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第9章「世界の真実」


学院の鐘楼から、重々しい鐘の音が波のように広がっていった。「断罪の儀」の始まりを告げる十二の鐘の音。それぞれの響きが、アイリスの心臓の鼓動と共鳴するように感じられた。


息も絶え絶えに学院の裏門に辿り着いた三人は、一瞬足を止めて状況を確認する。セレスティアの青白い顔に浮かぶ汗が朝日に銀色に輝いていた。


「間に合うかしら」アイリスは荒い息の間から言葉を絞り出した。制服は森での戦いで破れ、髪は乱れていたが、青い瞳には揺るぎない決意があった。


「まだ大丈夫だ」レヴィンがセレスティアを優しく地面に降ろす。彼の腕に血痕が見えるが、気にする様子はない。「本番は正午。まだ少し時間がある」


衰弱しているものの、意識ははっきりしているセレスティアの頬に触れる。冷たい。「大丈夫?無理しなくていいのよ」


「はい…少し休めばすぐに」彼女は弱々しく微笑んだ。その翡翠色の瞳は、前日よりも深い色合いを帯びていた。「私も…力になりたいです」


彼女の決意に満ちた表情に心を打たれ、アイリスは小さく頷いた。エリオットは周囲を警戒しながら、慎重に「真実の鏡」を布から取り出し、その表面に傷がないか確認していた。鏡の表面が水面のように揺れ、青い光を放っている。


「鏡に傷はない」彼は静かに言った。銀髪が風もないのに揺れ、赤い瞳が不思議な光を放っていた。「しかし、これから先が本当の戦いだ。彼らも全力で阻止してくるだろう」


裏門から学院の中庭へと忍び込む。既に多くの学生や貴族たちが正装し、興奮した様子で中央広場へと向かっていた。彼らの顔には期待と好奇心が入り混じっている。「断罪の儀」は学院最大の儀式の一つで、公開審問の形を取る。貴族の恥をさらす残酷な見世物だ。


「ここで計画を最終確認しよう」レヴィンが低い声で言った。王子といえど、この場では慎重さが必要だった。「アイリスは表の入口から堂々と入場する。恐れる様子を見せてはならない。エリオットと私は『真実の鏡』を持って裏から準備する」


「私はアイリス様と一緒に」セレスティアが弱々しい声で言った。彼女は立ち上がろうとして、よろめいた。


「無理よ」アイリスは彼女の肩に手を置き、支えた。温かい手の感触が、冷えた体を少しだけ温める。「あなたはまだ『血の封印』の影響が残っている。休んで—」


「大丈夫です」セレスティアは決意に満ちた表情で言った。彼女の金色の髪が朝日に輝き、まるで光の冠をかぶったかのように見える。「『光の守護者』として、そして…友達として。一緒に戦います」


その言葉に心が温かくなる。これまでの道のりで、彼女はもはや「ヒロイン」ではなく、かけがえのない友人となっていた。そして彼女の言う通り、彼女の光の力がなければ、「真実の鏡」を起動させることはできない。


「わかったわ」アイリスは彼女の手を握った。冷たい手に温もりを伝えるように。「一緒に真実を明らかにしましょう」


分かれる前、レヴィンがアイリスの前に立った。彼の紫の瞳には、公の場では決して見せない深い感情が宿っている。肩に手を置き、真剣な表情で見つめてくる。


「アイリス」彼は静かに、しかし力強く言った。「何があっても、私は君の側にいる。政略結婚の約束ではなく、一人の人間として、君を守り、支える」


「ありがとう」


言葉だけでは伝わらない気持ちを込めて、アイリスは彼の手を握った。短い接触だが、互いの決意が通じ合うのを感じた。指先から伝わる温もりが、彼女に勇気を与える。


「行きましょう」


セレスティアと共に表の正門へと向かう。一方、レヴィンとエリオットは「真実の鏡」を抱え、裏路地へと消えていった。


正装した学生や貴族たちの間を通り抜けながら、アイリスは次第に緊張を感じていた。周囲の視線が刺さるように感じる。彼らの中には好奇の目、同情の目、そして敵意の目もある。誰もが「フロストヘイヴン家の末裔の断罪」を見物に来ているのだ。


「噂によると、フロストヘイヴン大公の娘が裁かれるそうだ」

「反逆罪とは、名門の末路も哀れね」

「あの子、実は前から変だったのよ。氷の令嬢だなんて呼ばれてたけど、実は内心では…」


囁き声が波のように押し寄せてくるが、アイリスは高く顎を上げ、凛とした表情を崩さない。かつての「悪役令嬢」の仮面を再び被る必要があった。ただし今回は、虚勢ではなく、真の強さを示すために。


セレスティアが彼女の手をぎゅっと握り、力強さを与えてくれる。二人の間で小さな光の粒子が舞い、周囲の人々が驚いた様子で見つめていた。


---


中央広場には巨大な円形劇場のような空間が設けられていた。石造りの階段状の座席が高く積み上げられ、中央に高い演壇がある。空気が張り詰め、太陽の光が石の上に刺すように降り注いでいた。


既に多くの人々で埋め尽くされた客席からは、好奇の目が一斉にアイリスに向けられる。彼女は「氷の令嬢」としての威厳を保ちながら、背筋を伸ばした。


「用意はいい?」セレスティアに小声で尋ねる。


彼女は小さく頷いた。まだ顔色は優れないが、目には決意の色があった。「はい。真実を、全ての人に」


正門から入ると、一斉に視線が集まり、沈黙が広がる。それから小さな囁き声が波のように広がっていく。空気が凍りつくように感じられた。


堂々と中央へと歩みを進める。一歩一歩が、重い運命との対決のように感じられる。演壇の前には、校長のヴァンダイク卿と数人の教授たち、そして王国の高官が並んでいた。彼らの厳しい表情が、裁きの重さを物語っている。


不穏なことに、マーカス教授の姿はない。


「アイリス・フロストヘイヴン、前へ」


校長の厳かな声に従い、アイリスは演壇に上がる。石段を上るごとに、心臓の鼓動が速くなる。セレスティアも小さな足取りで彼女の後を追う。彼女の金色の髪が太陽の下で輝き、まるで光そのものが彼女に宿っているかのようだ。


「セレスティア・ブライト、あなたはここにいる必要はない」校長が眉をひそめて言った。「これはフロストヘイヴン嬢一人に関わる審問だ」


「いいえ、必要です」彼女は弱いながらも明確な声で答えた。透明な水晶のように澄んだ声が広場に響く。「私は証人として立ち会います。真実を証明するために」


校長は少し困惑した表情を見せたが、深追いはしなかった。彼も何か不穏なものを感じていたのだろうか。


「アイリス・フロストヘイヴン」彼は羊皮紙の巻物を開き、公式の声明を読み上げ始めた。声が円形劇場全体に響き渡る。「あなたはクリスタリア王国に対する反逆の共犯、および魔法学院の規律違反の疑いで、この『断罪の儀』に召喚された」


会場に緊張が走り、空気がさらに重くなる。


「あなたの父、バジル・フロストヘイヴン前大公は、『永劫の檻』と呼ばれる反逆組織の一員として活動した容疑で拘束されている。あなたもその活動に関与していたという証言があるが、どう弁明する?」


アイリスは深呼吸をした。肺いっぱいに空気を吸い込み、背筋をさらに伸ばす。そして毅然とした態度で、すべての観衆に聞こえるように大きな声で答えた。


「私は無実です。そして父も無実です」


観客席からざわめきが起こり、波のように広がっていく。


「証拠はありますか?」校長が鋭く尋ねる。彼の目には疑念が浮かんでいる。


「はい」アイリスは確信を持って答え、ペンダントを胸元で掴んだ。「真実をお見せします」


その瞬間、会場の奥から青い光が放たれた。会場の端に設置された台から、レヴィンとエリオットが「真実の鏡」を持って現れる。鏡からは青白い光が放射され、広場全体を神秘的な光で満たしていく。


彼らは素早く演壇の横に鏡を設置した。レヴィンの凛々しい姿に、観客から驚きの声が上がる。王太子の存在が、この儀式に新たな重みを加えた。


「これは何の冗談だ?」高官の一人が立ち上がる。赤ら顔の男性が、怒りに震えている。「王太子殿下、これはどういうことですか?」


「冗談ではありません」レヴィンが堂々と答えた。彼の背筋は伸び、紫の瞳には威厳が満ちている。「真実を示す時が来たのです。全ての嘘と欺瞞を暴き、正義を取り戻す時です」


校長は混乱した様子だが、王太子の存在に抗うことはできない。困惑と共に、彼は小さく頷いた。「続けなさい」


アイリスはペンダントを取り出し、セレスティアと向かい合う。互いの目を見つめ、決意を確認し合う。彼女も小さく頷き、準備が整った。


「Memoria Glacialis」(氷の記憶)

アイリスの声が円形劇場に響き、ペンダントが青白く輝きだす。


「Lux Veritatis」(真実の光)

セレスティアの柔らかな声が続き、彼女の掌から純白の光が放たれた。


二つの魔法が踊るように絡み合い、「真実の鏡」へと流れ込む。鏡の表面が波打ち、まるで生きているかのように揺れる。やがて大きな映像が空中に投影され始めた。


青と白の光が織りなす幻想的な光景に、観客たちは息を呑んだ。


最初に映し出されたのは、母エレノアの死の瞬間。ドロシアが小瓶の毒を手渡し、「これを飲めば、娘は無事だ」と言う場面。母が絶望と決意の表情で毒を飲み干す様子。会場に驚きと恐怖の声が広がる。


「これは10年前、私の母エレノア・フロストヘイヴンの死の真相です」アイリスは声を振り絞って説明する。彼女の声は感情で震えていたが、明確に響き渡った。「継母ドロシアによる毒殺でした。『永劫の檻』という組織のために」


映像はさらに続き、ドロシアが黒いローブの集団と会合している場面、父バジルが密かに情報を集め、王室の密使に伝えている場面、そして「永劫の檻」の真の目的について議論している様子が次々と映し出される。


「私の父は反逆者ではなく、『永劫の檻』に対抗する『守護者』の一員でした。内部に潜入し、10年もの間、彼らの計画を阻止しようとしていたのです」


アイリスの声に力がこもる。父の苦悩、孤独な戦い、そして娘を守るために冷たく振る舞わなければならなかった苦しみ。すべてが映像を通して伝わってくる。


映像の中で、父が王室の密使と会い、「永劫の檻」の計画について警告している場面。「光と氷の力を使い、世界を再構築しようとしている」と懸命に説明する父の姿。そして最後に、ドロシアが父を罠にはめる場面。偽の証拠を仕掛け、王国議会で父を訴える様子。


会場は完全に静まり返っていた。数百人の観客が、固唾を呑んで映像を見つめている。震えるような緊張感が空気を満たす。


「これが真実です」アイリスは力強く言い切った。顔に涙が伝っているのも気にせず。「父は無実です。そして本当の敵は『永劫の檻』という組織。彼らは今、世界を変えようとしています。私たちの自由と未来を奪おうとしているのです」


校長と高官たちは映像に圧倒され、言葉を失っているようだった。一人の高官が小さく頷き、もう一人は顔を真っ青にして座り込んだ。


しかし、その安堵の瞬間は長く続かなかった。


「見事な演出だ」


冷たい声が会場に響き渡る。金属が擦れるような不気味な響きを帯びた声。


振り向くと、マーカス教授が数人の黒いローブの人物と共に入場してきた。彼の表情は冷酷で、目には邪悪な光が宿っている。彼の後ろには、見たことのない老人の姿があった。白髪の老人だが、その姿からは若々しい力が感じられる。オブシディアンだと直感的に悟った。


「幻影と偽りの記憶だ」マーカス教授は冷笑した。彼の唇が歪み、不自然な笑みを浮かべている。「『氷の記憶』など、信頼できるものではない。操作された映像で人々を惑わすとは、フロストヘイヴン家の娘にふさわしい背信行為だ」


会場に緊張が高まり、人々の間に動揺が広がる。誰を信じるべきか、混乱が生じている。


レヴィンが前に出た。彼は剣を抜き、その刃が青い光を放つ。


「これは真実だ」彼は力強く宣言した。「王家は『永劫の檻』の存在を長年把握している。彼らこそが真の反逆者だ。世界の秩序と人々の自由を破壊しようとしている」


オブシディアンがゆっくりと前に進み出る。彼の足音が不自然に響き、まるで空間そのものが彼の存在に反応しているかのようだった。異様な存在感が会場を支配し、空気が重くなる。


「『守護者』の若きリーダーか」彼は老いた声で嘲笑うように言った。その声には千年の時の重みが感じられた。「この少女の演出を信じるとは愚かだな。真実は一つ。フロストヘイヴン家は代々、裏切りの血を引いているのだ」


校長と教授たちの間に動揺が走る。誰を信じるべきか判断できないまま、彼らは互いに視線を交わし合っていた。


その時、予想外の声が響いた。


「彼女の言うことは本当です」


振り向くと、ミランダ・クリムゾンが立ち上がっていた。彼女の赤髪が太陽の下で燃えるように輝き、顔には決意の色が宿っていた。


「私は証言します。『永劫の檻』は実在し、彼らは私の家族を人質に取り、協力を強いていました。マーカス教授こそがその一員です」


その告白に、会場全体がざわめいた。ミランダの父親であるクリムゾン公爵が立ち上がり、娘の名を叫ぶが、彼女は毅然と立ち続けた。


さらに混乱が広がる中、会場の扉が大きく開き、王国軍の兵士たちが整然と入ってきた。彼らの鎧が陽光に輝き、剣が一斉に抜かれる音が響く。


「王室直属の近衛兵だ」と誰かが囁く。


「マーカス・グレイソン、オブシディアン・ヴォイド」先頭の将校が宣言した。「あなたたちを反逆罪で逮捕する。王太子殿下からの情報により、『永劫の檻』の活動が確認された」


マーカス教授の顔に怒りが浮かぶ。彼の目が赤く灼熱し、周囲の空気が振動し始める。「愚かな…」


彼は両手を上げ、強力な魔法を詠唱し始めた。「Tenebrae Explosio!」(闇の爆発)


暗黒の波動が爆発的に広がり、近くにいた兵士たちが吹き飛ばされる。混乱が一気に高まり、観客たちが悲鳴を上げて逃げ出し始める。学生たちの叫び声、兵士たちの号令が入り混じり、円形劇場は瞬く間に混沌に包まれた。


「皆さん、避難を!」レヴィンが叫び、人々を守るように立ちはだかる。「急いで!」


アイリスとセレスティアは「真実の鏡」を守るために演壇に留まった。二人の間に淡い光の障壁が形成され、飛んでくる破片から身を守る。


オブシディアンとマーカス教授は混乱に乗じて脱出しようとしている。彼らの周りに黒い霧が渦巻き、次第に姿が薄くなっていく。


「逃がさない!」


エリオットが彼らの前に立ちはだかった。彼の全身から闇の魔力が溢れ出し、銀髪が風に舞う。「Tempus Fractum!」(砕かれた時間)


彼の周囲の時間が歪み、マーカス教授の動きが遅くなる。まるで粘液の中を動いているかのように、彼の動きが鈍くなっていく。しかし、オブシディアンには効果がなかった。老人の姿は変わらず、むしろ微笑んでいるようにさえ見える。


「千年の月日では足りなかったか、エリオット」オブシディアンが残酷な笑みを浮かべる。白髪の下から若々しい目が輝いていた。「まだ私には劣るようだな。時間の支配者になるには、もっと犠牲が必要だ」


エリオットは苦しそうな表情を浮かべながらも、魔法を維持している。彼の額に汗が浮かび、赤い瞳が怒りと決意で燃えていた。「アイリス、レヴィン!今だ!」


レヴィンは風の魔法を集中させ、剣に青い光を宿らせる。「Ventus Spiralis!」(螺旋の風)


彼は風の力で加速し、オブシディアンに向かって突進する。風の軌跡が彼の後ろに美しい螺旋を描いていた。


アイリスもペンダントの力を最大限に引き出す。氷の力が全身を包み込み、彼女の髪が風もないのに舞い上がる。「Glacialis Catena!」(氷の鎖)


彼女の指先から青白い氷の鎖が放たれ、蛇のようにうねりながらオブシディアンに向かって伸びていく。


氷の鎖がオブシディアンに迫るが、彼は片手を上げただけでそれを砕いてしまう。氷の破片が雪のように舞い散る。レヴィンの剣も、彼の周りに形成された見えない障壁に阻まれ、届かない。


「子供の遊びだ」オブシディアンは冷笑した。その声は若々しさを取り戻し、千年の時を生きた存在の確信に満ちていた。「『氷翡翠の巫女』の力はそんなものか?失望したよ、エレノアの娘」


彼の言葉が心に突き刺さる。確かに私の力は不完全だ。まだ真の力に目覚めていない。氷の魔法は使えても、「時」を操る力は眠ったままだ。


「アイリス様!」セレスティアが彼女の隣に立った。彼女の顔はまだ青白いが、目には強い光が宿っていた。「一緒に。二人の力を合わせれば…」


彼女は手を差し出し、アイリスはそれを握った。温かい手の感触が、彼女の冷たい指先に染み渡る。


すると、不思議な共鳴が起き始めた。彼女の光の魔力とアイリスの氷の魔力が完全に調和し、青と白の光が渦を巻き始める。新たな力の波動が二人の間に生まれ、周囲の空気が震えるほどの力が溢れ出す。


「これは…」


言葉にならない感覚。まるで時間と空間の境界が見えるかのような感覚に包まれる。アイリスの周りの世界がガラスのように透明になり、その向こうに無数の時間線が見える。過去と未来、そして別の可能性の世界線が透けて見えるのだ。


「見えるわ…時の流れが」アイリスの声は驚きに満ちていた。


「感じます」セレスティアも同様の体験をしているようだ。彼女の瞳が光を放っている。「全ての流れが、全ての可能性が…繋がっている」


オブシディアンの表情が変わる。彼の目に驚きと焦りが浮かんだ。「ついに目覚めたか。『氷翡翠の巫女』の真の力に」


一瞬の驚きの後、彼は両手を広げ、巨大な魔法陣を展開し始めた。床から黒い線が伸び、複雑な紋様を描いていく。「だが遅すぎた。大儀式は既に始まっている」


会場の床から黒い霧が立ち上り、空間そのものが歪み始める。まるで鏡が割れるように、現実に亀裂が走り始めた。亀裂の向こうには、別の世界の風景が見える。


「何が起きているの?」アイリスの声に恐怖が混じる。


「世界の歪みが広がっている」エリオットが苦しげに説明する。彼はまだマーカス教授の動きを封じようと魔法を維持している。「オブシディアンは『大儀式』を前倒しにした。計画通り進めば、世界の再構築が始まる」


状況が一気に悪化する中、レヴィンが叫んだ。「アイリス、セレスティア!この場から全員を避難させる必要がある!人々が危険だ!」


アイリスとセレスティアは視線を交わし、互いに頷いた。力を合わせて「Lux et Glacies Protectio!」(光と氷の防護)と唱えると、青と白の光の球体が会場を包み込み始めた。美しい光の膜が広がり、まだ逃げ遅れた人々を守る結界を形成していく。


混乱の中、オブシディアンとマーカス教授の姿が黒い霧に包まれ、消えていった。代わりに、彼らが開いた歪みから次々と黒い霧の生き物が現れ始める。それは人型をしているが、顔はなく、ただ黒い靄が渦巻いているだけの不気味な存在だった。


「時空の歪みから生まれた存在だ」エリオットが警告する。彼の顔に疲労が見える。「触れられると、存在そのものが消える。記憶も、歴史も、全てが」


レヴィンの指揮の下、兵士たちは残りの学生と来賓を急いで避難させていく。アイリスとセレスティアは結界を維持しながら、黒い霧の生き物を押し返す。光と氷の力が交わる度に、それらの存在は悲鳴を上げるように消えていく。


しかし、次々と新たな存在が亀裂から現れ、二人の力も限界が近づいていた。


「このままでは持たない」アイリスは息を切らせながら言った。


セレスティアの力が弱まっていくのを感じる。彼女の顔がさらに青白くなり、体が震え始めていた。「血の封印」の影響がまだ完全には消えていないのだ。


「一つだけ方法がある」


エリオットが二人に近づいてきた。彼はマーカス教授を封じる魔法を解き、全力で彼らの元に駆け寄ってきた。「『時空の間』に入り、そこからオブシディアンを追跡する。彼を止めなければ、全ては無駄になる」


「『時空の間』?」アイリスは困惑した表情で尋ねた。


「君たちが決闘大会で一瞬だけ経験した空間だ」彼は急いで説明する。「光と氷の力が本当の意味で交わるとき、その境界に存在する世界。時間と空間の狭間にある場所だ」


「でも、どうやって?」


「ペンダントと共に、本当の力を解放するんだ」エリオットの赤い瞳が深い光を放つ。「君たちの魂の奥底にある力を」


セレスティアとアイリスは視線を交わし、互いの中に決意を見出した。「やってみる」


二人は向かい合い、互いの手を強く握った。青白い肌と、温かな肌が触れ合う。アイリスは世界の境界線が見えてきたような感覚に包まれ、力を集中させた。


「Memoria Temporis!」(時の記憶)

「Lux Aeterna!」(永遠の光)


二つの魔法が完全に融合し、空間に綺麗な亀裂が走る。それはオブシディアンが作り出した黒い亀裂とは違い、青と白の光が織りなす虹色の道だった。亀裂の向こうには、星空のような美しい空間が広がっている。


「これが『時空の間』への入口だ」エリオットが静かに言った。彼の表情に畏敬の念が浮かぶ。「オブシディアンはここを通って、儀式の場所へ向かったはずだ。『大儀式』を執り行う根源の場所へ」


「行くの?」アイリスは緊張した面持ちで尋ねた。


「行かなければならない」レヴィンが決然と言った。彼の剣が青い光を放っている。「彼を止めなければ、世界は彼の思い通りに書き換えられる。全ての人の自由、全ての可能性が奪われる」


脅威的な黒い霧の存在が次々と押し寄せる中、避難は既にほぼ完了していた。しかし、広場の亀裂は大きくなる一方で、このままでは学院全体が飲み込まれるだろう。


「レヴィン」アイリスは彼の目をまっすぐ見つめた。「残りの人々を守って。王家の力が必要よ。この結界を維持するのよ」


「だが…」彼の紫の瞳に心配と葛藤が浮かぶ。「君たちだけでは危険だ」


「私とセレスティア、そしてエリオットが追いかける」アイリスは彼の手を取った。「あなたに守ってもらう人がいる。王太子としての責任よ」


彼は一瞬躊躇ったが、やがて頷いた。「わかった。だが必ず戻ってくるんだ。約束してくれ」


彼の紫の瞳には心配と信頼が混じり合い、強い感情が宿っていた。「約束する」アイリスは静かに答えた。


最後に彼の手を握り、アイリスはセレスティアとエリオットと共に『時空の間』へと踏み出した。虹色の光の中に、三人の姿が消えていく。


---


言葉では表現できない空間が広がっていた。無限の宇宙のように、無数の星のような光が漂い、時間の流れそのものが目に見える形で存在している。光の流れは川のように、時に分岐し、時に合流する。


「これが『時空の間』」アイリスは息を呑んだ。


エリオットが先導し、アイリスとセレスティアが続く。足元には実体のない道のようなものが形成され、彼らの意志に応じて伸びていく。三人の周りには、青と白と赤の光のオーラが漂っていた。


「あれを見て」セレスティアが指さした。


遠くに、無数の映像が水中の泡のように浮かんでいる。映像の中には様々な「アイリス」の姿。よく見ると、それは前世の「佐々木美咲」の日常—書類に囲まれたオフィスで働く姿、終電に乗る疲れた表情、そして恋愛ゲームに熱中する姿。


そして現世の「アイリス」の過去の場面—母と遊ぶ幼い頃、学院に入学する緊張した日、セレスティアを初めて見た時の敵意に満ちた表情。


そして…見たことのない未来の可能性。レヴィンと手を繋ぐ姿、王宮で笑う姿、そして別の未来では、孤独に氷の城に閉じこもる暗い姿も。


「あれは世界線」エリオットが静かに説明した。「異なる選択、異なる運命が生み出す並行世界。全ての可能性がここには存在している」


「乙女ゲーム『氷華の約束』の世界も…」アイリスは困惑しながら言った。


「そう」彼は頷いた。「それも一つの世界線。千年前の実験で、世界線間の境界が薄くなり、記憶や運命が漏れ出し始めた。君が『ゲーム』の知識を持っているのもそのためだ。これは偶然ではなく、世界の修復のための鍵だった」


その説明に、これまでの疑問が解け始める。前世の記憶と乙女ゲームの知識が、単なる偶然ではなかったこと。すべては大きな物語の一部だったのだ。


「世界の歪み…」アイリスは呟いた。周囲の映像が次々と変わり、無数の可能性が目の前を通り過ぎていく。


「千年前、私とオブシディアンは『永遠の命』を求めて原初魔法を改変した」エリオットの声には後悔の色が混じる。彼の姿が『時空の間』の光に照らされ、透明に近くなっていた。「元々は善意からだった。死や病気のない世界を作ろうとしていた」


彼は足を止め、アイリスとセレスティアを見つめ、真剣な表情で続けた。「しかし、結果として時空の境界が崩れ、世界線が混ざり始めた。『時空の間』と現実世界の境界が薄くなり、この場所の力が漏れ出した」


「そしてオブシディアンは?」


「彼は全ての世界線を一つに統合し、自分の理想の形に作り変えようとしている」エリオットの表情が暗くなる。「『大儀式』の目的だ。彼の意志で世界を支配するために」


「でも、それは…」セレスティアが恐る恐る言った。


「全ての可能性、全ての選択の自由が奪われる」彼は断言した。「一人の意志による世界の独裁だ。彼の考える『完璧な世界』だけが残り、他の全ての可能性は消え去る」


先へ進みながら、さらに多くの映像が現れる。オブシディアンとエリオットが若かりし頃、共に研究していた場面。二人は情熱に燃え、世界を良くしようとする純粋な思いに満ちていた。次第に力と知識を手に入れるにつれ、オブシディアンの目に野心の光が灯りはじめる。そして最終的に対立するようになった二人。


「彼は初め、善意から始めた」エリオットが静かに言った。深い悲しみが彼の声に滲む。「だが力を得るにつれ、彼の理想は歪んでいった。『完璧な世界』を作るためには、不完全なものを排除すべきだと考えるようになった」


アイリスは不思議な感覚に包まれていた。このすべての真実が、自分の内側で繋がっていくような感覚。「氷翡翠の巫女」としての血筋、前世の記憶、そして現在の使命。それらが一本の糸のようにつながり、彼女の運命を形作っている。


「あれが目的地ね」アイリスが前方を指さした。


遠くに巨大な渦が見える。無数の世界線が一点に収束しようとしている場所。それは光と闇が交錯する禍々しい美しさを持っていた。渦の周囲には、複雑な魔法陣が展開されている。


「オブシディアンは既に儀式を始めている」エリオットの表情が緊張する。「急がなければ。一度儀式が完成すれば、もう誰にも止められない」


三人で渦に向かって進む。次第に強い引力を感じ始め、歩くのが困難になってくる。まるで強い風に逆らって歩くように、体が引き戻される感覚。


「アイリス様」セレスティアがアイリスの手を握る。彼女の手は以前より温かくなっていた。「一緒に。怖くありません」


彼女の温かさに力づけられ、アイリスは前進を続ける。


渦の入り口に近づくと、その中心に巨大な水晶のような構造物が見えた。半透明の巨大な水晶は、内側から様々な色の光を放っている。そこには、オブシディアンが立ち、両手を広げて複雑な魔法詠唱を続けていた。彼の周りには黒い光の渦が巻き、白髪が風に舞っていた。


「遅かったな」


気配を察したかのように、彼は振り返った。その目は若々しく、千年の時を生きた知恵と力に満ちていた。


「エリオット、そして『鍵』が揃った」オブシディアンの声には奇妙な喜びがあった。「これで『大儀式』は完成する」


「止めるわ、オブシディアン」アイリスは毅然と言った。彼女の周りに氷の結晶が舞い始める。「世界を勝手に変えさせない。一人の思いで、全ての可能性を奪わせない」


「愚かな」彼は冷笑した。「この歪んだ世界を正すのだ。死も病も、不平等も戦争もない完璧な世界を作るのだ。私の理想の世界で、全ての人が幸せに生きられる」


「あなたの考える『完璧』が、他の人にとってもそうとは限らない」セレスティアが柔らかく、しかし強い声で言った。「それは自由のない世界。選択する権利が奪われた世界」


オブシディアンは魔法の詠唱を続けながら、侮蔑的な表情で二人を見下ろした。


「自由などより、安定した幸福の方が大切だ」彼の声は冷淡だった。「痛みも悲しみもない世界で、人々は真の幸福を得る」


「誰が決めるの?あなた一人が?」アイリスは怒りを込めて問いかけた。「誰にも痛みを感じて欲しくないという思いは理解できる。だけど、その選択を奪うのは違う」


「千年の叡智を持つ私以外に、誰ができる?」オブシディアンの顔に狂気に近い確信が浮かんだ。「私は時間を超え、全ての可能性を見てきた。最善の道を知っている」


エリオットが前に出る。彼の姿が『時空の間』の光に溶け込み、輪郭がさらに透明になっていく。


「かつての友よ、目を覚ませ」彼の声には痛切な思いが込められていた。「これは『創造』ではなく『破壊』だ。多様性こそが世界の美しさだ」


「黙れ、裏切り者」オブシディアンの周りに闇の魔力が渦巻く。その怒りが波となって広がり、空間が揺れ動いた。「お前は千年もの間、私の計画を妨害してきた。もう終わりだ。今日、全ては完成する」


彼は片手を上げ、巨大な力の波動を放った。「Tenebrae Absolutum!」(絶対の闇)


圧倒的な闇の力がエリオットに向かって押し寄せる。エリオットは咄嗟に防御魔法を展開するが、力の差は歴然。彼は吹き飛ばされ、『時空の間』の床に倒れた。彼の体が一瞬、闇に飲み込まれかけ、半透明になる。


「エリオット!」セレスティアが駆け寄ろうとするが、アイリスが彼女の腕を掴んで止めた。


「駆け寄ろうとするが、オブシディアンの魔法が次々と放たれ、二人の動きを封じる。黒い鎖が二人の足首に絡みつき、身動きが取れなくなる。


「さあ、『儀式』の最後の段階だ」オブシディアンは両手を広げ、勝ち誇った表情で言った。「『氷翡翠の巫女』と『光の守護者』の力を合わせれば、全世界線の統合が完成する。私の理想の世界が誕生する」


彼の魔法に引き寄せられるように、アイリスとセレスティアは水晶の構造物へと浮かび上がる。抵抗しようとしても、体が言うことを聞かない。二人は宙に浮かんだまま、水晶の両側に固定された。


「アイリス様…」セレスティアが震える声で呼びかける。恐怖が彼女の翡翠色の瞳に浮かんでいた。


「セレスティア…力を合わせて」アイリスは必死に呼びかけた。「彼に私たちの力を使わせない」


二人の間に、再び光と氷の共鳴が起き始める。しかしその力は、オブシディアンの儀式に吸収されていく。水晶がさらに鮮やかに輝き始め、その光が渦全体に広がっていく。


「美しい」オブシディアンが恍惚とした表情で言った。「世界の再創造の瞬間だ。千年の時を経て、ついに理想が実現する」


絶望的な状況の中、アイリスの意識の中に声が響いた。温かく、優しく、そして力強い声。


「諦めるな、娘よ」


母の声。アイリスの心が震えた。


「あなたには選択する力がある。『氷翡翠の巫女』の真の力は、運命を書き換えること。時の流れを自在に操る力だ」


「母上…どうすれば」アイリスは心の中で問いかけた。


「ペンダントの真の力を解き放ちなさい。でも覚えておきなさい。大きな力には、同じだけの代償が伴う。何かを得れば、何かを失う」


その声に導かれるように、アイリスはペンダントに手を伸ばした。まだ首から下げているペンダントは、水晶の光を受けて青く脈打っている。触れると、温かさが手のひらに広がった。


「Vera Potentia Glacialis Iaspidis!」(氷翡翠の真の力)


記憶にない言葉が自然と口から溢れ出る。母から受け継いだ血の中に眠っていた力が目覚め、ペンダントが眩いほどに輝き始めた。その光が水晶の構造物全体に広がっていく。


オブシディアンの表情が一変する。驚きと怒りが入り混じった表情に。「何をしている!」彼は叫んだ。


「世界の歪みを正しているのよ」アイリスは力強く答える。氷の力が彼女の全身を包み、髪が宙に舞う。「でもあなたのやり方ではなく。全ての可能性を残すやり方で」


セレスティアも同調し、力を合わせる。「Lux Veritatis Ultimum!」(究極の真実の光)


二人の力がオブシディアンの儀式を変質させていく。彼の計画していた「世界の統合」ではなく、「世界線の修復」が始まったのだ。水晶の中で渦巻いていた様々な世界線が、少しずつ分離し、それぞれの正しい道筋に戻り始める。


「止めろ!」オブシディアンが叫ぶ。彼の顔に焦りの色が浮かぶ。「千年の計画が…!」


しかし、もう遅い。水晶の構造物が眩い光を放ち、『時空の間』全体に広がっていく。渦が逆回転を始め、収束していた世界線が次々と解放されていく。


「お母さまが言っていた、代償って…」アイリスは水晶の光の中で静かに問いかけた。


セレスティアが不安そうな表情で彼女を見つめた。「どういう意味ですか?」


「わからない。でも、何かを失うかもしれない」アイリスは直感的に感じていた。「この力を使うことで、大切なものを」


光が強まる中、オブシディアンは最後の抵抗を試みる。彼は水晶に向かって両手を掲げ、全ての魔力を集中させた。


「永遠の時間を手に入れた者を止められるものはない!」彼の声が『時空の間』全体に響き渡る。「千年の準備が無駄になるものか!」


彼は巨大な闇の力を集中させ、最後の一撃としてアイリスたちに向けて放った。闇の波が二人を飲み込もうとする瞬間—


その瞬間、エリオットが飛び込んできた。彼の体は半透明になりながらも、最後の力を振り絞っている。


「もう十分だ、古き友よ!」彼はオブシディアンの攻撃を自らの体で受け止めた。「千年の償いをする時だ」


彼はオブシディアンの攻撃を受け止め、二人は激しい魔法の対決を始める。千年の時を生きた二人の戦いは、『時空の間』そのものを揺るがすほどの激しさだった。光と闇が交錯し、二人の姿がその中に溶けていくように見える。


「アイリス様」セレスティアがアイリスの手を強く握った。「私たちの力で、世界線を正さなければ。これが私たちの使命です」


アイリスは頷き、二人は手を繋ぎ、最後の力を振り絞る。世界の歪みを直し、オブシディアンの儀式を無効化するために。


「Tempus Correctio!」(時の修正)

「Lux Renovatio!」(光の再生)


二つの魔法が完全に一体化し、時空を包む光となる。青と白が混ざり、虹色の波動が『時空の間』を満たしていく。


その光の中で、アイリスは不思議な光景を目にした。無数の「自分」の姿。前世の「佐々木美咲」—現代日本でゲームを楽しみ、友達と笑い、時に泣き、平凡ながらも懸命に生きる姿。


そして様々な可能性のアイリス—「悪役令嬢」として断罪されるアイリス、セレスティアと永遠に敵対するアイリス、孤独に生きるアイリス、そして今の自分—運命に抗い、友と共に世界を守るアイリス。


「選択するのよ」


母の声が再び響く。透明な姿が一瞬、光の中に現れたように感じた。「どの世界線を残すか。でも覚えておきなさい。選べば、他は消える」


重大な決断の瞬間。アイリスは深く考え、そして答えた。


「全ての可能性を残す」彼女の声は確信に満ちていた。「一つの理想だけを選ぶのではなく、全ての選択肢、全ての可能性を。でも、歪みは修正する」


「それが意味するのは?」母の声が問いかける。


「前世の記憶を手放すこと」アイリスは覚悟を決めた。「『佐々木美咲』としての記憶は、世界の歪みの証拠。それを手放せば、世界線は分離し、正しく機能するはず」


「そうすれば…」


「私は完全に『アイリス・フロストヘイヴン』になる」彼女は静かに言った。「前世の記憶は失う。でも、それでいい」


セレスティアが心配そうに尋ねる。「本当に?大切な記憶を…」


「世界のためだもの」アイリスは優しく微笑んだ。「それに、この世界で新しい思い出をたくさん作ったわ。あなたと、レヴィンと、そしてみんなと。これからも作っていくわ」


決意を固め、彼女は最後の詠唱を行う。「Memoria Remissionis!」(記憶の解放)


眩い光に包まれる中、アイリスの中の「佐々木美咲」の記憶が少しずつ薄れていく。通っていた学校、住んでいた街、両親の顔、友人たち、そして「氷華の約束」というゲームの記憶。すべてが光の中に溶けていく。


悲しさと解放感が入り混じる不思議な感覚。記憶が失われていくのに、心は軽くなっていく。


遠くでエリオットとオブシディアンの戦いが続いている。しかし、オブシディアンの力が弱まっているのがわかる。彼の計画は崩れつつあるのだ。


「アイリス様…」セレスティアが泣いている。涙が宝石のように輝いていた。「あなたの記憶が…」


「大丈夫」彼女の手を握り、アイリスも涙を流しながら微笑んだ。「大切なものは心に残るから。形を変えても、絆は消えない」


光が最高潮に達し、『時空の間』全体が輝き始める。世界の歪みが修正され、オブシディアンの儀式は無効化された。水晶が砕け散り、渦が消えていく。


最後の瞬間、オブシディアンの叫び声が聞こえる。「千年の時を…無駄にはしない!次に会う時は…!」


彼の声がエリオットの声と共に、光の中に溶けていく。二人の千年の因縁が、ついに終わりを迎えたのだ。


そして全てが白い光に包まれた。


---


目を開けると、アイリスは学院の中央広場にいた。頭が少し混乱し、何が起きたのか一瞬認識できない。周囲には混乱の跡があるが、大きな被害はないようだ。空は晴れ渡り、優しい陽光が降り注いでいる。


「戻ってきた…」


隣には、セレスティアが横たわっている。疲労で力尽きたようだが、呼吸は安定していた。彼女の顔は穏やかで、金色の髪が陽光に輝いている。


「アイリス!」


駆け寄ってくる声に顔を上げると、レヴィン王子が急いで近づいてくるのが見えた。彼の紫の瞳には安堵と心配が混じっている。


「無事だったか」彼はアイリスの肩を抱き、その温かさが彼女の冷たい体を暖めた。「何が起きた?『時空の間』で」


説明しようとするが、記憶が断片的だ。何かを失ったという感覚はあるが、具体的に何かは思い出せない。頭の中に大きな空白があるような感覚。


「オブシディアンの計画を止めたわ」それだけは確かだった。「世界の歪みを修正して。でも、詳しいことは…覚えていない」


「エリオットは?」レヴィンが周囲を見回した。


その名前に胸がきゅっと締め付けられる。アイリスの目に涙が浮かんだ。「わからない。最後までオブシディアンと戦っていたの。彼は…私たちを守るために」


何か重要なことを忘れているような感覚。しかし、それが何なのかを思い出せない。まるで夢を見たが、目覚めと同時に忘れてしまったような感覚。


兵士たちが近づいてきた。「王太子殿下、良い知らせです。バジル・フロストヘイヴン様が解放されました。無実が証明され、大公の地位も返還されることになりました」


「父が!」


嬉しさで胸がいっぱいになる。父が無事だと知れただけでも、全ての苦労が報われた気がした。涙が頬を伝い落ちる。


「彼の無実は証明された」レヴィンが嬉しそうに言った。「『真実の鏡』の映像は、高官たちの目にも焼き付いている。誰も否定できない事実だ」


「ドロシアは?」アイリスは震える声で尋ねた。


「捕らえられた」レヴィンの表情が厳しくなる。「彼女と『永劫の檻』のメンバーの多くが。正式な裁判で裁かれることになる」


「マーカス教授は?」


「姿を消した。オブシディアンと共に」レヴィンは眉をひそめた。「完全に消えたのか、それとも隠れているのか…まだわからない」


彼の言葉に、安堵とともに警戒心も生まれる。まだ完全な勝利ではないのだ。


「アイリス」レヴィンが真剣な表情で彼女を見つめた。「君は何か…変わったことはないか?何か失ったものは?」


その質問に、アイリスは心の奥に大きな空白があることを感じる。何かを犠牲にしたという感覚。でもそれが何かは…


「何も思い出せないの」正直に答える。「何かを失ったような気はするけど。大切な記憶を…でも、何なのかわからない」


レヴィンは優しく頷いた。「無理に思い出そうとしなくていい。大切なのは、君が無事だということだ。そして、君の選択が世界を救ったということ」


彼の言葉に温かさを感じる。そばにセレスティアが目を覚まし、弱々しく微笑んだ。


「成功…したんですね」彼女の声はかすれていたが、目は明るく輝いていた。


「ええ」アイリスは彼女の手を握った。「私たちの力で」


セレスティアの表情には複雑な感情が浮かんでいたが、彼女は何も言わなかった。彼女は何かを知っている。彼女は覚えている。しかし今は尋ねるべきではないと感じた。時が来れば、わかるのかもしれない。


「さあ、父のところへ行きましょう」アイリスは優しく言った。


レヴィンに支えられながら立ち上がる。疲労で体が重いが、心は希望に満ちていた。陽光が暖かく肌を包み、新しい朝の訪れを感じる。


空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。新しい始まりのように。


世界に変化があったとしても、今のアイリスにはわからない。ただ、これからの道を自分の意志で歩んでいけることだけは確かだった。


フリーズが小さな光となって現れ、アイリスの肩に乗る。「よくやった、アイリス」彼の声には誇りが滲んでいた。


「ありがとう…ずっと見守ってくれて」アイリスは小さく微笑んだ。


「これからも見守り続けるよ」彼は温かく言った。「『氷翡翠の巫女』としての君の旅はまだ始まったばかりだからね」


その言葉に、新たな決意が湧き上がる。母の遺志を継ぎ、この世界を守る使命。前世の記憶は失ったかもしれないが、今ここにいる自分には、守るべきものがある。


「そうね。これからが本当の始まりね」


レヴィン、セレスティア、そしてフリーズと共に、アイリスは歩き出した。失った過去ではなく、これから作る未来へと向かって。


(第9章 おわり)

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