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第7章「策略と対決」


陽光が石畳に降り注ぐ早朝、学院の裏庭に佇むアイリスの周囲に、うっすらと霜が張っていた。前日の決闘大会の衝撃が冷めやらぬ中、彼女の青い瞳は昨日より一層鋭く、冷たさを増していた。


「氷の令嬢」としての彼女の評判は、今や新しい意味を帯びている。決闘大会で見せた驚異的な魔法の共鳴現象は、学院中の話題となっていた。廊下を歩けば、畏怖の目で見られ、背後では囁き声が追いかけてくる。


「あの氷の結晶は何だったのか...」

「『時空の間』を開いたという噂が...」

「フロストヘイヴン家に伝わる禁断の魔法とか...」


アイリスは耳を閉ざし、古い樫の木の下で待ち続けた。その指先で氷翡翠のペンダントをなぞりながら、母の面影を思い浮かべる。


「来るかしら...」


空を見上げながら呟いた時、柔らかな足音が聞こえた。振り向くと、朝靄の向こうから金色の輝きと共にセレスティアの姿が浮かび上がってきた。朝日が彼女の髪を透かし、まるで光の冠をかぶったように見える。


「フロストヘイヴン様、おはようございます」


彼女は少し緊張した様子だが、翡翠色の瞳には決意の色があった。前日の戦いで「血の封印」から解放されてから、彼女の目には新たな光が宿っていた。


「誰にも見られなかった?」アイリスは周囲を警戒しながら低い声で尋ねた。


「はい」セレスティアは小さく頷いた。「この時間、まだほとんどの学生は寝ています。見張りの魔法使いも交代の時間ですから」


「よく調べたわね」アイリスは思わず微笑んだ。かつての臆病な平民の少女は、今や冷静に状況を分析できるほど成長していた。


「良かった」安堵のため息が白い息となって空に消えていく。「今日は大切な試みをするの。危険かもしれないけど...必要なことよ」


「母上様の死の真相ですね」セレスティアの声には強い共感が込められていた。


彼女の素早い理解に頷き、アイリスは周囲に小さな魔法結界を張った。氷の薄膜が二人を包み込み、外からの視線と音を遮断する。


「氷の記憶の魔法を、もっと深く使ってみたいの。でも一人では難しい」


「どうすればいいですか?」セレスティアは真摯に尋ねた。


「あなたの光の魔法で私の氷の魔法を増幅させるの。昨日の決闘大会のように」アイリスはペンダントを取り出した。「でも今回は、もっと遠い過去、もっと鮮明に見る必要があるわ」


青白い氷翡翠が朝日に反射して、まるで内側に宇宙を閉じ込めたように光の渦を作りだしていた。


「始めましょう」


アイリスは結界の中心に立ち、セレスティアと向かい合った。二人の間に漂う緊張感と期待が、空気を電流のように震わせる。


「手を繋いで」


セレスティアと手を取り合うと、温かい感触と共に魔力の穏やかな波動が伝わってきた。氷の魔法使いであるアイリスにとって、彼女の体温と魔力の暖かさは、不思議な安心感をもたらした。


「私が『氷の記憶』を唱えたら、あなたは『真実の光』を。そして母の死の瞬間に意識を集中して」


彼女は真剣に頷き、目を閉じた。その表情には、友のために全力を尽くす決意が刻まれていた。


アイリスも目を閉じ、ペンダントに意識を集中する。母の面影、彼女の青い瞳、優しい声、そして最期の日の書斎の光景を思い浮かべる。


「Memoria Glacialis」(氷の記憶)


アイリスの声が静かに響くと、ペンダントが鮮やかな青色に輝き始めた。結界内の気温が急激に下がり、二人の吐く息が白く凍りついたように見える。


「Lux Veritatis」(真実の光)


セレスティアの応答と共に、彼女の掌から純白の光が広がり、アイリスの氷の結晶と美しく絡み合った。青と白の光の糸が二人を取り巻き、織物のように複雑な模様を作り出す。


昨日よりもさらに強く、より明確な魔力の共鳴が起こった。アイリスの意識が現実から離れ、時の流れの中へと入っていく感覚。周囲の景色が溶け、代わりに過去の断片が霧の中から形を成していく。


「母上...」


彼女は集中して10年前の記憶を探る。フロストヘイヴン邸の書斎が映像として浮かび上がった。母エレノアの最期の時間。


映像が徐々に鮮明になっていく—


*エレノア・フロストヘイヴンが書斎の机に向かい、急いで何かを書いている。「愛しい娘へ」で始まる手紙。彼女の表情には焦りと決意が混在している。青い髪が月明かりに照らされ、銀色に見える。窓の外は雪が降り、書斎内は暖炉の火だけが温かさを提供している。*


*突然、扉が開く音。母が振り向き、恐怖の表情を浮かべる。*


「誰?」アイリスの声が過去と現在の境界を超えて響く。


今度は昨日よりも映像が鮮明で、音さえも聞こえてくる。入ってきた人物の姿がはっきりと見える—


*黒いローブを着た人物。ゆっくりとフードを取り、若いころのドロシア—アイリスの継母の姿が現れる。彼女の赤褐色の髪が炎のように見え、目には残酷な光が宿っている。*


「継母...!」アイリスの胸から低い悲鳴が漏れた。


*「エレノア、もう十分よ」ドロシアの冷たい声が書斎に響く。「その研究は止めなさい。これ以上『守護者』として活動するなら、代償を払うことになる」*


*「あなたたちの計画は許さないわ」母—エレノアの声には毅然とした強さがある。「世界を危険に晒すだけよ。オブシディアンの野望は狂気だわ」*


*ドロシアが一歩近づく。彼女の周りに赤い魔力のオーラが漂い始める。「選べるのはあなただけ」彼女が小瓶を取り出す。「飲むか、それとも家族全員が不幸になるか」*


*エレノアの顔に恐怖が走る。「アイリスには...」*


*「そう、あの子にも同じ運命が待っている」ドロシアの笑みが残忍になる。「ただし、あなたが今ここで消えれば、娘には少しだけ猶予をあげるわ。彼女は政略結婚の駒として十分価値がある」*


*母の目に決意の色が宿る。「娘には手を出さないで。約束して」*


*「約束するわ」ドロシアの目に嘘が透けて見える。「あなたが消えれば、今すぐには手を出さない」*


*母が震える手で小瓶を受け取り、一瞬ためらった後、内容物を飲み干す。その金色の液体が喉を伝う音さえも聞こえる。*


*「バジルには...何と?」母の声が既に弱まり始めている。*


*「あなたが病死したと」ドロシアの冷酷な微笑み。「彼は悲しむでしょうね。でもすぐに私が慰めてあげる。王国政治は複雑で、心の支えが必要ですもの」*


*小瓶が床に落ち、割れる音。母がゆっくりと床に崩れ落ちる。彼女が最後の力を振り絞って何かを握りしめる—氷翡翠のペンダント。そこから青い光が漏れ出し、彼女の言葉を記録しているかのようだ。*


*「アイリス...守って...氷翡翠の...力...」最期の言葉が消え、輝いていた青い瞳が閉じる。*


*そして、ドロシアの後ろの扉の隙間に、もう一人の人影が見える。子供の姿。恐怖で固まり、何も言えずに立ち尽くしている。アレクサンダー—アイリスの異母弟。当時まだ2歳だった彼が、偶然この光景を目撃していたのだ。*


「母上!」


激しい痛みと共に、幻影が崩れた。現実世界に引き戻されたアイリスは、頬を伝う熱い涙を感じた。膝から崩れ落ち、冷たい地面に手をつく。


「アイリス様...」


セレスティアも涙を浮かべ、彼女の肩を支えている。震える手でアイリスの背をさすり、慰めようとする彼女の優しさが身に染みた。


「見たわ...真実を」アイリスは震える声で言う。「継母が母を毒殺したのね。それも『永劫の檻』のために...」


「ひどすぎます...」セレスティアの声も震えていた。「でも、他にも何か...お気づきになりました?」


「えっ?」アイリスは顔を上げた。


「映像の最後、ドロシア様の背後に小さな影がありました。お弟さまだったのでは?」


記憶を辿り直す。確かに、ドロシアの後ろの扉の隙間に、小さな子供の影があった。アレクサンダー—当時まだ幼かった異母弟。


「アレクサンダー...」アイリスの目が見開かれた。「彼は知っていたの?でも、まだあんなに小さかったから...記憶しているはずがない」


「あるいは無意識の記憶として残っているかもしれません」セレスティアが静かに言った。


思考が混乱する中、周囲の空気が突然冷たくなった。結界に何かが触れ、氷の膜に亀裂が走る。魔力の波動を感じ、二人は反射的に立ち上がった。


「誰かが来る。結界が侵入されている」アイリスは低い声で警告した。


セレスティアも警戒して立ち上がり、アイリスの前に立ちはだかるように位置した。彼女の変化に、アイリスは一瞬驚いた。かつての臆病な少女が、今や彼女を守ろうとしている。


「マーカス教授でしょうか?」セレスティアの声には緊張が滲んでいた。


「いいえ、別の...」アイリスは魔力の流れを感じ取った。「これは火属性の...」


言葉が終わる前に、木々の間から優雅な姿が現れた。朝日に照らされた赤髪が炎のように揺れ、高価な薔薇色のドレスに身を包んだ女性が、まるで舞踏会に現れるかのような優雅さで歩み寄ってきた。


「まぁ、朝から秘密の会合ですの?」


ミランダ・クリムゾン—公爵令嬢にして学院随一の美女。彼女の赤い唇は優雅な微笑みを湛えていたが、その目は冷たく計算高い光を宿していた。


「ミランダ」


アイリスは警戒しながらも冷静さを装い、「氷の令嬢」としての高慢な表情を作り上げた。彼女がどこまで見ていたのか、聞いていたのか。そして彼女の真の立場は—


「偶然通りかかっただけよ」ミランダは明らかな嘘をつくように言った。指先で赤髪を弄びながら。「でも興味深いものを見てしまったわ。『氷の記憶』と『真実の光』…古代魔法の復活ね。魔法史の教科書でしか見たことがなかったわ」


「何を望んでいるの?」アイリスの声は氷のように冷たかった。


「警告よ」


ミランダの声が急に冷たくなり、彼女の周りにわずかに赤い魔力が漂い始めた。朝露が蒸発し、周囲の温度が上昇する。


「あなたたちの行動は監視されている。特に『永劫の檻』によって。彼らはあなたの母上様を殺した時と同じ手段で、今度はあなたを狙っているわ」


その名前を彼女が口にしたことに、アイリスは衝撃を受けた。彼女の青い瞳に驚きが広がる。


「あなたも関わっているの?」


ミランダは小さく笑った。その笑みには苦さと皮肉が混じっていた。

「複雑な世界よ、アイリス。単純に善悪では割り切れないもの。特に私たちのような貴族の娘にはね」


彼女が一歩近づくと、香水の甘く重たい香りが風に乗って漂ってきた。セレスティアが警戒して身構える。


「今日、あなたの父上に何かあるかもしれないわ。心の準備をなさい」


「何ですって?」アイリスの声が鋭くなる。


「政治の世界は残酷よ」ミランダは肩をすくめ、優雅に扇子を広げた。「特に裏切り者には。『永劫の檻』を内部から調査しようなんて、10年も続けられると思ったのかしら」


その言葉を残し、彼女は艶やかなドレスをひるがえして立ち去った。風に乗って、最後の言葉が届く。

「明日の『断罪の儀』、楽しみにしているわ」


彼女が去った後、セレスティアが困惑した表情でアイリスを見つめた。「彼女は…敵なのでしょうか?味方なのでしょうか?」


「わからない」アイリスは正直に答えた。彼女の指先が震えているのを感じる。「でも父に何かあるかもしれない。急いで確認しなければ」


---


「大変です、お嬢様!」


朝の授業前、廊下を急ぐアイリスの前に、リディアが青ざめた顔で駆け込んできた。通常なら冷静沈着な侍女長の取り乱した様子に、最悪の事態を悟る。


「どうしたの?」アイリスは氷の仮面の下で心臓が早鐘を打つのを感じながら尋ねた。


「お父様が…失脚されました」彼女は震える声で告げた。周囲に人がいないことを確認し、さらに声を落とす。「今朝、王国議会で反逆罪の疑いをかけられ、大公の地位を剥奪されたとの報せが…」


心臓が氷のように冷たくなる。ミランダの警告が現実になった。アイリスの周囲の空気が凍りつき、廊下の窓ガラスに小さな霜の結晶が広がり始める。


「理由は?」彼女は冷静さを取り戻そうと深呼吸した。


「『永劫の檻』との関わりが疑われているとか…」リディアは小声で続けた。「しかし、裏では継母様の策略だと噂されています。彼女の兄が証人として立ち、フロストヘイヴン家の内部文書を証拠として提出したそうです」


まさに母の死と同じパターン。ドロシアが父を陥れたのだ。アイリスは胸に痛みを感じた。冷酷だと思っていた父が、実は10年もの間、母の仇を追い、闇の結社と戦っていたとは。


「父上は?」彼女は恐る恐る尋ねた。


「拘束されて王都の牢に…」リディアの目に涙が浮かんだ。「明日の裁判までの仮拘留だそうです」


激しい怒りと恐怖が入り混じる。しかし動揺している場合ではない。冷静に考えなければ。アイリスは深く息を吸い、心を氷のように冷やした。


「リディア、荷物をまとめて」決然と命じる。「重要なものだけよ。何かあったときのために」


「はい、お嬢様」リディアは忠実に頷いた。


彼女が去った後、アイリスは大窓から外を見渡した。晴れた朝の陽光の下、学院の中庭では学生たちが談笑し、日常が流れている。しかし彼女の世界は激変しつつあった。フロストヘイヴン家の失脚は、彼女の立場も危うくする。学院での地位、友人関係、そして婚約者としてのレヴィン王子との関係も…


考えに沈んでいると、背後で教室の扉が音もなく開いた。緊張した気配を感じ、アイリスは振り返った。


「フロストヘイヴン嬢」


マーカス教授が入ってきた。いつもの落ち着いた態度だが、彼の目には勝利の色が見える。彼の表情には偽りの同情が浮かんでいた。


「聞いたよ、君の父親のことを。残念だ」彼の言葉と目が一致していないことに気づく。


「ありがとうございます」


アイリスは完璧な礼儀作法で応じながらも、警戒心を高めた。彼が「永劫の檻」のメンバーだと知っている今、すべての言動が疑わしく、危険に感じられる。昨日の決闘大会で見た真実の映像が頭に浮かぶ。マーカス教授が黒いローブを着て、血の儀式を行っていた姿。


「校長が君を呼んでいる」彼は続けた。「家族の件で…話があるそうだ」


「わかりました」


教授の後について歩き出すが、直感的に危険を感じた。通常、校長室への道はメイン廊下のはずだが、彼は別の経路へと進んでいる。左手の薄暗い通路、ほとんど使われていない古い廊下へと。


壁の松明が妙に揺れ動き、二人の影が歪んで床に伸びている。足音が石の廊下に不吉に響く。


「教授、校長室はこちらではありませんよね?」アイリスは警戒心を露わにし、足を止めた。


「ああ、今日は別室でね」マーカスの説明に違和感を覚える。彼の口調がいつもと微妙に異なる。「校長は今、北の塔にいる」


北の塔。ほとんど使われていない、学院の最も古い建物だ。霧に覆われ、魔力の乱れが絶えないという噂の場所。


「失礼ですが、確認させてください」アイリスは毅然と言った。彼女の周りに薄く霜が広がり始める。


立ち止まり、警戒の姿勢を取る。マーカス教授も足を止め、ゆっくりと振り返った。廊下の松明の光が彼の顔に不気味な影を落とす。


「賢明だね、フロストヘイヴン嬢」彼の口調が急に変わる。柔らかな教師の声から、冷たく鋭い響きへ。「いや、『氷翡翠の巫女』と呼ぶべきか」


その瞬間、廊下の空気が凍りつき、霧が立ち込めた。松明の炎がゆらめき、青白い光に変わる。教授の周りに暗い魔力が渦を巻き始め、一瞬にして彼の姿が別人のように見えた。黒いローブを身にまとい、若々しかった顔に年齢の影が浮かぶ。


「やはり…」アイリスは震える手で氷翡翠のペンダントを握りしめた。


反射的に防御態勢を取る。「Glacialis Scutum!」(氷の盾)と唱え、透明な氷の障壁を作り出した。氷の盾が青白く輝き、幾何学的な模様を浮かび上がらせる。


「無駄だ」マーカス教授は手をかざし、「Tenebrae Fractio!」(闇の破壊)と唱えた。


黒い光線が松明の炎のように彼の指先から放たれ、アイリスの氷の盾を襲う。まるでガラスが砕けるような音と共に、氷の盾が粉々になった。破片が廊下の床に雪のように舞い落ち、消えていく。


マーカスの口元に残忍な笑みが浮かぶ。「あなたの父親のような愚か者ではないようだな」彼は冷笑した。「彼は10年も我々を欺いたつもりだったが、最後は簡単に罠にはまった。彼の『守護者』としての活動も、明日で終わりだ」


「父が…二重スパイだったの?」アイリスの声に驚きが混じる。


「そうだ」教授は頷いた。「エレノア・フロストヘイヴンの死後、彼は妻の遺志を継ぎ、『守護者』として活動していた。我々の計画を内部から阻止しようとね」


衝撃の事実に、アイリスの胸に熱いものが込み上げてきた。冷たく厳格だと思っていた父は、実は母の意志を継いで闇の結社と戦っていたのだ。彼女を冷遇していたのも、『永劫の檻』の目から娘を守るための演技だったのかもしれない。


「でも、もう遅い」教授は勝ち誇ったように続けた。「大儀式の準備は整った。必要なのは君とセレスティアの力だけだ。冬至の夜、『時の歪み』が最大になる時、世界は再構築される」


「決して渡さないわ!」アイリスは毅然と言い放った。氷のような冷静さの下に、激しい怒りが渦巻いている。


「選択肢はない」マーカスの瞳が赤く光り、彼の周りの闇が濃くなる。「君を連れていく。抵抗するなら、痛い目を見ることになるぞ」


攻撃の構えを取る教授に対し、アイリスは咄嗟の判断で「Glacialis Nebula!」(氷の霧)と唱えた。彼女の口から吐き出された白い息が廊下全体を覆い、濃い霧となって視界を奪う。温度が急降下し、床と壁に厚い霜が張りつく。


その隙に全力で逃げ出す。重い学生ローブの裾をたくし上げ、滑りやすくなった廊下を駆け抜ける。メイン広場を目指す。人目があるところなら安全かもしれない。心臓が激しく鼓動を打ち、耳には自分の荒い息遣いだけが聞こえる。


「逃げられると思うな!」


背後から教授の声と魔力の波動を感じる。「Umbra Catena!」(影の鎖)という詠唱が鋭い剣の音のように廊下に響いた。


その瞬間、足元から黒い鎖が蛇のように伸び、アイリスの足首を捕らえた。冷たく、しかし火傷するような感覚が足から全身に広がる。


「くっ!」


転倒し、冷たい石の床に倒れる。鎖が徐々に体を締め付け、動けなくなってきた。苦しさに顔をゆがめながらも、アイリスは諦めなかった。


「フリーズ、助けて...」小さな声で氷精霊を呼びかける。


しかし精霊の姿は現れず、闇の鎖の力に抑え込まれているようだった。


「諦めろ、アイリス」マーカスが黒い霧の中から姿を現し、ゆっくりと近づいてくる。彼の足音が廊下に不吉に響く。「抵抗は無意味だ。お前は『氷翡翠の巫女』として運命づけられている。世界の再構築に貢献するのだ」


絶望的な状況の中、突然、まばゆい光が廊下に満ちた。太陽が昇ったかのような強烈な輝きが闇を切り裂く。


「Lux Liberatio!」(光の解放)


セレスティアの澄んだ声が廊下の端から響いた。彼女が両手を広げ、純白の光が彼女の全身から放たれる。黄金の髪が風もないのに舞い上がり、翡翠の瞳が燃えるような光を放っている。


放たれた光が闇の鎖を照らすと、まるで太陽に当たった霜のように、鎖が蒸発して消えていった。アイリスは自由を取り戻し、痺れた足を引きずりながら立ち上がる。


「アイリス様!」


「セレスティア!」


二人の声が重なった瞬間、二人の間に光の橋が架かったように見えた。


アイリスは彼女の方へ駆け寄る。マーカス教授は一瞬たじろぎ、目を細めて光から顔を背けた。


「二人揃って現れるとはな」彼は歯ぎしりしながら言った。「好都合だ。二人まとめて連れていく!」


「逃げましょう!」セレスティアが叫んだ。


二人は手を取り合い、廊下を駆け抜けた。セレスティアの光の魔法が彼女たちの足元を照らし、アイリスの氷の魔法が背後に障壁を作る。完璧な連携プレーで、彼女たちは中央広場へと飛び出した。


朝の陽光の中、多くの学生たちが行き交う広場。安全だと思ったのもつかの間、不自然なほどの静寂が広がった。学生たちが一斉に彼女たちを見つめ、まるで彫像のように動きを止めた。彼らの目は空虚で、魂が抜けたように見える。


「何が...」アイリスは混乱して周囲を見回した。


「時間停止の魔法?」


「いいえ、幻影です」セレスティアが震える声で言った。直感的に真実を理解する彼女の能力は、日に日に強くなっている。「私たちだけが現実を見ている。他の学生たちには、何も起きていないように見えるのです」


マーカス教授が悠然と広場に姿を現した。彼の周りだけ空気が歪み、影が不自然に伸びている。「逃げ場はない。『永劫の檻』の力は学院全体に及んでいる」


絶体絶命の状況で、突然、清々しい風が広場を吹き抜けた。空から降り注ぐ強い風と共に、金属の鳴る音が聞こえる。


「Ventus Gladio!」(風の剣)


銀色の風の刃がマーカス教授に向かって飛来した。まるで見えない騎士が剣を振るうかのような風の斬撃。教授は咄嗟に「Umbra Aegis!」(影の盾)と唱えるが、衝撃で数歩後退する。


空からの強風と共に、青い制服を着た人物が二人の前に舞い降りた。黒髪と紫の瞳、凛々しい立ち姿。王家の威厳を身にまとった彼の存在感は、周囲の異常な雰囲気さえも打ち破るかのようだった。


「レヴィン王子!」アイリスの声に安堵が混じる。


彼は凛とした姿勢で風の剣を構え、二人を守るように立ちはだかる。その背中は広く、頼もしく見えた。


「下がっていろ」彼は振り返らずに言った。声に力強さがある。「二人とも」


「おや、王太子殿下」マーカス教授は嘲笑うように言った。しかし、その目に僅かな焦りが見える。「学院の問題に王室が介入するとは。まさか君も『守護者』の一員だったとは」


「永劫の檻の活動は国家反逆罪だ、マーカス」レヴィンは冷たく言い放った。風が彼の言葉に呼応するかのように強まる。「その罪で逮捕する。父の名において」


「甘いな」教授の周りに暗い魔力が渦巻き、床の石畳に亀裂が走る。「君一人では私を止められない。オブシディアンの力を知らないようだな」


緊張が高まる中、もう一つの声が別の方向から響いた。


「彼は一人じゃない」


木々の陰からエリオットが姿を現した。銀髪が風に靡き、赤い瞳が異様に輝いている。何世紀もの時を超えた存在の重みが、彼の周りに波動となって広がる。


「おまえも...」マーカス教授の表情に初めて本物の動揺が見えた。「千年の亡霊が、まだ彷徨っているとは」


「四対一か」彼は状況を冷静に分析し、決断を下したようだ。「今日のところは退くとしよう。しかし、これは単なる戦術的撤退に過ぎない」


彼の体が徐々に霧のように薄くなっていく。黒い影が彼の輪郭を消していく。


「だが覚えておけ。大儀式は止められない。三日後の満月の夜、冬至の時、全てが決まる」


完全に消える前、彼は最後の言葉を残した。目は特にアイリスに向けられている。


「特に君は、アイリス。明日の『断罪の儀』で生き残れるかな?皆の前で貴族としての命が断たれる気分はどうだ?」


そして彼の姿は完全に消え、幻影も解けた。学生たちが再び動き始め、何事もなかったかのように日常会話を続けている。彼らには今の出来事は全く見えていなかったのだ。


「断罪の儀?」アイリスは震える声で尋ねた。


レヴィン王子が風の剣を収めながら、厳しい表情で説明した。「学院での公開裁判だ。貴族の不名誉な行いを公の場で裁く儀式。君に対する告発が行われたらしい」


「何の罪で?」セレスティアが恐る恐る尋ねた。


「父親の罪に関連して、謀反の共犯者という疑いだ」レヴィンの声には怒りが滲んでいた。「明らかに『永劫の檻』の策略だ」


エリオットが近づき、周囲に結界を張りながら小声で付け加えた。「これは罠だ。君を公の場で失脚させ、力を奪おうとしている。そして『氷翡翠の巫女』として儀式に利用するつもりだ」


「明日?」アイリスの声に焦りが混じる。時間が足りない。


「そう」レヴィンは頷いた。「時間がない。証拠を集めなければ」


四人は人目を避け、学院の秘密の場所へと移動した。古い書庫の奥にある小さな空間。ろうそくの光だけが照らす薄暗い部屋に、古代の書物と魔法器具が並ぶ。埃っぽい空気が鼻をくすぐる。


「ここは『守護者』が代々使ってきた隠れ家だ」レヴィンが説明した。「魔法的に隠されているから、『永劫の檻』も見つけることはできない」


「状況を整理しよう」彼は中央のテーブルに地図を広げた。「フロストヘイヴン大公は失脚し、アイリスも明日の断罪の儀で同じ運命を辿りそうだ」


「そして三日後、満月の夜に『永劫の檻』が大儀式を行う」エリオットが続けた。老いた賢者のような響きが彼の声に宿る。「世界の再構築を目指す儀式だ。時間と空間を書き換え、オブシディアンの理想に沿った世界を作り出す」


「それを止めるには?」セレスティアが恐る恐る尋ねた。彼女の手が小さく震えていた。


「真実を示すしかない」アイリスは決意を込めて言った。彼女の中で氷のような冷静さと、燃えるような怒りが同居している。「母の死の真相、父の潔白、そして『永劫の檻』の真の目的を。公開の場で、全ての人に示すの」


「どうやって?」レヴィンが尋ねる。その眼差しにはアイリスへの信頼が宿っていた。


「『氷の記憶』と『真実の光』を使って」アイリスはセレスティアを見た。「過去の映像を公開の場で見せるの。マーカス教授の二重人格も、継母の策略も、全てを」


エリオットが思案している。「危険だが、効果的かもしれない。『永劫の檻』の力を弱める最も確実な方法は、その秘密を暴くことだ」


彼の赤い瞳に複雑な感情が浮かぶ。「しかし…」


「問題は?」


「証拠を映し出すには、強力な媒体が必要だ」彼は言った。「ペンダントと二人の力だけでは、大勢の前で鮮明な映像を見せるには力不足だ」


レヴィンが立ち上がり、決意に満ちた表情を見せた。「王宮に古い魔法器がある。『真実の鏡』と呼ばれるものだ。過去の映像を増幅し、多くの人に見せることができる」


「それを持ってこられる?」アイリスの青い瞳に希望の光が灯った。


「今夜、取りに行く」彼は決意を見せた。「危険だが、父には内緒で持ち出さなければならない。アイリス、君は安全な場所で待機するべきだ」


「いいえ、逃げるつもりはないわ」


アイリスは立ち上がり、氷のような冷静さと、炎のような熱情をたたえた瞳でレヴィンを見つめた。彼女の中に眠っていた真の強さが目覚めたかのように。


「明日の『断罪の儀』に立ち向かう。それが父と母の名誉を守る道だもの。私はフロストヘイヴン家の娘として、真実を示す義務があるわ」


レヴィンは驚いたように彼女を見つめ、やがて敬意と何か別の感情を込めて小さく頷いた。「理解した。君の勇気に敬意を表する」


彼はアイリスの手を取った。その温かな感触に、彼女の心が震えた。「必ず守る。約束する」


王子の紫の瞳に映る強い決意と優しさに、アイリスは一瞬言葉を失った。幼い頃から政略結婚として約束されていた相手。しかし今、彼女の心には別の感情が芽生えていた。


エリオットが小さく咳払いをして、場の空気を変えた。彼の赤い瞳に一瞬、複雑な感情が浮かんだ気がした。


「さて、作戦を立てよう」彼は冷静に言った。「時間は限られている」


四人は夜遅くまで計画を練った。レヴィンは真実の鏡を取りに王宮へ、エリオットは学院の見張りを担当、アイリスとセレスティアは「氷の記憶」の効果を高める練習をすることになった。


---


夜半過ぎ、アイリスとセレスティアは寮の一室で魔法の練習を続けていた。窓から差し込む月明かりだけを頼りに、二人の魔法の光が部屋の壁に幻想的な影を描き出す。


「もう一度」


アイリスは疲れた表情を見せながらも、決意を込めて言った。


セレスティアも顔色が優れないながら、頑張って頷く。「はい」


二人は再び向かい合い、手を取り合った。長時間の魔法練習で、二人とも魔力の消耗が激しい。それでも、彼女たちの目には諦めない強さがあった。


「Memoria Glacialis」(氷の記憶)

「Lux Veritatis」(真実の光)


二つの魔法が絡み合い、小さな氷の結晶に映像が浮かび上がる。これまでの試行錯誤で、映像をより鮮明に、より長く持続させる方法を見つけつつあった。母エレノアの最期の場面、ドロシアの残忍な笑み、そして幼いアレクサンダーの恐怖に満ちた表情。


「うまくいっています」セレスティアが疲れた中にも微笑みを見せた。彼女の額には汗が浮かび、金色の髪が濡れて貼りついている。「明日は大丈夫です」


彼女の前向きな姿勢に、アイリスの心が温かくなる。最初は単なる「平民の光の魔法使い」として見ていた彼女が、今やかけがえのない友人になっていた。これほど献身的に危険を共にしてくれる友人ができるとは思わなかった。


「ありがとう、セレスティア」アイリスは正直な気持ちを伝えた。氷の仮面を脱ぎ捨て、素直な感情を言葉にする。「あなたがいなかったら、私はとっくに挫折していたわ」


「そんな...」セレスティアは照れたように目を伏せた。彼女の頬が薄く赤く染まる。「アイリス様こそ、私に力を与えてくれました。光の魔法の制御も教えてくれて...私はただの平民だったのに、あなたは私を対等に扱ってくれた」


言葉を交わす中で、アイリスは今までの旅程を思い返す。学院に入学し、前世の記憶を取り戻し、悪役令嬢の運命を変えようともがく日々。単に自分の破滅フラグを回避したいと思っていた小さな願いが、今や世界の運命を左右する大きな闘いへと変わっていた。


「不思議ね」思わず呟く。声に感慨が滲む。「最初は単に『断罪』を避けたかっただけなのに」


「運命は予想外の道に導くものですね」セレスティアが優しく言った。彼女の翡翠色の瞳に月明かりが映り込み、神秘的な輝きを放っている。


窓から銀色の月光が差し込み、セレスティアの金髪を幻想的に照らしている。彼女は今や「ヒロイン」としての輝きを放ち始めていた。本来なら対立するはずだった二人が、今や親友として運命に立ち向かっている。


「セレスティア、明日の裁判でもし何かあったら...」アイリスの声が僅かに震えた。


「大丈夫です」彼女は強く言った。小さな手がアイリスの手を力強く握る。「私たちは必ず真実を示せます。あなたのお父様もきっと...」


その自信に満ちた言葉に勇気づけられる。しかし、アイリスの心の奥には不安が残っていた。勝てるかもしれないという希望と、全てを失うかもしれないという恐怖が交錯する。


「でも万が一のために、言っておきたいことがあるの」


真剣な表情でセレスティアを見つめる。月光に浮かぶ二人の顔は、まるで異なる世界からやってきた存在のようだった。


「私が出会った中で、あなたは最高の友達よ。本来なら『悪役令嬢』と『ヒロイン』という対立関係のはずだったのに...なんて皮肉」


言葉に苦笑を浮かべつつも、アイリスの青い瞳には本物の温かさが宿っていた。


セレスティアの翡翠色の瞳に涙が光り、月明かりに銀色に輝く。「私も同じです。アイリス様は私の初めての本当の友達です。貴族と平民という身分を超えて...」


感情が高ぶり、アイリスは思わず彼女を抱きしめた。金色と青色の髪が絡み合い、氷の魔法と光の魔法が優しく共鳴する感覚。温かさと冷たさが融合し、不思議な心地よさをもたらす。


その時、突然の物音が聞こえた。窓ガラスが軽く振動する音。風ではない、何かが触れたような。


「誰か?」


警戒して立ち上がり、窓に近づく。外に影は見えない。ただ月明かりに照らされた学院の庭が広がるだけ。


「気のせいかも...」


しかし直後、部屋の扉が勢いよく開いた。


「アイリス様!」


リディアが血相を変えて飛び込んできた。彼女の呼吸は荒く、普段の落ち着きが消えている。


「どうしたの?」アイリスは彼女の肩を支えた。


「レヴィン王子からの緊急連絡です」リディアは大きく息を吸って言った。「『真実の鏡』を持ってきましたが、追っ手がいます。今、北の森で待機中とのこと。危険な状況です」


状況が急変した。「行かなければ」アイリスは即座に決断した。


「私も行きます」セレスティアが立ち上がる。疲れた顔に決意が浮かぶ。


「危険よ」アイリスは彼女を制止しようとした。「あなたはここで休んでいたほうが...」


「二人の魔法が必要です」セレスティアは強く言い返した。彼女の目に怯えはない。「一人では『真実の鏡』を起動できないかもしれません。光と氷、二つが揃わなければ」


彼女の言葉に理があると感じ、アイリスは渋々頷いた。「わかったわ。でも危険を感じたら、すぐに引き返すのよ」


「リディア、エリオットに連絡を」


「すでに送りました。彼も北の森へ向かうとのことです」リディアの効率の良さは、こんな時でも頼もしかった。


準備を急ぎ、アイリスとセレスティアは学院の裏口から忍び出た。夜の闇に紛れて、北の森へと向かう。満月の光が道を照らし、二人の影を長く引き伸ばしていた。


森の入り口で足を止める。木々の間から吹き抜ける風が、不吉な予感を運んでくるようだった。


「レヴィン王子からの印は?」アイリスが問いかけた。


「青い光を三度瞬かせるとのことでした」リディアが答える。彼女は少し離れて立ち、周囲を警戒していた。


暗い森を見渡すと、奥の方で小さな青い光が瞬いた。まるで青い星が明滅するように。一度、二度、そして三度。


「あれね」アイリスは安堵のため息をついた。


安心感と共に森の中へと進む。月明かりが木々の間から漏れ、銀色の道を作っている。しかし、一歩進むごとに何かが違和感を覚えさせる。光があまりにも奥深く、人気のない場所だ。木々のざわめきが不自然に聞こえる。


「待って」セレスティアが急に足を止め、アイリスの腕を掴んだ。彼女の顔に緊張が走る。「これは...罠かもしれません」


「どうして?」アイリスは彼女の顔をじっと見た。


「レヴィン王子様は学院の北、ではなく王宮の北と言っていたはずです」セレスティアの直感が警告を発している。「それに...この森の感じ、何か違います。魔力の流れが歪んでいる」


その言葉に背筋が凍る。アイリスは振り返り、すぐ後ろで待っていたリディアを見た。侍女長が不自然な表情で立っていた。彼女の目に見覚えのない光が宿っている。


「リディア?」アイリスの声が不安に震えた。


侍女長の姿がゆっくりと変化し始める。魔法の幻影が溶けるように剥がれ落ち、そこには赤いドレスを身にまとったミランダ・クリムゾンの姿が現れた。彼女の顔に苦悩の色が浮かんでいる。


「ごめんなさい、アイリス」彼女は意外にも悲しげな表情を浮かべていた。「選択肢がなかったの。彼らが私の家族を...」


「ミランダ!」アイリスは彼女の正体に驚きながらも、その言葉の意味を悟った。


逃げようとした瞬間、森の暗がりから黒いローブの人影が次々と現れた。十人以上の「永劫の檻」のメンバーたちだ。月明かりに照らされた彼らの仮面が不気味に光る。


「罠だったのね」アイリスの声が冷たくなる。ペンダントを強く握りしめ、魔力を集中させる。


「そうだ」マーカス教授が前に出た。黒いローブの内側から闇の力が滲み出している。「しかしミランダは役目を果たした。彼女の家族は解放される」


ミランダの動機が明らかになった。彼女は家族を人質に取られていたのだ。その表情に本物の後悔が浮かんでいる。


「アイリス様、私が彼らを止めます!逃げてください!」


突然、セレスティアが前に出て両手を高く掲げた。彼女の全身が光を放ち始める。


「Lux Barricade!」(光の障壁)


彼女の声が夜の森に響き渡り、まばゆい光の壁が彼女たちの周囲に現れた。巨大な光のドームが「永劫の檻」のメンバーたちを一時的に遮断する。


「一緒に逃げましょう!」アイリスは彼女の手を掴もうとした。


「いいえ」セレスティアは振り返らずに言った。彼女の声に決意が満ちている。「誰かが時間を稼がないと、二人とも捕まってしまいます」


「でも...」アイリスの胸に痛みが走る。友を置いていくなんて。


「アイリス様なら、真実を明らかにできる」彼女の声に揺るぎない信頼が聞こえる。「私はただの平民ですが、あなたには力があります。アイリス様が『断罪の儀』で真実を示せば...」


「セレスティア!」アイリスは叫んだ。彼女の胸に熱いものが込み上げてくる。


彼女の光の障壁が徐々に弱まり、黒いローブの集団が少しずつ近づいてくる中、セレスティアは振り返り、微笑んだ。彼女の顔に恐怖はなく、ただ静かな決意だけがあった。


「友達と呼んでくれて嬉しかったです。誇りに思います」彼女の目に涙が光る。「明日、必ず全ての真実を明らかにしてください。約束してください」


アイリスは震える唇で答えた。「約束する...必ず」


セレスティアは満足そうに頷き、再び「永劫の檻」のメンバーたちに向き直った。彼女は光の魔法を最大限に発動させるために、全身の魔力を集中させる。


「Lux Maxima!」(極大光)


彼女の声が叫びと共に夜の森に響き渡り、太陽が落ちてきたかのような目を射るほどの光が森全体を照らした。アイリスは咄嗟に目を閉じ、耳をふさいだ。爆発のような音と共に、熱波が彼女を押し流す。


彼女が目を開けた時、セレスティアの姿はなく、「永劫の檻」のメンバーたちが混乱している隙に、アイリスは森の奥へと逃げ出した。心の中で叫びながら。


「必ず戻ってくるわ。必ず助けるから」


涙をこらえながら走り続ける。友を置いて逃げたという罪悪感と、彼女の犠牲を無駄にしてはならないという決意が交錯する。木々の間を縫うように走り、息が切れても足を止めない。


やがて森を抜け、小さな丘の上に出た。振り返ると、遠くの森から黒い霧が立ち上り、時折青白い光が閃いていた。セレスティアはまだ戦っている。彼女は捕まったのか、それとも...


「彼女を助けなければ」


アイリスは歯を食いしばった。しかし今は単独では無理だと悟る。レヴィンとエリオットの力を借りなければならない。彼女は丘を一度見下ろし、夜の闇に紛れて王宮方向へと急いだ。


頭の中はセレスティアのことでいっぱいだったが、明日の「断罪の儀」と三日後の「大儀式」のことも考えなければならない。時間は刻々と過ぎ、運命の日が迫っていた。


満月の冷たい光が彼女の姿を照らし、影を長く伸ばす。アイリスの顔に涙の跡が光り、しかしその青い瞳には決意の火が燃えていた。友の犠牲を無駄にしないと誓う炎が。


「待っていて、セレスティア。必ず全てを取り戻すから」


彼女の心に、真の「氷翡翠の巫女」としての力が目覚め始めていた。


(第7章 おわり)

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