈夫です。すみません、驚かせてしまって」


「いいえ。……帰りましょうか。少し冷えてきました」


 蓮見さんは、それ以上何も追求せず、小さく息を吐いて夜空を見上げ、また歩き出した。私は、月明かりの中の彼の影を追いかけて歩く。




 帰り道、二人の間に会話はなかった。

 少し前を歩く蓮見さんの背中を見つめながら、私は心の中で、何度も彼に謝った。


(ごめんなさい、蓮見さん)


 あなたの困った顔を見たくなくて、嘘をついてしまった。


 あなたの隣に居続けたくて、本当の気持ちを殺してしまった。





「おやすみなさい、咲楽さん。また、お店で」


 駅の改札前。蓮見さんは、いつものように優しく微笑んで私を見送った。


 私は、彼が見えなくなるまで手を振り続けた。



 両手で抱えきれないほどの感謝と、決して伝えられない想いを、春の夜風に乗せて。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ