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第5章「秘められた陰謀」


寒気が窓から漏れ込む馬車の中で、アイリスは爪先で床を叩いていた。父からの突然の呼び出し。その裏には何かある—そう直感していた。


「魔法学院を離れるなんて…」


アイリスは額を窓にくっつけ、冷たさを感じながら溜息をついた。ガラスには華麗な氷の紋様が指先から広がり、彼女の不安な気持ちを映すように歪んでいく。


「セレスティア、私がいない間に何かあったら…」


思わず呟いた言葉に、向かいに座るリディアが静かに微笑んだ。


「お嬢様、彼女なら大丈夫ですよ。光の魔法は強力ですから」


「問題は魔法じゃないわ」


アイリスは唇を噛んだ。学院では「氷の令嬢」として恐れられる存在。だがそれは彼女への嫉妬から生まれるいじめから、光の魔法使いセレスティアを守るための仮面だった。


「政敵の動きが活発になっているという父の手紙…それと学院での不穏な動き。全て繋がっているような…」


アイリスの言葉が途切れた瞬間、馬車が小さく揺れた。窓の外を見て、彼女は眉を寄せた。


「リディア、見て。家の結界が…消えている」


遠くに見えるフロストヘイヴン邸は、通常なら青く輝く魔法の障壁に包まれているはずだった。だが今日は、その光が一切見えない。


「用心なさいませ、お嬢様」リディアの声が低く沈んだ。「何か起きています」


馬車が凍てついた石畳を進む音が、不吉な足音のように響いた。


---


「よく来たな、アイリス」


大広間の暖炉の前に立つ父バジル・フロストヘイヴンは、いつもより一層厳しい表情をしていた。灰色が混じり始めた髪、深い皺が刻まれた額—政治の重圧が彼を急速に老けさせているようだった。


「お呼びとなりましたので」


アイリスは優雅に膝を曲げ、上流令嬢としての完璧な礼を示した。表面上の従順さ—それが「フロストヘイヴン家の娘」として期待される態度だった。


「学院での噂を聞いたぞ」


父の冷たい声が石造りの広間に響く。暖炉の炎さえも冷たく感じるほどだ。


アイリスの心臓がドキリと跳ねた。「何の噂でしょう?」


「平民の少女と親しくしていると聞いた」


それだけか—と内心でほっとした。セレスティアとの秘密の協力関係はもっと慎重に隠しているつもりだったが。


「研究目的です」アイリスは氷のような表情を保った。「彼女の光の魔法には特殊な性質があり、私の氷魔法との相互作用を—」


「黙れ!」


父の拳が脇の小卓を叩き、水晶の燭台が震えた。その激しさにアイリスは言葉を飲み込んだ。


「フロストヘイヴン家の令嬢が平民と交わるなど言語道断だ。今後は一切の接触を禁じる」


「でも父上、魔法理論の発展のためには—」


「政治的に危険な時期だ」父は窓際へ移動し、外の雪景色を見つめた。「余計な噂は我々の立場を危うくする」


その言葉に、アイリスは疑問を感じた。父の強い反応の裏には、単なる身分違いの交友関係以上の何かがあるようだ。


「他にも問題がある」


彼は引き出しから書類を取り出した。


「婚約者のレヴィン王子とも頻繁に文通していると聞いた」


アイリスは瞬きもせずに答えた。「魔法理論の議論をしているだけです」


「それは良い傾向だ」父の表情が僅かに緩んだ。「婚約関係の強化は今の我が家にとって死活問題だ」


彼の目が一瞬、影を落とす。「政敵が我々を狙っている。フロストヘイヴン家の権力が揺らげば、王国全体の均衡が崩れる」


政敵—その言葉に継母ドロシアの一族の影を感じる。


「理解しました」アイリスは慎重に言葉を選んだ。「お父様の期待に添えるよう努めます」


心の中では反発を感じながらも、今はまだ従順な娘を演じるべき時だった。


---


アイリスは自室の窓辺に立ち、指でガラスに小さな氷の花を咲かせていた。氷の結晶が窓を覆い、外の世界を歪めて映す。まるで自分の心のように。


ノックの音に、彼女は氷の花を素早く消した。


「どうぞ」


扉が開き、継母ドロシアが優雅に入ってきた。鮮やかな赤いドレスを身にまとい、その姿は寒々しい城内で炎のように映える。甘く重たい香水の匂いが部屋に広がった。


「久しぶりね、アイリス」


その声には蜜のような甘さと、刃物のような鋭さが同居していた。


「継母様」アイリスは氷のような視線を向けた。


ドロシアは部屋を見回し、クスリと笑った。「相変わらず冷たい子ね。でも、学院での評判は良いようね。特に…平民の子との友情とか?」


その言い方に隠された皮肉に、アイリスの青い瞳が僅かに細まった。


「友情ではありません。研究です」


「そう」ドロシアはソファに腰を下ろし、細い手で優雅にスカートを整えた。「でも、フロストヘイヴン家は今、微妙な立場にあるのよ。変な噂は避けるべきね」


「父上も同じことを」


「当然よ」継母の赤い唇が弧を描いた。「あなたのお父様は強い人。でも最近は…疲れているみたい」


その言葉に含まれる何かを感じ、アイリスは警戒心を高めた。


「特に、王宮との関係がギクシャクしてね。レヴィン王子との婚約が危うくなるかもしれないわ」


その言葉に、アイリスの胸が締め付けられた。「何ですって?」


「噂よ、ただの」ドロシアは手を振った。爪が燭台の光を受けて赤く輝く。「でも、あなたがもっと努力しないと…」


「私は努力しています」アイリスは冷静さを保とうと努めた。


「本当?」継母は彼女の目をじっと見つめた。「あなたのお母様なら、もっとうまくやったでしょうね」


母の名を出された瞬間、アイリスの中で怒りが爆発しそうになった。頬が熱くなり、指先に魔力が集まるのを感じる。しかし、表情一つ変えずに答えた。


「母上のことは存じております」


「素晴らしい方だったわ」ドロシアは立ち上がり、アイリスの髪に触れようとした。アイリスは本能的に一歩後ずさった。継母は意に介さず微笑み続けた。「特に彼女の魔法研究は秀逸だった。『時の魔法』、覚えてる?」


その言葉に、アイリスは息を呑んだ。母が研究していたのは「時の魔法」。エリオットが言及した原初魔法の一つ。このことを継母がなぜ知っている?


「知りませんでした」嘘をつくしかなかった。


「そう」ドロシアは扉に向かった。「夕食は7時よ。遅れないように」


扉が閉まると同時に、アイリスは震える手で母の銀細工の額縁に入った写真を取り上げた。温かな微笑みを浮かべた美しい女性。父がかつて心から愛した人。


そして、何者かによって命を奪われた人。


「母さん…あなたの研究が命取りになったの?」


窓の外では、雪が激しく降り始めていた。


---


「リディア、新しい情報はある?」


夕食前の時間、アイリスは侍女長を呼び出した。他の使用人に聞かれないよう、暖炉の火を強くして、その爆ぜる音を背景にした。


「はい」リディアは周囲を確認してから、小声で続けた。「館の書庫を調査したところ、興味深い発見がありました」


彼女は古い書類の束を胸元から取り出した。「お母様の死の前日に書かれた手紙です。送られていません」


封筒には「最愛の娘へ」と書かれていた。アイリスの手が震えた。


「この10年間…誰も知らなかったの?」声が詰まった。


「隠されていたのでしょう」リディアは神経質に唇を噛んだ。「書庫の奥、二重床の下から見つけました」


封を開き、黄ばんだ紙に書かれた母の流れるような筆跡を目にする。胸の奥が熱くなった。


『愛しい娘へ

私の身に何かが起きた場合、これを読んでいるでしょう。

氷翡翠の力が目覚める時、あなたは選択を迫られます。

「永劫の檻」という結社があります。彼らの目的は世界の秩序を破壊すること。

そして光と氷の力の持ち主を利用しようとしています。

あなたのペンダントを守りなさい。それは鍵です。

最後に—私の死は事故ではありません。疑うべきは…』


そこで文字が乱れ、手紙は途切れていた。インクの染みを指でなぞると、まるで母の最後の瞬間の恐怖が伝わってくるようだった。


「続きは…?」声が震える。


「これが全てです」リディアの表情に影が落ちた。「誰かに中断されたのでしょう」


アイリスは胸元のペンダントを握り締めた。母から譲り受けた青い氷翡翠の結晶。子供の頃からずっと身につけていたが、まさかこれが「鍵」だったとは。


「母が『時の魔法』を研究していたのは知ってた?」


リディアは静かに頷いた。「はい。特に「氷翡翠」の力を使った時間操作の研究です」


「でも、なぜ殺されたの?」アイリスの声は冷たく、部屋の気温が急激に下がった。窓ガラスが霜で覆われ始める。


「お母様は『守護者』でした」


リディアは火に近づき、低い声で続けた。「光と氷の均衡を守るために戦う秘密結社の一員です」


「それで、敵対する『永劫の檻』に…」


「そう考えるのが自然です」リディアは火影に浮かぶアイリスの表情を見つめた。「しかし、実行犯は館の中にいた可能性が高いです」


継母ドロシア。父バジル。または他の誰か。アイリスの心に疑念の炎が燃え上がる。


「証拠は?」


「まだです」リディアは首を振った。「お母様の書斎を調査しましたが、重要な資料は殆ど処分されていました」


「でも、彼らが見逃した物がある」


アイリスはペンダントの青い結晶を見つめた。その中で小さな光が揺れているように見えた。「これが母の言う『鍵』…私が何を開くべきなのか」


---


夕食のテーブルは重く沈黙に包まれていた。銀の食器が皿に触れる音だけが響く。父バジル、継母ドロシア、異母弟のアレクサンダー(12歳)、そしてアイリス。表面上は完璧な貴族の家族の食卓だが、その下には氷のような緊張が走っていた。


「明日の朝、学院に戻るわ」


アイリスが突然言うと、父は眉を寄せた。ナイフを持つ手に力が入る。


「まだ話し合うことがある」


「決闘大会があります」アイリスは冷静に答えた。「欠席すれば、評判に傷がつきます」


「学業より家の問題が優先だ」父の声には威厳が込められていた。


一瞬ひるんだが、アイリスは決意を固めた。「父上、レヴィン王子との関係強化のためにも、学院での評判は大切です」


その戦術的な言い方に、父は考え込んだ。沈黙が流れる中、意外な声が聞こえた。


「アイリス、あなたの言うことは正しいわ」


ドロシアがワイングラスを持ち上げ、赤い液体を光にかざした。「若い才能は磨くべきよ。特に彼女の氷の魔法は特別ですもの」


その笑顔に違和感を覚える。何か裏があるのではないか。継母が自分の帰校を望む理由があるはずだ。


「わかった」父は渋々頷いた。「だが、平民との交友は控えろ」


「はい、父上」


アイリスは表面上の従順さを示しながら、内心では警戒を解かなかった。


食事が終わり、廊下を歩いていると、小さな足音が背後から聞こえた。振り返ると、異母弟のアレクサンダーが駆け寄ってきた。栗色の髪と父に似た灰色の目を持つ少年だ。


「姉さん、これ」


彼は小さな紙切れを手渡した。そっと周囲を見回してから、アイリスは開いた。「西の塔、10時」と書かれている。


「誰から?」


「教えられないよ」少年は小声で言った。「でも、『信頼できる』って」


アレクサンダーの無邪気な表情からは、彼が内容を知らないことがわかった。


「ありがとう」頭を撫でると、弟は照れたように頬を赤らめた。


彼が去った後、アイリスは紙切れを再び見つめた。誰が私に会いたいのだろう?罠かもしれない。しかし、真実を知るためには危険を冒す必要がある。


「フリーズ」彼女は小声で氷精霊を呼んだ。「待機していて」


---


真夜中に近い館は、月明かりに照らされて不気味な影を落としていた。西の塔へ向かう途中、アイリスは老朽化した廊下の床が軋む音に何度か足を止めた。何世紀もの歴史を持つフロストヘイヴン邸は、昼間は威厳に満ちていても、夜になれば幽霊屋敷のようだ。


螺旋階段を上り、塔の最上階に到着した。重い木の扉は、まるで長い間誰も開けていないかのように、開けるのに苦労した。


中はほこりと古い本の匂いがした。窓から月明かりが差し込み、埃の舞う空気を銀色に照らしていた。しかし、部屋には誰もいないように見えた。


「来たね、アイリス」


声がして、彼女は素早く振り向いた。窓辺の影からエリオットが姿を現した。銀髪が月光に輝き、赤い瞳が闇の中で妖しく光っていた。


「あなた!どうしてここに?」


「君に会うためさ」彼は微笑んだ。歯が白く光る。「魔法学院から追いかけてきた」


彼が学院の塔の上にいた人物だったのだ。アイリスは警戒しながらも、内心では安堵していた。少なくとも顔見知りだ。


「どうやって入ったの?結界は?」


「結界は一時的に解除されている」エリオットは窓の外を見た。「それも気になるポイントだろう?誰かが意図的に館の防御を下げている」


確かに、通常は強力な魔法結界で守られているフロストヘイヴン邸。なぜ今日に限って…


「ここは安全じゃない」エリオットは真剣な表情で言った。月明かりに照らされた彼の顔は、いつもより年上に見えた。「君は罠にはめられつつある」


「罠?」アイリスの背筋に冷たいものが走った。


「『永劫の檻』が動き始めた。彼らは君とセレスティアを狙っている」


窓から漏れる月明かりに、彼の赤い瞳が不思議な光を放っていた。まるで、遠い昔の記憶を映すかのように。


「母からの手紙を見つけたわ」アイリスは静かに言った。「彼女も『永劫の檻』について警告していた」


「そう」エリオットは静かに頷いた。「君のお母さんは『守護者』だった。そして彼らに殺された」


「犯人は誰?継母?」アイリスの声には怒りが滲んでいた。


「そう単純ではない」彼は窓の外を見た。雪が再び降り始めていた。「君の父は…複雑な立場にある」


「どういう意味?」


「表向きは『永劫の檻』に協力しているように見せながら、実は内部で情報を集めている可能性がある」


その言葉に、アイリスの目が見開いた。無慈悲なほど厳格で冷淡な父親が、実は二重スパイとして危険な活動を?信じがたかった。


「証拠は?」


「確証はない。だから警戒が必要だ」


雪の結晶が窓を打つ音が、緊張した沈黙を埋めた。エリオットは懐から小さな青い結晶を取り出した。


「これは『影の石』。危険を感じたら砕くといい。私に合図が届く」


アイリスが受け取ると、結晶は冷たく、まるで生きているかのように脈打っていた。


「どうして私を助けるの?」彼女は直接的に聞いた。「あなたの真の目的は?」


エリオットの赤い瞳が一瞬、悲しげに見えた。


「私にも目的がある」彼は微笑んだが、その笑みは目に届いていなかった。「『永劫の檻』の野望を止めるためには、君とセレスティアの力が必要だ」


「それだけ?」


「今はそれだけを言っておく」彼は謎めいた態度を崩さなかった。「詳細を知る前に、準備が必要な事柄もある」


アイリスはため息をついた。彼の謎めいた態度にはまだ完全には信頼できないが、現時点では協力者として受け入れるしかないようだ。


「明日、学院に戻るわ」


「気をつけろ」エリオットの表情が引き締まった。「『永劫の檻』のメンバーは学院内にもいる」


その言葉に、アイリスは息を呑んだ。「誰?」


「それを突き止めるのが君の仕事だ」彼はウインクした。少年のような仕草が一瞬見えた。「ただ、王太子は信用していい。彼は君の味方になるだろう」


「レヴィン王子が?」アイリスは驚いた。「彼はいつも冷淡だわ」


「彼もまた、闇の力に対抗する側にいる」エリオットは確信を持って言った。「ただ、警戒心が強いだけだ」


彼は窓の方へと歩いた。「さて、私は行くよ。長居は無用だ」


「待って」アイリスは思わず手を伸ばした。


彼が振り返る。月明かりに照らされた彼の顔が、一瞬だけ異質な雰囲気を帯びた。まるで数百年の時を経た魂が宿っているかのように。


「あなたは何者?ただの転生者じゃないでしょう」


「私は…」彼は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。「ただの旅人さ。時を渡る旅人」


そして彼は窓から身を乗り出し、驚くべきことに闇の中へと消えていった。黒い影が雪と一体になり、瞬く間に見えなくなる。魔法で身を隠したのか、本当に消えたのか…判断できなかった。


塔の窓から見える夜景を眺めながら、アイリスは彼の言葉を反芻した。「時を渡る旅人」—それは単なる比喩ではないような気がした。


---


部屋に戻り、ベッドに座ったアイリスは、母の手紙とエリオットの警告を頭の中で整理しようとしていた。しかし、断片的な情報をどう繋げばいいのか混乱していた。


「アイリス」


突然の声に、彼女は飛び上がった。振り向くと、空中に小さな氷の結晶が浮かんでいた。それは次第に光を放ち、人間の顔のような形に変わっていく。


「フリーズ!びっくりした」


「西の塔でエリオットに会ったわね」精霊の声は静かだが、部屋全体に響いた。


「見ていたの?」


「君を守るのが私の役目だ」彼は小さく光った。「あの男、完全には信用できないよ」


「わかってる」アイリスはベッドに深く沈んだ。「でも今は協力者として受け入れるしかない」


「賢明だ」フリーズは頷いた。「ところで、もうすぐだよ」


「何が?」


「君の本当の力が目覚める時」精霊の声が神秘的な響きを帯びた。「『氷翡翠の巫女』として」


母の手紙、エリオットの警告、そして今フリーズの言葉。全てが「氷翡翠の力」へと繋がっている。アイリスは胸が高鳴るのを感じた。


「どうすればいいの?」


「ペンダントを使って、君の魔力と繋げるんだ」


母から受け継いだ氷翡翠のネックレスを手に取る。青く輝く結晶が、月明かりを反射して淡く光っていた。まるで内側に星が閉じ込められているようだ。


「手に持って、目を閉じて」


フリーズの指示に従い、アイリスはペンダントを両手で握り締めた。心臓の鼓動が早くなる。


「さあ、私の声に耳を傾けて。『氷の記憶』という魔法を教えよう」


フリーズの声が静かに響き、古い言葉が紡がれる。それは通常の魔法詠唱とは違い、もっと古く、もっと深いものだった。アイリスにとって聞き慣れない言語なのに、どこか懐かしさを感じる不思議な言葉。


「Memoria Glacialis」(氷の記憶)


アイリスがその言葉を繰り返すと、手のひらから青白い光が漏れ始めた。まるで彼女の手の中で小さな氷の星が生まれたかのようだ。ペンダントが脈打つように温かくなり、寒気と熱が同時に体を駆け巡った。


「そう、感じるんだ。時の流れを」


不思議な感覚が全身を包む。目を閉じたまま、過去の光景が見え始めた。それは夢のようでいて、あまりにも鮮明だった。


母の姿。笑顔で幼いアイリスに語りかけている。小さなアイリスが彼女の膝に座り、氷の結晶で作られた小さな動物の置物で遊んでいる。


「ママ…」


思わず声が漏れた。あまりにも鮮明な記憶に、閉じた瞼から涙が溢れる。


そして、突然場面が変わる。母が書斎で何かを必死に書いている。恐怖に満ちた表情で。そこへ、誰かが入ってくる。ドアの影から現れる人物。母が振り向き、恐怖の表情を浮かべる。


「誰…?」


まさに真実を見ようとした瞬間、ペンダントが突然灼熱を帯び、アイリスは痛みに叫びを上げ、手から落としてしまった。床に落ちたペンダントから煙が立ち上る。


「まだ力が足りないようだ」フリーズが心配そうに言った。「でも『氷の記憶』の基礎はマスターした。過去の出来事を氷の結晶に映し出す魔法だ」


アイリスは震える手でペンダントを拾い上げた。まだ温かい。


「母の死の瞬間を見ようとしたけど…」


「強い魔力で封じられているんだろう」フリーズは静かに言った。「犯人が痕跡を消したのさ」


アイリスはペンダントを胸に押し当てた。「でも諦めないわ。必ず真実を突き止めてみせる」


「その意気だ」フリーズは嬉しそうに明るく光った。「そして明日、学院に戻ったら、セレスティアと魔力を合わせる練習をするといい。二人の力が合わさると…」


「『時の魔法』が使えるようになる?」アイリスの青い瞳が期待に輝いた。


「理論上はね」フリーズはわざと謎めいた言い方をした。「光と氷が融合すれば、時の結晶が生まれる。それが伝説だよ」


窓の外を見れば、満月が雪雲の間から顔を出し、白銀の光が部屋を満たしていた。アイリスはその光の中で、決意を新たにした。


母の手紙、エリオットの警告、そして新たに得た「氷の記憶」の魔法。全てのピースが少しずつ繋がり始めている。親の死の真相、家の秘密、そして自分の使命—断片的な情報から、大きな絵が徐々に浮かび上がってきた。


「明日は早いのね」リディアがノックして入ってきた。荷造りを手伝おうという配慮だろう。「お休みになられますか?」


「ええ」アイリスは微笑んだ。「でもその前に、明日の準備をしておきたい」


彼女は机に向かい、羊皮紙に何かを書き始めた。レヴィン王子への手紙だ。


「親愛なるレヴィン殿下へ—」


筆が滑るように動く。学院に戻ったら、すぐにでも彼に会う必要がある。エリオットの言葉が本当なら、王太子は味方になるかもしれない。


外では雪が激しさを増し、窓を打つ音が部屋に響いた。まるで危険が迫っていることを警告するかのように。


「決闘大会…」アイリスは呟いた。「そこで何かが起きる。私は準備しなければ」


ペンダントを握りしめ、彼女は決意を固めた。もう逃げも隠れもしない。「氷の令嬢」として恐れられてきた自分の力を、今度こそ本当の目的のために使うときが来たのだ。


(第5章 おわり)

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