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第6章「真実への扉」


朝霧が靄のように立ち込める魔法学院の門をくぐった瞬間、アイリスの背筋に氷のような震えが走った。一晩の不在で世界が一変したかのような違和感。学院の空気そのものが、昨日までとは明らかに異なっていた。


「何かがおかしい」


アイリスは氷のような青い瞳を細め、白い息を吐きながら低く呟いた。周囲の学生たちの視線が妙に刺さる。ささやきが風のように伝わってくる。


「噂が広まっている…」

「フロストヘイヴン家が政治的に危うい立場だとか…」

「父親が失脚するかもしれないって…」


耳に入る断片的な会話に、アイリスは表情一つ変えなかった。「氷の令嬢」の仮面を被り、高く顎を上げ、冷ややかな視線で周囲を威圧する。


「お嬢様、決闘大会の準備は整っておりますか?」側で従うリディアの声に小さく頷く。


石畳を歩く靴音が冴え渡る静寂の中で異様に響く。エリオットの警告—「学院内の敵」—が頭から離れなかった。


「フロストヘイヴン様!」


甲高い声に振り向くと、金色の髪が朝日に輝くセレスティアが小走りで近づいてきた。彼女の翡翠色の瞳には安堵と緊張が混じり合っている。


人目を気にして、アイリスは意図的に冷たい表情を貼り付けた。

「何事かしら?平民に声をかけられる覚えはないわ」


周囲の学生たちがその言葉に反応して身を縮めるのを感じる。表向きの冷酷さを維持しながら、アイリスはセレスティアに僅かに近づき、小声で尋ねた。


「何かあったの?」


セレスティアは周囲を警戒しながら、花の香りのする髪を耳に掛けて囁き返した。「決闘大会の組み合わせが変更されました。私たちのペアは解消され…私はミランダ様とのペアになりました」


「何ですって?」


その言葉に、思わず声が上がる。ミランダとセレスティア—最悪の組み合わせだ。ミランダ・クリムゾンといえば、アイリスの政敵であり、光の魔法使いを利用して破滅させようと企む危険人物。


「誰の指示?」アイリスは警戒心を露わにした。


「校長からです」セレスティアは震える声で答えた。「でも噂では、ミランダ様の父上…クリムゾン公爵が」


政治的圧力か。それとも「永劫の檻」の動きか。アイリスの頭の中で可能性が次々と浮かんでは消えた。


「他に何か変わったことは?」


彼女は周囲を確認してから、さらに声を落とした。「昨夜、私の部屋に何者かが忍び込みました。でも何も盗まれていません」


アイリスの胸が締め付けられる思いになった。「怪我は?」


「大丈夫です」セレスティアは首を振った。「ただ…私のベッドの上に、これが」


彼女はそっと小さな結晶を見せた。黒曜石のような石だが、内部に赤い光が脈動している。まるで生きた心臓のように。触れた指先が妙に熱く感じるその石に、アイリスは本能的な嫌悪感を抱いた。


「それを持っているの?危険かもしれない」


「捨てようとしたんです」セレスティアの眉間に不安の皺が寄る。「でも…消えないんです。火の中に投げ込んでも、窓から放り投げても、必ず戻ってくるんです」


彼女の震える声と青ざめた顔に、アイリスは思わず手を伸ばしかけた。だが、周囲の視線を感じ、すぐに手を引っ込めた。


代わりに、高慢な笑みを浮かべ、声を張り上げる。

「くだらないことで私の時間を無駄にしないで。平民の分際で」


周囲の学生たちがそれを聞いて小さく笑う中、アイリスはセレスティアの肩に「偶然」ぶつかり、その接触の瞬間に小声で言った。


「わかった。後でエリ…」

言いかけて止まる。エリオットの名前を口にするのは危険だった。


「後で考えましょう。とにかく決闘大会に備えて」


二人が触れ合った瞬間、またあの不思議な共鳴が起きた。光と氷の魔力が一瞬繋がり、小さな虹のような光の筋が彼女たちの指先から漏れ出た。誰も気づかないほど小さいが、確かに存在する魔力の共鳴。


「また…」セレスティアの目が驚きに見開かれる。


「周りに気をつけて」アイリスは彼女を冷たく押しのけるふりをしながら、最後の忠告を残した。


---


「アイリス・フロストヘイヴン」


執務室に入ると、マーカス教授が鷹のような鋭い眼差しで待ち構えていた。室内には古い羊皮紙の匂いと、彼の使う独特の香水の匂いが混じり合っていた。


「はい」アイリスは完璧な貴族の礼儀正しさで答えた。


「昨日の不在、説明してもらおうか」教授の声は温かいが、目は冷たいままだった。


「家族の用事で」アイリスは平静を装った。「父から呼び出しがあったのです」


「そうか」彼は机の書類をめくった。羊皮紙がこすれる音が静寂を破る。「今日の決闘大会、君のパートナーは変更になった」


「聞きました」アイリスは表情を変えずに言った。「誰がペアですか?」


「エリオット・シャドウメア」


その名前に思わず息を呑む。エリオットと組むことになるとは。偶然なのか、それとも彼の策略か。彼の不思議な微笑みが脳裏に浮かんだ。


「何か問題かね?」マーカスの視線が鋭くなった。


アイリスは慎重に言葉を選んだ。「いいえ。闇属性との組み合わせは…興味深いです」


「ああ、実に興味深い」教授の目が蛇のように光る。「氷と闇。理論上は属性の相性は良くないが…時に予想外の結果を生む」


彼の言葉に含まれる何かを感じる。この教授も単なる教師ではないようだ。部屋の温度が急に下がったように感じた。


「頑張ります」アイリスは尊敬の意を示しながら答えた。


席を立ちかけたとき、彼が言った。「フロストヘイヴン嬢、一つ忠告を」


振り返ると、教授の表情は厳しさを増していた。暖炉の火が彼の顔に不気味な影を落とす。


「学院の中で魔力を拡散させないように。特に…『氷の記憶』のような古い魔法はね」


心臓が跳ねる。昨夜の実験を知っているのか。アイリスの指先が冷たくなり、机の角に小さな霜が形成されるのを感じた。慌てて魔力を抑える。


「何のことでしょう?」表情を平静に保ちながら問い返す。


「フロストヘイヴン家に伝わる特殊な魔法があると聞く」教授はにやりと笑った。「好奇心は理解できるが、古い魔法には危険が伴う。特に若い魔法使いには制御が難しい」


「注意します」アイリスは優雅に頭を下げた。


教授の部屋を出ると、冷や汗が背中を伝った。学院中が彼女を監視しているような感覚に襲われる。廊下の空気さえも敵意を帯びているように感じられた。


---


「やあ、パートナー」


中庭の噴水近くでエリオットと出会った。彼はいつもの不思議な微笑みを浮かべ、白銀の髪が風に揺れている。赤い瞳が優しく、そして危険に光っていた。


「あなたの仕業?」アイリスは周囲に人がいないことを確認して近づいた。


「僕?」彼は無邪気に首を傾げた。少年のような仕草が千年生きたという彼の言葉とのギャップを感じさせる。「組み合わせは学院が決めることさ」


アイリスは彼の言葉を信じなかったが、それ以上追及する時間はなかった。小声で話す。


「セレスティアの部屋に侵入者があったの。そして奇妙な結晶が…」


エリオットの表情が一変した。少年の無邪気さが消え、鋭い緊張感に満ちた顔になる。「黒い石に赤い光?」


「ええ。彼女が持っていたわ」


「厄介だ」彼は眉をひそめ、噴水の水音に紛れて囁いた。「『血の封印』だ。闇の結社が使う監視と束縛の魔法具」


「どういう意味?」アイリスの背筋に冷たいものが走った。


「彼女の魔力を制限し、場合によっては操作できる」エリオットの声は冷たく響いた。「彼女の光の魔法を利用するための準備だろう」


恐怖が背筋を走る。「どうすれば?」


「今は黙って見守るしかない」彼は石のベンチに腰掛け、遠くを見つめた。「大会中に動きがあるはずだ。向こうも焦っている」


彼の態度に不信感を覚える。「あなたも何か隠してるわね」


エリオットは長い間黙り、やがて小さく頷いた。風が彼の銀髪を優しく揺らす。


「正直に言おう」彼は声のトーンを落とした。「僕も転生者だが、君とは少し違う」


「どう違うの?」


「僕は…何度も転生と転移を繰り返してきた」


彼の赤い瞳に、アイリスは古い影を見た。時の重みを感じさせる深い悲しみ。


「最初の『生』は千年前。この世界の原初魔法が栄えた時代だった」


信じがたい言葉だが、直感的に真実だと感じた。彼の目に宿る古い知恵、時に漏れる古い言い回し、全てが彼の言葉を裏付けている。


「千年も…」アイリスの声が震えた。「どうやって?」


「『時の魔法』さ」彼は苦笑した。噴水の水滴が彼の頬に落ち、涙のように見えた。「でも代償は大きい。記憶の断片化、アイデンティティの喪失…」


彼の目に真の孤独を見た気がした。千年もの間、世界を渡り歩いてきた存在の孤独。


「何のために?」アイリスは彼の真の目的が気になった。


「オブシディアンを止めるため」彼の声が凍りつくように冷たくなる。「彼は僕の…かつての仲間だった」


驚きの情報に、アイリスは言葉を失った。エリオットとオブシディアン—「永劫の檻」の長—が関係があるのか。


「今日の大会で、彼らは動く」エリオットは真剣な眼差しでアイリスを見つめた。「君の『氷の記憶』とセレスティアの光の力を奪おうとするだろう」


「どうすれば?」アイリスの手が無意識にペンダントを握りしめた。


「僕と組んで闘う」彼は立ち上がり、アイリスの肩に手を置いた。温かく、力強い。「そして、氷翡翠のペンダントを絶対に手放すな。あれは君の力の源であり、鍵だ」


ポケットの中のペンダントが、かすかに脈動するように感じた。鼓動のようなリズムで、母の最後の言葉が蘇る。

「あなたのペンダントを守りなさい。それは鍵です。」


---


大会会場は熱気と緊張感に包まれていた。巨大な円形闘技場には、全校生徒と多くの貴族が詰めかけている。高位貴族の観覧席からは、華やかな衣装と宝石の輝きが目に入る。


参加者たちが準備エリアで最後の調整をしている中、アイリスは窓から外の光景を見つめていた。


「フロストヘイヴン嬢」


低く、威厳のある声に振り向くと、レヴィン王子が立っていた。完璧な姿勢と凛とした表情。黒髪に紫の瞳、王族の血を感じさせる気品に満ちた容姿。しかし、その瞳には今までに見たことのない温かさがあった。


「王太子殿下」


アイリスは深く一礼し、完璧な貴婦人の礼儀作法を見せた。「観戦されるのですか?」


「ええ」彼は微笑んだ。普段は厳格な表情だけを見せる彼の笑顔に、アイリスは一瞬驚いた。「特に君の戦いに興味がある」


その言葉に、彼女の心臓が高鳴った。頬に熱が集まるのを感じる。


「僕は…君の戦い方を評価している」レヴィンは少し声を落とした。「効率的で美しい」


「お褒めいただき光栄です」


アイリスは貴族の娘として教えられた通りの返答をしながらも、何か言うべきか迷った。勇気を出して、彼女は低い声で尋ねた。


「あの…王太子殿下。『永劫の檻』という組織をご存知ですか?」


レヴィンの紫の瞳が一瞬、驚きに見開かれた。彼はすぐに周囲を警戒し、アイリスの腕を取って人気のない窓際へと導いた。


「どうして君がその名を?」彼は小声で尋ねた。その顔に緊張が走る。「危険な名前だ」


「母が…彼らに殺されたと思うの」アイリスの声は震えていた。


レヴィンの表情が驚きから同情へと変わる。強い手がアイリスの手を握りしめた。「それは…知らなかった。君のお母さんが…」


「真実を探しています」アイリスは彼の紫の瞳をまっすぐ見つめた。「そして彼らが今、動き始めている。学院内にもいるの」


彼は深く考え込むような表情になり、やがて決意したように言った。「大会後、話そう。僕も知っていることがある」


まるで運命の糸が絡み合うように、アイリスとレヴィンの関係が新しい段階に入ったことを感じた。政略的な婚約者から、共通の目的を持つ協力者へ。そしてもしかすると…それ以上の関係へ。


「気をつけて」レヴィンは彼女の手を最後に握り、去っていった。その背中に王族としての威厳と、一人の若者としての葛藤を見た気がした。


---


「第七試合、アイリス・フロストヘイヴンとエリオット・シャドウメア組、対ミランダ・クリムゾンとセレスティア・ブライト組!」


大きな声が闘技場に響き渡り、観客から歓声と拍手が起こる。アイリスはエリオットと共にアリーナに足を踏み入れた。


闘技場の砂は赤みを帯び、太陽の光を反射して金色に輝いている。足元から伝わる震えは、この地下に魔力増幅装置が埋め込まれていることを示している。


向かい側には、ミランダとセレスティアが立っていた。セレスティアは明らかに緊張した様子で、顔色が悪い。胸元に黒い石が光っているのが見える。一方、ミランダは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、その赤い唇が残忍に曲がっていた。


「作戦は?」アイリスはエリオットに小声で尋ねる。


「まずはミランダの魔法を封じる」彼の赤い瞳が戦略的な光を放った。「彼女が『血の封印』を操っている可能性が高い。彼女を倒せば、セレスティアへの影響も弱まるはずだ」


彼が闇属性の魔法使いであることを実感する。戦略的で冷静な思考、何世紀もの戦いで磨かれた知恵。


「了解」アイリスは氷翡翠のペンダントを握りしめ、魔力を高めた。


審判の合図と共に、戦いが始まった。観客席からの歓声が波のように押し寄せる。


ミランダが最初に動いた。赤い髪を風になびかせ、彼女は華麗に杖を振り回した。


「Flammare Catena!」(炎の鎖)


赤い炎の鎖が蛇のように空中をうねり、アイリスとエリオットに向かって飛来する。熱波が顔を打ち、空気が焦げる匂いがした。


「Umbra Scutum!」(影の盾)


エリオットが片手を上げると、黒い影の壁が現れ、炎を吸収した。炎が闇に触れる時の不気味な音が響く。


「アイリス、セレスティアに注目して!」エリオットが警告した。


彼の指示に従い、アイリスはセレスティアを見た。すると、彼女の表情が苦しげに変わり、両手で頭を抱えている。胸元で赤く光る結晶—「血の封印」が強く脈動していた。


「彼女を操っている!」アイリスは叫んだ。


その瞬間、セレスティアが苦しそうに手を上げ、「Lux Fulminata!」(光の稲妻)と叫んだ。


まばゆい光線が稲妻のように蛇行し、アイリスに向かって放たれる。それは本来なら彼女が使いこなせない高度な攻撃魔法だった。光の矢が砂を溶かし、ガラス状にしながら迫ってくる。


「Glacialis Speculum!」(氷の鏡)


アイリスは反射的に詠唱し、氷の巨大な鏡を作り出した。光線は氷に反射し、天井に向かって飛んでいった。一瞬、闘技場全体が虹色に染まる。


「よくやった」エリオットが称えた。「次は僕の番だ」


彼は両手を大きく広げ、赤い瞳が異質な光を放った。「Tempus Fractum!」(砕かれた時間)と叫ぶ声は、まるで複数の声が重なったように響いた。


初めて聞く魔法詠唱。アリーナ全体が一瞬歪み、砂の落下が遅くなったように見える。時間が遅くなったような不思議な感覚に包まれた。アイリスの心臓の鼓動さえもゆっくりになったように感じる。


その瞬間、ミランダの動きが鈍り、彼女の目に混乱の色が浮かんだ。セレスティアの胸元で光っていた結晶が震え始め、その赤い光が不安定に明滅している。


「今だ、アイリス!『氷の記憶』を!」エリオットの声が時間の歪みの中でもはっきりと響いた。


戸惑いながらも、アイリスはポケットからペンダントを取り出し、高く掲げた。青い結晶が太陽の光を受けて、美しく輝く。


「Memoria Glacialis!」(氷の記憶)


彼女の声が闘技場に響き渡る。観客たちは息を呑み、見守っている。


ペンダントから青白い光が波のように放たれ、セレスティアを包み込んだ。彼女の胸元の赤い結晶と、アイリスの氷翡翠が共鳴し始める。二つの宝石が互いに呼応するように、赤と青の光が交錯した。


これは計画外の展開だったが、エリオットは予測していたかのように頷いている。彼の赤い瞳には期待と緊張が混じり合っていた。


「セレスティア!」アイリスは彼女の名前を力強く呼んだ。


すると、セレスティアの翡翠色の瞳が一瞬澄んだ。操られた空虚な目から、彼女本来の意識に満ちた眼差しに戻る。そして彼女自身の意志で、両手を高く掲げて詠唱を始めた。


「Lux Veritatis!」(真実の光)


セレスティアの掌から純白の光が放射状に広がり、アイリスの青い氷の魔法と美しく絡み合った。アリーナ全体が青と白の光の渦に包まれ、観客からは驚嘆の声が上がる。


「何をしている!」ミランダの怒声が聞こえるが、もう止められない。


彼女が慌てて詠唱を始めるも、時間が歪む魔法の影響で動きが鈍い。アイリスとセレスティアの魔力が完全に共鳴し、セレスティアの胸元の「血の封印」の結晶が小さく悲鳴を上げるような音と共に粉々に砕けていった。


そして、その瞬間—


アリーナが消え、観客も審判も見えなくなった。アイリス、セレスティア、エリオットの三人は、無の空間に浮かんでいるような感覚に包まれた。周囲には星々のような光が散りばめられ、青と白の光の帯が宇宙のように広がっている。時間の流れそのものが目に見えるようだった。


「これは…」アイリスの声が宙に浮かぶ。


「『時空の間』だ」エリオットの声が響く。「二人の力が生み出した特殊な空間。時と空間の狭間にある場所だ」


セレスティアと彼女は手を繋いでいた。セレスティアの表情には驚きと畏敬が混じっている。彼女の金色の髪が無重力のように漂い、光を放っていた。


「アイリス様…何が起きているんですか?」彼女の声は震えていた。


「私たちの魔力が共鳴したのよ」アイリスは彼女の手をしっかりと握った。「光と氷が一つになった」


その空間の中で、幻のような映像が次々と浮かび上がる。過去、現在、そして未来の断片。まるで膨大な記録書の一部分を垣間見るかのようだ。


映像の中に、アイリスは母の姿を見つけた。ローズマリー夫人が書斎で何者かと対峙している場面。彼女の青い瞳に恐怖と決意が混じっている。


「あれは!」アイリスは思わず叫んだ。


映像に食い入る。母の最期の瞬間だ。彼女が何かを守るように胸に手を当て、立ち向かう姿。しかし相手の姿はぼやけており、顔がはっきりと見えない。


「まだ完全には見えない」エリオットが言った。「でも一歩前進だ。以前よりクリアに見えている」


他の映像も流れていく。レヴィン王子が古い書物を真剣な表情で調べている。ミランダが暗い部屋で何者かと密会している。知らない城の一室で、黒いローブを着た集団が円陣を組み、儀式を行っている。


「『永劫の檻』の儀式…」エリオットが低く呟いた。「大儀式の準備だ」


そして、最後に一つの鮮明な映像—学院の裏庭で、マーカス教授が黒いローブを羽織り、赤い魔法陣の中央に立っている。彼の目は暗く、通常の授業では見せない邪悪な笑みを浮かべていた。


「マーカス教授が…!」アイリスの声が震えた。


驚愕の瞬間、時空の間が揺れ始め、光と闇がぶつかり合うように歪み、現実世界へと引き戻される感覚に襲われた。


---


目を開けると、アリーナにいた。周囲の観客はまだ呆然としており、わずか数秒しか経っていないようだった。砂の上にはミランダが膝をつき、混乱した表情で立ちすくんでいる。セレスティアはすでに力尽き、砂の上に倒れていた。


「何が起きた…」ミランダの声は震えていた。彼女の赤い髪が乱れ、完璧だった化粧が崩れている。


答える前に、審判が杖を高く掲げた。「勝負あり!フロストヘイヴン、シャドウメア組の勝利!」


観客席から拍手と歓声が沸き起こったが、アイリスの頭は先ほどの幻影で一杯だった。マーカス教授が「永劫の檻」のメンバー。学院内の敵は、最も身近なところにいたのだ。毎日顔を合わせ、指導を受けていた教授が、母を殺した組織の一員だった。


「エリオット、あの映像は…」


「本物だ」彼は小声で言った。観客の喝采に紛れるように。「でも今は騒ぎ立てるな。彼らも動くだろう。特にマーカスは気づいている可能性が高い」


セレスティアのもとに駆け寄ると、彼女は目を開け、意識を取り戻しつつあった。金色の髪が砂にまみれ、顔は青白いが、その目には新たな光が宿っていた。


「見えました…」彼女は震える声で言った。白い唇が動く。「あの場所…『永劫の檻』の本拠地」


「覚えてる?場所を」アイリスは彼女の手を握った。


「山の中の…城のような建物。雪に覆われた尖塔と、真紅の魔法陣が輝いていて…」セレスティアは目を細めた。「そして『大儀式』という言葉が繰り返し聞こえました。『光と氷の融合』『世界の再構築』…」


彼女の言葉は、観客が近づいてくる騒ぎで中断された。アイリスはセレスティアを立ち上がらせる手伝いをしながら、彼女の耳元で囁いた。


「また話しましょう。今は力を温存して」


セレスティアは小さく頷いた。彼女の瞳には、以前なかった決意の色が宿っていた。「血の封印」の消滅と共に、彼女の本来の強さが戻ってきたようだ。


---


「素晴らしい戦いだった」


大会後、王宮の一室でレヴィン王子と対面していた。金糸で刺繍された豪華なカーテンの向こうから、夕暮れの光が柔らかく差し込む。部屋には古書の香りと、かすかな薔薇の香りが漂っていた。


レヴィンは真剣な表情で彼女を見つめている。その紫の瞳に、アイリスは尊敬の色を見た。


「あれは通常の魔法戦ではなかったね」彼は静かに言った。


「ええ…」アイリスは素直に認めた。水晶のグラスに注がれた赤ワインを見つめながら。「私とセレスティアの魔力が共鳴して、一種の幻影を見たの。過去や未来の断片」


彼は小さく頷いた。「『時の魔法』の一端だ。古代から伝わる最も強力な魔法の一つ」


「知ってたの?」アイリスは驚いて顔を上げた。


「ある程度は」彼は窓辺に立ち、夕暮れに染まる都を見つめた。背中越しの横顔が美しい。「実は私も『守護者』の一人なんだ」


その告白に、アイリスは言葉を失った。ワイングラスを持つ手が震える。


「王家は代々、闇の魔法に対抗してきた」彼は静かに続けた。「特に『永劫の檻』とは何世紀にも渡る戦いを続けてきた」


「じゃあ私たちは…同じ側?」アイリスの声に希望が混じる。


「そう」レヴィンは振り返り、微笑んだ。その笑顔は、普段の冷たさからは想像できないほど温かく、柔らかかった。「君とセレスティアの力が揃ったことで、彼らも本格的に動き出すだろう。『大儀式』に向けて」


レヴィンは書棚から重厚な革装丁の古い書物を取り出した。埃をかぶった表紙には、古い文字で「時と氷の聖約」と書かれている。


「これは王家に代々伝わる秘本だ」彼は丁寧にページをめくった。「『氷翡翠の巫女』と『光の守護者』について記されている」


ページをめくると、描かれた挿絵に息を呑む。氷の力を持つ青い髪の女性と、光の力を持つ金髪の女性が向かい合い、互いの手を取り合っている。周囲には時の流れを表す螺旋模様と、世界を象徴する星々が描かれていた。まるで私とセレスティアのようだ。


「これは…私たち?」


「何世紀も前から予言されていた組み合わせだ」レヴィンは静かに言った。「光と氷の魔法使いが力を合わせ、世界の歪みを正す」


「世界の歪み?」


「かつて原初魔法が乱用された時代があった」彼はページをさらにめくった。「その結果、時間と空間に歪みが生じ、世界の均衡が失われた。それを正すのが君たちの使命だ」


複雑な説明に頭が混乱するが、すべてが繋がり始めている感覚もあった。母の手紙、エリオットの話、そして今レヴィンが語る伝説。


「でも…」レヴィンの表情が厳しくなった。「あと一つ話しておかなければならないことがある」


アイリスは身を乗り出した。「何?」


「エリオット・シャドウメアのことだ」


「彼のこと、知ってるの?」アイリスの心臓が早鐘を打った。


「彼は…複雑な存在だ」レヴィンは言葉を選ぶように慎重に話した。「確かに闇の結社と戦っている。しかし、彼の真の目的は『世界の再構築』かもしれない」


「再構築?」アイリスはレヴィンの紫の瞳をまっすぐ見つめた。


「彼は千年の時を生きる中で、この世界の構造そのものに疑問を持っている」レヴィンは苦しそうに言った。「彼は世界を『修復』したいと言うが、それは彼なりの『理想』に合わせた変革かもしれない。彼の方法が正しいかどうか…まだわからない」


レヴィンの警告に、混乱が増す。エリオットを信頼すべきか、警戒すべきか。彼の千年の孤独と悲しみは本物に思えたが、その目的は本当に純粋なのだろうか。


「今夜、彼があなたを訪ねるだろう」レヴィンは窓際に戻った。「彼の言葉をよく聞き、だが全てを信じないように。彼もまた、自分なりの『正義』のために行動している」


別れ際、彼はアイリスの手を取った。その温かく、力強い感触に、彼女の心臓が高鳴った。冷たい氷の魔法使いであるアイリスにとって、彼の体温は不思議なほど心地よかった。


「アイリス、君を守りたい」レヴィンの紫の瞳が真剣だった。灯りに照らされて、その顔に若さと成熟が共存しているのを見る。「政略結婚の約束だけではなく、一人の人間として」


その言葉に、頬が熱くなるのを感じた。「政略結婚」という運命に閉じ込められていた彼女の心に、初めて本当の感情が芽生えたように思えた。


「ありがとう…レヴィン」


初めて敬称なしで呼んだ彼の名前が、部屋の空気を変えた。彼は少し驚いたように目を見開き、そして柔らかな笑みを浮かべた。


---


夜、自室に戻ったアイリスは、予想通りエリオットが窓辺に立っているのを見つけた。月明かりに照らされた彼の姿はどこか非現実的で、透き通るようだった。銀髪が青白い光を反射し、赤い瞳が闇の中で輝いている。


「見たね」彼は窓から離れず、静かに言った。「『時空の間』で」


「ええ」アイリスはドアをしっかりと閉め、静かに近づいた。「マーカス教授が『永劫の檻』のメンバーだったこと。そして…」


「君のお母さんの最期も」


頷く。「でも、相手の顔は見えなかった」


「もう少しで見えたのに」エリオットは残念そうに言った。月光に照らされた彼の表情は、いつもより年老いて見えた。「でも、大きな進歩だ。次は完全に見えるだろう」


アイリスは椅子に座り、彼に向き合った。ろうそくの光が二人の間で揺れ、影を踊らせる。


「あなたの真の目的は何?」彼女は率直に尋ねた。「レヴィン王子は『世界の再構築』と言っていたけど」


エリオットは小さく笑った。その笑いには苦さと皮肉が混じっている。「王子と話したか。彼は慎重だね」


「正直に答えて」アイリスは彼の赤い瞳をまっすぐ見つめた。


エリオットはしばらく黙り、窓の外の月を見つめた。やがて決意したように話し始めた。


「千年前、この世界には『均衡』があった」彼の目が遠くを見つめる。過去を振り返るような目だ。「光と闇、時間と空間が完璧なバランスを保っていた。魔法は自然の一部であり、誰もそれを支配しようとはしなかった」


彼の声には郷愁と後悔が混じっていた。


「しかし、オブシディアンと私の実験が、その均衡を崩した」彼は苦笑した。「若く、愚かだった私たちは野心的すぎた」


「実験?」


「『永遠の命』を求めて」エリオットは手を広げ、月明かりの中で半透明に見えるようだった。「我々は原初魔法を改変し、時間を止める術を開発した。死を超えるために」


彼の言葉は荒唐無稽だったが、どこか真実味があった。今目の前にいる彼こそ、その実験の産物なのだから。


「結果、世界の構造にヒビが入り、『時の歪み』が生まれた。時間の流れが不安定になり、場所によっては速く、あるいは遅く流れるようになった。そして最悪なことに…『時の狭間』が生まれた」


「『時の狭間』?」


「時間が止まった空間だ。そこにいる者は永遠に同じ瞬間を生きることになる。永遠の命を得たが、実質的には永遠の檻に閉じ込められたも同然だ」


その恐ろしい実験の結果を想像して、アイリスは震えた。


「それで、あなたは?」


「私は『均衡』を取り戻すために時を渡ってきた」エリオットの声が決意に満ちる。「歪みを修復し、オブシディアンを止めるために。彼は私の古き友であり、今は最大の敵だ」


「彼は何を望んでいるの?」


「彼は完全な『リセット』を望んでいる」エリオットの目が暗くなった。「世界を千年前の状態に戻し、彼の理想通りに作り変えようとしている。その過程で、無数の命が消える」


恐ろしい計画だ。「そのために私とセレスティアが必要?」


「そう」エリオットは頷いた。「『氷翡翠の巫女』の時を操る力と、『光の守護者』の現実を固定する力。二つが揃えば、世界の構造そのものを書き換えられる。彼にとっても、私にとっても」


「オブシディアンを止めるには?」


「君たちの力を『均衡』のために使う。彼のように世界を書き換えるのではなく、歪みを修復するために」エリオットの目に真摯な光が宿る。「時の流れを安定させ、狭間を閉じる。誰かの野望のためではなく、世界本来の姿に戻すために」


彼の説明は複雑で、完全には理解できなかった。しかし、選択を迫られていることは明らかだった。エリオットの修復か、オブシディアンのリセットか、あるいは別の道か。


「でもそれは…あなたも世界を変えようとしているのと同じでは?」アイリスは鋭く指摘した。


エリオットは長い間沈黙した。月の光が彼の横顔を照らし、古代の彫像のように見せていた。


「方法が違うだけかもしれない」彼は驚くほど正直に認めた。「だから君自身が判断すべきだ。私の言うことを全て信じる必要はない」


彼は窓辺に戻り、夜空に浮かぶ星々を見上げた。「一週間後、『永劫の檻』は大儀式を行う。冬至の日だ。その前に決断しなければならない」


「どう決断すればいいの?」アイリスの声には不安が滲んでいた。


「母親の死の真相を知ることだ」彼は意味深に言った。月明かりに照らされた彼の顔は、突然千年の時を生きた存在としての威厳を帯びていた。「それが全ての鍵になる。なぜ彼女が殺されたのか、誰が殺したのか…そして彼女が最後に守ろうとしたものは何か」


彼が去った後も、その言葉はアイリスの耳に残り続けた。窓の外の月を見つめながら、彼女は思考を整理しようとした。レヴィンとエリオット、どちらを信じるべきか。そして母の死の真相—誰が彼女を殺したのか。


答えを求めて、アイリスはペンダントを握りしめた。青い氷翡翠が月明かりに輝き、かすかに脈動する。それは母の最後の贈り物であり、彼女の力の源。そして、すべての謎を解く鍵。


「明日、セレスティアと再び『氷の記憶』を試してみよう」彼女は決意を固めた。「今度は、もっと深く、もっと鮮明に過去を見る」


ベッドに横たわりながらも、眠りは訪れなかった。窓の外では、満月が静かに輝いていた。時の流れが加速し、運命の選択へと彼女を導いているようだった。一週間後の冬至—すべてが決まる日が、刻一刻と近づいていた。


(第6章 おわり)

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