Ⅰ「Bitter & Bloom」
三月の雨は、まだ冬が残っているような冷たさを感じる。
それは、私の今の心の温度を写し取っているのかもしれない。
大学の卒業式を目前に控えた私は、社会生活への希望よりも「自分が本当にこれで良かったのか」という不安の方が勝っていた。内定先の研修は厳しく、慣れないヒールで歩く街は、確かに見知ったはずの場所なのに、どこか異世界のように感じてしまう。
降りしきる雨から逃げ込むように入ったのは、アーケードから外れた路地裏にある喫茶店。真鍮の小さな看板には、『Bitter & Bloom』という文字が刻まれている。アンティークな木製の扉を開けると、「カランコロン」と乾いた鐘の音が鳴った。
「いらっしゃい、咲楽さん。おや、濡れてしまいましたね」
カウンターの奥から穏やかな声を響かせたのは、店主の蓮見さんだ。
私より十歳上で、いつも糊のきいた白いシャツに、深い紺色のエプロンを身に着けている。眼鏡の奥にある少し垂れた目が印象的な彼が、タオルを差し出しながら優しく微笑む。
「ひどい雨ですね。風邪を引かないうちに、温かいものでも淹れましょうか?『いつもの』でいいですか?」
私は「はい。ありがとうございます」と笑顔を返し、いつものカウンターの隅に座った。
右側をむけばお店の中を見渡せるこの席は、私のお気に入りの場所だ。
蓮見さんが丁寧に豆を挽く音が、店内に心地よく響く。そして店内を満たすのは、コーヒー豆が持つ本来の苦味と、その奥に潜むかすかな甘やかな香り。それは、この店の空気そのものだった。
初めてここへ来たとき、その名前の由来を店主の蓮見さんに尋ねたことがあった。彼は丁寧に豆を挽きながら、「コーヒー豆は深く煎るほど苦味(Bitter)を増しますが、新鮮な豆にお湯を注ぐと、花が開くようにぷくっと膨らむんです。それを私たちは『咲く(Bloom)』と呼ぶんですよ」と教えてくれた。
「苦さ」と「咲く」。その言葉が、その時の自分の境遇にひどく刺さったのを覚えている。「学割」が効くこの喫茶店は、それ以来自分の気持ちを落ち着かせたいときに、ずいぶんとお世話になった。
「はい、お疲れ様。今日は少し深煎りにしておきましたよ、咲楽さん」
差し出されたブレンドは、冷え切った指先から心臓まで熱を届けてくれる。と同時に、研修中にミスをして仲間に迷惑をかけてしまったことや、自分が本当に社会でやっていけるのかという思いが焦りとなって、胸からこみあげてくる。
「……蓮見さん。私、明日もまた研修なんですけど……なんだか、うまくやれる自信がなくて」
本当は、二十二歳にもなって泣き言を言うのは格好悪いと思っていたけれど、ついポツリとこぼした言葉に、蓮見さんは棚を拭いていた手を止め、私をじっと見つめた。こんな時、彼は説教をするわけでもなく、安易な励ましを投げたりしない。いつもゆっくりと「そうですねぇ……」と呟いて、コーヒーやちょっとした「おまけ」を、そっと出してくれる。それが私にとっては心地よい間であり、自分を見つめ直すきっかけになっていた。
今日も蓮見さんは少しだけ考え、それから「そうだ」と何かを思い出したようにキッチンの一角から何かを取り出してきた。
「これ、新作の試作品なんです。まだメニューには載せていないんですが、感想をもらえませんか?」
目の前に置かれたのは、小さなガラスの器に盛られたデザートだった。
コーヒーゼリーの上に、淡いピンク色のムースが重なっている。
「桜のムースと、エチオピアの豆を使ったゼリーです。三月ですから、咲楽さんの名前にちなんで、少しだけ春を先取りしたくて」
スプーンを差し入れると、ぷるんとしたゼリーの弾力と、ふわっとしたムースの感触が手に伝わってくる。一口食べると、まず鮮やかなコーヒーの苦味が舌の上を走った。けれど、その直後に桜の塩気と、驚くほど繊細な甘みが追いかけてきた。
「どうです?甘すぎませんでしたか?」
「……おいしい。すごく優しい味がします」
そう答えると、蓮見さんは「それはよかった」と言って、子供をあやすような手つきで私の頭をぽん、と触れた。
「力は抜けましたか?頑張っている人には、これくらいの甘さが必要でしょう。君は少し、自分に厳しすぎるところがありますから」
彼の大きな掌が頭に触れた瞬間、胸の奥がトクン、と不規則に跳ねた。
(今の、何だろう……?)
彼に褒められたから嬉しいのか、それとも、この温もりに安堵したからなのか。彼にとって、私は「よく来る近所の大学生」に過ぎない。十歳の年の差は、彼にとっては「子供」を慈しむようなものなのかもしれない。彼の手はすぐに離れてしまったけれど、撫でられた場所だけが、いつまでも熱を持って残っていた。
「……これ、名前は決まったんですか?」
動悸を悟られないよう、私は努めて冷静に尋ねた。
蓮見さんは少しだけ首を傾け、窓の外を流れる雨を見つめる。
「そうですね。『雨宿りのご褒美』……なんて、少し気取りすぎかな」
彼はそう言って照れくさそうに笑った。
その笑顔を見た途端、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。降り続く雨の音に混じって、自分の心臓の音が少しだけ大きく聞こえた気がしたのを誤魔化すように、私はちょっと悪戯っ子ぽく声をかけた。
「今度から、新作は私が試食してあげてもいいですよ?」
「……そんなこと言って、本当はスイーツをタダで食べたいだけなんでしょう?」
「あちゃ、バレたか。でも、本当においしいもん。他の人より先に食べたいなー?」
「……考えておきましょう」
私の精一杯可愛くした「おねだり」に、蓮見さんは少し困った顔をまぜた笑い顔を浮かべた。
そんな彼を見ながら、私は残りのゼリーを口に運んだ。桜の香りとコーヒーの苦味が、私の心を包んで温める。
冷たい雨が降っているその夜、私はまだ、自分の心の形を知らないままでいた。




