【1】無冠の格闘王、巨大シマエナガ(・▴・)に転生する
裏切られずに済んだ者だけが、「努力は裏切らない」などと言う。
把律家 山部忠雄 1995-2025
* * *
大入り満員の武道館に、プラスチックが鋭く擦れ合う靴音が響いていた。
観客が固唾を飲んで見守る先では、道着と防具を身につけた二人の選手が、一進一退の攻防を繰り広げていた。
袖を掴み合い、投げようとしては振り切られ、先端に模造ナイフを着けた靴で蹴り牽制する。
これが何のスポーツか、一目見れば日本人の九割九分は理解するはずだ。
相撲と並ぶ日本の国技、バリツである。
バリツ……
かの名探偵シャーロック・ホームズが用いたことでも世界的に有名な格闘技。
バリツ、つまりバーティツとは、明治時代にアンチモン精製技術者として来日した英国人エドワード・ウィリアム・バートン=ライトが、講道館柔道やフランスの格闘技サバット、ボクシングやステッキ格闘などの様々な要素を取り入れて編み出したものだ。
イギリス帰国後、エドワードは、バーティツを紳士淑女向けの護身術として広めた。バーティツは、東洋の香りを帯びた神秘的な武術としてイギリスで一時期ブームとなり、同時代に生きた作家アーサー・コナン・ドイルも自分の主人公の得意技として(……正確には彼が絶体絶命の窮地から抜け出したことへの苦しい後付け説明として)作中に登場させた。
と、ここまでがバーティツの歴史の表向きの話である。
大日本帝国陸軍の軍隊格闘技『把律道』がバーティツの本流であることは、長らく公然の秘密だった。
エドワードは表向きは技術者として来日したが、裏では帝国陸軍に雇われていて、日本古来の武術を取れ入れた軍隊格闘技を作るべく招聘された格闘技専門家だったのだ。
バリツは軍や警察を起点として日本中に広がった。相撲こそが日本の国技と言われて久しいが、やがてバリツは名実ともに第二の国技となっていく。
第二次世界大戦後には、バリツは日本とイギリスの後押しで国際化し、五輪種目にも加えられた。
そして現代。
国内で開かれる把律道大会の最高峰・春の武道館大会……その、81kg級決勝。
青の道着とプロテクターは、山部忠雄。
タダオは中学時代から全国大会の常連で、将来を嘱託されていたバリツ選手だ。
だが同学年同階級に、100年に一人の天才が居た。
それこそがタダオの相手。81kg級に君臨する、バリツの帝王。白の道着とプロテクターを身につけた飯谷翔だ。
互いにフェイク・ナイフを絡め合う攻防から一歩退き、タダオは息を整え、相手を睨む。
鋼線を編んで人の形にしたような、筋肉要塞を。
タダオは全国に出るようになった中学時代以降、ずっとカケルに負け続けた。ずっと日陰に居た。
今や国民的英雄となったカケルは、四枚の金メダルを自室に並べている。一方のタダオは未だ五輪出場経験すら無い。
そして今日も、カケルは強い。
バリツと言えば特徴的なのは、つま先にナイフを付けた『把律靴』と、そこから繰り出される蹴り技。もちろん現代の競技において、刃物はフェイクだ。
だがタダオが得意とするのはむしろ、丸太のような腕から繰り出す、鋭くパワフルな投げ技だ。『全てが得意技で必殺技』のカケルにも、投げ技ならタダオは負けない。当然カケルはそれを分かっていて、タダオを懐に入れないよう、蹴り技で牽制し続けた。
一つ一つの蹴りが恐ろしく鋭い。かのシャーロック・ホームズもライヘンバッハの滝でこんな戦いを繰り広げたのだろうか。タダオには、カケルの把律靴に着いたプラ製の模造ナイフさえ、モリアーティ教授が数学的に研磨した業物に思えたほどだ。
しかしタダオにも備えがあった。
敵のつま先を、こちらのつま先で絡め取って、回すように逸らす技。
刃利だ。
カケルに限らず、対戦相手が誰も彼も、“投げの山部”を警戒して蹴り合いを挑んでくるものだから、最近のタダオは対策の対策として刃利をひたすら鍛えていた。
万能の帝王に、世界一の投げと刃利で挑む。それがタダオ30歳、無冠のまま『引退』の二文字がちらつく歳になったバリツ・アスリートの、最後の挑戦の作戦だった。
蹴りをいなして絡め取り、受け流しつつ、体勢を崩す。
全ての蹴りに、懇切丁寧に刃利を狙っていく。
一瞬たりと気を抜けない、息詰まる攻防だった。刃を引っかけられることを嫌い、カケルの足が徐々に伸びなくなっていく。
――ここだ!
カケルが足を引いた瞬間、タダオはステップ。懐に潜り込む!
カケルは当然、投げを警戒。掴み掛かるタダオに対し、袖を切って離れようとする。
その瞬間、逆袈裟に振り上げたタダオの足が。把律靴の先に着いた模造ナイフが。カケルの腹部プロテクターを打った!
「ぐっ……!?」
「有効!」
得意の投げすらも囮にした、強引なハラキリ蹴りだった。
不完全な体勢で投げに持ち込んでも、カケルなら対応してしまう。そう考えたタダオは、瞬時の判断で技を切り替えたのだ。
観客が沸き返り、絶対王者の表情が、歪む。
――まずは有効ひとつ! 飯谷から本番で先取したのは、高二の時の武道館以来か!? いけるぞ。だが慎重に!
タダオは最後の五輪挑戦に向けて、血の滲むようなトレーニングを重ねてきた。
実業団選手であるタダオは普段は会社員としての仕事もあるのだが、大会のための休暇を貰い、睡眠と食事とトイレ以外、全ての時間を特訓に注ぎ込んできた。いや、本当は良くないと知りつつ、焦りのあまり睡眠も少し削った。
朝は日も昇らぬうちからロードワーク。体幹トレーニング。隔日で上半身と下半身を鍛えるマシン筋トレ。水泳。そして実業団チームの仲間たちとの激しい試合練習……
その成果は確実に出ていた。
試合の中の一瞬の有利不利ではない。百戦錬磨のアスリートだからこそ分かる、『こいつと10本やれば6本は取れる』という、確かな手応え。
タダオの実力は確かに、バリツの帝王を超えつつあった。
勝利に指先がかすった。
「前半終了!」
「ちっ……
後半、見とけよ」
カケルは、タダオだけに聞こえるよう悪態をついて行儀悪く舌打ちし、すれ違いざま、ふらついた振りをしてわざとタダオにぶつかった。そして、のしのしと足音も荒く離れていった。
把律家にあるまじき素行の悪さだ。だが、これはカケルのいつもの調子だった。むしろ、普段よりかなり抑えた方だった。
――飯谷は人格的には、膨張したリチウムイオンバッテリー以下のゴミだ。中学時代から暴力沙汰の噂に事欠かず、今も妻を殴って別居中。あんな奴に、いつまでもバリツ・アスリートの代表ヅラさせとくわけには行かねえんだ。
カケルへの反発と、生まれつき持ち得た良心によって、タダオはバリツの理想に傾倒した。理不尽な暴力から我が身と弱き者を守る、真の闘技者たらん、と。徹底して己を律し、理知的で優しさと正義感に満ちた理想の把律家として振る舞い続けた。
だが、タダオが理想に燃えて、カケルがクソ野郎でも、勝てるとは限らないのだ。
――『後半、見とけよ』か。あれがイキリでも負け惜しみでもねえんだよな、飯谷の場合。最後は絶対に自分が勝つと確信してるから、ああ言ってんだ。
俺も油断はナシだ。後半戦の組み立てを……………………
突然、武道館がナナメ45°に傾いた。
否。
傾いているのはタダオの方だった。
――おや?
タダオは畳の上に倒れていた。
受け身すら取れず、糸を切られた操り人形のような無様な格好で。
頭の中でなにかが、ガンガン鳴っていた。
――なんか、すっげえ頭が痛え……そう言えば今日は朝から頭痛がして……飯の後にも頭痛薬を……あれ? あれ……?
身体のどこにも全く力が入らず、仰向けになることさえできなかった。心臓の鼓動が耳元で感じられた。
それは、あまりにも唐突な幕引きだった。
誰かが何かを叫び、タダオに呼びかけているような気がした。
だが、その声が急速に遠のいていった。
――おい、まさか……死なないよな、俺……?
確かに最近は、死んでも構わないくらいの勢いで練習に打ち込んでいた。だが、本当に今死んだら何にもならない。
自分の命を賭け金とした、分の悪いギャンブルをしていたことに、タダオは愚かにもようやく気がついた。
――やめろ。やめてくれ。死にたくない。必死で努力を積み上げて、今日ここまで来たんだ!
あと少しなんだ。今度こそ奴を超えられるかも知れない。せめて試させてくれ。最後まで試合をやらせてくれ。まだ俺は一度も……栄冠を掴んですらいない…………
崩壊していく意識を、タダオは必死で繋ぎ止めようと、悪あがきをしていた。
救急車のサイレンが、ぼやけながら近づいていた……
* * *
長い時間、眠っていたような気がした。
タダオの意識は深い闇の中から急激に引き上げられた。
自分がとても狭い場所に、身体を丸めて閉じ込められていることにタダオは気づいた。
ちょうど、タダオの身体がすっぽり収まるだけの空間に。
困惑しながらもタダオは必死で動こうとした。奇妙な束縛から逃れようとした。
できることと言えば、目の前の壁に頭を打ち付けることくらいだった。すると奇妙な感触があった。壁がウエハースのようにあっさり割れた。タダオを閉じ込める壁は、タダオのクチバシに比べると余りに脆かったのだ。
――…………クチバシ?
壁は簡単に壊れて、光がタダオの目を突き刺した。
そして、見渡す限りの世界があった。朝焼けの空を舞う、細切れの雲があって。タダオはかぐわしい風を思い切り顔に浴びた。
そこは、山で一番の大樹の、太く張り出した枝の上に作られた、枝葉のゆりかご……つまりは、鳥の巣の中だった。
巨大な鳥(・▴・)がタダオを見下ろしていた。
ずんぐりモフモフした鳥が、つぶらな黒目でこちらを見ていた。
顔だの腹は綿のかたまりみたいに真っ白で、背中から翼の上側に掛けて黒と茶色の羽毛がメッシュのように差し込まれている。
見覚えがあった。Twitterで流れてきた画像を見た覚えがある。巨大すぎることを除けば、冬毛のシマエナガそのものだ。
そいつが自分の母親なのだと、タダオには分かった。
自分は今、卵を割って這い出てきた雛だ。全身、濡れた羽毛で覆われた雛だ。対戦相手を投げ飛ばしてきた丸太の如き腕はもはや存在せず、か弱い翼があるだけだ。
『なんだこの腕は!? 腕じゃねえ、手羽だ!
こんなもんで一本背負いができるか!』
驚愕の叫びも、ピヨピヨと可愛らしい産声にしかならなかった。
山部タダオは死んだ。
そして彼は異世界で、人ではないものに生まれ変わったのだ。
* * *
鳥に生まれ変わったことが、夢でも幻でもないと理解するのに、そう長い時間は掛からなかった。
それからタダオは、化け物鳥としての生を、死んだように生きた。
巣立ちの時期を迎えたタダオは、あても無く世界を放浪する旅に出た。本来の生息圏であろう寒地からも離れて、行き先も定めぬ死出の旅に出た。
ノー・バリツ。ノー・ライフ。バリツを奪われ、人間ですらなくなった自分の人生(鳥生?)に、タダオは価値を感じなかった。
せっかく、明らかに地球ではない変な世界(こんな馬鹿でかいシマエナガが地球に居るだろうか?)に生まれ変わったのだから、死ぬまで適当に異世界を見て回って、どこか良い場所を見つけて野垂れ死のうと考えていた。
腹が減れば、その辺の獣に空から襲いかかって鋭い爪で押さえ込み、その喉を搔ききって仕留め、食った。ツノの生えたウサギだの、極彩色の狼だの、上野動物園でも『ダーウィンが来た』でも見たことがない生き物ばかりだった。酷い味だと思ったがそれさえどうでも良かった。
タダオの身体はめきめき育ち、やがて親鳥と同じような馬鹿でかいサイズになった。身長は、正確には分からないが2メートルは超えているだろう。同時に羽毛もモフモフになった。
旅の最中、もしかしたらこの異世界にも人間が生きていて、どこかでバリツをしてはいないかと淡い期待を抱いたりもした。自分はもうバリツを奪われた身だが、死ぬ前に異世界バリツを見ることができたらいいのに、せめてバリツを見ながら死ねたら幸せなのに、と。
ところが、この世界には人里が無い。街どころか、小さな村さえ見当たらない。どこまで行っても、大地をびっしりと覆い尽くす奇妙な葛の葉ばかりだった。
一応、この世界にも人が居ること自体は確認できた。
たまに一人二人、人が野山を探検しているのを見かけて、タダオはそれを追いかけたり観察したりしていたのだが、すぐに姿を隠してしまったり、妙な武器で狙い撃たれたりして、迂闊に近づけなかったし、彼らの行き先や住処も見つけられなかった。
* * *
タダオが初めて間近に人間を見たのは、放浪の旅が一年ほど続いた頃だった。
春先だというのに妙に獲物が少なくて、狩りのために数日、タダオは同じ山に滞在していた。
そして山中の泉で水を飲んでいるとき、彼女は現れた。
群青の髪を持つ、やせっぽちの少女だった。タダオの常識からはあり得ない髪色だが、余りに艶やかで、どうやら染めているわけではなさそうだ。
探検家みたいな、動きやすくてポケットの多い服を着ていたが、その服はよく見ると軽量な鎧と表現する方が適切な代物だった。野山に紛れる草色の服に、簡素な装甲板を着けたものだ。帽子も簡単なヘルメットみたいなものだ。
彼女は、毒々しい色をした大型犬くらいの大きさのトカゲに荷車を牽かせ、タダオの前にやってきた。
偶然の遭遇ではなかった。少女はタダオの姿を見ても、何も驚いた様子無く、それどころか近寄って声を掛けてきたのだ。
「スノーウィ」
少女はちょっと掠れたような、緊張に固くなった声で、タダオをそう呼んだ。
「あなたの名前は決めていたの。お願い、私と一緒に来て」
山部タダオ、改め、スノーウィ。転生後一歳。
魔物使い・リラとの出会いであった。