戦争は知らない
ある日突然、平穏な日常が崩れることがあります。それは今まであなたが、当たり前と思っていた常識が、根底から覆される瞬間でもあるのです。
これからしばしの間、あなたはこの不思議な世界へと入って行くのです。
「われわれは君の味方だ。だから安心して、正直に話してくれたまえ」
眼の前に坐った男が、柔らかい口調で言った。灰色の背広を着た中年の男で、口許に笑みを浮かべているが、眼は笑っていない。
今日、アルバイトを終えてアパートに帰ると、ドアの前で二人の男が立って、彼の帰宅を待っていた。
「平沢和也くんだね、ちょっと話を訊きたいので、署までご同行願いたい」
右に立った男が、手帳を示しながら言った。
何か悪いことをしたのだろうか?
思い当たる節はなかった。
「な、何でしょうか?」
「君が土曜の夜に歌った歌について、詳しい話を聴かせてほしいんだ。さ、行こう」
左に立った男が、和也の腕を掴んだ。振りほどこうとすると、凄い握力が加わった。抵抗すると状況はより悪くなりそうなので、素直に従うことにした。連れて来られたのは地元のK察署の取調室だった。
「これは君で間違いないね」
眼の前の男が、ポケットからスマホを取り出し、何度がタップすると、画面をこちらに向けた。示された動画に映っているのは、確かに和也本人に間違いなかった。先週の土曜日の夜、行きつけのカフェで開催されたライヴで、彼がギターを弾きながら歌っている動画だ。会場にいた誰かが撮影したものだろう。
「これを撮影した人が、好意で署に届け出てくれたんだよ。君も感謝した方がいいね」
相手が何を言わんとしているのか、解らなかった。
「まだ解らないようだね。君が歌ったこの歌だよ。この歌を君はどこで知ったのかな? そして、誰の指示でこれを歌ったのかな?」
高校を卒業して、働きはじめて、給料をためて買った中古のフォークギターで、弾き語りの練習をはじめた。そのことを、行きつけのカフェのマスターに話すと、土曜の夜にライヴ・コンサートを企画しているので、君も出てみないかと誘われた。人前で歌うのは初めてだった。演奏曲に選んだのは、子供の頃に母がよく歌っていた、思い出の歌だった。
戦争で父を失った女性が、二〇歳になって、嫁いで、母になる。という内容の歌詞だった。
ものごころついた頃には、すでに父はいなかった。母は女手ひとつで和也を育ててくれた。そんな母も、彼が小学生の時に死んだ。交通事故だった。轢き逃げをした犯人は、とうとう捕まらなかった。
歌は、歌詞もメロディも記憶から再現したものだ。インターネットで検索したのだが、楽譜はおろか、歌詞もコード進行も、タイトルすら解らなかったのだ。
「まだピンと来ていないようだね」と、眼の前の男が言った。「この歌はね、反戦歌といって、来たる聖戦に向けて国民が一致団結しようとしているこの時に、国民の戦意を喪失させようとする、とても危険な歌なんだよ。君にこの歌を教えた人物は誰なのかな? そして君にこの歌を歌うことを指示したのは誰なのかな? そのことを教えてもらいたいんだよ」
言いがかりとしか思えなかった。和也には、国家に逆らおうという意思もない。
「この歌は、子供の頃にどこかで聴いて、ずっと耳に残っていた歌です。誰に教わったわけでも、誰に指示されて歌ったのでもありません」
大切な母との思い出を、他人に汚されたくなかったので、曖昧な答え方をしたが、別に嘘というわけでもないので、和也はそれでいいと思ったのだ。
すると相手の顔色が険しくなった。
「正直に言ってもらわないと困りますね。君にあの歌を歌わせたのは、国家の方針に楯突く反政府組織に違いない。そうだね?」
「いいえ、違います。ただ、あの歌が懐かしくて歌っただけです」
「なるほど、そうですか」と、男の口調が穏やかになった。「それじゃあ、ちょって手を見せてください。両手を広げて、この机の上に、掌を下にして載せてもらえますか?」
話の矛先が変わったので、戸惑いつつ言われるままにすると、
「ほう、流石にギターを弾かれるだけあって、長くて美しい手をしいますね」
言い終わらぬうちに、男の拳が和也の両手の上に全力で打ち据えられた。
激痛が走り、和也は悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。
「素直になってくださいよ。われわれは君のためを思って言ってるんだ。さないと、今度は本気でわれわれの善意を示さなくてはならなくなりますよ」背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、腕まくりをしながら男が言った。「覚悟はいいですか?」
※この物語はフィクションであり、実在の出来事や団体とは一切関係ありません。
これはあくまでもフィクションです。でも、明日は現実のものとなっているかも知れません。
それではまたお逢いしましょう。
https://youtu.be/TXAj7hVYT-s




