親愛なる莉 ♯1
「ただいま」
真夏の風鈴のような声が短く響いた。
靴を揃えて荷物をおろす細身の女子は 流 莉 。本日は少し遅めの帰宅だ。
「おかえり」
フローリングの床を殴るように廊下の先から乱暴な声。
そこには不機嫌そうな色白男子、 流 純 の姿があった。
「・・・帰り遅くね?」
玄関に歩み寄り、天井のシミを適当に睨みつける純。
「あぁ今日ねぇ、生徒会の話し合いがなかなかまとまらなくてさ。マジごめんっ」
上瞼を凛々しく上げて大きな瞳で純の細めた眼をのぞく。
ある意味での凶器を突きつけられた純は、それでも負けじと視線をそらして腕を組んだ。
「あほみたいに生徒会長なんかやるからだ。もっと家にいるようにしろ。このあほ莉・・・」
「むぅ、しょうがないじゃん。家のことで学校にはお世話になってるんだし、なんか恩返しをとおもってやってるのよ」
口をつんととがらせて腰に手をあてる。
「またそれかよ。学校なんてどうせクソだろ?そんなんかまわないでさっさと帰ってこいよ」
純の眉は鋭さを増していく。
「まぁたそんなこといって。ちゃんと大人の事情ってものがあるんだから」
莉は肩を落として瞼を閉じた。
「なんだよ?子ども扱いかよ。弟だからっていつまでもそんな風にいうなよ」
口調はいちいち氷を砕くように乱暴。
莉はといえばそういうのはもう慣れっこのようで、はいはいと横をすりぬけてリビングの方へ向かう。
その背中にむかって純がまた吠えるかと思いきや、突然に黙りこくってよそよそしそうに後に続いた。
キッチンとテーブル、ソファ、テレビ以外に一見してものが目に付かないほど整った八畳のシンプルなリビングに、莉は足を踏み入れる。
「うわぁーお」
唐突に、大きい瞳を全開にして細い身体を左右に揺らしながら感動色のため息をつく莉。
それもしかたがないことだ。
そのおそらく常人よりはるかに広い視界いっぱいには、ヨーロッパのルネサンス全盛期をも凌ぐ芸術品の数々が食卓というステージの上で優雅に展覧会を催しているのだった。
莉はこれを『ルーヴル状態』と呼ぶことにした。いま。
「ちょ、何これ!?なんで私たちの家にルーヴルが?」
この機会は決して逃さぬという覚悟でルーヴルを視界に納めたまま、両頬に細い指先を当てて取り乱しがちに純に尋ねる。
「ルーヴル?」
何のことかわけもわからずに、純は眼を泳がせながら聞き返した。
「あ!」
不自然にうろたえている純をよそに莉はなにやらひらめいたらしい。
「今日は誕生日だ!」
くるりと振り向いて得意げに純を指差す。制服のミニスカートがふわりと舞う。ぴんとはった白く細い指の先では、純がそっぽを向いてまた腕を組んでいた。
どこの高校に自分の誕生日を忘れる女子高生がいるのか?と疑問を含んだ視線を返す純。
「覚えててくれたんだぁ?お姉ちゃんうれしぃなぁ~。」
などと抜かすあほな双子の姉にうんざりしながらも、もういたたまれない表情でとうとうばねを弾いた。
「あほだろおまえ!双子なんだから誕生日一緒に決まってんだろが!?」
急に驚愕の表情に引きつる莉。
驚くところでもなければ引きつる場面でもない。あまりにも大げさなその顔に、純はおちょくられているのかと疑わずにはいられない。
「それに、別におまえのために作った料理じゃねぇぞ。俺が自分のために作った料理だ。ただ作りすぎたからおまえにも分けてやろうかなって思っただけだよ。そしたらあほみてえにちんたら帰ってくるから冷めちまったじゃねぇか?ほんと、俺の誕生日くらいはやく帰ってこいよな!このあほが!」
まだいいたりなそうだが言葉がでない、と納得いかない顔でずかずかテーブルに向かい、わざとらしく大きな音をたてて椅子にすわった。
「・・・」
すべてを圧する大げさな勢いで響いた声が耳元でエコーする。
莉も瞳をぱちくりさせて黙る。
ふたりはしばし沈黙に耳を傾けた。
そうして5秒。
莉は無言で空のコップにめをやり、お茶をとりに冷蔵庫に歩み寄った。
緊迫した空気。
俺は悪くない、とふんぞり返っている純。
静かに冷蔵庫を開ける莉。
純は少し困ったように鋭い眉を下げて、姉の小さな肩を遠巻きにみつめる。
莉は冷蔵庫の中を必要以上に長く見回す。お目当てのものはすぐ右手にあるのを知っていながら。
その理由はいうまでもない。
弟の心意を推し量って、笑いを必死にこらえていたのである。