第3章「氷の婚約者」
朝靄の中、クリスタリア王立魔法学院の最上階にある「星の間」に足を踏み入れた。早朝の光が、天井一面を覆う天体観測用の魔法装置「アストラリウム」に反射し、幻想的な光景を作り出している。
昨日の特訓でセレスティアに本の修復方法を教えた後、彼女の笑顔が忘れられなかった。素直な感謝の言葉と、その信頼に満ちた瞳。私が今までどれほど孤独だったか、その対比で痛感する。
「またですか、フロストヘイヴン様」
声の主は、アルバン・シルバーストーン教授。天文魔法の権威で、銀色の短髪に眼鏡をかけた初老の紳士だ。彼の周りには微かに草の香りがする。いつもの薬草茶を飲んでいるのだろう。
「おはようございます、教授」
丁寧に礼をしながら答える。
「朝から熱心ですね。何の研究をしているのですか?」
アストラリウムの小さな惑星が回転する音だけが静かに響く部屋で、彼の好奇心に満ちた声が心地よく響く。
「氷と光の魔法の相互作用について」
教授の眉が上がった。「なぜそのような…」
「単なる好奇心です」
そう言って微笑むと、窓際の書見台に向かった。既に開いている古書は「精霊属性の共鳴理論」。見つけるのに三日かかった貴重な一冊だ。ページの端には小さな精霊の絵が描かれ、触れるとかすかに光を放つ。
実は昨日の放課後、セレスティアに約束通り本の修復方法を教えたあと、二人の魔法の相性についても少し話した。光の魔法が彼女を疲弊させる原因と、それを氷の魔法で緩和できる可能性について。彼女の真剣なまなざしと、理解の早さに感心した。
「ハロー、アイリス」
突然耳元で声がして、ビクリと肩を跳ねさせた。振り向くと、窓辺に小さな氷の結晶が浮かんでいた。朝日に照らされて七色に輝いている。
「フリーズ!人前で出てこないで」
「大丈夫だよ、教授は向こうの望遠鏡に夢中だし、私はこの程度なら他人には見えないさ」
契約精霊のフリーズは、時々こうして不意に現れる。彼の周りには常に冷気があり、近くの窓ガラスに小さな霜の模様ができる。
「それで、朝から研究熱心だね。王子様に知的な印象を与えたい?」
「…黙りなさい」
頬が熱くなるのを感じた。図星だ。手元の紙が凍りそうになるのを慌てて抑える。今日の午後、王太子レヴィン・クリスタリアとの正式な面会が予定されている。入学後初めての対面で、婚約者としての儀礼的な茶会だ。
「当てずっぽうじゃないよ。君の頭の中、少しは読めるんだから」
フリーズの言葉に驚く。「私の考えが読めるの?」霜の模様が広がった窓に映る自分の顔が赤くなっているのが見える。
「全部じゃないよ。強い感情は少し。特に恋愛感情は鈴なりだねぇ」
からかうような声音に、本で精霊を叩こうとするが、すぐに消えてしまった。窓辺に残された霜だけが、彼の存在の証だ。
「もう…」
小さくため息をつくが、心は重かった。レヴィン王子との関係は複雑だ。政略結婚とはいえ、ゲームの知識から、彼は誠実で優秀な人物だと知っている。しかし原作通りなら、アイリスの悪行によって婚約破棄は確実。
「彼は本当は…優しい人なの」
誰にも聞こえないように呟く。ゲームの中で幾度も彼のルートを攻略した記憶がある。正義感が強く、知的で、時に頑固だが、心底から愛した相手には一途な男性。しかしここでは、彼は私の敵になる可能性が高い。
そうならないために、今日の面会は重要だった。
———
「お嬢様、緊張なさっているのですか?」
リディアが私の髪を丁寧に編みながら尋ねた。彼女の指の動きは確かで、編み目一つひとつに愛情が込められている。
「そんなことないわ」
冷静を装ったが、鏡に映る自分の表情は硬い。額に浮かぶ薄い汗と、時折噛む唇が緊張を物語っていた。
「第一印象は大切です。しかし、お嬢様はいつも素晴らしい」
リディアの言葉に小さく微笑む。彼女は単なる侍女ではなく、私を支える大切な存在だ。彼女の手から漂う薄荷の香りが私を落ち着かせる。
「ありがとう。でも王子は私に良い印象を持っていないと思うわ」
政略結婚の話が決まったのは数年前。しかし実際の対面は儀式的なものだけで、心を開いた会話などなかった。ゲームの設定では、レヴィンはアイリスを「冷たく傲慢な令嬢」と見なしている。
「お嬢様が本当の姿をお見せになれば、必ず王子様も心を開かれるでしょう」
「本当の姿…」
それが何なのか、私自身にもわからなくなっていた。前世の記憶を持つ「佐々木美咲」なのか、それとも「アイリス・フロストヘイヴン」なのか。鏡に映る顔は確かに私のものなのに、時々違和感を覚える。
———
王立魔法学院の中で最も美しいとされる「水晶の間」。エメラルドグリーンのカーテンと純白の大理石の柱が調和した空間で、私はレヴィン王子を待っていた。空気中に漂う上質な香水の香りと、磨き上げられた床の僅かな光沢。全てが完璧な調和を奏でている。
「彼はいつも三分前に来るわ」
ゲームの知識が呟かせる。時計の針を見つめながら、手に汗握る。そして予想通り、時計が約束の時刻を指す三分前、扉が開いた。
「お待たせしました、フロストヘイヴン令嬢」
声の主は見事な立ち姿の青年。漆黒の髪と紫の瞳、完璧な均整を持つ顔立ち。王太子レヴィン・クリスタリアだ。彼の周りには微かな風の匂いがする。風属性の魔力を纏っているのだろう。
立ち上がり、深々と礼をする。「こちらこそ、お時間をいただき恐縮です、王太子殿下」
彼は礼儀正しく返礼し、向かい側の椅子に着席した。侍従が退出し、部屋には私たちだけが残される。沈黙の重みが一瞬部屋を満たした。
「学院生活は順調ですか?」
表面上は穏やかだが、その眼差しには警戒心が見える。彼の紫の瞳は私の表情を探るように観察している。
「ええ、特に実技でのクラスマッチでは好成績を収めています」
落ち着いた声を装うが、内心では激しく鼓動する心臓を抑えるのに必死だった。
「聞きました。光属性の平民の少女と組んで、見事な連携だったとか」
その言葉に驚いた。「ご存知だったのですね」彼が私の活動に注目していたことに、胸が高鳴る。
「マーカス教授から報告がありました。光と氷の組み合わせは珍しい。古代魔法でも重要な組み合わせだと」
彼の知識の深さに感心する。ゲームでは彼の知性は高く評価されていたが、魔法の歴史にも詳しいようだ。
「実は最近、その組み合わせについて研究しているんです」
言葉が自然と口から溢れた。研究の話をすると、いつも声が明るくなる。頬が紅潮するのを感じながらも、止められなかった。
「ほう?」
眉を持ち上げ、初めて興味を示した彼の反応に勇気づけられる。彼が身を乗り出す仕草に、真の関心が見えた。
「古代魔法では、光と氷が組み合わさると『時の魔法』という特殊な力を発揮できたという記録があるんです。でも具体的な方法は失われていて…」
私の手が勝手に動き、説明のジェスチャーを交えながら話し始めた。熱が頬から首筋へと広がっていく。
急に我に返り、言葉を止めた。あまりに熱心に話してしまった。「申し訳ありません。退屈な話で」
「いいえ」王子は小さく首を振った。「続けてください。興味深いです」
彼の紫の瞳に、初めて本当の関心が灯ったように見えた。今までと違う、柔らかな表情。
そして次の一時間、私たちは魔法理論について熱心に議論した。彼の知識は深く、質問は鋭い。次第に緊張はほぐれ、自然と会話が弾み始めた。茶が冷めていくのも気づかないほどだった。
「フロストヘイヴン令嬢、正直に言うと驚いています」
茶会の終わり際、レヴィンはそう言った。窓から差し込む午後の柔らかな光が彼の黒髪に反射して、紫がかった輝きを放っている。
「どういう意味でしょう?」
「あなたがこれほど魔法理論に詳しいとは思っていませんでした。社交界では別の印象だったので」
正直な言葉に、少し胸が痛んだ。これまでの「アイリス」は社交界でどんな振る舞いをしていたのだろう。高慢で冷淡な態度で、周囲を見下していたのだろうか。
「人は見た目で判断されがちですから。私も王太子殿下について、もっと知りたいと思います」
少し大胆な言葉に、彼は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みを取り戻した。その笑顔に、胸が熱くなる。
「では、次回はぜひ王宮の魔法文庫をご案内しましょう。あなたの研究に役立つ古文書があるかもしれません」
予想外の申し出に、心臓が高鳴る。「それは…光栄です」
別れ際、彼は礼儀正しくお辞儀をしたが、その目には少し前とは違う光があった。手を取って軽くキスをする儀礼の際、彼の手の温かさに触れ、心が震えた。最初の一歩は上手くいったようだ。
———
「セレスティア、集中して。光の流れを感じるの」
放課後の魔法理論室裏庭。夕陽が建物の影を長く伸ばし、私たちの姿を隠してくれている。人目を避けて、私はセレスティアに光の魔法の制御法を教えていた。
「ごめんなさい、難しくて…」
彼女は額に汗を浮かべながら、小さな光の球を手のひらに乗せようとしている。しかし、光は不安定に揺れ、時折強く輝いては消えてしまう。かすかな焦げた匂いが漂い、失敗の証拠となっている。
「氷の結晶は形を保つために水分子が規則正しく並ぶの。光も同じ。規則性を作ればいいのよ」
私は自分の掌に小さな氷の結晶を作り出した。触れると冷たく、完璧な六角形の構造が見える。「見て、この六角形の構造。光も似たような波動の規則性があるはず」
セレスティアは真剣な面持ちで頷く。彼女の熱心さは好感が持てる。眉間に寄るしわと、集中する瞳に強い意志を感じる。
「試してみます」
彼女は目を閉じ、深呼吸した。呼吸の音だけが静かな裏庭に響き、一瞬世界が止まったようだ。その瞬間、手のひらに安定した光の球が浮かび上がった。
「できた!」
喜びに満ちた声と共に、光の球は鮮やかに輝いた。その光は暖かく、ほのかな春の香りがする。
「素晴らしいわ!」
思わず声が弾んだ。この一週間、密かに彼女に魔法を教えていたが、上達は目覚ましい。二人の間に築かれつつある信頼関係が、この瞬間形になったようで嬉しかった。
「フロストヘイヴン様のおかげです。どうしてそんなに親切にしてくれるんですか?」
その質問に、一瞬言葉に詰まる。彼女の翡翠色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
「別に…親切でやっているわけじゃないわ」
冷たく言おうとしたが、声にはいつもの鋭さがなかった。「単に、光と氷の関係に興味があるだけよ」
「でも、みんなが言うような人じゃない。フロストヘイヴン様は本当はとても…」
「黙りなさい」
思わず強い口調になる。周囲に誰かいないか不安になった。心臓が喉元まで飛び上がるような感覚。
「ごめんなさい、でも私…」
「これ以上言わないで。あなたが私について知ったことは、誰にも言わないで」
彼女は困惑した表情を浮かべたが、頷いた。「約束します」彼女の声には誠実さが溢れている。
「じゃあ今日はここまで。明日からは魔力の増幅法を教えるわ」
彼女が去った後、私は木陰に腰掛け、疲れた息をついた。二重生活の疲労が蓄積している。冷たい「氷の令嬢」と、本当の自分の間で引き裂かれているよう。
「なかなか興味深い光景だね」
突然の声に飛び上がる。木の葉が揺れ、鳥が驚いて飛び立つ音がする。振り向くと、うっすらと笑みを浮かべる男子生徒が立っていた。銀髪に赤い瞳、神秘的な雰囲気を漂わせている。
見たことのない顔だ。「あなたは?」
「転校生のエリオット・シャドウメア。君が噂の『氷の令嬢』かい?」
彼の言葉には敬語がなく、どこか緊張感がない。他の生徒ならこんな態度は取らないだろう。彼の周りには不思議な静けさがあり、時間がゆっくり流れているような感覚さえある。
「失礼な方ね。私はアイリス・フロストヘイヴン。それより、何を見ていたの?」
「全部さ」
その答えに息が止まった。血の気が引く感覚。私とセレスティアの特訓を見られたのか。
「言いふらすつもりなら…」
「安心して」彼は手を振った。「僕は噂話に興味はない。それより君自身に興味がある」
彼の赤い瞳がじっと私を見つめる。その視線に奇妙な既視感を覚えた。まるで昔から知っている人を見るような感覚。
「特に、君が『二つの記憶』を持っていることにね」
その言葉に全身が凍りついた。彼がどうして知っているのか。思わず後ずさり、木の幹に背中が当たった。
「何を言って…」
「佐々木美咲さん、日本から来たんだよね?」
世界が揺れるような衝撃。彼は私の前世の名前を知っている。頭が混乱し、言葉が出てこない。
「あなた…何者?」
エリオットはクスリと笑った。「僕も君と同じさ。別の世界から来た『転生者』」
信じられない言葉だった。この世界に他の転生者がいるなんて。心臓が激しく鼓動し、息が浅くなる。
「証拠は?」
「iPhone、Googleマップ、電車の定期券…聞き覚えがあるかな?」
全て前世の日本の単語。彼は確かに知っている。懐かしさと驚きが入り混じる感情に包まれる。
「あなたも…『ゲーム』を知っている?」
「ある程度はね。でも君が思っているより、この世界ははるかに複雑だよ」
彼は一歩近づいた。草の上を歩く音も立てず、まるで浮いているかのようだ。「僕たちは『単なる転生者』じゃない。この世界に呼ばれた理由があるんだ」
「理由?」
「氷翡翠の伝説…知ってるだろう?」
母の日記に書かれていた言葉。彼がそれを知っているとは。思わず胸元のペンダントに手が伸びる。
「少しだけ…」
「今は詳しく話せないが、君と光の少女には特別な使命がある。そして『闇の結社』が動き始めている」
「闇の結社?」
首を傾げると、彼は小さく笑った。
「またいつか話そう」
彼は不意に振り返り、去ろうとした。桜の花びらが風に舞う中、彼の姿が溶け込んでいくようだ。
「待って!もっと教えて!」
「急がないで、アイリス。物事には順序がある」
エリオットは肩越しに微笑んだ。「でも忠告しておく。王太子には気をつけて。彼は表面上は協力的でも、君を完全には信用していない」
その言葉を残し、彼は木々の間に消えていった。後には不思議な静けさだけが残された。
———
夕暮れの自室。窓から差し込む赤い陽光に照らされながら、私は頭を抱えていた。カーテンが風で揺れ、影が床に踊る。
エリオットの言葉が頭の中で反響する。彼も転生者だという事実、そして「闇の結社」という謎めいた言葉。
「闇の結社…」
ゲームには登場しなかった要素だ。この世界は単なるゲームの再現ではないのかもしれない。それとも私の記憶が不完全?混乱する頭で考えをまとめようとしても、糸口が見つからない。
「お嬢様、このような時間にお呼びとは珍しいですね」
リディアがお茶を運んできた。お茶の香りが部屋に広がり、少し心が落ち着く。私は母の日記を開きながら尋ねた。
「リディア、『闇の結社』という言葉を聞いたことがある?」
お茶を注いでいた彼女の手が一瞬止まった。注がれるお茶の音も止まり、部屋に緊張が満ちる。「どこでそれを?」
「知っているのね?」
「…断片的にですが。お母様が時々、『永劫の檻』という結社に言及されていました」
「永劫の檻?」
その名前に奇妙な響きを感じる。まるで以前どこかで聞いたような…。
「光と闇の均衡を乱し、古代魔法の力を復活させようとする秘密結社と…ただ、これ以上は」
リディアの表情が曇る。目に恐れの色が浮かぶ。「お嬢様、危険な知識です」
「でも母が関わっていたなら、私も知るべきよ」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小声で言った。「お母様は…『守護者』の一人だったと思われます」
「守護者?」
「光と氷の守護者たち。闇の結社と対を成す存在です」
この言葉に、胸が高鳴った。母の日記、私の前世の記憶、エリオットの言葉、そしてセレスティアとの不思議な繋がり。全てが何かのパズルのピースのようだ。少しずつ全体像が見えてきた気がする。
「もっと調査して」
リディアが心配そうに言う。「お嬢様、深入りは危険です」
「わかってる。でも…これが私が転生した理由かもしれない」
窓の外を見ると、学院の塔の上に一瞬、人影が見えたような気がした。銀髪がわずかに月明かりに照らされる。エリオットだろうか。それとも…
その時、急なノックの音。
「アイリス様、緊急のご連絡です」
見知らぬ使いの声。扉を開けると、王宮の制服を着た若い伝令が立っていた。彼の呼吸は荒く、急いできた様子。
「レヴィン王太子殿下からのお知らせです。明日予定していた王宮文庫へのご案内は、急用により延期となりました」
予想外の知らせに、少し失望する。胸に空いた穴のような感覚。「わかりました、ありがとう」
伝令が去った後、リディアが静かに言った。「王太子は明日、セレスティア嬢の特別レッスンを監督されるそうです」
「え…?」
「光属性の才能に、王室が特別な関心を持たれているとか」
その知らせは胸に小さな刺を差した。レヴィンとセレスティア。ゲームでは彼らが恋に落ちるルートがあった。喉がきつく、乾いた感じがする。胸の痛みに息苦しさを覚える。
「そう…」
窓辺に寄り、夕焼けを見つめる。混乱する気持ちを抑えるように深呼吸した。嫉妬?悲しみ?それとも恐怖?自分の感情さえ理解できない。
今日一日で状況は一変した。レヴィン王子との茶会、エリオットの出現、闇の結社の存在。そして心の奥底で感じる、セレスティアへの複雑な感情。
「なんだか、ゲームの展開よりもずっと複雑ね…」
しかし一つだけ確かなことがあった。私はもう単に「断罪」から逃れるだけが目的ではない。この世界の謎、母の遺志、そして自分と光の少女の関係を解き明かさなければならない。
空を見上げ、最初の星を見つけた。母が見守っているような気がする。「導いて」と心の中で願いながら、明日への決意を新たにした。
窓の外、塔の上の人影は消え、代わりに最初の星が輝き始めていた。その光は、遠い記憶のように儚く、そして確かだった。
(第3章 おわり)