Ⅱ「ショコラテリーヌの味は」
このところ続いていた春の雨も一休みして、街に湿った風が吹いている。
私は、相変わらず『Bitter & Bloom』のカウンターの隅を定位置にしていた。
あの日、蓮見さんから「雨宿りのご褒美」という名の試作品をご馳走になって以来、私はいつのまにか、彼の新作の「公認試食係」のようになっていた。
「咲楽さん、今日は少し趣向を変えてみました。オレンジピールを効かせたショコラテリーヌです。コーヒーの苦味とのマリアージュを試したくて」
彼が、白磁の小皿を私の前に置く。少しだけ得意げで、それでいて私の反応を伺うような彼の眼差し。その視線を独り占めしているような優越感が、今の私を支える密かな栄養源だった。
「……おいしい。オレンジの香りが、後から追いかけてくるみたいです」
「よかった。君の味覚は信頼できますからね」
そう言って、彼はまたあの優しい微笑みを浮かべる。その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、小さな蕾が膨らんでいくような、むず痒い感覚が走った。
これが「憧れ」なのか、それとも「もっと重たい何か」なのか。答えを出すのが怖くて、私はわざと大きな口でテリーヌを頬張った。
その時だった。
入り口のドアが開いて、カランコロンと軽やかな音が響かせて入ってきたのは、私と同じくらいの年齢に見える二人組の女性客。華やかな香水の香りが、コーヒーの香りを一瞬だけ塗り替える。彼女たちは慣れた様子でカウンターの中央に座ると、私と蓮見さんのやり取りを興味深そうに眺めていた。
「ねえ、マスター。それ、すっごく美味しそう! メニューに載ってないですよね?」
一人の女の子が、身を乗り出して蓮見さんに尋ねる。蓮見さんは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「ええ、まだ試作段階のものでして。こちらの彼女に意見をもらっていたところなんです」
「いいなー、ずるーい! 私たちにも食べさせてくださいよ。ね? お願い!」
彼女は屈託のない笑顔で、少しだけ甘えるように声を弾ませた。私は、蓮見さんがどう答えるかをじっと見つめていた。これは「特別な一皿」で、試食係は私だけの役目だった……はず。
けれど、それはどうやら私の思い違いだったらしい。
「はいはい、わかりました。少しだけですよ? その代わり、しっかり感想を聞かせてもらいますからね」
蓮見さんは困ったように笑いながら肩をすくめると、奥のキッチンから新しい皿を取り出し、私に出したものと全く同じテリーヌを切り分けた。
「どうぞ。お口に合うといいのですが」
「わあ、ありがとうございます! マスター、優しい!」
彼女たちが歓声を上げ、蓮見さんがそれを見て満足そうに目を細める。その光景を見た瞬間、私の胸の奥が、冷たい氷水を流し込まれたようにヒヤリとした。
(……ああ、そうなんだ)
蓮見さんが向けるあの「優しい微笑み」も、「困ったような顔」も、私だけのものじゃなかった。彼は、誰にでも優しいのだ。
迷いを抱えた雨宿りの客にも、無理を言う女の子たちにも、等しくその温もりを分け与える。私に頭をぽんと撫でたあの手も、きっと彼にとっては「年の離れた女の子」をあやすための、深い意味のない動作だったに違いない。
喉の奥が、ぎゅっと熱くなる。さっきまであんなに美味しかったテリーヌが、急に砂のように味を失った。
(苦い)
コーヒーの心地よい苦味とは違う。カップに残った澱のように「どろりとした苦さ」に胸が締め付けられて、呼吸が浅くなる。
「咲楽さん、どうしました? 口に合いませんでしたか?」
蓮見さんが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。その優しさが、今は一番残酷に感じてしまう。
「独り占めしたい」
「他の誰にも、その笑顔を見せないでほしい」
そんな独占欲が自分の中にあったことに、初めて気づかされる。
(これ、憧れなんかじゃない)
憧れなら、彼が誰に優しくしていても微笑ましく思えるはずだ。こんなに視界が滲むほど、苦しくて寂しいはずがない。
「……いえ。少し、コーヒーが苦すぎたみたいです」
私は精一杯の嘘をついて、俯いた。鏡のようなコーヒーの表面に、自分の情けない顔が映っている。
これが「恋」なのだと自覚した瞬間、ソレまでの世界は一変してしまった。
今まで「温かい場所」だったこの場所は、一歩間違えれば二度と戻れなくなる、危うい崖っぷちのような場所に変わってしまった。
蓮見さんは、私が恋に落ちたことなんて露知らず、別のお客さんにコーヒーの淹れ方を語っている。
彼の声はいつも通り心地よくて、でも、今はすごく遠い。
私は、彼がくれたテリーヌの最後の一口を、ゆっくりと飲み込んだ。
甘くて、苦い。
(ねえ、蓮見さん)
心の中でだけ、彼の名前を呼んでみる。
伝えたい想いは、この三月の雨上がりの空のように、行き場を失って漂っている。
もし私が、この気持ちを言葉にしてしまったら。
あなたはきっと、あの日と同じように困った顔をして、優しく微笑みながら、私の頭を撫でるのだろう。
「ごめんね」という、一番聞きたくない言葉の代わりに。
私は、誰にも見られないように、カウンターの下で自分の両手をぎゅっと握りしめた。
この手の中に、決して伝えてはいけない想いを閉じ込めるために。




