雨宿りの下で
放課後の教室は、雨音に包まれていた。窓の外を見下ろすと、グラウンドには大粒の雨が降り続いている。天気予報を確認し忘れた清水杏奈は、傘を持っておらず、下校を諦めて廊下の窓辺でぼんやりと雨を眺めていた。
そんな時、不意に背後から声がした。
「傘、ないの?」
振り返ると、そこには同じクラスの山下颯真が立っていた。
背が高く、どこか冷めた雰囲気を持つ颯真は、女子から人気がある一方で、
杏奈にとっては少し苦手な存在だった。
「うん…予報を見忘れてて。」
「そっか。」
颯真は自分の傘をちらっと見せてから、そっけなく言った。
「まあ、俺は先に帰るけど。」
それだけ言うと、彼はそのまま廊下を歩き去ってしまった。
杏奈は小さくため息をつき、また窓の外に視線を戻す。
颯真はいつもこんな調子だ。
クラスでは話しかける人も多いけれど、どこか人を突き放すような態度が目に付く。
「やっぱり苦手だな…」
杏奈は心の中でつぶやいた。
雨が小降りになる気配がなく、仕方なく濡れる覚悟で帰ろうとしたときだった。
昇降口に向かう廊下で、颯真が傘を持ったまま立っていた。
「清水。」
彼は短く名前を呼ぶ。
「…何?」
杏奈は警戒しながら返事をする。
「これ、貸してやるよ。」
彼は自分の傘を差し出した。
「え?でも、颯真君はどうするの?」
「部室に戻れば、忘れ物があるから。それ取りに行けば大丈夫。」
それだけ言うと、彼は傘を杏奈の手に押し付け、再び廊下を歩き去った。
傘を握りしめたまま、その場に取り残された杏奈は、
颯真の後ろ姿を見送りながら、胸の奥でわずかな違和感を覚えていた。
「どうして、こんな回りくどい渡し方をするんだろう?」
そっけなく見える態度と、実際に彼がしてくれた行動とのギャップ。
それが不思議で、彼がどんな人なのか気になる自分に気づいてしまった。
翌朝、杏奈は颯真に傘を返すべく登校してすぐに、彼に声をかけた。
「昨日はありがとう。傘、助かったよ。」
颯真はちらっと彼女を見て、
「別に、礼とかいらないから」とそっけなく返事をした。
その態度に少しモヤモヤした杏奈だったが、数日後の昼休み、
班の友人たちとの何気ない会話で、颯真について思いがけない話を耳にした。
「そういえばさ、颯真って、妹さんを毎朝保育園に送ってから来てるんだって知ってた?」
「え、そうなの?」
杏奈は驚いた。
「うん。親が忙しいからって、毎日早起きして送ってるらしいよ。
それで遅刻しないの、本当すごいよな。」
その話を聞いて、杏奈は昨日の出来事を思い出した。
颯真がそっけない態度を取るのは、単に不器用なだけで、
本当は誰よりも家族思いで優しい人なのかもしれない。
放課後、文化祭の準備中、杏奈は思い切って颯真に話しかけた。
「昨日の傘、本当にありがとう。助かった。」
颯真は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに少し照れたように目を逸らして答えた。
「大したことじゃないって。」
杏奈は微笑みながら続けた。
「でも、颯真君って本当はすごく優しいんだね。いつも冷たいふりしてるけど。」
颯真は一瞬目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「別に、ふりしてるわけじゃないけどな。ただ、言葉で全部説明するのがめんどくさいだけだよ。」
杏奈はその答えに思わず吹き出した。
「めんどくさいって…」
颯真は少しだけ視線を下げ、小さく頷いた。そして、静かに言った。
「分かってくれるやつがいれば、それで十分だろ。」
その言葉に、杏奈は思わず息を飲んだ。颯真の生き方は、自分にはないものだった。
他人に分かってもらおうとするよりも、自然に人を思いやり、必要以上に多くを語らない。
自分がいつも言葉に頼りすぎていたことに気づき、彼のシンプルで誠実なあり方が眩しく見えた。
「そっか。」
杏奈は小さく微笑む。
颯真はその表情に気づいたのか、少しだけ視線を合わせ、照れたように顔を背けた。
彼の本当の優しさに気づけたことが、なぜか自分だけが知る秘密のように思えた。
これからは彼をもっと知りたい。そんな気持ちが、そっと芽生えていた。