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20/21

「Rain Drops & Over the Rainbow」



【Rain drops】




「きりーつ、気をつけ、れい」


「あざっしたー」


「さあ、部活部活!」


「今日宿題何出てたっけー?」






 放課後の教室は賑やかだ。


 でもそれもすぐに落ち着いて、教室は一日のざわめきから解放されたように音がなくなる。


 代わりに、遠くからマウスピースの少し間の抜けた音や、ランニングでアップをしている掛け声が聞こえてきた。


 私は椅子から立ち上がることもせずに、モノトーンのグラデーションがかかっている空を、机に頬をつけたまま、ただぼんやりと外を眺めていた。



「降ってきたね、雨」


「うん……そうだね」


「………早目に帰った方が良いよ?じゃね」


「うん……じゃあね」



 隣の席の友達が帰り際に残していった言葉に、私は適当な返事しかできなかった。








 雨が窓ガラスに細かな水滴を広げ始めた。向こう側の景色は、もう滲んだ感じにしか見えない。




『涙は、悲しさや辛さを一緒に洗い流す』



 いつかどこかで聞いた言葉が、ふいに頭の中に浮かぶ。でもその瞬間、私は乾いた笑顔を浮かべてしまった。



「……そんな簡単なもんじゃないよ」



 そう。そんなに簡単に流れてくれるなら、今、私の胸の奥がこんなに苦しいわけがない。








 



 教室を出て廊下を歩いていた私は、階段の手前の場所で立ち止まった。


 放課後の廊下ですれ違った時に聞こえてきた彼の一言が、一週間たった今でも鮮明によみがえる。





 彼とは同じクラスでも、特別仲がいいわけじゃなかった。

 

 教室で近くにいた時に、たまに話すだけ。

 でも、それだけでなんだか心が軽くなった。


 話すときの感情で、くるくる変わる表情は、見ていて飽きなかった。

 お気に入りだったのは、こっちも釣られてしまいそうになる嘘のない笑い顔。彼のその顔を見るだけで、その日一日が少しだけ明るくなった。







 でも――


「俺さ、好きな人できたんだよね」






 廊下ですれ違った時に、少し照れながら、でも真面目にそんな事を言う彼の顔を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。


 

「そっか、よかったね」


 私はそれだけ言って、何もなかったみたいに振る舞った。本当は、その場から走って逃げてしまいそうだったのに、うまく笑えたと自分でも思う。





 その時は、不思議と涙は出なかった。


「今さら気づかなければ良かったのに」


 私の頭の中は、そんな自分への思いでいっぱいだったから。





 あの瞬間に、自分の彼に対する気持ちに気付いてしまった。


 彼の事が好きだったんだと、思う。

 多分ずっと前から。

 そして、気づいたときにはもう、どうしようもないくらいに。

 






















「……ホント、サイアク」



 学校からの帰り道、傘を差しながら歩く。

 アスファルトに落ちる雨粒が、ぽつぽつと音を立てる。


 ふと、花屋の店先に置いてある花に目が留まった。

 大きめの緑の葉っぱの中央に花びらが白い、小さな花。普通だったら気にも留めないはずなのに、なぜか気になった。





『山荷葉───雨の降る日には、不思議な事が起こりますよ』




 紹介の札に書かれた文字に、私は足を止めた。

 不思議な事ってなんだろう?と思って見ていると……






「……え……?」






 確かに咲いていたのは白い花だった。

 それが、だんだんと透明になっていく。

 まるでガラス細工のような、小さく可憐な花。




「……きれい」




 そう呟いた瞬間、その花びらに雨粒が当たり、花は散ってしまった。


 


 葉っぱの上に落ちた白い花びらにそっと手を伸ばし、手のひらにとる。緑の葉っぱの上に散った白と透明の花びら。

 

 なんて儚いんだろう。


 もし本当に、涙が悲しさを流してくれるものなら。涙を流さないから、私は、こんなに苦しいままなんだろうか。


「ねえ、私の涙でも、あなたは透き通ってくれるかな」


 私は心の中で呟いてみたけれど、答えは返ってこない。








 山荷葉の鉢を少しだけ店の方に寄せて、また歩き始める。


 雨粒が傘を叩く音が大きくなってきた。

 周りの音がかき消される。

 普段なら、文句の一つも言ってただろう。







 でも、今は。


 もっと、もっと強く降ってほしい。

 全部をかき消してしまうくらいに。


 私の中に溜まったものを、全部洗い流してしまうくらいに。

 しばらくそのまま歩いていると、制服の袖がじんわりと濡れてきた。


 でも、それでもいいと思った。


 今日だけでいい。

 今日だけは、この雨に甘えていたい。

 誰にも見せられないこの気持ちを、全部預けてしまいたい。




 この雨の中だったら

 この傘の中だったら

 私の今の顔を、誰にも見られなくて済むから。







 家に着いた頃には、雨の勢いは落ち着いていた。

 家までの道は、いつもと同じなのに、少しだけ遠く感じた。でも、玄関の前に立ったときには、不思議と心は少し軽くなっていた。


 顔も体もずぶぬれで気持ち悪い。

 それでも、確かに何かが流れていった気がした。



「……明日からは」



 私は小さく呟く。


 新しい私に、なれるかどうかは分からない。

 きっと、すぐに全部忘れられるわけでもない。


 それでもいい。


 好きだった気持ちは、嘘じゃないから。

 ちゃんと痛かったことも、全部、本物だから。



 この気持ちに後悔なんて、ない。

 雨に濡れて、透明になって、そのまま散ってしまったとしても、未来の私はきっと笑って思い出せるはず。







 傘を閉じて、ドアを閉める。

 外ではまだ、雨が静かに降り続いていた。










【Over the Rainbow】



「ホント、サイアク……!」



 突然の夕立に降られて、私はとあるビルの軒先に駆け込んだ。


「あーあ。しまったなぁ……でも、そっか、あれから5年かぁ」


 天気予報を見ていなかった自分を呪って、思わず出たあの時と同じ文句に気付き、ふっと自嘲気味な笑みが漏れる。




 社会人1年目の今は、あの日のように、ただ雨に甘えていられた頃とは違う。

 「早くこの雨が止んでくれないと、明日の仕事に響いてしまう」なんて事ばかりが頭に浮かぶのが、少しだけ淋しくもありつつ、それが大人になったって事だとも感じる。


 そんなことをぼんやり考えていた時、すぐ隣に、大きな影が滑り込んできた。


「うわ、すっげえ降ってきたな……」


 濡れた前髪をかき上げながら、ネクタイを緩める横顔。


 


 どくん。




 その声その横顔に、私の記憶と心臓が反応する。


「……あれ? もしかして」


「……え?」


 見つめ合った数秒の間。

 私は、一瞬で何年もの時間を飛び越えた。


「懐かしいな、全然変わってない」


 嘘のない、こっちも釣られてしまいそうになる笑い顔。

 あの頃の私の世界を一日中明るくしてくれた、あの笑顔がそこにあった。



「久しぶり……! 相変わらず、元気そうだね」


「あはは、確かに。今何してんの?」



 並んで雨宿りをしながら、私たちはお互いの近況を話し合った。


 彼の声を聞くうちに、胸の奥から、あの日の記憶が、あの時の感情が、ゆっくりと形を持って戻ってくるのが分かった。



 でも。



 私の心を占めているのは、あの日私を締め付けたような苦しい痛みではなかった。


 ほんの少しの痛みと共に浮かんで来るのは、時間を経て少しだけセピア色に染まった、あの花屋の軒先で見たサンカヨウの、透明な美しさ。

 そこには、あの時の痛みが今の私を作ってくれたのだと思えるような愛しささえ感じる。




(懐かしい………けど、もう昔の話になっちゃったんだね)




 胸の奥で、何かが静かに透明になっていくのを感じる。私はそっと自分の胸に手をあてた。





 気がつけば、あれほど降っていた雨の勢いが弱まってきていた。雲の隙間から、夕暮れの柔らかい光が差し込み始めている。


「雨、上がったな」


「そうだね」


「じゃ、俺行くわ」


 彼が柔らかな笑顔を浮かべて手を挙げ、歩き出そうとする。


 私は、あの日の私の肩をそっと抱きしめながら、少しだけ悪戯っ子のような笑顔を作って声をかけた。


「ねえ。知ってた? あの頃の私、君の事が好きだったんだよ?」


 彼は一瞬だけ驚いたように目を見張った。

 それから、昔と変わらない、少し照れたような、でも嘘のない真面目な顔で笑った。


「そっか。もったいないこと、したんだな」


「もう遅いけどね」


「あの時の俺に教えてやりたいよ」


 じゃあまたな、と大きく手を振って雑踏に消えていく彼の後ろ姿を、私は手を振りながら、ただ真っ直ぐに見送った。


 今度は、心の底からちゃんと微笑みながら。





 あの日の私へ。

 今の私は、笑って話すことができているよ。





 私は傘を鞄にしまい、濡れたアスファルトの匂いを吸い込むように深呼吸を一つして、軒先を出た。


「雨上がりの空、か……悪くないね」


 見上げた空には、洗い流されたような青空と夕日のグラデーション。そこには、大きな二つの虹が鮮やかにかかっていた。








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