彼女もまた、異常的に彼を愛してる
港町にある、とある酒場。
そこの常連の男、オリヴァーは、あの2人をもう何度も見てきた。
カウンターの端に座り、安い酒を舐めるように飲みながら、何度リオンがこの店に転がり込んでくるのを目にしたことか。
リオンは女にフラれては酒を浴び、カウンターに突っ伏して咽び泣いていた。
けれど、その顔立ちは驚くほど整っていた。
長い睫毛に隠れた深い色の瞳、酔いに火照った白い頬。黄金に見間違う程美しい金髪。
ふとした瞬間に笑うと、まるで天使か何かのように綺麗に見える。
オリヴァーでさえ息を呑むほどの、美しい青年だった。
だからこそ、ミーシャが放っておけないのも分かる気がした。
あの娘は、そんなリオンに水を差し出し、背を撫で、時に自分の稼ぎを酒代にしてまで世話を焼いている。
オリヴァーから見れば、どうしようもなく哀れだった。
だがその優しさは、この陰気な酒場の中で唯一の柔らかな灯だった。
「まったく、損な女だな……」
オリヴァーはグラスを揺らしながら小さく笑う。
せめて報われてくれればいい、と心の奥でぼやきながら。
ちょうどその時だった。
何やらミーシャが慌てたように席を立った瞬間…
ふと見ると、リオンの隣にいつの間にか艶やかな黒髪の女が腰かけていた。
豊かな黒髪をかき上げて、真っ赤な唇で囁くたび、リオンはさっきまで泣いていたのが嘘の様に甘く笑い返す。
女は、ゆっくりとミーシャの方に視線を向ける。
ミーシャと、目が合った。
女はわずかに唇を歪め、勝ち誇るように、見下すように、嘲るような目をした。
何も言わない。ただそれだけで十分だった。
ミーシャは一瞬だけ立ち止まり、すぐに微笑んだ。
そしてグラスを置き、そのまま背を向けて酒場を出ていった。
―泣かなかった。
けれど、オリヴァーには見えた。
扉の向こうに消える直前、横顔の緑の瞳が、哀しげに潤んでいたのを。
その夜、オリヴァーは初めて、グラスを置いて立ち上がった。
ずっと気になっていた。
何であの子が。言っては悪いが、少し冴えない感じのミーシャが、リオンの隣にいるのかを。
それが始まりだった。
あべこべな2人を眺めてみる酒が美味しくて、野次馬感覚で。2人の繰り返される日々を達観していた。
だが、ずっと見ているうちに、
あの美貌を台無しにするような立ち振る舞いをするリオンに、
何も言わず寄り添い続けるあの子の優しさが、どうしようもなく綺麗に見えた。
打算でもなく、損だと分かっていても背を向けない。
本当に一緒にリオンの不幸を悲しんでいる様な…
悲痛に満ちた彼女の顔を見るたびに。
全く冴えない彼女の、そんな部分が――
どういうわけか、魅力的に思えたような気がする。
あの子なら、別に、良いんじゃないか?
あの子なら、自分の隣にいても。
ずっと悲しみに満ちた顔をしていたあの子なら。
きっと自分の隣にいた方が、そんな顔をするのも無くなるだろう。
俺が―あの子を救ってあげよう。
あの子を物語の中の脇役から救い出して、主人公と結ばれるヒロインにしてあげるんだ。
そう思ったら、胸の奥が少しだけ誇らしくなった。
安い酒が、やけに甘くて旨かった。
オリヴァーはグラスを置くと、そのまま酒場を出た。
ひんやりとした夜風が酔いを少しだけ冷ましてくれる。
石畳を進むと、店の裏手の路地で小さな背中を見つけた。
街灯の明かりの下で、ミーシャはしゃがみ込んで声を殺して泣いていた。
「……ねえ、君。大丈夫かい?」
声をかけると、ミーシャはびくりと肩を揺らして顔を上げた。
潤んだ緑の瞳が、夜の光を映して震えている。
なんだ、結構可愛い顔をしてるじゃないか。
「……え? あの、誰……」
「さっき、酒場にいただろう? カウンターの端でさ。」
オリヴァーは自分の事を知らないミーシャに、苦笑を浮かべてしゃがみ込む。まあ、リオンを慰めるのに精一杯だったんだから、仕方ないだろう。
「ずっと見てたけど……まったく。酷い男だな、あいつは。」
ミーシャは涙を拭おうとして、そのまま固まった。
「君みたいに優しい子を放っておくなんてさ。
泣かせて、自分は他の女の所に行って……。見た目だけのどうしようもない男だよ、リオンなんて。」
ぽつりぽつりと、オリヴァーは続ける。
ミーシャの様子など気にせずに。
君を救えるのは今しかないのだと、そう思いながら。
「君は、もっと大事にされるべきだよ。
優しくて、誰よりも人の痛みに寄り添える、こんな子は他にいない。
だから……もうあんな男の事なんか、忘れた方がいい。」
ゆっくりと手を差し出す。
泣き腫らした目の前で、少しだけ自分が良く見える様に、芝居がかった仕草で。
「ほら、行こう。
君は僕と一緒にいた方が
絶対に幸せになれるからさ。」
夜風に揺れた街灯の下で、オリヴァーは笑った。
この子を、この手で救ってあげるんだと。
きっとこの手をとって、笑いかけてくれるだろうと。
「君はもっと大事にされるべきだ。だから…」
俺が君を幸せにしてやるんだ。
「……あの、さっきから何を言ってるの?」
帰ってきた声は、涙声でもなく、掠れた弱々しい声でもなかった。
ミーシャは濡れた頬をぬぐいもせず、まっすぐにオリヴァーを見ていた。
リオンに向けていたあの柔らかな笑顔の面影はどこにも無い。
そこにあったのは―まるで、この世で一番醜いものでも見下ろすような、冷たい瞳。
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れたオリヴァーに、ミーシャはため息を吐くように首を振った。
「何で私が、貴方みたいな人と一緒に居ないといけないの?」
突きつけられた言葉が、夜風よりも冷たく突き刺さる。
「貴方はリオンが持っているものを、何も持ってないじゃない。」
ひりつくような吐き捨て方だった。
オリヴァーの差し出した手を一瞥もしないまま、ミーシャは立ち上がる。
涙で濡れた頬さえ、もう気にしていない。
ミーシャは石畳を蹴って、夜の街に背を向ける。
ヒールの音が遠ざかるたびに、オリヴァーの胸の奥に何かが冷たく沈んでいった。
ただ差し伸べた手だけが、どこにも行き場を失っていた。
最悪だ。
このまま、せめてしばらくはリオンと過ごせた時間の余韻に浸っていたかったのに。
あの金色の髪に触れた時の熱も、柔らかな声も、全部まだ胸の奥で燻っているのに。
どうして、何故あんな奴に、その甘い後味を汚されなきゃいけないんだ。
あんな、私と同じように、何処にでもいそうな男に。
石畳を踏みしめるヒールの音が、苛立つ心を煽る。
私だってわかってる。リオンが酷い男だなんて、お前に言われなくてもとっくに知ってる。
女が去ればすぐ泣きついて、誰にでも笑いかけて、すぐに私を忘れて別の誰かに溺れる。
でも、それでもいいのだ。
だって、あの美しさは私が一生かけても手に入らないものだから。
手に入らないものだからこそ、焦がれる。
中身など、どうでもいい。
触れて、寄り添って、夢を見て、何度でも壊されて、また欲しくなる。
美しい花を皆が好きになる様に、私も彼を深く愛している。
…なのに。
何が「救ってあげよう」だ。何様のつもり?
私が欲しいのはあの金色の髪で、長い睫毛の影に隠れたあの瞳で、他の誰にも手に入らない宝石みたいな笑顔だけだ。
あんたに抱きしめられて何が残る?
何もない、何も。
あぁ、きっとあの美しい女も、彼の中身を知れば遠ざかるのだろう。
でも、それでいい。それを望んでいる。
自分でも酷く醜い感情だと分かってるし、誠実な気持ちで貴方を愛せなかった私を嫌に思う。
それでも、私は彼の側に寄り添っていくのだ。
美しい彼をそばで眺める為に。
とある港の酒場にて。
今日も美しい青年と、冴えない女が寄り添っていた。
「ねぇ、ミーシャ。君だけだよ。
俺のことを知っても一緒に居てくれるのは」
そう言って、彼女の肩に擦り寄い泣くフリをする男。
「べつに、そんなの関係ないわよ。だって、私たちは友達だもの」
そう言って、唇を噛み締めて悲痛に満ちた顔をする女。
その酒場では、1人の常連の男が来なくなった事を不思議に思い、残念に思う人がいる中で、
2人はいつもの日々を過ごしていた。
失恋を繰り返して泣き、それを呆れてなだめる。
そんな2人はまた、誰かの酒のつまみとなる。
きっと、このままずっと、この酒場で過ごすのだろう。ずっと君の唯一になれないまま。
いつか、正しい愛を示してくれる人が現れる日まで。
でも、そんな正しさなど、必要無いのだ。
この酒場に通わなくなる日まで。