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「ようこそ、いらっしゃいませ」


 


 街の喧騒から逃れるように細い路地を曲がると、古びた真鍮の看板がひっそりと掲げられている店がある。重厚な木製のドアを開けると、焙煎された豆の香ばしい匂いと、古い紙の香りが混ざり合った独特の空気が客を迎える。ここは、メニューを注文すると、その時の客の心境にぴったりの「物語」が一杯の飲み物と共に供されるという、少し変わった店だった。


 カラン、とドアベルが鳴り、一人の女性が足を踏み入れる。彼女の肩は心なしか落ち、眉間には消えない微かな皺が寄っていた。


 女性はカウンターの端に座るなり、大きなため息をついた。


「マスター、いつものを。……それと、今日はなんだか、人間関係に疲れちゃって。自分なりに気を使っているつもりなのに、空回りばかり。それに話を聞いてくれる彼氏も今はいないし……もうサイアク」


 彼女の声をもし色に例えれば、灰色だろうか。カウンターの向こう側でネルドリップを操っていたマスターは、眼鏡の奥の瞳を優しく細め、静かに微笑んだ。


「言葉を尽くしても届かないときは、少しだけ視点を変える必要があるのかもしれませんよ」


 マスターは多くを語らない。丁寧に淹れられた琥珀色のコーヒーの横と共に、小さな木製の箱を置いた。その箱のふたを開けると、いろいろな種類の、しかし整然と並べられ封筒が入っている。


「どうそ。この中から一通お選びください」


 彼女が選んだのは、青いシーリングワックスで封印された生成りの封筒だった。


「それは、今のあなたが選んだ物語です。読み終える頃には、その苦みが少しだけ和らいでいるといいのですが」


 女性は温かいカップを両手で包み、香りを深く吸い込んだ。そして、ゆっくりと封筒に指をかける。


 パリッ、と蝋が割れる音。

 中から現れたのは、手書きの文字が躍る小さな便箋だった。


 女性は引き込まれるように、最初の一行に目を落とした。店内に流れるジャズの調べが、物語のプロローグのように優しく彼女を包み込んでいく。




 珈琲から立ち昇る湯気が少し薄くなった頃、読み終えた女性は天井を見上げ、それからカップを手に取って口に運んだ。


 ふぅ、と一つ小さな溜息をついたその顔からは、先ほどの険しさが消えている。


「ねえ、マスター。私も一つ、書いてみる。便せんと封筒貰える?」


「……ええ、もちろん」


 女性はマスターから供された便せんに、ペンを走らせ始めた。その表情は、途中難しい顔になったり、穏やかになったり。でも、どことなく楽しそうに見えた。


「私みたいな素人が書いたものでも、誰かが読んでくれるかしら?」


「大丈夫ですよ。拙くても、真心を込めて書かれたものであれば、きっと」


 女性の声の色は、もう灰色ではなかった。マスターは優しく静かな微笑みを浮かべ、ゆっくりとコーヒー豆を挽き始める。店内には香ばしい空気が音楽とともに満たされていった。


 やがて、女性は書き上げたものを封筒に収め、マスターに渡して店を後にした。マスターはカウンターの傍らに置かれている木製の箱に、丁寧に封をしたそれを収める。その箱についている小さな金属製のプレートには、短くこう書かれていた。



「すきま時間のShort Love Stories」



 あなたも一つ、いかがですか?







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