【10】シマエナガ(・▴・)と階級社会
殺虫スプレーを吹きかけられたゴキブリのように痙攣しながら、大サソリの魔物は崩れ落ちる。
その背中から、アッシュが飛び降りた。
逃げる気か。
――させるか!
スノーウィは瞬時に判断した。
距離を詰めて制圧する? 否。相手には魔法がある。迂闊に距離を詰めると危ない。
故に最も安パイと思われる対処をした。
巨大甲殻類の死体を、蹴飛ばしたのだ。人間なら足の甲に当たる部分に、サソリの腹の下を引っかけて、掘り起こすように蹴飛ばした。
「うお!?」
背後に迫る巨大投擲物を見て、アッシュが目を剥く。
人の心を持たない邪悪で愚かな投資家たちは『死んだ猫も一度は弾む』というおぞましい株式格言を生み出したが、今、死んだサソリならば確かに弾んだ!
それは狙い違わず、アッシュにのしかかる!
「ぐほあ!」
巨体は、もちろん重い。
下敷きになったアッシュは必死で這い出そうとしていたが、彼の力では大サソリはピクリとも動かなかった。
こうなったら物を浮かばせる魔法でも使わなければ抜け出せまい。残念ながら彼は、そんな魔法は使えなかったようだ。
ちょうど、そこへ。
舗装の割れた道を、ザラリ、ザリリ、と鳴らして、こちらにやってくる一団があった。
「なんだ、片付いちまったのかい」
うち一人はリラの母親。
残りは、存在自体が法に反していそうな、物騒な雰囲気の男どもだ。揃って杖を背負い、刃こぼれして棍棒みたいになった剣だの、長柄の槍だの、ガラの悪い武器をめいめい携えている。
スノーウィの語彙から彼らの描写に最も適切な言葉を探すなら『ヤクザ』だった。もちろん山部タダオは清い身の上で、本物のヤクザと関わった経験など無く、筋トレ中に実況配信で見たSEGAのゲームでしかヤクザを知らないが。
「お母さん!
と、そっちは……」
「『水ノ一』地区、調停役のザックだ」
ヤクザの一人、極限まで人相が悪い初老の男ザックはそう言って、地に伏したままのアッシュを見下ろしながら名乗った。
* * *
先ほど通り抜けてきた『緩衝地帯』の、繁華街の路地裏で、非合法の取り調べが行われた。
「荷車を切り離したガキどもも見つかったぞ。こいつに小遣いを貰って、深く考えずに従ったらしい。
荷車を奪うのに使った無登録使役獣は、『風ノ四』から借りたもんだと調べが付いた。……借りたのは今日だが、昨日のうちから話通してたそうだから、まあ、計画的犯行だな」
ヤクザどもが手慣れた様子で全てを進めていくので、リラやスノーウィは見ているだけだった。
彼らは、このスラムの全てを常に見ているほどヒマではない。だが、その気になればいくらでも過去の出来事を調べられる。人々は皆、彼らの監視カメラで、その録画を再生するように情報を集めるだけだ。
リラの母は、警察ではなくて彼らを呼んだ。
アッシュを捕らえるためと言うよりも、アッシュが属する隣のEランク市街地域と、ヤクザ同士の派閥抗争が起こらないようにだろう。
偉くて決定権を持ってる奴に話を通して、状況をコントロール下に置いたのだ。下々の諍いが戦争に発展しないように。
――ヤクザには一度でも借り作ったらお終いだっつーけど、もはや貸しとか借りとかいうレベルじゃないんだろうな、リラは。この地域じゃ生まれたときから『ファミリー』として関わることになるわけか。
実際、この状況では頼るしかなかっただろう、とスノーウィも思う。
この上、隣街のヤクザとまでトラブルを起こすのは流石に御免だ。
アッシュは後ろ手に縛られ、地面に転がされていた。
その顔面を、ザックは特に理由も無く蹴った。
「てめえの処遇に関しては、『風ノ四』地区の調停役と、もう話付いてる。俺がてめえに何をしたところで、もはや『風ノ四』は関知しねえとのことだ」
「う…………」
「いーい度胸だよなあ。男一匹、俺たち全員とやり合う覚悟だったんだろぁ?
なあ、その覚悟を見せてくれよ……最近は、骨のある若者も少なくてなあ」
法に守られるのは、法を守る者だけだ。
それがヤクザの理屈である……刑法学者とは意見を異にするだろうが。
――こいつにも、別の道があったろうに……
スノーウィは、多少、アッシュに同情していた。彼は絶望の衝動に呑まれ、道を誤ったが、それまで耐えて努力することができたのだから、何らかの成果を得る未来もあり得ただろう。
だが、もはや彼に未来など無い。後はヤクザたちの縄張りを荒らした罪で、見せしめに嬲り殺しにされるだけ。それで、終わりだ。
止めるための交渉をしようにも、まず今のスノーウィには言葉が無い。まあ、仮に言葉が通じたところで、交渉の材料は無いが。
……そしてちょうど、下っ端ヤクザどもが、アッシュをどこかに連れて行こうと引き立たせた時だった。
『領域粛正警告。領域粛正警告』
「ええ!?」
「はァ!?」
拡声されてガンガン響くアナウンスが、ヒステリックに地下市街に轟いた。
――なんだ?
今、スノーウィたちが居る『緩衝地帯』の中心部には、町内放送のためのスピーカー塔みたいな、よく分からない建物があった。
声は、そのてっぺんから響いていた。
『本区域内にて、都市に多大な貢献あるBランク市民が、事もあろうにEランクのゴミに傷つけられる事案が発生しました。従って、本区域そのものが非合理的であるものと見なし、領域粛正を発動します。
領域内に居るDランク以上の市民は、至急、離脱するか緊急時用シェルターにご入場ください。Eランクのゴミどもは仮に逃げ出したとしても合理的にぶち殺しますので、おとなしく死ぬのが合理的選択です』
よく分からないが酷いことがアナウンスされた、ような気がした。
周囲の人間たちは、スノーウィの想像以上の狼狽えぶりだった。
「嘘でしょ……!? 領域粛正!?
暴動が起きたわけでも、労働組合ができたわけでもないのに!」
「くそったれ!
領域粛正なんてここ10年は無かったのに、いきなり何があったんだ!」
と。
下っ端ヤクザたちが浮き足立った隙に、アッシュはするりと彼らの手を抜け出す!
そして後ろ手に縛られたまま、まさに脱兎の如く逃げ出した。
「あ、てめえ!」
「追いかけてる場合じゃねえっすよ、調停役!」
「分かってる! あいつのことは後だ!
逃げろ! ついでに価値あるもんを運び出せ! 俺たちの物も、他人の物も関係ねえ!」
「了解!」
蜂の巣を突いたよう、という喩えの意味をスノーウィは知った。
周囲の街全体が、地鳴りのように一分の隙も無く、騒々しくざわめき始めていた。
* * *
『緩衝地帯』に住む人間たちは、一斉に市街から逃げ出し、隣接する地区に向かった。着の身着のまま、あるいは最低限の荷物だけを持って。
誰もが全力で逃げたのだ。周囲の者に踏み潰されて死んだ者の数はとても数え切れない。そして、逃げる途中でどさくさ紛れに、隣を走る者に荷物を奪われたり、そのために殺された者も少なくなかったようだ。
スノーウィは、リラとリラママを自分に掴まらせて、飛んで逃げるので精一杯だった。いくらバリツとシマエナガの力と言えど、人間の津波を掻き分けて交通整理しつつ、その中で予測不可能に散発するトラブルから人々を守ることはできぬ。
隣接地区の建物の屋上に辿り着き、羽を休めるスノーウィの目の前で、それは起こった。
謎のアナウンスを発していた『緩衝地帯』の放送塔が、不気味に眩く輝いたかと思うと、そのてっぺんから雷が落ちたのだ。
雷の矢の大嵐が、『緩衝地帯』全体に止めどなく降り注いだ。
逃げ遅れた人々が黒焦げの炭クズと化し、建物すら解体ハンマーでぶん殴ったように破砕されていく。自然界に存在する雷とは違うようだ。ただの電撃ではなく、衝撃と破壊を伴う。
――あれ、町内放送のアンテナとかじゃなくて……常設の大量破壊兵器だったのか!? 考えた奴バカだろ!
スノーウィは、もはや呆然とするよりなかった。
この空中都市のお偉方は、無法の地下スラム街を放置するしかないほど無力なのだろうかと思ったが、違ったようだ。実態は全くの逆で、かつ、想像の数億倍は邪悪だった。
何かあれば街ごと皆殺しにできる超兵器を据え付けることで、大雑把に、しかし効率的に、管理していたのだ。スラムの連中が本気で政府に刃向かったり、何か目に余ることをすれば、潰すと。
殺戮の雷をスノーウィたちが呆然と見ていると、屋上の扉が開く。
「よう。
無事だったみてえだな」
この地域を支配するヤクザ幹部、ザックが、子分を連れてやってきた。
彼もまた微かにだが、焦燥と倦怠感を滲ませていた。今回は隣の『緩衝地帯』をやられた訳だが、彼らの支配する『水ノ一』地区だって、何かあれば即座に、領域粛正の餌食になるのだろう。
高所から見渡せば、地下市街全域を網羅するように、ほぼ等間隔に雷の塔が置かれているのをスノーウィは見て取れた。ここに住む全員が常に砲口を向けられている。誰にとっても他人事ではないのだ。
「やっぱ……人が住むところじゃないんですね、ここ」
「そうさな。上の連中はEランク市街なんざ、あっても無くてもいいと思ってる」
厭世的なリラの言葉を聞いて、ザックは頷き、タバコの煙を溜息に乗せて吐き出した。
「補欠なんだよ。ここは。
上で人が足りなくなれば、持ってくる。要らなくなりゃ、下に戻す。
人だけじゃねえな。他の全部をそうしてるんだ。
んで、いざって時に使えなさそうな不良品は倉庫に入れとく価値すら無えから、いつでも捨てていいと思ってるんだ」
ザックはそう言って、屋上から痰を吐いた。
それはもちろん遙かな高みに届くはずもなく、重力に従って、ゴミ箱が積み上がった路地に落ちていくだけだった。
「リラ。あんたぁ、テイマーに昇格したはずだよな。
この鳥公が立派に働いてくれたら、すぐDランクになって、地上の居住許可、出るだろ。稼いで家族共々、上に住めるだろ。そうした方が良い」
リラは、驚いた様子ではっと息を呑む。
「どした?」
「意外です。あなたは……私みたいな人には、Eランク市街に居てほしいものかと」
「俺だって上に別荘持ってんだからよ。
あんたが恩を忘れず、引き続き助け合えるんなら、上へ行ってもらった方が誰にとっても良いさ」
「そうですね……薬代の補助のためにも、早くDランクにならないと……」
スノーウィは、どうせ口も出せないわけだが、二人の会話をただ聞いていた。
このEランク市街は『貧しくても苦しくてもそれなりの暮らしがある』なんて牧歌的な場所ではないのだ。
抜け出せるなら抜け出すべき、ただの奈落の底だった。
――リラを家族共々、上に住まわせる。それくらいのことはしてやりてえよな。
見失った把律道を、リラが見つけさせてくれた。
その恩くらいは、返したかった。
この戦いもまたバリツなり。
「でも、実績を作ろうにも、配達依頼ばっかりなんです」
「闘技会に出ちゃどうだ、リラ」
――お? なんだそりゃ。バリツの香りがする言葉だな。
ザックの提案に興味を持ったスノーウィは、二人の人間の間に首を突っ込んで、もすもすと羽毛をこすりつつ左右を見る。
強面オヤジは笑み崩れそうになり、慌てて表情を取り繕った。
「勝って名が売れれば仕事が来るし、ありゃあ査定の点数も良いはずだろ」
「闘技会、ですか……確かにスノーウィの力があれば勝てるかも……
でもあれ、出場する条件も結構面倒じゃありませんでしたっけ?」
「あすこの興行にゃ、Eランク街の『代表会議』が関わってっからな。
テイマーギルドの出場許可さえ出るなら、すぐにでも切符は用意できるんだ」
「本当ですか!?」
「地元から強え選手が出りゃ、俺らも助かる……だがテイマーギルドが良いって言うなら、だぜ。内部のことぁどうにもなんねえからよ」
リラは少しだけ考えて、それから頷いた。
「分かりました。
なんとか……許可、狙ってみます」
「おう。やってみな」
破滅の光景を見ていたザックは、そこで隣のリラを見下ろして。
「……ところで。その手に抱えてるもんはなんだ」
今更のように言う。
リラは四角くて堅牢な物体を小脇に抱えていたのだ。
「金庫です。逃げる途中のお店に落ちてたので保護しました。
……ダメですか?」
「いいよ、持ってけ。餞別だ」
どう考えてもザックの物ではないのだが、ザックは勝手に許可した。
――このノリじゃ、交番に届けたところで正しい持ち主なんて見つかんねーだろうしなあ……
スノーウィは、目を瞑ることにした。把律道は、こんな状況を想定した教えなど内包していないので、バリツに背くことにはなるまい。
もし金庫の持ち主に関わることがあれば、その時はバリツで借りを返そうと、考えておくことにした。