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第10章「運命の書き換え」


王都の治癒院。純白の壁に囲まれた静かな病室で、淡いハーブの香りが漂っていた。窓から差し込む陽光が床に金色の四角形を描き、その光の中で小さな埃が舞い、緩やかな時間の流れを示している。


アイリスはベッドに座り、父の帰りを待ちながら、指先で窓枠に霜の小さな模様を描いていた。思わず氷の力が漏れ出してしまう癖は、まだ完全には制御できていなかった。物思いにふけりながら、この一週間の激動を振り返る。


「永劫の檻」の計画を阻止し、千年の時を生きたオブシディアンとの対決。そして「時空の間」での選択。何か大切なものを失ったはずなのに、それが何なのか思い出せない。まるで心に穴が開いたような、得体の知れない喪失感。


「アイリス様、大丈夫ですか?」


セレスティアの優しい声に我に返る。彼女は窓際の椅子に座り、アイリスの回復を見守ってくれていた。翡翠色の瞳に心配の色が宿っている。


「ええ、ただ考え事を…」


言葉を交わす瞬間、扉が静かに開き、二つの人影が現れた。


「アイリス!」


その声に胸が高鳴る。バジル・フロストヘイヴン。彼女の父。十年もの間、冷たい関係だった人。


彼は以前よりも痩せ、顔には疲労の色が残るものの、背筋は依然として真っ直ぐだった。かつての威厳ある大公の面影を残しながらも、どこか柔らかな雰囲気を纏っている。その後ろにはレヴィン王子の凛々しい姿があった。


「父上…」


アイリスは立ち上がろうとするが、まだ体が言うことを聞かない。震える脚がベッドの縁で折れそうになる。


父はそれを見るや否や、大きな二歩で駆け寄り、アイリスの驚きの表情を前に、意外なことに、彼女をそっと抱きしめた。温かな体温と、慣れない香木の香りが、彼女を包み込む。


「無事で良かった」


低く震える声。その言葉に、アイリスの目から熱い涙が溢れ出た。厳格で冷淡だと思っていた父が、こんなにも温かい声で語りかけるなんて。十年分の抑えられた感情が、一気に解き放たれるのを感じる。


「父上も…良かった」震える声で答える彼女。


バジルがゆっくりと身を引き、アイリスの顔を両手で包み、じっと見つめた。彼の目にも涙が浮かんでいる。「アイリス、お前は本当に母親に似ている。姿だけでなく、その勇気も、優しさも」


その言葉には様々な感情が込められていた。愛情、誇り、そして深い喪失感。エレノアを失った悲しみが、今もなお彼の心に生きていることが伝わってくる。


「『氷翡翠の巫女』として、エレノアの意志を継いだのだな」彼は小さく微笑んだ。


アイリスは小さく頷いた。「でも、まだ完全には理解できていないの。この力も、使命も」


父は椅子に腰掛け、深いため息をついた。疲れた肩を下げ、長い沈黙の後に決意したように口を開いた。「すべてを話す時が来たようだ。もう隠し事はしない」


彼は静かに、しかし鮮明に10年前まで遡り、話し始めた。母エレノアがいかに「守護者」として「永劫の檻」と戦っていたか。彼女の死後、父が彼女の遺志を継いで内部潜入を試みたこと。そして何より、アイリスを守るために冷たく距離を置いたこと。


「冷たくしていたのは、お前を守るためだった」彼は苦い表情で言った。茶色の瞳に後悔の色が浮かぶ。「ドロシアの監視の目から。彼女はお前の力に気づけば、母と同じ運命に追いやったかもしれない」


「わかってる」アイリスは父の大きな手を取った。かつては威圧的に感じたその手が、今は心強く感じられる。「映像で見たわ、『真実の鏡』で。あなたの苦しみも、選択も」


「お前が真実を明らかにしてくれたおかげで、王国中が『永劫の檻』の脅威を認識した」父の声には誇りが混じる。額のしわがほころび、目が温かさを取り戻していく。「フロストヘイヴン家の名誉も回復された。お前は家の誇りだ、アイリス」


長年求めていた言葉。アイリスの心に温かい波が広がる。


レヴィンが静かに一歩前に出た。彼の紫の瞳は優しく、しかし威厳に満ちている。「残党の多くを捕らえました。ドロシア夫人も含めて」


彼は一瞬アイリスと視線を交わし、彼女の中に安心と信頼を見出したかのように続けた。「マーカス教授とオブシディアンは消息不明ですが、当面の脅威は去ったと言えるでしょう」


「母上は…」アイリスの声が詰まる。胸に刻まれた疑問が、ようやく口に出せた。「母上は私に何を望んでいたの?」


父は懐から古い封筒を取り出した。端が少し焦げ、インクが滲んでいるが、確かに母の筆跡で「アイリスへ」と書かれている。「これはエレノアが残したもの。お前が真実に気づいた時のために」


アイリスは震える手で受け取った。指先が触れた瞬間、母の魔力の残滓を感じたような気がした。心臓が早鐘を打つ。


「今はまだ開けなくていい」父は優しく言った。「体力が戻ってからにしなさい。エレノアの言葉は、時に重みを持つからな」


アイリスは頷き、封筒を胸に抱きしめた。母の最後のメッセージ。それは彼女の人生を照らす灯火になるだろう。


「それよりも」父の表情が少し明るくなり、眉を上げた。「王太子殿下から話があるそうだ」


レヴィンは一瞬、頬を赤らめたが、すぐに凛とした表情に戻り、アイリスの前にひざまずいた。彼の紫の瞳には真摯な光がある。


「アイリス・フロストヘイヴン」彼は正式な口調で言った。その声は部屋中に響き渡る。「以前の私たちの婚約は政略的なものだった。父の意向と、国の安定のためだけのもの」


彼が小さな宝石箱を取り出し、開いた。中には深い青の氷翡翠が埋め込まれた美しい銀の指輪。宝石が内側から光を放っているようだ。


「今、改めて問いたい」レヴィンの声が優しく、しかし力強くなる。「私の妻となってくれないか。政略ではなく、心からの願いとして」


息が止まるような瞬間。部屋の空気が凍りついたようだ。アイリスの頬に熱が集まるのを感じる。


「レヴィン…」


言葉より先に涙が溢れる。温かく、希望に満ちた涙。父が優しく微笑み、セレスティアが小さく息を呑む音が聞こえた。


「はい」アイリスは震える声で答えた。「喜んで」


彼が指輪を彼女の指にはめると、青い宝石が瞬き、まるで応えるように光った。部屋が温かな空気に包まれ、開いていた窓から春の風が吹き込み、カーテンを揺らした。


レヴィンが立ち上がり、アイリスの額に軽く口づけた。彼の唇の柔らかさに、彼女は息を呑んだ。


「休息を取るように」彼は優しく言った。指先で彼女の頬を撫で、慎重に一歩下がる。「回復したら、すべきことがまだある。王国と『守護者』は、君の力を必要としている」


彼の言葉に、使命感と誇りが湧いてくる。もはや逃げようとしていた「悪役令嬢」ではなく、世界を守る「氷翡翠の巫女」として。


---


数日後、完全に体力が戻ったアイリスは、学院に戻る準備をしていた。開け放たれた窓から新鮮な空気が流れ込み、カーテンが風に揺れる。彼女は鏡の前で長い青い髪をとかしながら、これからの日々を思い描いていた。


「本当に行くの?」セレスティアがドアから覗き込み、心配そうに尋ねた。「まだ休んでも…」


「大丈夫」アイリスは笑みを浮かべながら答えた。「やるべきことがあるの。『守護者』としての義務、そして学生としての勉強も」


彼女は立ち上がり、制服を整えた。「それに、普通の日常が恋しいの」


魔法学院は少しずつ日常を取り戻しつつあった。「断罪の儀」から一週間。校舎の破損箇所は修復され、授業も再開していた。だが、学生たちの視線は以前と変わり、以前の「氷の令嬢」への恐れから、「氷翡翠の巫女」への尊敬と畏怖が混じったものになっている。


中央広場に足を踏み入れると、「あれが『氷翡翠の巫女』だ」「世界を救ったんだって」「王太子の婚約者だよ」という囁きが波のように広がった。


「変な感じね」セレスティアの耳元に小声で言う。以前なら冷たく突き放したはずの状況だが、今は友と共に笑い飛ばせる。


「英雄になるって、大変ですね」彼女は金色の髪を風に揺らしながら、小さく笑った。「でも、アイリス様なら上手く対処できますよ」


アイリスは微笑みを返し、二人は学院の図書館へと向かった。そこには、「時空の間」で見た映像について調査できる古い文献があるはずだ。彼女の心には、失った記憶の謎を解く鍵があるかもしれないという期待があった。


重厚な木の扉を開け、古書の香りが漂う図書館に足を踏み入れる。いつもなら他の学生がいるはずだが、今日は不思議と静かだった。


「アイリス様、これ見てください」


広い書架の間を進み、セレスティアが古い革装丁の本を指さした。埃を被った棚の奥から取り出した古書。「世界線の修復と記憶の関係」という項目が、黄ばんだページに記されている。


アイリスは息を呑み、ページに目を走らせた。そこには、世界の歪みを修正する際、「鍵となる記憶の放棄」が必要だと記されていた。世界線を分離させるためには、それらを混ぜ合わせる「触媒」となった記憶を手放さなければならないという。


「これが私が失ったもの…」アイリスは呟いた。胸に空白を感じる。「でも、何の記憶だったんだろう」


セレスティアの表情が複雑になる。彼女は本を閉じ、窓際の席に移動するようアイリスを促した。陽光の中、二人は向かい合って座った。


「言うべきか迷っていたんです」セレスティアは自分の手をじっと見つめながら言った。


「何を?」アイリスは首を傾げた。


「アイリス様は…前世の記憶を持っていました」彼女はゆっくりと言った。まるで一つ一つの言葉を慎重に選んでいるように。「『佐々木美咲』という名前の、別の世界の人の記憶を」


その名前を聞いて、アイリスの心にかすかな既視感が走った。頭の中で名前が反響し、まるで古い鐘が鳴るように響く。しかし具体的な記憶は戻ってこない。手を伸ばしても掴めない霧のような感覚。


「それが世界の歪みだったの?」彼女は息を呑んだ。


「そうみたいです」セレスティアは頷く。彼女の翡翠色の瞳に悲しみが浮かぶ。「時空の間で、アイリス様は自分で選びました。世界線を正すために、前世の記憶を手放すと」


壮大な犠牲。世界を救うために自分の一部を捨てた選択。しかし、アイリスの中ではただの知識として響くだけで、個人的な喪失感として感情が伴わない。悲しいはずなのに、何を悲しむべきかがわからない。


「私は…どんな人だったの?佐々木美咲は」アイリスは小さな声で尋ねた。


セレスティアが柔らかく微笑む。彼女の目に懐かしさが灯る。「思いやりがあって、賢くて、勇敢な人でした。困難に立ち向かう強さを持っていて。今のアイリス様と、本当によく似ていました」


その言葉に心が温かくなる。失ったものがあっても、本質は変わらないという安心感。


「エリオットについては?彼は…」


その名前を口にした瞬間、胸に鋭い痛みが走った。彼との記憶は残っているが、最後の戦いの後、彼の姿は見つかっていない。彼の笑顔、赤い瞳、そして千年の時を生きてきた彼の孤独。それらを思い出すと、なぜか胸が締め付けられる。


「まだ見つかっていません」セレスティアが悲しげに答えた。「でも…生きていると信じています。彼はきっと、どこかで見守っているはずです」


アイリスも同じ気持ちだった。エリオットはどこかで生きている。そして何かの目的があって姿を隠しているのだろう。世界線を修復した彼の役目は終わったのかもしれないが、彼の物語はまだ終わっていないような気がしていた。


「フリーズ、出てきて」アイリスは静かに呼びかけた。


青い光が集まり、小さな氷の結晶の形をした精霊が現れた。彼は図書館の気配に緊張したように辺りを見回した。


「何だいアイリス、急に。人目につく場所で呼ぶなんて」


「あなたの正体について知りたいの」アイリスはまっすぐに尋ねた。「ただの契約精霊じゃないでしょう?ずっと私を見守っていた」


フリーズは一瞬躊躇い、それから小さくため息をついた。「鋭いね、相変わらず」


彼の姿がゆっくりと変化し始め、人間に近い形になっていく。小さな少年のような透明な姿。青い髪と、優しい微笑み。


「私は『守護者』の一人だ」彼は静かに説明した。「エレノアから命じられて、君を見守り、導くために留まっていた。特に前世の記憶が目覚めた時、君を支えるために」


「そうだったの…」アイリスは小さく頷いた。不思議と、怒りは湧かなかった。


「本当は君が『氷翡翠の巫女』として完全に目覚めたら、私の役目は終わるはずだった」フリーズの目に寂しさが浮かんだ。「でも、もう少し一緒にいてもいいかな。まだ導くべきことがあるかもしれないし」


「もちろん」アイリスは優しく微笑んだ。「これからもよろしく、フリーズ。あなたは大切な友達よ」


フリーズはホッとしたように笑い、再び小さな結晶の姿に戻った。彼の青い光が一瞬明るく輝いた。「いつでも呼んでくれていいよ。そのためにいるんだから」


---


その夜、寮の部屋で、ついに母の手紙を開く決心をした。窓辺に座り、月明かりの下でそっと封を切る。黄ばんだ紙を丁寧に広げると、エレノアの流れるような筆跡が現れた。


『愛しいアイリス


この手紙を読むとき、あなたは既に『氷翡翠の巫女』として覚醒していることでしょう。そして、おそらく私が残した多くの謎に直面していることと思います。私があなたに直接伝えられなかったことを、ここに記します。


『氷翡翠の巫女』の力は、単なる氷の魔法ではありません。それは「運命を書き換える力」なのです。世界線が交錯する中で、未来を選び取る力。


あなたが持つ特別な記憶—別の世界のもの—は、きっと既に気づいているでしょうが、偶然ではありません。世界の歪みを修正するために必要な「鍵」だったのです。あなたの魂は特別な目的を持って、この世界に呼ばれたのかもしれません。


しかし、その記憶は重荷にもなります。いつか選択の時が来たら、自分の心に従ってください。記憶よりも大切なものがあることを忘れないで。


あなたの人生は、誰かの物語の登場人物としてではなく、自分自身の選択によって形作られるべきもの。「悪役令嬢」も「巫女」も、あなたを定義するものではありません。あなたはただ、アイリス・フロストヘイヴンなのです。


最後に—もし世界の歪みが再び現れたら、ペンダントの中心に隠された「時の種」が目を覚ますでしょう。それがあなたを導きます。


あなたを永遠に愛しています。

どんな選択をしようとも、あなたを誇りに思います。


永遠の愛を込めて

母より』


涙で視界が滲み、手紙の上に涙が落ちた。母の愛と知恵が込められた言葉。そして「悪役令嬢」という言葉—意味はわからないが、かつての自分が抱えていた運命を示唆しているのだろう。前世の自分が知っていた何かを。


「悪役令嬢…」


その言葉を口にすると、どこか懐かしいような、そして恐ろしいような感覚が胸に広がった。何かを避けようとしていた記憶の断片。断罪され、追放される運命。それを変えようとした自分の姿。


アイリスはペンダントを取り出し、月明かりに透かして中心をじっと見つめた。確かに、氷翡翠の結晶の奥に小さな光の粒がある。それは星のように小さく、しかし確かに脈動していた。「時の種」。今はまだ眠っているが、いつか目覚めるかもしれないもの。


「アイリス様」


突然のノックの音と共に、セレスティアの焦った声が扉越しに響いた。アイリスは慌てて手紙を折り畳み、「どうぞ」と答えた。


扉を開けると、セレスティアは息を切らせ、顔を紅潮させていた。「大変です。『永劫の檻』の残党が動き始めました。守護者からの連絡です」


緊張が背筋を走る。「どこで?」アイリスは立ち上がり、母の手紙をポケットに仕舞った。


「西の森の古城跡です」セレスティアの翡翠色の瞳に恐れの色が見える。「マーカス教授が新たな儀式を始めようとしています。オブシディアンを復活させる儀式だと」


「オブシディアンは?彼自身の姿は?」


「姿はないようです」セレスティアはわずかに肩をすくめた。「でも…」彼女は躊躇い、唇を噛んだ。


「何?」


「エリオットらしき人が目撃されました。古城の近くで」


その名前に、アイリスの心臓が高鳴った。エリオットが生きている。しかし、彼は何をしているのか。「永劫の檻」と手を組んだのか、それとも…


「すぐにレヴィンに知らせて」アイリスは決断した。「王宮に向かいましょう」


二人は急いで準備を整え、夜の闇に紛れて学院を後にした。星明かりの下、彼女らは王宮へと駆けていった。


数十分後、アイリスたちは王宮の作戦室に集合していた。レヴィンと王国軍の精鋭部隊、そして数名の「守護者」が、大きな地図を囲んで作戦会議を行っていた。彼らの顔には緊張と決意が混じり合っていた。


「古城に結界が再形成されている」情報担当の兵士が報告した。彼は魔法の水晶球を通して得た映像を示す。「以前ほど強力ではないが、警戒は必要です」


「結界の弱点は?」レヴィンが冷静に尋ねた。彼は完全に王太子としての威厳を帯びている。


「南西の塔に亀裂があります」「守護者」の一人が答えた。「『永劫の檻』の残党は少数だが、儀式の準備を着々と進めているようです」


「目的は?」レヴィンはアイリスに視線を送った。彼女の知恵を求めるように。


「オブシディアンの復活だと思います」アイリスは慎重に答えた。「彼は『時空の間』で致命傷を負ったが、完全には消滅していない。魂の欠片が残っているのでしょう」


「エリオットが関わっているなら…」アイリスは思いを巡らせ、唇を噛んだ。「彼は罠を仕掛けているのかもしれない。内部から彼らを倒すために」


一瞬、セレスティアと視線が交わり、彼女も小さく頷いた。二人とも、エリオットを信じたいという気持ちが一致している。


「いずれにせよ、直ちに行動する必要がある」レヴィンが決然と言った。制服のボタンをきちんと締め、剣に手をやる。「夜明け前に出発する。先制攻撃で彼らの儀式を阻止する」


準備の合間、アイリスは寮に戻り、必要なものを集めた。ペンダントを首に掛け、母の手紙をポケットに入れる。そして最後に、エリオットから受け取った赤い宝石—「時の欠片」も携えた。


「準備はいい?」


振り向くと、窓辺にフリーズが浮かんでいた。青い光が彼の姿を照らし、小さな翼のようなものが背中に見える。


「ええ」アイリスは頷いた。魔法のローブを肩に掛ける。「最後の戦いかもしれないわね」


「怖くない?」フリーズが心配そうに尋ねた。


「もちろん怖いわ」アイリスは正直に答えた。青い瞳に決意の色を宿らせる。「でも、もう逃げない。これが私の選んだ道だもの。氷翡翠の巫女として、フロストヘイヴン家の娘として、そして単にアイリスとして」


フリーズは小さく笑った。彼の目に誇りの色が浮かぶ。「エレノアそっくりだ。彼女も同じことを言ったよ。最後の戦いの前に」


---


夜明け前の森は、銀色の霧に包まれていた。露が草木を濡らし、足音を吸い込む。アイリスたちの一行は、互いを見失わないよう紐でつながれながら慎重に進み、ようやく古城の輪郭が見えてきた時、レヴィンが部隊に静かに指示を出した。


「三方から包囲する。結界破りの魔法使いは南側に集中。信号があるまで待機」


兵士たちがレヴィンの命令に従い、霧の中に消えていく。アイリスたちのコアグループ—アイリス、レヴィン、セレスティア、そして数名の「守護者」—は正面から進むことになった。彼らの顔には決意と緊張が混じり合っていた。


「結界はかつてより弱い」守護者の一人が手をかざして言った。長い白髪の老人が、結界を観察している。「突破できるはず。しかし、内部の魔力は強い。彼らは儀式をかなり進めている」


レヴィンが合図をすると、結界破りの魔法が発動され、青い光の壁にヒビが入り始めた。氷のような音と共に、結界に亀裂が走る。その瞬間、城内から強烈な魔力の波動が感じられた。赤い光が窓から漏れ、大地が微かに震えた。


「何か始まっている」アイリスはささやいた。「急がなきゃ」


結界が崩れ落ち、光の粒子となって散る。アイリスたちは急いで中に入り、湿った廊下を駆け抜けた。足音が大理石の床に反響し、壁に掛けられた古い松明が風で揺れる。廊下の奥からは赤い光が漏れ、不吉な儀式の気配が漂っていた。


巨大な扉の前で、レヴィンが一瞬立ち止まった。彼の紫の瞳に緊張の色が宿る。「万全の準備を。罠かもしれない」


全員が頷き合い、レヴィンが合図すると、二人の兵士が扉を押し開いた。重厚な木の扉が軋む音を立てて開き、中からの赤い光が彼らの顔を照らした。


中央ホールは魔法の松明で照らされ、床には複雑な魔法陣が赤い光で描かれていた。幾何学的な模様が床全体を覆い、その線は生きているかのように脈動している。魔法陣の中心には黒いローブを着た数人の人影。そして—


「エリオット!」


アイリスの声が広間に響き渡る。彼は魔法陣の端に立ち、何かの詠唱を続けていた。銀髪が赤い光に照らされ、まるで血に染まったように見える。アイリスの声に振り向いたエリオットの表情は、距離がありよく見えなかった。


「止めなさい!」レヴィンが剣を抜きながら叫んだ。「この儀式は危険だ!世界の均衡を壊す!」


魔法陣の中心から、マーカス教授が姿を現した。黒いローブから見える彼の顔は、前よりも老け、目は狂気の色を宿していた。


「遅すぎる、王太子」彼は冷笑した。声が広間に反響する。


彼の手には黒い結晶—以前セレスティアに埋め込まれていたのと同じ「血の封印」が握られていた。その結晶が赤く脈打ち、内側に何かが閉じ込められているかのようだ。


「儀式は既に始まっている」マーカスは魔法陣を指さした。「主の帰還を止めることはできない。オブシディアン様は永遠だ」


アイリスたちが前に進もうとすると、見えない結界が立ちはだかった。風を切る音と共に、透明な壁に阻まれる。


「どうすれば?」セレスティアが小声で尋ねた。彼女の手がアイリスの腕を掴み、不安そうな目で見つめてくる。


「二人の力を合わせるのよ」アイリスは彼女の手を取った。「『光と氷の防壁破り』」


二人が向かい合い、力を集中させると、青と白の光の筋が結界に向かって伸びる。青白い光が火花のように散り、結界にヒビが入り始める。しかし、完全には崩れない。


「もう少し…」アイリスは額に汗を浮かべ、集中した。


その時、エリオットが魔法陣から一歩踏み出した。彼の表情に決意の色が宿る。「時が来た」


彼の手から放たれた闇の魔法が、マーカス教授に向かって飛んでいく。黒い矢が空気を切り裂き、教授の胸に直撃した。


「何をする!」教授が驚愕の表情を見せ、よろめく。黒いローブに血が滲む。「裏切り者!」


「計画通りだ」エリオットは冷静に言った。彼の赤い瞳に鋭い光が宿る。「私はオブシディアンを復活させるつもりはない。ただ彼の魂を完全に消し去るためにね」


彼の裏切りに、他の「永劫の檻」のメンバーが動揺し、混乱が広がる。ローブの集団が右往左往する中、エリオットはアイリスたちに向かって手を振った。


「今だ!結界を破れ!」


彼の助けを得て、アイリスとセレスティアの魔法が結界を突き破る。ガラスが割れるような音と共に、透明な壁が砕け散った。レヴィンと守護者たちが一斉に突入し、残党との戦闘が始まった。剣と魔法の音が広間に響き渡る。


アイリスはエリオットの元へ駆け寄った。彼の姿は前より透明になっており、まるで実体がないかのようだ。


「何が起きてるの?」アイリスは息を切らせながら尋ねた。


「説明する時間はない」エリオットは急いで言った。彼の赤い瞳に緊急性が見える。「マーカス教授は『血の封印』の力でオブシディアンの魂の一部を保存していた。死の直前に分離させたんだ。それを使って復活させようとしている」


「どうすれば止められる?」アイリスは恐怖を押し殺して尋ねた。


「魔法陣を破壊する」エリオットは床を指さした。「だが単純ではない。魔法陣は既に活性化している。暴走すれば、この城も、周辺の森も吹き飛ぶだろう」


セレスティアが近づき、二人の会話に加わった。「私たちの力を使えば…光と氷で魔力を中和できるかも」


「危険だ」エリオットが真剣な眼差しで警告する。「反動で君たちが傷つく可能性がある。最悪の場合は…」


「他に選択肢はある?」アイリスは彼の目をまっすぐ見つめた。


エリオットは沈黙し、それから小さく首を振った。「ない」


決断の時だ。レヴィンが残党と戦っている間に、アイリスとセレスティアはエリオットと共に中央へと向かった。魔法陣は次第に明るさを増し、床から赤い霧が立ち上っている。


マーカス教授が彼らの前に立ちはだかった。胸の傷から血が滴り、その顔には怒りと狂気が混在している。「愚か者め!主の復活を邪魔するとは!永遠の命を拒むとは!」


「Umbra Catena!」(影の鎖)


エリオットの魔法が黒い鎖となって教授を捕らえる。教授は苦悶の表情を浮かべながらも、まだ黒い結晶を握りしめていた。


「急げ!魔法陣の中心へ!」エリオットが叫ぶ。


アイリスとセレスティアは手を繋ぎ、魔法陣の中心へと駆け寄った。黒い結晶がそこで脈動している。オブシディアンの魂の欠片。それは赤い光を放ち、内部に人の顔のようなものが見える。


「準備はいい?」アイリスはセレスティアを見つめた。


「はい」彼女は決意を示し、金色の髪が風に舞う。「何があっても、一緒に」


アイリスはペンダントを取り出し、母の手紙に書かれていた言葉を思い出す。「『時の種』…」


結晶の内側に眠る小さな光の粒が、かすかに脈動し始めた。運命を書き換える力。時を操る力。アイリスの体に魔力が満ち、氷翡翠のペンダントが明るく輝き始める。


「Veram Potentiam Glacialis Iaspidis!」(氷翡翠の真の力)

アイリスの声が広間に響き渡り、彼女の周りに青い光の渦が巻き始めた。


「Lux Absolutam!」(絶対の光)

セレスティアの清らかな声が続き、白い光が彼女を包み込む。


二つの魔法が渦巻き、結合する。青と白の光が魔法陣全体を包み込み、黒い結晶に向かって収束していく。力が溢れ、二人の髪が風もないのに舞い上がる。


結晶が震え始め、表面にヒビが入る。内部のオブシディアンの顔が苦悶の表情を浮かべた。「続けて!」


力を注ぎ続けるが、結晶は完全には壊れない。アイリスは限界を感じ始め、膝が震え始めた。セレスティアも顔を青ざめさせ、体が揺らいでいる。


「私の力も」


エリオットが二人の横に立ち、手を差し伸べる。彼の体はさらに透明になっていたが、決意の色は変わらない。「Tempus Fractum!」(砕かれた時間)


彼の闇の魔力が加わり、三つの力が一点に集中する。青、白、そして赤の光が交わり、結晶のヒビが広がり、輝きが弱まっていく。オブシディアンの顔が恐怖を見せ、悲鳴を上げているようだが、音は聞こえない。


「もう少し…」アイリスは歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。


その瞬間、ペンダントの中の「時の種」が突然、明るく輝いた。小さな星のような光が広がり、アイリスの体全体が青白い光に包まれる。


「母上…」彼女は涙を流しながら呟いた。


まるで母の力が加わったかのように、ペンダントからの光が強まる。エレノアの意志と愛が、娘の力となって現れたかのようだ。そして—


結晶が粉々に砕け散った。


ガラスが砕ける音と共に、黒い結晶は消滅し、内部に閉じ込められていたオブシディアンの魂の欠片も光の中に溶けていった。最後の絶望の表情だけを残して。


大きな光の爆発と共に、魔法陣も消滅する。衝撃波が広がり、一瞬世界が白く染まった。アイリスたちは光の中に包まれ、意識が遠のいていく。


---


目を開けると、周囲は静まり返っていた。天井が崩れ、朝日が差し込んでいる。魔法陣は消え、「永劫の檻」のメンバーたちは気絶しているか、逃げ出していた。石の破片と埃が舞い、かつての壮麗な広間は廃墟と化していた。


「成功した…」


アイリスの横で、セレスティアが弱々しく微笑んだ。彼女も疲労困憊だが、無事だった。金色の髪に埃がかかり、顔に小さな擦り傷があるが、翡翠色の瞳は生き生きと輝いている。


「レヴィン!」アイリスは突然、彼の安否が気になり、辺りを見回した。


彼を探す目はすぐに彼の姿を捉えた。彼は数人の残党を取り押さえ、兵士たちに指示を出していた。アイリスの声を聞き、こちらに駆け寄ってくる。


「無事か?」彼は心配そうに尋ね、アイリスの頬にそっと触れた。


「ええ」彼女は彼の手を取り、温かさに安心する。「終わったわ。オブシディアンの魂の欠片も消滅した」


「エリオットは?」レヴィンが周囲を見回した。


アイリスも立ち上がり、辺りを見回す。しかし、エリオットの姿はない。「また消えたの?」


その瞬間、弱々しい声が聞こえた。「ここだ…」


振り向くと、壁際の影の中にエリオットが座り込んでいた。彼の体は月明かりに照らされた霧のように、ほとんど透明になっていた。かろうじて輪郭が見えるだけだ。


「エリオット!」アイリスは駆け寄った。


彼の近くに来ると、エリオットは苦しそうに笑った。かつての千年を生きる魔法使いの威厳はなく、ただ静かな諦めと安らぎが彼の顔に浮かんでいた。


「心配するな。これは…予想していたことだ」彼の声は風のように軽く、どこか遠くから聞こえるようだった。


「どういうこと?」アイリスは彼の前にひざまずいた。手を伸ばしたが、彼の肩はほとんど触れることができないほど実体がない。


「私の存在は、世界の歪みによって保たれていた」エリオットは静かに説明した。彼の透き通った赤い瞳に諦めと穏やかさが混じる。「歪みが修正された今、私はこの世界に留まれない」


「消えてしまうの?」アイリスの声が震えた。


「別の世界線へ移行するんだ」彼は穏やかな表情で言った。まるで長い旅を終えた旅人のように。「私の役目は終わった。オブシディアンの脅威も、今度こそ本当に去った。世界は正しい軌道に戻る」


悲しみがアイリスの胸を締め付けた。「でも…」


「大丈夫だ」エリオットは微笑んだ。その笑顔には、かつて見たことのない安らぎがあった。「千年も生きれば、十分すぎるほど長い。そろそろ休む時だ」


彼の体がさらに透明になり、輪郭が光の粒子となって散り始める。「アイリス、セレスティア、そしてレヴィン」彼は一人ひとりの顔を見つめた。「君たちのおかげで、世界は正しい軌道に戻った。私の千年の償いも、ようやく終わる」


「アイリス」彼は最後に彼女の目を真っ直ぐに見つめた。「君の選択は正しかった。記憶よりも大切なもの—それは自分自身の未来を選ぶ自由だ。失われた記憶を悲しむのではなく、これから作る思い出を大切にするんだ」


彼の姿が光の粒子となって天井から差し込む光の中に消えていく。最後の言葉が風のように部屋を満たす。


「いつか、別の世界線で会おう…」


最後の言葉と共に、彼は完全に消えた。その場に残されたのは、小さな赤い宝石だけ。「時の欠片」が床に転がり、朝日に照らされて輝いている。


「エリオット…」アイリスは彼の名を呼び、涙が頬を伝い落ちた。


セレスティアが宝石を拾い上げ、アイリスに手渡した。「彼の『時の欠片』です。私たちへの贈り物かもしれません。彼の千年の旅の証」


宝石を手に取ると、不思議な温かさが手のひらに広がった。アイリスはそれをしっかりと握りしめ、沈黙の中でエリオットの旅立ちを見送った。千年の時を生き、最後は世界を守るために自らを犠牲にした魂。


「ありがとう…」彼女は小さく呟いた。


---


一ヶ月後。


クリスタリア王国は平和を取り戻していた。「永劫の檻」は完全に解体され、関係者は裁きを受けた。マーカス教授は戦いで致命傷を負い、その場で息絶えていた。ドロシアも例外ではなく、母の殺害と国家反逆の罪で終身刑となっていた。


フロストヘイヴン家は再び名誉を取り戻し、父バジルは王国の重要な顧問として復帰した。家は一族の誇りを取り戻し、長い間揺らいでいた地位を再び確立した。そして何より、アイリスと王太子の婚約は、王国全体の祝福を受け、結婚式の準備が着々と進められていた。


学院では、最終学期が始まっていた。以前とは違い、アイリスは「氷の令嬢」ではなく、「氷翡翠の巫女」あるいは単に「アイリス」として認識されるようになった。彼女を恐れる目は消え、代わりに尊敬と憧れの視線が向けられている。


晴れた春の午後、図書館の窓際の席で、アイリスはセレスティアと並んで魔法理論の勉強をしていた。日差しが木々の間から差し込み、二人の本に陰影を作る。


セレスティアが小さな溜息をついた。アイリスは顔を上げ、「どうかした?」と尋ねた。


「いいえ」彼女は少し照れたように笑った。金色の髪が日差しに輝いている。「ただ、こうして普通に勉強できることが、なんだか信じられなくて。数週間前は世界の命運がかかった戦いをしていたのに…」


そうだ。壮大な冒険の後、普通の学生生活に戻るのは不思議な感覚だった。いつでも死と隣り合わせだった緊張から解放され、当たり前の日常の尊さを感じる。


「あの…アイリス様」セレスティアが遠慮がちに尋ねる。「エリオットが残した『時の欠片』、どうなさるんですか?」


「研究中よ」アイリスは正直に答え、ポケットから赤い宝石を取り出した。日の光を受けて、内部から炎のような輝きを放っている。「でも答えはまだ出ていない。父も『守護者』たちも、確かな答えを持っていないの」


彼女は宝石を光にかざし、その美しさに見入った。「時間が教えてくれるわ。急がなくても。エリオットが残したものだもの、何か意味があるはず」


窓の外では、春の陽光が学院の庭を照らし、花々が咲き誇っていた。桜の花びらが風に舞い、新学期の始まりを祝福している。


「ミランダからの招待状、受け取りました?」セレスティアが話題を変える。


「ええ」アイリスは明るく頷いた。「彼女の家での茶会。行くつもり?」


「はい」セレスティアは微笑んだ。「彼女も変わりましたね。以前はとても高慢でしたのに」


ミランダ・クリムゾンは、「永劫の檻」の脅威が去った後、驚くほど友好的になった。彼女の家族も解放され、彼女自身も新たな始まりを迎えようとしていた。最後の戦いでは、密かに情報を王室に流し、勝利に貢献していたのだ。


「みんな変わるのね」アイリスは感慨深く言った。窓の外の風景を眺めながら。「私も含めて」


かつての「悪役令嬢」という言葉が、母の手紙に書かれていた。何を意味するのかは完全には理解していないが、それが彼女の避けた運命なのだろう。断罪され、追放され、孤独に生きる運命。


「アイリス様、王太子様からのメッセージです」


学院の使いが静かに近づき、銀のトレイに乗せた手紙を届けた。アイリスは礼を言い、封蝋を割って開封した。中からはレヴィンのきれいな筆跡で「今夜、王宮の天文台で会おう。大切な話がある」と書かれた一文が現れた。


「デートのお誘いですね」セレスティアがくすくすと笑う。彼女の翡翠色の瞳が楽しそうに輝いていた。


アイリスの頬が熱くなるのを感じつつ、微笑み返す。「そうね。楽しみにしているわ」


---


その夜、王宮の天文台。満天の星空の下で、レヴィンがアイリスを待っていた。彼は正装ではなく、シンプルな白いシャツと青いベストを身につけている。より等身大の彼の姿。


「綺麗ね」アイリスは星空を見上げながら言った。幾千もの星が天空を彩り、銀河の帯が横たわっている。


「ああ」レヴィンは夜空を見つめていた。「世界がこうして静かに存在していることの奇跡。無数の世界線、無数の可能性の中で、私たちがここにいることの奇跡」


彼の横に立ち、アイリスも星々を眺めた。千の世界線、千の可能性。そのどれもが輝いている。どの選択も、どの未来も、それぞれが尊い。


「私たちの選択が、この景色を守ったのね」彼女は静かに言った。


「そうだ」レヴィンはアイリスの手を取った。彼の手の温かさが、夜の冷気から彼女を守る。「君の勇気が、君の選択が」


青白い月明かりの下、彼の横顔が美しく輝いていた。銀の指輪が月光に照らされて優しく光る。婚約の証。まだ正式な結婚式は数ヶ月先だが、既に強い絆で結ばれている実感があった。


「レヴィン」アイリスは彼の目を見つめた。夜風が彼女の青い髪を優しく揺らす。「あなたは私のことを、『氷翡翠の巫女』として見てる?それとも…」


「アイリス・フロストヘイヴンとして」彼はためらいなく答えた。紫の瞳にひたむきな愛情が宿る。「称号や運命ではなく、一人の人間として。君の強さも、弱さも、全てを含めて」


その言葉に胸が熱くなる。まさに彼女が求めていた答え。肩書きではなく、ただの自分として愛されること。


「でも」彼はクスリと笑った。その笑顔に少年のような愛らしさが見える。「将来の王妃としても見ているよ。クリスタリア王国を共に導く相手として」


「それはまだ先の話でしょう」アイリスは冗談めかして答えた。指先で彼の胸を軽くつつく。


レヴィンは突然真剣な表情になり、彼女の両手を取った。「世界がどう変わろうと、私の気持ちは変わらない。どんな未来が来ても、君と一緒に歩みたい」


星空の下での誓い。二人の間には、言葉以上の理解があった。彼の紫の瞳に映る愛情と決意に、アイリスの心は溶けるように温かくなった。


「あっ」レヴィンが突然、空を指さした。


天空を一筋の光が横切る。流れ星が瞬き、鮮やかな痕跡を残して消えていった。


「願い事は?」レヴィンが優しく尋ねた。


「秘密よ」アイリスは微笑んだ。心の中で「この平和が続きますように」と願いながら。「でも、多分叶うと思う。あなたも願ったでしょう?」


レヴィンは頷き、彼女を優しく抱きしめた。彼の心臓の鼓動が彼女の耳に届き、安心感に包まれる。


---


季節は移り変わり、夏が王国に訪れた。


フロストヘイヴン家の庭園。母の好きだった薔薇が満開の中、アイリスは石のベンチに座り、母の手紙を再読していた。何度読んでも、エレノアの言葉に新たな意味を見出す。経験を重ねるごとに、母の知恵がより深く理解できるようになっていた。


「運命を書き換える力」


その言葉の意味を、今ならより深く理解できる。世界線の選択、記憶の放棄、そして自由の獲得。全てが繋がっている。彼女の力は、いつかまた必要とされる日が来るかもしれない。しかし今は、ただこの平和な日々を噛みしめたい。


「アイリス嬢」


振り向くと、リディアが庭の小道を歩いてきた。彼女は相変わらず忠実な侍女長として仕えてくれていた。年齢を感じさせない優雅な動きで彼女は近づき、小さなトレイを差し出した。


「手紙が届いています」


受け取ると、見慣れない筆跡で書かれた小さな封筒。アイリスは眉を寄せ、封を切った。中には一枚の紙と小さな鍵が入っていた。


『本当の記憶は失われない。

必要な時、「時の欠片」が扉を開く。

ーE』


「E?」アイリスは息を呑んだ。エリオットからのメッセージ?でも彼は別の世界線へ旅立ったはず…


鍵を手に取り、ポケットから赤い宝石—「時の欠片」を取り出した。鍵を宝石の近くに持っていくと、両方が微かに反応し、光を放った。宝石の内部で、小さな扉が見えたような気がした。


「本当の記憶…」アイリスは呟いた。前世の記憶についてのメッセージなのか。


まだ理解できない謎だが、それは将来のためのものなのだろう。エリオットは何かを準備していたのかもしれない。いつか必要になる時のために、彼女の記憶への道を残していたのだ。


「何かあったんですか?」リディアが心配そうに尋ねた。


「ええ、でも今は大丈夫」アイリスは微笑みながら立ち上がった。鍵と手紙をポケットにしまい、「時の欠片」を首から下げたペンダントの横に置いた。「さあ、準備しましょう。今日はセレスティアたちが来るわ。お茶会の用意を」


夏の日差しが庭園を明るく照らす中、アイリスは前に進む。薔薇の間を歩きながら、彼女は心を満たす平和と幸せを噛みしめた。失った記憶、世界の真実、そして未来の謎。全てはその時が来れば明らかになるだろう。今は焦らず、この瞬間を生きることに集中したい。


大切なのは今、自分の選んだ道を歩むこと。「氷翡翠の巫女」としてではなく、アイリス・フロストヘイヴンとして。


ポケットに母の手紙と謎の鍵を仕舞いながら、彼女は心の中でささやいた。


「私は私の物語を、自分で紡いでいく」


彼女の周りの空気に小さな氷の結晶が舞い、陽の光を受けて虹色に輝いた。これから始まる新しい物語の予感と共に。


(第10章 おわり)

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