Ⅲ「春の夜風の中で」
三月の夜風は、昼間の暖かさを嘘のように奪い去っていく。
「一本だけ、種類を違えて植えられた早咲きの桜があるから、見に行きませんか?」
その日、私は研修での作業が長引き、『Bitter & Bloom』を訪れたのは閉店まであと少し、という時間帯だった。そこで少し遅い夕食を食べていたところ、蓮見さんに「今日はもう遅いので、駅まで送りましょう」と言われ、一緒に歩いていた時に立ち寄ったのが、街外れの小さな公園だった。
「……綺麗ですね」
見上げた先、夜空の深い紺色に、淡い薄紅色の花びらが浮かび上がっている。満月が真上にあり、その青白い光が桜を透かして、まるで花自体が発光しているように見えた。
「ええ。この木だけは、いつも我慢できずに早く咲いてしまうんです。せっかちというか、情熱的というか」
隣に立つ蓮見さんの声が、夜の静寂に溶け込む。いつものエプロンを脱ぎ、濃紺のコートを羽織った彼は、店内にいる時よりもずっと大人びて見えた。
十歳の差。私がようやく大人への階段を上り始めたばかりだというのに、彼は違う世界の住人のように感じる。
「……咲楽さん?」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。見上げると、眼鏡の奥の優しい瞳が私を映していた。
「どうかしましたか? 寒かったなら、無理に連れて来たりしてすみません」
「いえ、違います。……ただ、あまりに綺麗で」
「……そうですか」
嘘だ。
本当は、桜なんてどうでもよかった。
月の光を浴びる彼の横顔が。
その穏やかな声が。
隣に並んでいるこの距離が。
ただ愛おしくて、苦しい。
二人の砂利を踏む音だけが響く中、私の右手は、コートのポケットの中で何度も握ったり開いたりを繰り返していた。
(今、言わなきゃ)
明日になったら、また私は「ただの試食係」に戻ってしまう。誰にでも優しい彼の一部として、その他大勢の客の一人として、笑っていなければならなくなる。
そんなのは、多分、耐えられない。
私は、無意識に手を伸ばした。
彼の、がっしりとした肘のあたりを、ぎゅっと掴む。
「蓮見さん」
歩みが止まる。
蓮見さんは驚いたように足を止め、私の手と、私の顔を交互に見た。
掴んだ指先に、彼の体温が伝わってくる。コート越しでもわかる確かな鼓動が、私の頬を熱くする。
「……咲楽、さん?」
彼の声から、いつもの余裕が消えた。
私の瞳には、もう隠しきれない熱が宿っていたはずだ。口を開けば、せき止めていた想いが溢れ出してしまうだろう。
「好きです」
「特別になりたい」
「私だけを見て」
喉の奥まで出かかった言葉たちが、心臓の鼓動に合わせて暴れている。
けれど。
至近距離で見つめ合った蓮見さんの瞳の中に、一瞬だけ、戸惑いの色が過ったのを私は見逃さなかった。
(……言っちゃだめだ)
もし今、この手を離さずに想いを告げたら。
蓮見さんはきっと、困ったように眉を下げて、優しく、残酷に微笑むだろう。
「ありがとう。でも、困ったな」と。
それは、明日から、私はあの琥珀色の空間に居場所を失うことになるかもしれない。私はそれが、何よりも怖かった。
「……あ、えと」
私は慌てて、掴んでいた肘を離した。指先に残る温もりを振り払うように、一歩後ろに下がる。
「ごめんなさい……。石に躓いて、足がよろけてしまって」
精一杯の、下手な嘘。
自分の声が震えているのがわかった。
下を向くと、地面に落ちた桜の花びらが、月の光に照らされて冷たく光っている。
「……そうですか。怪我はありませんか?」
蓮見さんの声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。
けれど、そこにはどこか、安堵したような、あるいは微かな寂しさを孕んだような響きがあった。
「はい。大丈夫です。すみません、驚かせてしまって」
「いいえ。……帰りましょうか。少し冷えてきました」
蓮見さんは、それ以上何も追求せず、小さく息を吐いて夜空を見上げ、また歩き出した。私は、月明かりの中の彼の影を追いかけて歩く。
帰り道、二人の間に会話はなかった。
少し前を歩く蓮見さんの背中を見つめながら、私は心の中で、何度も彼に謝った。
(ごめんなさい、蓮見さん)
あなたの困った顔を見たくなくて、嘘をついてしまった。
あなたの隣に居続けたくて、本当の気持ちを殺してしまった。
「おやすみなさい、咲楽さん。また、お店で」
駅の改札前。蓮見さんは、いつものように優しく微笑んで私を見送った。
私は、彼が見えなくなるまで手を振り続けた。
両手で抱えきれないほどの感謝と、決して伝えられない想いを、春の夜風に乗せて。




